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東海道三大難所の一つ「小夜の中山峠」の西の麓にある日坂宿は東海道五十三次の25番目宿場です。<br /><br />JRの駅、国道一号線からも離れた所にあるので車の騒音や大きなビルがないためハイキング気分で散策ができました。<br />街道の各所に句碑が多く見られ、平安時代から交通の要所の街道であったことが理解できます

旧東海道 日坂宿の散策

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2013/03/17 - 2013/03/17

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アルプ・グリュム

アルプ・グリュムさん

東海道三大難所の一つ「小夜の中山峠」の西の麓にある日坂宿は東海道五十三次の25番目宿場です。

JRの駅、国道一号線からも離れた所にあるので車の騒音や大きなビルがないためハイキング気分で散策ができました。
街道の各所に句碑が多く見られ、平安時代から交通の要所の街道であったことが理解できます

  • 金谷宿を歩いてきた私は小夜の中山峠を越えて日坂宿を目指します。<br />ここから島田市から掛川市になります。

    金谷宿を歩いてきた私は小夜の中山峠を越えて日坂宿を目指します。
    ここから島田市から掛川市になります。

  • 街道の要所には多くの句碑が見られました。<br /><br />「旅ごろも 夕霜さむき ささの葉の さやの中山 あらし吹くなり」 <br />鎌倉時代の歌人 衣笠内大臣<br />

    街道の要所には多くの句碑が見られました。

    「旅ごろも 夕霜さむき ささの葉の さやの中山 あらし吹くなり」 
    鎌倉時代の歌人 衣笠内大臣

  • 接待茶屋跡<br />旅人の求めに応じて茶などを接待し、旅人の憩いの場となっていたといわれています。<br />現在でも小休止して遠くのお茶畑を見渡すことができます。

    接待茶屋跡
    旅人の求めに応じて茶などを接待し、旅人の憩いの場となっていたといわれています。
    現在でも小休止して遠くのお茶畑を見渡すことができます。

  • 久延寺<br />真言宗の寺院で山号は佐夜中山として知られ歴史と由緒がある寺です。

    久延寺
    真言宗の寺院で山号は佐夜中山として知られ歴史と由緒がある寺です。

  • 久延寺本堂

    久延寺本堂

  • 久延寺<br />ここには伝説 小夜の中山夜泣石の説明案内板と夜泣石があります。

    久延寺
    ここには伝説 小夜の中山夜泣石の説明案内板と夜泣石があります。

  • 久延寺 夜泣石<br />石には屋根が設置されています。

    久延寺 夜泣石
    石には屋根が設置されています。

  • 久延寺 茶亭跡<br />大阪から会津の上杉景勝攻めに向かう徳川家康をこの茶亭でもてなしたとされる場所です。

    久延寺 茶亭跡
    大阪から会津の上杉景勝攻めに向かう徳川家康をこの茶亭でもてなしたとされる場所です。

  • 街道には句碑が散見されます。<br /><br />「旅寝する さやの中山 さよなかに 鹿も鳴くなり 妻や恋しさ」 <br />平安時代後期の歌人 橘為仲朝臣の句碑です。<br /><br />

    街道には句碑が散見されます。

    「旅寝する さやの中山 さよなかに 鹿も鳴くなり 妻や恋しさ」 
    平安時代後期の歌人 橘為仲朝臣の句碑です。

  • 子育て飴で有名な扇屋<br />ここの名物が「子育て飴」。夜泣き石伝説に出てくる飴で、広重の「東海道五十三次日坂」にもその飴売りの女が描かれています。

    子育て飴で有名な扇屋
    ここの名物が「子育て飴」。夜泣き石伝説に出てくる飴で、広重の「東海道五十三次日坂」にもその飴売りの女が描かれています。

  • 扇屋<br />史跡が多く見受けられますが建物は建て替えられていますが宝永年間の開業の老舗です。

    扇屋
    史跡が多く見受けられますが建物は建て替えられていますが宝永年間の開業の老舗です。

  • 小夜の中山公園<br />中世の歌人西行法師の歌碑が建てられています。

    小夜の中山公園
    中世の歌人西行法師の歌碑が建てられています。

  • 小夜鹿一里塚<br />ここは江戸から五十六里目に当たります。

    小夜鹿一里塚
    ここは江戸から五十六里目に当たります。

  • 「甲斐が嶺は はや雪しろし 神無月 しぐれてこゆる さやの中山」<br /> 蓮生法師 続後選和歌集<br />

    「甲斐が嶺は はや雪しろし 神無月 しぐれてこゆる さやの中山」
     蓮生法師 続後選和歌集

  • 鎧塚

    鎧塚

  • 鎧塚<br />「鎧塚」は、北条時行之一族の名越太郎邦時が、「中先代の乱」の時、京へ上ろうとして、この地で足利一族の今川頼国と戦い壮絶な討ち死にをした。<br /> 今川頼国は名越邦時の武勇をたたえて、ここに塚をつくって葬ったと言われています

    鎧塚
    「鎧塚」は、北条時行之一族の名越太郎邦時が、「中先代の乱」の時、京へ上ろうとして、この地で足利一族の今川頼国と戦い壮絶な討ち死にをした。
    今川頼国は名越邦時の武勇をたたえて、ここに塚をつくって葬ったと言われています

  • 「東路の さやの中山なかなかに なにしか人を 思ひそめけむ」<br /> 紀友則 古今和歌集<br />

    「東路の さやの中山なかなかに なにしか人を 思ひそめけむ」
     紀友則 古今和歌集

  • 街道の両側にはお茶畑が続きます。

    街道の両側にはお茶畑が続きます。

  • 「ふるさとに 聞きしあらしの声もにず 忘れぬ人を  さやの中山」<br /> 藤原家隆 新古今和歌集

    「ふるさとに 聞きしあらしの声もにず 忘れぬ人を さやの中山」
     藤原家隆 新古今和歌集

  • 芭蕉の句碑<br />「道のべの 木槿は馬に けれはけり」<br />松尾芭蕉 野ざらし紀行<br />

    芭蕉の句碑
    「道のべの 木槿は馬に けれはけり」
    松尾芭蕉 野ざらし紀行

  • 車はほとんど通らないのどかな道ですがかつての大動脈の旧東海道です。

    車はほとんど通らないのどかな道ですがかつての大動脈の旧東海道です。

  • 白山神社

    白山神社

  • 東路のさやの 中山さやかにも 見えぬ雲井に 世をや尽くさん」<br />壬生忠?燦<br />平安初期の歌人で三十六歌仙の一人と言われています。<br />

    東路のさやの 中山さやかにも 見えぬ雲井に 世をや尽くさん」
    壬生忠?燦
    平安初期の歌人で三十六歌仙の一人と言われています。

  • お茶畑が続きますが電柱、電線、撹拌用換気扇が目障りです。

    お茶畑が続きますが電柱、電線、撹拌用換気扇が目障りです。

  • 馬頭観世音<br />この馬頭観世音は、蛇身鳥退治に京の都より下向して来た、三位良政卿が乗って来た愛馬を葬ったところとされています。

    馬頭観世音
    この馬頭観世音は、蛇身鳥退治に京の都より下向して来た、三位良政卿が乗って来た愛馬を葬ったところとされています。

  • まだまだお茶畑の中を歩きます。<br />

    まだまだお茶畑の中を歩きます。

  • 妖婦の墓<br />松の根元で自害した妊婦小松姫(三位良政と月小夜姫の間に生まれた子)を葬った所です。

    妖婦の墓
    松の根元で自害した妊婦小松姫(三位良政と月小夜姫の間に生まれた子)を葬った所です。

  • 涼み松公園の一角に芭蕉の句碑があります。<br />「命なりわずかの かさの下涼み」  芭蕉<br />                       

    涼み松公園の一角に芭蕉の句碑があります。
    「命なりわずかの かさの下涼み」  芭蕉
                           

  • どういても村道としか見えない道路ですが旧東海道です。

    どういても村道としか見えない道路ですが旧東海道です。

  • 芭蕉の句碑<br />「馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり」<br />松尾芭蕉 野ざらし紀行<br />

    芭蕉の句碑
    「馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり」
    松尾芭蕉 野ざらし紀行

  • 夜泣き石跡<br />妊婦の霊魂が移りないたという石(夜泣石)が、明治元年までここの道の伊中央にあったが、明治天皇御東幸のみぎり道脇に寄せられた。<br />その後明治初年東京で博覧会があり、出品された帰途、現在の位置に移る。

    夜泣き石跡
    妊婦の霊魂が移りないたという石(夜泣石)が、明治元年までここの道の伊中央にあったが、明治天皇御東幸のみぎり道脇に寄せられた。
    その後明治初年東京で博覧会があり、出品された帰途、現在の位置に移る。

  • 広重絵碑<br />広重は天保三年(1832)、幕府の行列に随行して東海道を旅しましたが、その体験や印象を描いた「保永堂版東海道五拾三次」はたいへんな好評を得、つぎつぎに多くの「東海道もの」を発表した。<br />その中で特にすぐれていると思われるものは、天保十三年(1842)頃の「行書東海道」「狂歌入東海道」「隷書東海道」「人物東海道」などである。<br />これらの読絵のなかの日坂、掛川を見ると、日坂はほとんど小夜の中山と夜泣石が描かれており、掛川は大池の秋葉山一の鳥居と常夜灯が描かれている。<br />広重が掛川を旅して、一番印象的で絵になる風景だったのであろう。

    広重絵碑
    広重は天保三年(1832)、幕府の行列に随行して東海道を旅しましたが、その体験や印象を描いた「保永堂版東海道五拾三次」はたいへんな好評を得、つぎつぎに多くの「東海道もの」を発表した。
    その中で特にすぐれていると思われるものは、天保十三年(1842)頃の「行書東海道」「狂歌入東海道」「隷書東海道」「人物東海道」などである。
    これらの読絵のなかの日坂、掛川を見ると、日坂はほとんど小夜の中山と夜泣石が描かれており、掛川は大池の秋葉山一の鳥居と常夜灯が描かれている。
    広重が掛川を旅して、一番印象的で絵になる風景だったのであろう。

  • 二の曲がり<br />急カーブ、急勾配です。

    二の曲がり
    急カーブ、急勾配です。

  • 「甲斐が嶺を さやかにみ見しが けけれなく 横ほり臥せる さやの中山」<br />読人不知<br />

    「甲斐が嶺を さやかにみ見しが けけれなく 横ほり臥せる さやの中山」
    読人不知

  • 「二の曲り」と「沓掛」<br />「古駅路ハ下町ヨリ南ノ清水ト云所ヲ経テ、二ノ曲リト云下ヘ出シナリ・・(掛川誌稿)」に見られる「二の曲り」とは旧坂口町を過ぎて東へ向かう沓掛へ至るこの旧カーブを指しています。<br />「沓掛」の地名は峠の急な坂道にさしかかった所で草鞋(わらじ)や馬の沓(くつ=馬用の草鞋)を山の神などに手向け、旅の安全を祈願するという古い慣習に因(よ)るといわれています。

    「二の曲り」と「沓掛」
    「古駅路ハ下町ヨリ南ノ清水ト云所ヲ経テ、二ノ曲リト云下ヘ出シナリ・・(掛川誌稿)」に見られる「二の曲り」とは旧坂口町を過ぎて東へ向かう沓掛へ至るこの旧カーブを指しています。
    「沓掛」の地名は峠の急な坂道にさしかかった所で草鞋(わらじ)や馬の沓(くつ=馬用の草鞋)を山の神などに手向け、旅の安全を祈願するという古い慣習に因(よ)るといわれています。

  • 日の坂神社

    日の坂神社

  • 屋号だけが掲げられてあるこの辺りから日坂宿の宿場内に入ります。<br />

    屋号だけが掲げられてあるこの辺りから日坂宿の宿場内に入ります。

  • 火災による家屋の焼失があり屋号だけがまとめて設置されています。

    火災による家屋の焼失があり屋号だけがまとめて設置されています。

  • 屋号が掲げられある民家<br />家は新しく面影には欠けるが屋号は代々引き継がれているのが分かります。

    屋号が掲げられある民家
    家は新しく面影には欠けるが屋号は代々引き継がれているのが分かります。

  • 秋葉常夜燈<br />日坂宿はしばしば火災にあっているため秋葉信仰が盛んであったそうです。

    秋葉常夜燈
    日坂宿はしばしば火災にあっているため秋葉信仰が盛んであったそうです。

  • 片岡本陣扇屋<br />門だけが復元されてあります。<br />敷地は旧日坂小学校と日坂幼稚園で公園となっています。

    片岡本陣扇屋
    門だけが復元されてあります。
    敷地は旧日坂小学校と日坂幼稚園で公園となっています。

  • 片岡本陣扇屋の前には日坂宿の地図とその説明文が大きく掲げられています。<br />

    片岡本陣扇屋の前には日坂宿の地図とその説明文が大きく掲げられています。

  • 片岡本陣扇屋<br />江戸時代に諸大名が江戸へ往来した時の旅宿にあてた宿駅の旅籠屋を本陣といいます。<br />日阪宿本陣の屋号は「扇屋」代々片岡家が世襲で営んでいました。<br />本陣の敷地はおよそ三百五十坪・建坪二百二十坪、門構・玄関付の建物でした。<br />嘉永五年(1852)の日坂宿の大火で全焼、再建後、明治三年(1870)に店を閉じました。<br /> その後の学制頒布に伴い、明治十二年(1879)より跡地を日坂小学校の敷地とし、家屋は校舎として利用されましたが現存しません。

    片岡本陣扇屋
    江戸時代に諸大名が江戸へ往来した時の旅宿にあてた宿駅の旅籠屋を本陣といいます。
    日阪宿本陣の屋号は「扇屋」代々片岡家が世襲で営んでいました。
    本陣の敷地はおよそ三百五十坪・建坪二百二十坪、門構・玄関付の建物でした。
    嘉永五年(1852)の日坂宿の大火で全焼、再建後、明治三年(1870)に店を閉じました。
     その後の学制頒布に伴い、明治十二年(1879)より跡地を日坂小学校の敷地とし、家屋は校舎として利用されましたが現存しません。

  • 現在でも江戸時代が彷彿される光景です。

    現在でも江戸時代が彷彿される光景です。

  • 問屋場跡<br />宿場で人馬の継立や御用旅宿の手配をはじめとする業務を行う所を問屋場と呼ばれます

    問屋場跡
    宿場で人馬の継立や御用旅宿の手配をはじめとする業務を行う所を問屋場と呼ばれます

  • 脇本陣黒田屋跡<br />

    脇本陣黒田屋跡

  • 脇本陣黒田屋<br />ここには幕末期に日坂宿最後の脇本陣を務めた「黒田屋(大澤富三郎家)」がありました。

    脇本陣黒田屋
    ここには幕末期に日坂宿最後の脇本陣を務めた「黒田屋(大澤富三郎家)」がありました。

  • 藤文<br />日坂宿最後の問屋役を努めた伊藤文七邸

    藤文
    日坂宿最後の問屋役を努めた伊藤文七邸

  • 藤文<br />商家で屋号は藤文。<br />伊藤文七(号は文陰)翁は安政三年(1856)に日坂宿年寄となり、万延元年(1860)から慶応三年(1867)にかけて日坂宿最後の問屋役を務めました。<br />維新後の明治四年(1871)には、日坂宿他二十七ヶ村の副戸長に任ぜられました。<br />その間、幕府の長州征伐に五十両を献金、明治維新のときは官軍の進発費として二百両を寄付しております。<br />明治四年(1871)の郵便制度開始と同時に郵便取扱所を自宅・藤文に開設、取扱役(局長)に任ぜられました。<br />日本最初の郵便局の一つと云われています。<br />その孫。伊藤文一郎氏は明治三十七年(1904)から三十九年(1906)、大正六年(1917)から八年(1919)、昭和三年(1928)と三期にわたり日坂村長を務め、当時珍しいガソリン式消防ポンプを村に、世界一周旅行記念として大地球儀を小学校に寄贈するなど村の発展や村民の国際意識啓発に尽力しました。<br />明治九年(1876)十一月には昭憲皇太后、翌十年(1877)一月には英照皇太后が日坂宿御通過の時、ここで休息なされました。<br />この建物は藤文部分が江戸末期、かえで屋部分が明治初期に建てられたもので、修復された蔵は当時何棟かあったと云われているうちの一棟です。<br />この土地・家屋は平成十年(1998)に文七翁の曾孫伊藤奈良子さんの遺志により掛川市に寄贈されました。<br /><br />文久二年(1862)の宿内軒並取調帳では今の伊藤家は藤文・かえで屋に分かれておりました。 <br /><br />

    藤文
    商家で屋号は藤文。
    伊藤文七(号は文陰)翁は安政三年(1856)に日坂宿年寄となり、万延元年(1860)から慶応三年(1867)にかけて日坂宿最後の問屋役を務めました。
    維新後の明治四年(1871)には、日坂宿他二十七ヶ村の副戸長に任ぜられました。
    その間、幕府の長州征伐に五十両を献金、明治維新のときは官軍の進発費として二百両を寄付しております。
    明治四年(1871)の郵便制度開始と同時に郵便取扱所を自宅・藤文に開設、取扱役(局長)に任ぜられました。
    日本最初の郵便局の一つと云われています。
    その孫。伊藤文一郎氏は明治三十七年(1904)から三十九年(1906)、大正六年(1917)から八年(1919)、昭和三年(1928)と三期にわたり日坂村長を務め、当時珍しいガソリン式消防ポンプを村に、世界一周旅行記念として大地球儀を小学校に寄贈するなど村の発展や村民の国際意識啓発に尽力しました。
    明治九年(1876)十一月には昭憲皇太后、翌十年(1877)一月には英照皇太后が日坂宿御通過の時、ここで休息なされました。
    この建物は藤文部分が江戸末期、かえで屋部分が明治初期に建てられたもので、修復された蔵は当時何棟かあったと云われているうちの一棟です。
    この土地・家屋は平成十年(1998)に文七翁の曾孫伊藤奈良子さんの遺志により掛川市に寄贈されました。

    文久二年(1862)の宿内軒並取調帳では今の伊藤家は藤文・かえで屋に分かれておりました。 

  • 法護寺

    法護寺

  • 旅籠「萬屋」

    旅籠「萬屋」

  • 萬屋<br />江戸時代末期の旅籠、嘉永五年(1852)の日坂宿大火で焼失し、その後まもなく再建されました。<br />同じ宿内で、筋向かいの「川坂屋」が士分格の宿泊した大旅籠であったのに対して「萬屋」は庶民の利用した旅籠でした。

    萬屋
    江戸時代末期の旅籠、嘉永五年(1852)の日坂宿大火で焼失し、その後まもなく再建されました。
    同じ宿内で、筋向かいの「川坂屋」が士分格の宿泊した大旅籠であったのに対して「萬屋」は庶民の利用した旅籠でした。

  • 旅籠 川坂屋<br />国道1号線のバイパスが高架となっていて川坂屋の庭の部分は高架の工事の際になくなってしまいました。

    旅籠 川坂屋
    国道1号線のバイパスが高架となっていて川坂屋の庭の部分は高架の工事の際になくなってしまいました。

  • 川坂屋<br />現在の建物は宿場の殆どが焼失した嘉永五年(1852)の「日坂宿大火」後に再建されたものです。<br /> また、「川坂屋」には脇本陣などと云う肩書きの付いた資料は見られませんが、床の間付きの上段の間があり、当時禁制であった檜材が用いられていることは、身分の高い武士や公家なども宿泊した格の高い旅籠屋であったことを伺わせます。

    川坂屋
    現在の建物は宿場の殆どが焼失した嘉永五年(1852)の「日坂宿大火」後に再建されたものです。
     また、「川坂屋」には脇本陣などと云う肩書きの付いた資料は見られませんが、床の間付きの上段の間があり、当時禁制であった檜材が用いられていることは、身分の高い武士や公家なども宿泊した格の高い旅籠屋であったことを伺わせます。

  • 秋葉常夜燈

    秋葉常夜燈

  • 高札場<br />高札場とは、幕府や藩の定めた法令や禁令を板札に書いて掲げた場所のことです。

    高札場
    高札場とは、幕府や藩の定めた法令や禁令を板札に書いて掲げた場所のことです。

  • 高札場<br />見事に復元されています。

    高札場
    見事に復元されています。

  • 下木戸跡<br />日坂宿の宿内はここまででです。

    下木戸跡
    日坂宿の宿内はここまででです。

  • 成瀬大域出生の地

    成瀬大域出生の地

  • 秋葉常夜燈・若宮大権現

    秋葉常夜燈・若宮大権現

  • 弘法の井戸<br />一号線のバイパスの下にあります。

    弘法の井戸
    一号線のバイパスの下にあります。

  • 弘法の井戸<br />今でも飲むことができます。

    弘法の井戸
    今でも飲むことができます。

  • 末広亭池田屋は現役の旅館です。

    末広亭池田屋は現役の旅館です。

  • 大井川河岸から金谷宿を散策してきた私はここで路線バスに乗車して掛川へ向かいます。<br />かつては主要街道であった辺りを訪れる観光客は少なく、掛川駅行きの路線バスは2時間に一本しかありません。<br /><br /><br />旅行記ランキングには全く興味がないので投票は無意味です。<br />

    大井川河岸から金谷宿を散策してきた私はここで路線バスに乗車して掛川へ向かいます。
    かつては主要街道であった辺りを訪れる観光客は少なく、掛川駅行きの路線バスは2時間に一本しかありません。


    旅行記ランキングには全く興味がないので投票は無意味です。

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