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御師(おし)とは、特定の寺社に所属して、その社寺へ参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする者のことである。御師は街道沿いに集住し、御師町を形成する。<br />(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)<br /><br />古代より崇高な山であった富士山は、神体山(即ち禁足地)であり、麓にて祭祀が行われ、遥かにその御姿の見える場所からも遙拝されてきました。時代が下り、仏教の伝来を経て、また修験道などの影響を強く受け、修行を通して超自然的な験力を得ることを目的に、室町時代には庶民の間でも信仰登山が盛んになっていきました。<br /><br />講(講社)とは 晴天に遥かに望む富士へ行きたい、登って拝みたいと願う者が増すのは当然のことでしょう。入山者の増加につれて険しい山内に踏道も出来て、庶民も登頂を目指せる状態へ近づいていきました。<br />しかし、江戸から吉田までは健脚でも片道3日、吉田から頂上までは少なくとも往復2日、合計8日間の旅(運よく好天に恵まれた場合)は、現在からは想像もできない程の時間と費用がかかりました。<br />そこで、庶民に信仰が広がるにつれて、お金を集め代表を選び皆の祈願を託す「講」の仕組みを利用するに至ったことは想像に難くありません。こうして、近世には江戸を中心に各地域で「富士山信仰のための講 〜富士講〜」が成立しました。<br /><br />〜江戸は広くて八百八町、講は多くて八百八講。江戸に旗本八万騎、江戸に講中八万人。〜<br /> 江戸時代、富士講はこう言われるほど爆発的な興隆を見せ、関東・中部をはじめ、東北や近畿・中国地方など全国に広がり、各地に浅間神社が祀られ、また富士塚が築かれるようになりました。<br /><br /> こうして本来禁足地であった富士山は、修験者の修行の山となり、やがて身近な信仰として一般の人々も参詣するようになり、信仰の霊山・聖地を訪れるために人々ははるばると旅をしました。<br /> 道中の各所に宿坊ができ、特に江戸をはじめ関八州(関東)からの拠点として便利であった、北口(吉田)に「御師(おし)」が出現しました。<br /><br /> 御師は、宿舎の提供だけでなく、教義の指導や祈祷、各種取次業務を行うなど、富士信仰の全般に亘って世話をする存在でした。御師町は、富士山の雪代や噴火の被害による移転もありましたが、現在の上吉田に整備され、入口・境界を示す「金(かな)鳥居(どりい)」が立てられました。(現、富士山駅東側)<br /><br /> 御師は富士信仰の隆盛と共に発達し86件を数え、また御師町の発展とともに、江戸近郊の農村地にも富士講が増えていきました。<br /><br /> 現在は約40件が「御師団」に加入していますが、実際に講社を迎えて御師としての活動をしている家はわずか2件です。富士講は、かつての栄華に比べてか細くなってしまったものの、今もなお古の教えを継承し、縁の祭典の折にはお焚上や塩加持等の神事、また夏期には登拝行事が行われています。<br /><br /> この数年富士登山者が増加していることや、国内はもとより外国からも富士に心を寄せる様を見ても、日本の象徴たる富士への信仰の念は現代においても少しも色褪せてはいないと言えます。<br /> ( http://sengenjinja.jp/fujikou/ より引用)<br /><br />御師 旧外川家住宅  については	<br />http://www.fujiyoshida.net/forms/info/info.aspx?info_id=8307<br />http://www.fy-museum.jp/forms/info/info.aspx?info_id=5898<br /><br />富士五湖観光連盟 については・・<br />http://www.mt-fuji.gr.jp/

御師料理再現の昼食・筒屋のおもてなし ☆富士講に思い寄せて

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2013/08/30 - 2013/08/30

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マキタン2

マキタン2さん

御師(おし)とは、特定の寺社に所属して、その社寺へ参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする者のことである。御師は街道沿いに集住し、御師町を形成する。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)

古代より崇高な山であった富士山は、神体山(即ち禁足地)であり、麓にて祭祀が行われ、遥かにその御姿の見える場所からも遙拝されてきました。時代が下り、仏教の伝来を経て、また修験道などの影響を強く受け、修行を通して超自然的な験力を得ることを目的に、室町時代には庶民の間でも信仰登山が盛んになっていきました。

講(講社)とは 晴天に遥かに望む富士へ行きたい、登って拝みたいと願う者が増すのは当然のことでしょう。入山者の増加につれて険しい山内に踏道も出来て、庶民も登頂を目指せる状態へ近づいていきました。
しかし、江戸から吉田までは健脚でも片道3日、吉田から頂上までは少なくとも往復2日、合計8日間の旅(運よく好天に恵まれた場合)は、現在からは想像もできない程の時間と費用がかかりました。
そこで、庶民に信仰が広がるにつれて、お金を集め代表を選び皆の祈願を託す「講」の仕組みを利用するに至ったことは想像に難くありません。こうして、近世には江戸を中心に各地域で「富士山信仰のための講 〜富士講〜」が成立しました。

〜江戸は広くて八百八町、講は多くて八百八講。江戸に旗本八万騎、江戸に講中八万人。〜
 江戸時代、富士講はこう言われるほど爆発的な興隆を見せ、関東・中部をはじめ、東北や近畿・中国地方など全国に広がり、各地に浅間神社が祀られ、また富士塚が築かれるようになりました。

 こうして本来禁足地であった富士山は、修験者の修行の山となり、やがて身近な信仰として一般の人々も参詣するようになり、信仰の霊山・聖地を訪れるために人々ははるばると旅をしました。
 道中の各所に宿坊ができ、特に江戸をはじめ関八州(関東)からの拠点として便利であった、北口(吉田)に「御師(おし)」が出現しました。

 御師は、宿舎の提供だけでなく、教義の指導や祈祷、各種取次業務を行うなど、富士信仰の全般に亘って世話をする存在でした。御師町は、富士山の雪代や噴火の被害による移転もありましたが、現在の上吉田に整備され、入口・境界を示す「金(かな)鳥居(どりい)」が立てられました。(現、富士山駅東側)

 御師は富士信仰の隆盛と共に発達し86件を数え、また御師町の発展とともに、江戸近郊の農村地にも富士講が増えていきました。

 現在は約40件が「御師団」に加入していますが、実際に講社を迎えて御師としての活動をしている家はわずか2件です。富士講は、かつての栄華に比べてか細くなってしまったものの、今もなお古の教えを継承し、縁の祭典の折にはお焚上や塩加持等の神事、また夏期には登拝行事が行われています。

 この数年富士登山者が増加していることや、国内はもとより外国からも富士に心を寄せる様を見ても、日本の象徴たる富士への信仰の念は現代においても少しも色褪せてはいないと言えます。
 ( http://sengenjinja.jp/fujikou/ より引用)

御師 旧外川家住宅  については
http://www.fujiyoshida.net/forms/info/info.aspx?info_id=8307
http://www.fy-museum.jp/forms/info/info.aspx?info_id=5898

富士五湖観光連盟 については・・
http://www.mt-fuji.gr.jp/

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
グルメ
4.5
交通
4.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
観光バス
旅行の手配内容
個別手配

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