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津和野から山口県に入り、萩 ⇒ 青海島 ⇒ 秋芳洞 ⇒ 瑠璃光寺 ⇒ 錦帯橋 と、山口の主要な観光地を回りました。<br />山口県は、私が育った広島県の隣ですが、錦帯橋以外は初めてです。<br />いずれも見応えのある観光地で、仲間の皆さんも大満足のツアーでした。<br /><br />写真は、萩の街を案内する人力車です。

秋の山陽・山陰路<3> (萩~青海島~山口~岩国)

7いいね!

2012/11/07 - 2012/11/09

549位(同エリア896件中)

0

66

ペコちゃん

ペコちゃんさん

津和野から山口県に入り、萩 ⇒ 青海島 ⇒ 秋芳洞 ⇒ 瑠璃光寺 ⇒ 錦帯橋 と、山口の主要な観光地を回りました。
山口県は、私が育った広島県の隣ですが、錦帯橋以外は初めてです。
いずれも見応えのある観光地で、仲間の皆さんも大満足のツアーでした。

写真は、萩の街を案内する人力車です。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
4.5
同行者
友人
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
観光バス JALグループ
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
JTB

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  • 津和野から、1時間ちょっとで萩に着きました。<br />これから《萩 ⇒ 青海島 ⇒ 秋芳洞 ⇒ 瑠璃光寺 ⇒ 錦帯橋》と、2日間で山口県の見どころを巡ります。<br />山口県北部にある萩は日本海に面しており、現在の人口は約5万人。

    津和野から、1時間ちょっとで萩に着きました。
    これから《萩 ⇒ 青海島 ⇒ 秋芳洞 ⇒ 瑠璃光寺 ⇒ 錦帯橋》と、2日間で山口県の見どころを巡ります。
    山口県北部にある萩は日本海に面しており、現在の人口は約5万人。

  • 萩は、江戸時代には毛利氏が治める長州藩の本拠地でした。<br />幕末から明治にかけて、吉田松陰・高杉晋作・木戸孝允(桂小五郎)や、山縣有朋・桂太郎などの著名な人物を多く輩出した街です。<br />前橋・鎌倉・下田・輪島の各市と友好都市の提携を結んでいますが、会津若松市とは、会津戦争で敵対した事から拒否されました。

    萩は、江戸時代には毛利氏が治める長州藩の本拠地でした。
    幕末から明治にかけて、吉田松陰・高杉晋作・木戸孝允(桂小五郎)や、山縣有朋・桂太郎などの著名な人物を多く輩出した街です。
    前橋・鎌倉・下田・輪島の各市と友好都市の提携を結んでいますが、会津若松市とは、会津戦争で敵対した事から拒否されました。

  • 「金毘羅社・円政寺」・・・高杉晋作や伊藤博文にゆかりのある寺社で、境内には円政寺と金毘羅社があり、神仏習合の形態を残しています。

    「金毘羅社・円政寺」・・・高杉晋作や伊藤博文にゆかりのある寺社で、境内には円政寺と金毘羅社があり、神仏習合の形態を残しています。

  • 1254年に現在の山口市円政寺町に開創された円政寺・・・1604年に毛利氏が萩に移封した頃、当地に移築され、その後、境内に金毘羅社も建造されました。 <br />伊藤博文(現在の山口県光市生まれ)が11歳の頃(1851年)約1年半の間、この寺に預けられ、親戚の住職の下で雑用をする傍ら読み書きを習い、また高杉晋作も子供の頃、ここでよく遊んだと言われています。

    1254年に現在の山口市円政寺町に開創された円政寺・・・1604年に毛利氏が萩に移封した頃、当地に移築され、その後、境内に金毘羅社も建造されました。
    伊藤博文(現在の山口県光市生まれ)が11歳の頃(1851年)約1年半の間、この寺に預けられ、親戚の住職の下で雑用をする傍ら読み書きを習い、また高杉晋作も子供の頃、ここでよく遊んだと言われています。

  • 円政寺の本堂と石灯籠・・・安政5年(1858年)に寄進された高さ5.07mの石灯籠は、山口県で最大。<br />灯籠を支える4つの猫足が動くような仕掛けになっており、地震でも倒れないそうです。

    円政寺の本堂と石灯籠・・・安政5年(1858年)に寄進された高さ5.07mの石灯籠は、山口県で最大。
    灯籠を支える4つの猫足が動くような仕掛けになっており、地震でも倒れないそうです。

  • 金毘羅社は、明治の神仏分離令が出た際に、寺の嘆願により廃社を免れました。

    金毘羅社は、明治の神仏分離令が出た際に、寺の嘆願により廃社を免れました。

  • 拝殿向拝の上部には、晋作が小さい頃、度胸をつけるために見せられたという天狗のお面が飾られています。<br />桂小五郎も幼い頃、背負われてこの天狗の面をよく見に来たそうです。

    拝殿向拝の上部には、晋作が小さい頃、度胸をつけるために見せられたという天狗のお面が飾られています。
    桂小五郎も幼い頃、背負われてこの天狗の面をよく見に来たそうです。

  • 境内にある、文政3年(1820年)に寄進された木馬(神馬)の像・・・高杉晋作や伊藤博文らが子供の頃、よく遊んだと言われています。

    境内にある、文政3年(1820年)に寄進された木馬(神馬)の像・・・高杉晋作や伊藤博文らが子供の頃、よく遊んだと言われています。

  • 萩は現在でも『古地図で歩けるまち』で、江戸時代に形成された町割や街路、武家屋敷や町家などが多く存在しています。<br />萩の名所を人力車で巡るのも、人気があります。<br />

    萩は現在でも『古地図で歩けるまち』で、江戸時代に形成された町割や街路、武家屋敷や町家などが多く存在しています。
    萩の名所を人力車で巡るのも、人気があります。

  • 「木戸孝允(たかよし)旧宅」・・・この旧宅は、木戸孝允(桂小五郎)の実父・和田昌景の家です。<br />木戸孝允(1833~1877)は天保4年にこの家に生まれ、8歳の時に近隣の桂家の養子となって桂小五郎と名乗りましたが、養父母死亡のため江戸に出るまでの約20年間をこの家で過ごしました。

    「木戸孝允(たかよし)旧宅」・・・この旧宅は、木戸孝允(桂小五郎)の実父・和田昌景の家です。
    木戸孝允(1833~1877)は天保4年にこの家に生まれ、8歳の時に近隣の桂家の養子となって桂小五郎と名乗りましたが、養父母死亡のため江戸に出るまでの約20年間をこの家で過ごしました。

  • 当時としては珍しい木造2階建て桟瓦葺きで、14室もの部屋があり、父が藩医を務めていたために、患者用と来客用の2つの玄関があります。

    当時としては珍しい木造2階建て桟瓦葺きで、14室もの部屋があり、父が藩医を務めていたために、患者用と来客用の2つの玄関があります。

  • 長州藩士の木戸孝允は、幕末期には桂小五郎として知られていた尊王攘夷派の中心人物で、薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通とともに「維新の三傑」「維新の十傑」として並び称せられます。<br />「木戸」姓は、1866年の第2次長州征討前に藩主・毛利敬親から賜ったもので、33歳の時でした。

    長州藩士の木戸孝允は、幕末期には桂小五郎として知られていた尊王攘夷派の中心人物で、薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通とともに「維新の三傑」「維新の十傑」として並び称せられます。
    「木戸」姓は、1866年の第2次長州征討前に藩主・毛利敬親から賜ったもので、33歳の時でした。

  • 木戸孝允は近藤勇からも恐れられるほどの剣の達人でしたが、1849年に吉田松陰の門弟となり、明治維新の後、政府官僚として活躍しましたが、西南戦争の最中の明治10年に、44歳の若さで病気のため京都で死去しました。<br />書院の像は、京都ホテルオークラの北西端(長州藩屋敷のあった場所)にある桂小五郎像のミニチュア。

    木戸孝允は近藤勇からも恐れられるほどの剣の達人でしたが、1849年に吉田松陰の門弟となり、明治維新の後、政府官僚として活躍しましたが、西南戦争の最中の明治10年に、44歳の若さで病気のため京都で死去しました。
    書院の像は、京都ホテルオークラの北西端(長州藩屋敷のあった場所)にある桂小五郎像のミニチュア。

  • 誕生の間や勉強部屋などがあり、勉強部屋では後年、名筆家として知られた孝允の少年時代の習字も見れます。<br />床の間の掛け軸は、桂家の養子に行く前の「和田小五郎」の時に書いたもので、朱書きに『以っての外よろし』と誉め言葉が書かれています。

    誕生の間や勉強部屋などがあり、勉強部屋では後年、名筆家として知られた孝允の少年時代の習字も見れます。
    床の間の掛け軸は、桂家の養子に行く前の「和田小五郎」の時に書いたもので、朱書きに『以っての外よろし』と誉め言葉が書かれています。

  • 趣のある庭。

    趣のある庭。

  • 建物だけでなく、古井戸も文化財施設として維持・管理されています。

    建物だけでなく、古井戸も文化財施設として維持・管理されています。

  • 「菊屋家住宅」・・・藩の御用商人を勤めていた菊屋家の住宅で、現存する商家としては最も古く、400年の歴史があります。<br />屋敷地は広大で、主屋・本蔵・金蔵・釜場・米蔵の5棟が国の重要文化財。

    「菊屋家住宅」・・・藩の御用商人を勤めていた菊屋家の住宅で、現存する商家としては最も古く、400年の歴史があります。
    屋敷地は広大で、主屋・本蔵・金蔵・釜場・米蔵の5棟が国の重要文化財。

  • かつて山口に住んでいた菊屋家ですが、1604年の毛利輝元の萩入国に従って現在地に屋敷地を拝領し、建てた家が菊屋家住宅です。<br />徳川幕府巡見使の宿(本陣)として使われた菊屋家住宅・・・主屋はかなり改造されているそうですが、江戸初期の貴重な住宅です。

    かつて山口に住んでいた菊屋家ですが、1604年の毛利輝元の萩入国に従って現在地に屋敷地を拝領し、建てた家が菊屋家住宅です。
    徳川幕府巡見使の宿(本陣)として使われた菊屋家住宅・・・主屋はかなり改造されているそうですが、江戸初期の貴重な住宅です。

  • 書院。

    書院。

  • 書院からは美しい庭園を望むことが出来ます。

    書院からは美しい庭園を望むことが出来ます。

  • 主屋の座敷・・・藩が贅沢を禁止するために庶民に禁止していた床の間も、賓客を接待する菊屋家には例外で、幕府からの使者をここで応接したそうです。<br />手前左にある格子状の籠のようなものは「御紋付 御伏籠」・・・つまり炉の上にこれを伏せて置き、その上に衣服をかけ、香を焚いて匂いを衣服に焚き染めたり、衣服を乾かしたりするために用いられた籠です。

    主屋の座敷・・・藩が贅沢を禁止するために庶民に禁止していた床の間も、賓客を接待する菊屋家には例外で、幕府からの使者をここで応接したそうです。
    手前左にある格子状の籠のようなものは「御紋付 御伏籠」・・・つまり炉の上にこれを伏せて置き、その上に衣服をかけ、香を焚いて匂いを衣服に焚き染めたり、衣服を乾かしたりするために用いられた籠です。

  • これは主屋にある柱時計・・・伊藤博文が1863年に初めてロンドンに洋行した時の土産で、米国コネチカット州セット・トーマス社製。<br />現在でも現役で動いており、週一回ゼンマイを巻いているとのことです。

    これは主屋にある柱時計・・・伊藤博文が1863年に初めてロンドンに洋行した時の土産で、米国コネチカット州セット・トーマス社製。
    現在でも現役で動いており、週一回ゼンマイを巻いているとのことです。

  • 萩城址・・・現在、萩城の跡は「指月(しづき)公園」として整備されていますが、江戸時代には左端の石垣の上に天守閣があり、後方の指月山の山頂に山城(詰丸)がありました。<br />

    萩城址・・・現在、萩城の跡は「指月(しづき)公園」として整備されていますが、江戸時代には左端の石垣の上に天守閣があり、後方の指月山の山頂に山城(詰丸)がありました。

  • 萩城は三方を日本海に囲まれた三角州に築城されましたが、外堀は海に繋がっていません。(写真はHPより)

    萩城は三方を日本海に囲まれた三角州に築城されましたが、外堀は海に繋がっていません。(写真はHPより)

  • 二の丸南門跡の所に建てられた毛利輝元の銅像・・・戦国時代、中国地方の覇者となった毛利元就の孫にあたります。<br />関ヶ原の戦の後の1608年に、毛利輝元は日本海に張り出した指月山の麓に萩城を築城し、以後、約260年間、萩は長州藩36万石の城下町として発展しました。

    二の丸南門跡の所に建てられた毛利輝元の銅像・・・戦国時代、中国地方の覇者となった毛利元就の孫にあたります。
    関ヶ原の戦の後の1608年に、毛利輝元は日本海に張り出した指月山の麓に萩城を築城し、以後、約260年間、萩は長州藩36万石の城下町として発展しました。

  • 高さ8間(14.4m)の美しい白亜五層の天守閣は、明治7年の廃城令により取り壊されました。<br />案内板にあるこの写真は、明治初期に撮影されたもの。

    高さ8間(14.4m)の美しい白亜五層の天守閣は、明治7年の廃城令により取り壊されました。
    案内板にあるこの写真は、明治初期に撮影されたもの。

  • 「北の総門 」は脇戸付きの切妻造り本瓦葺きで、柱間約6m、高さ7mの日本最大級の高麗門・・・「萩開府400年」を記念して平成16年11月に復元されました。

    「北の総門 」は脇戸付きの切妻造り本瓦葺きで、柱間約6m、高さ7mの日本最大級の高麗門・・・「萩開府400年」を記念して平成16年11月に復元されました。

  • 「菊屋横丁(菊屋横町)」・・・白いなまこ壁が美しい約500mの横丁は「日本の道百選」の一つに選ばれています。 <br />萩城の外堀から広がる城下町の町筋は碁盤目状に区画され、中・下級の武家屋敷が軒を連ねていました。<br />現在でも町筋はそのままに残り、往時の面影をとどめています。<br />御成道に面して藩の豪商、江戸屋・伊勢屋・菊屋の商家が並んでいたため、横町には、それぞれの名が残され、菊屋家をはじめ、幕末の風雲児・高杉晋作の誕生地、第26代総理大臣・田中義一の誕生地があります。

    「菊屋横丁(菊屋横町)」・・・白いなまこ壁が美しい約500mの横丁は「日本の道百選」の一つに選ばれています。
    萩城の外堀から広がる城下町の町筋は碁盤目状に区画され、中・下級の武家屋敷が軒を連ねていました。
    現在でも町筋はそのままに残り、往時の面影をとどめています。
    御成道に面して藩の豪商、江戸屋・伊勢屋・菊屋の商家が並んでいたため、横町には、それぞれの名が残され、菊屋家をはじめ、幕末の風雲児・高杉晋作の誕生地、第26代総理大臣・田中義一の誕生地があります。

  • 「田中義一 生家跡」・・・昭和2年に第26代内閣総理大臣となった田中義一(1864~1929)の生家跡。<br />昭和3年に治安維持法を改正して共産党に対する大弾圧を行い、張作霖爆殺事件により昭和4年に辞職した後、急死しました(享年66歳)。

    「田中義一 生家跡」・・・昭和2年に第26代内閣総理大臣となった田中義一(1864~1929)の生家跡。
    昭和3年に治安維持法を改正して共産党に対する大弾圧を行い、張作霖爆殺事件により昭和4年に辞職した後、急死しました(享年66歳)。

  • 「高杉晋作旧家」・・・菊谷横丁で生まれた高杉晋作(1839~1867)は、幕末期の長州藩における討幕派の中心人物であり、民兵組織・奇兵隊の創設者です。<br />1866年の第二次長州征伐では、全軍の総指揮官となり勝利しますが、翌年、下関で肺結核のため29歳で死去しました。

    「高杉晋作旧家」・・・菊谷横丁で生まれた高杉晋作(1839~1867)は、幕末期の長州藩における討幕派の中心人物であり、民兵組織・奇兵隊の創設者です。
    1866年の第二次長州征伐では、全軍の総指揮官となり勝利しますが、翌年、下関で肺結核のため29歳で死去しました。

  • 座敷に上がることは出来ませんが、高杉晋作の肖像画、当時の茶道具などゆかりの品が置かれており、外から見学出来ます。

    座敷に上がることは出来ませんが、高杉晋作の肖像画、当時の茶道具などゆかりの品が置かれており、外から見学出来ます。

  • 誕生地の近くにある「晋作公園」に平成22年に建立された高杉晋作の銅像・・・高さ1.8mの像は20歳の頃の姿で、両刀を差した羽織と袴が勇ましい!

    誕生地の近くにある「晋作公園」に平成22年に建立された高杉晋作の銅像・・・高さ1.8mの像は20歳の頃の姿で、両刀を差した羽織と袴が勇ましい!

  • 「松陰神社」・・・明治23年、松陰の実家・杉家の邸内に、松陰の兄が土蔵造りの小祠を建て、松陰の遺言により愛用していた赤間硯と松陰の書簡を神体として祀ったのが当社の創建です。

    「松陰神社」・・・明治23年、松陰の実家・杉家の邸内に、松陰の兄が土蔵造りの小祠を建て、松陰の遺言により愛用していた赤間硯と松陰の書簡を神体として祀ったのが当社の創建です。

  • 明治40年、松下村塾出身の伊藤博文と野村靖が中心となって神社創建を請願し、萩城内にあった鎮守・宮崎八幡の拝殿を移築して土蔵造りの本殿にしました。<br />現在の社殿は、昭和30年に新しく建てられたもので、また東京・世田谷にも明治15年に創建された松陰神社があります。

    明治40年、松下村塾出身の伊藤博文と野村靖が中心となって神社創建を請願し、萩城内にあった鎮守・宮崎八幡の拝殿を移築して土蔵造りの本殿にしました。
    現在の社殿は、昭和30年に新しく建てられたもので、また東京・世田谷にも明治15年に創建された松陰神社があります。

  • 松陰神社の境内には「松下村塾」が現存しています。<br />吉田松陰(1830~1859)は、幕末期長州藩の志士、思想家、教育者。<br />萩城下・松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれ、1834年に叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となりました。<br />1835年に大助が死亡したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けます。

    松陰神社の境内には「松下村塾」が現存しています。
    吉田松陰(1830~1859)は、幕末期長州藩の志士、思想家、教育者。
    萩城下・松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれ、1834年に叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となりました。
    1835年に大助が死亡したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けます。

  • 1854年、25歳の時、浦賀に再度来航したアメリカ軍艦に乗り込み、海外渡航を企てましたが失敗し、投獄されます。<br />27歳の時、出牢を許されて生家で塾を開き、松下村塾を主宰します。<br />29歳の時、安政の大獄阻止の企てが失敗し、再び投獄されて刑死・・・松陰30歳の短い生涯は、多難に満ちたものでした。

    1854年、25歳の時、浦賀に再度来航したアメリカ軍艦に乗り込み、海外渡航を企てましたが失敗し、投獄されます。
    27歳の時、出牢を許されて生家で塾を開き、松下村塾を主宰します。
    29歳の時、安政の大獄阻止の企てが失敗し、再び投獄されて刑死・・・松陰30歳の短い生涯は、多難に満ちたものでした。

  • 松陰の思想の特徴は「至誠留魂」の語にみられるように、真心をもって事にあたれば、おのずから志を継ぐ者が現れ、道は開けるという信念でした。

    松陰の思想の特徴は「至誠留魂」の語にみられるように、真心をもって事にあたれば、おのずから志を継ぐ者が現れ、道は開けるという信念でした。

  • 思想と実践を一体化する教育の中から、高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文・山県有朋など、幕末維新期に活躍する門下生が育っていきました。

    思想と実践を一体化する教育の中から、高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文・山県有朋など、幕末維新期に活躍する門下生が育っていきました。

  • 『親思ふ 心にまさる 親心 今日のおとづれ 何と聞くらん』(吉田松陰) ・・・子が親を思う心以上に、親の子を思う心は深い・・・江戸時代の終わりに幕府を非難したため、「安政の大獄」で処刑された吉田松陰が、死の直前に残した言葉です。<br />寅二郎は、松陰の幼名。

    『親思ふ 心にまさる 親心 今日のおとづれ 何と聞くらん』(吉田松陰) ・・・子が親を思う心以上に、親の子を思う心は深い・・・江戸時代の終わりに幕府を非難したため、「安政の大獄」で処刑された吉田松陰が、死の直前に残した言葉です。
    寅二郎は、松陰の幼名。

  • 文久2年(1862)、薩摩藩の田上藤七・長州藩の久坂玄瑞・土佐藩の坂本龍馬が、この辺りにあった鈴木勘蔵の宿屋に会して、国事を語り合ったであろうことを記念して、昭和43年に建立された「薩長土連合密議之處」の碑・・・揮毫は山口出身の岸信介元首相です。

    文久2年(1862)、薩摩藩の田上藤七・長州藩の久坂玄瑞・土佐藩の坂本龍馬が、この辺りにあった鈴木勘蔵の宿屋に会して、国事を語り合ったであろうことを記念して、昭和43年に建立された「薩長土連合密議之處」の碑・・・揮毫は山口出身の岸信介元首相です。

  • 萩の観光が終わり、今日のお宿は「萩グランドホテル天空」・・・勿論、大浴場は露天風呂付の温泉です。<br />(追記)新型コロナの影響で2020年4月に倒産

    萩の観光が終わり、今日のお宿は「萩グランドホテル天空」・・・勿論、大浴場は露天風呂付の温泉です。
    (追記)新型コロナの影響で2020年4月に倒産

  • 夕食は、とらふぐ・見蘭牛など地場の食材に舌鼓、カニも食べ放題でした!

    夕食は、とらふぐ・見蘭牛など地場の食材に舌鼓、カニも食べ放題でした!

  • 3日目は、先ず長門市に行って、青海島(おおみじま)観光。

    3日目は、先ず長門市に行って、青海島(おおみじま)観光。

  • かつて、日本海には冬になると多くの鯨が姿を見せ、このあたりでも捕鯨は盛んでした・・・市内には「くじら資料館」もあります。<br />私達が乗った遊覧船「シータス」は船の形もクジラなので、写真のように海水を吹き上げます。

    かつて、日本海には冬になると多くの鯨が姿を見せ、このあたりでも捕鯨は盛んでした・・・市内には「くじら資料館」もあります。
    私達が乗った遊覧船「シータス」は船の形もクジラなので、写真のように海水を吹き上げます。

  • 周航時間は約1時間30分。<br />自然が造り出した奇岩・怪石巡りや、洞門くぐりなどを楽しみました。<br />これは「花津浦」・・・小さな岩島で、高さは20m、穴の直径は約8m。

    周航時間は約1時間30分。
    自然が造り出した奇岩・怪石巡りや、洞門くぐりなどを楽しみました。
    これは「花津浦」・・・小さな岩島で、高さは20m、穴の直径は約8m。

  • 花津浦の「観音様」で羽を休める海鵜。

    花津浦の「観音様」で羽を休める海鵜。

  • 青海島には実に多くの奇岩、洞穴が点在しています。<br />これは「黄金洞」・・・海面に反射した光によって、海食洞の洞内が黄金色に輝くことから付いた名前ですが、南北の方向に洞窟が2つ揃っているので「夫婦洞」とも言われます。<br />左側の洞窟は長さ80m・高さ32m・幅3mで、船が中へ入ることも出来ます。

    青海島には実に多くの奇岩、洞穴が点在しています。
    これは「黄金洞」・・・海面に反射した光によって、海食洞の洞内が黄金色に輝くことから付いた名前ですが、南北の方向に洞窟が2つ揃っているので「夫婦洞」とも言われます。
    左側の洞窟は長さ80m・高さ32m・幅3mで、船が中へ入ることも出来ます。

  • 「象の鼻」。

    「象の鼻」。

  • 青海島の迫力ある自然。

    青海島の迫力ある自然。

  • 「海上アルプス」とも呼ばれる青海島の雄大な自然を満喫しました。<br />青海島の北岸には『メモリアルロード』と呼ばれる自然研究路が整備されていて、その遊歩道の各所から、遊覧船とは一味違った奇岩・洞門の海岸美が見られます・・・機会があれば歩いてみたいですね。

    「海上アルプス」とも呼ばれる青海島の雄大な自然を満喫しました。
    青海島の北岸には『メモリアルロード』と呼ばれる自然研究路が整備されていて、その遊歩道の各所から、遊覧船とは一味違った奇岩・洞門の海岸美が見られます・・・機会があれば歩いてみたいですね。

  • クルージングを楽しんだ後は、美祢市にある「秋芳洞(あきよしどう)」の観光です。 <br />秋吉台の地下100~200mにある日本最大規模の鍾乳洞・・・総延長約10kmのうち、約1kmが公開されています。<br />かつてはは「滝穴」と呼ばれていましたが、皇太子時代の昭和天皇が1926年に訪れたことを機に「秋芳洞」と命名されました。

    クルージングを楽しんだ後は、美祢市にある「秋芳洞(あきよしどう)」の観光です。
    秋吉台の地下100~200mにある日本最大規模の鍾乳洞・・・総延長約10kmのうち、約1kmが公開されています。
    かつてはは「滝穴」と呼ばれていましたが、皇太子時代の昭和天皇が1926年に訪れたことを機に「秋芳洞」と命名されました。

  • 洞口の高さ:24m、幅:8m、水量の多い地下河川をもつ湧水洞で、ここから入ります。

    洞口の高さ:24m、幅:8m、水量の多い地下河川をもつ湧水洞で、ここから入ります。

  • 洞内はここ「千畳敷」付近が最も広く、最大幅80m、高さは30mもあります。

    洞内はここ「千畳敷」付近が最も広く、最大幅80m、高さは30mもあります。

  • 石灰華段丘の「百枚皿」・・・パムッカレを思い出す自然の造形美。

    石灰華段丘の「百枚皿」・・・パムッカレを思い出す自然の造形美。

  • 秋芳洞のシンボル「黄金柱(こがねばしら)」は、高さ約15mの巨大な石灰華柱。

    秋芳洞のシンボル「黄金柱(こがねばしら)」は、高さ約15mの巨大な石灰華柱。

  • 「くらげの滝のぼり」。

    「くらげの滝のぼり」。

  • 見どころいっぱいの秋芳洞でした。

    見どころいっぱいの秋芳洞でした。

  • 秋芳洞の次は、山口市にある「瑠璃光寺」の観光です。<br />大内氏全盛期の大内文化を伝える寺院であり、「西の京・山口」を代表する観光名所となっています。

    秋芳洞の次は、山口市にある「瑠璃光寺」の観光です。
    大内氏全盛期の大内文化を伝える寺院であり、「西の京・山口」を代表する観光名所となっています。

  • 元々は、25代・大内義弘によって香積寺として創建されましたが、1399年に応永の乱を起こした義弘が戦死し、弟の盛見が兄を弔うため、この地に五重塔の建設を開始し、1442年頃に完成しました。<br />江戸時代当初、香積寺は毛利輝元によって萩へ移築され、五重塔のみ残されましたが、1690年に山口市仁保高野にあった瑠璃光寺を移築し、今に至ります。

    元々は、25代・大内義弘によって香積寺として創建されましたが、1399年に応永の乱を起こした義弘が戦死し、弟の盛見が兄を弔うため、この地に五重塔の建設を開始し、1442年頃に完成しました。
    江戸時代当初、香積寺は毛利輝元によって萩へ移築され、五重塔のみ残されましたが、1690年に山口市仁保高野にあった瑠璃光寺を移築し、今に至ります。

  • 国宝の五重塔は、屋外にある五重塔としては日本で10番目に古く、京都の醍醐寺・奈良の法隆寺のものとならび日本三名塔の一つに数えられることもあります。<br />高さ31.2mで屋根は檜皮葺。<br />二層にのみ、回縁(まわりえん)がついているのが特徴です。

    国宝の五重塔は、屋外にある五重塔としては日本で10番目に古く、京都の醍醐寺・奈良の法隆寺のものとならび日本三名塔の一つに数えられることもあります。
    高さ31.2mで屋根は檜皮葺。
    二層にのみ、回縁(まわりえん)がついているのが特徴です。

  • 夜間は、年間を通して日没から23時までライトアップされています。

    夜間は、年間を通して日没から23時までライトアップされています。

  • ここでまた集合写真。

    ここでまた集合写真。

  • 最後の観光は、岩国の錦帯橋です。<br />日本三名橋のひとつ「錦帯橋」 は、日本を代表する木造橋・・・他に例を見ない特異な姿の五連の反り橋が特徴で、橋の長さは、橋面に沿って210m、直線で193.3mあり、幅は5m、橋台の高さ6.64mです。<br />

    最後の観光は、岩国の錦帯橋です。
    日本三名橋のひとつ「錦帯橋」 は、日本を代表する木造橋・・・他に例を見ない特異な姿の五連の反り橋が特徴で、橋の長さは、橋面に沿って210m、直線で193.3mあり、幅は5m、橋台の高さ6.64mです。

  • 岩国藩の第3代藩主・吉川広嘉は、暴れ川である錦川に流れない橋を架けることを決意し、中国・明の「西湖遊覧誌」にある、島づたいに石橋が架かる図をヒントに錦帯橋の構想を得て、1673年に岩国藩の悲願であった錦帯橋が完成しました。<br />その後、老朽による補修や架け替えは何度も行われたものの、流失することはありませんでしたが、昭和25年のキジア台風による錦川の大増水で流失・・・昭和28年に再建されましたが、老朽化により「平成の架け替え」が行われ、平成16年に五つの反り橋はアーチの美しさに拘って生まれ変わりました。

    岩国藩の第3代藩主・吉川広嘉は、暴れ川である錦川に流れない橋を架けることを決意し、中国・明の「西湖遊覧誌」にある、島づたいに石橋が架かる図をヒントに錦帯橋の構想を得て、1673年に岩国藩の悲願であった錦帯橋が完成しました。
    その後、老朽による補修や架け替えは何度も行われたものの、流失することはありませんでしたが、昭和25年のキジア台風による錦川の大増水で流失・・・昭和28年に再建されましたが、老朽化により「平成の架け替え」が行われ、平成16年に五つの反り橋はアーチの美しさに拘って生まれ変わりました。

  • 錦帯橋を渡った先にある「白蛇横山観覧所」・・・岩国のシロヘビ(天然記念物)を公開しています。<br />岩国にしか生息していないこのシロヘビは、江戸時代にアオダイショウの変種が金運を授ける神蛇として保護されて増えたものと言われ、体長1.8mほどにまでなり、ルビーのように赤い目が印象的です。

    錦帯橋を渡った先にある「白蛇横山観覧所」・・・岩国のシロヘビ(天然記念物)を公開しています。
    岩国にしか生息していないこのシロヘビは、江戸時代にアオダイショウの変種が金運を授ける神蛇として保護されて増えたものと言われ、体長1.8mほどにまでなり、ルビーのように赤い目が印象的です。

  • 楽しかった二泊三日の旅も、無事終わりました。<br /><br />広島県で育った私ですが、初めて訪れた所も多く、故郷の良さを実感した旅でした。<br />

    楽しかった二泊三日の旅も、無事終わりました。

    広島県で育った私ですが、初めて訪れた所も多く、故郷の良さを実感した旅でした。

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