2013/04/03 - 2013/04/03
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KawakamiKenさん
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「安土城」に行ってきました。
「安土山」の「石垣」を見ながら「山登り」といった感じです。
かつては「天守台」に「豪華絢爛」な「天守閣」がありました。
写真は、その「天守台跡」です。
- 旅行の満足度
- 3.0
- 観光
- 3.0
- 交通
- 2.0
-
「安土駅」 です。
「琵琶湖」 の 「東岸」 に位置しています。 -
「安土駅」 の外観です。
乗車人員が 「2000人/日」 程の駅です。 -
「安土駅」 の雰囲気。
駅前の 「ロータリー」 です。 -
「織田信長」 像です。
ちょっと 「簡易」 な作り・・・で残念。 -
駅から 「安土城」 まで直線距離で 「1.4km」 程あるそうで、実際は曲がりくねっているので 「2km」 近くはあるじゃないでしょうか。
「徒歩20分」 との案内です。 -
この 「安土山」 に 「安土城」 がありました。
「健康&節約」 のため 「レンタサイクル」 は借りずに 「走って」 移動。
「旅行」 が 「唯一の運動」 の近況です。 -
「風情」 があります。
近くに 「西の湖」 があります。
建築当時の 「安土城」 は 「水面」 に覆われていました。 -
「日本100名城」 にも選ばれてます。
-
「安土城」 の説明です。
「明智光秀」 が 「屈辱」 を味わった 「安土大饗応」 の舞台でもあります。 -
「観光案内所」 です。
「駐車場」 も手前にありました。 -
「観光案内所」 の中です。
「無人」 で 「お土産等」 も売っていません。 -
近隣マップ。
-
「安土城周辺」 には 「城郭」 の一部でしょうか。
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「安土城」 の説明です。
-
「安土山」 は 「標高192m」 の山です。
「安土山」 の全てが 「安土城」 です。 -
入口付近。
「平日」 なので 「観光客」 はほとんどいません。 -
「500円」 です。 ちょっと 「高め」 の設定。
※ 2006年より 「摠見寺」 が徴収。 -
「受付」 です。
-
「大手道」 です。
けっこう長い距離があります。
「信長」 らしく 「最短」 で上層部まで行けます。 -
「安土城」 は 「1976年」 に築城(着工)されました。
「信長」 が 「43歳」 の時でした。
前年には 「長篠の戦い」 で 「武田勝頼」 を負かしています。
この頃 「本願寺」 との戦いを控えていました。 -
「大手道」 は 「安土城を象徴する道」 と書かれてます。
確かに 「信長の城」 は 「天守」 まで 「一直線の道」 で結ばれてます。
「敵」 に 「攻められない自信」 もあったのでしょう。
「守り」 より 「見た目(ビジュアル)」 を重視しました。 -
登り始めてすぐに 「伝 羽柴秀吉邸跡」 です。
「伝」 の文字が気になるが気にせず見学。 -
同じく 「伝 羽柴秀吉邸跡」 。
「戦国一の出世頭」 の邸宅跡です。 -
邸宅は 「上下二段」 になっていると書かれてます。
-
「伝 羽柴秀吉邸跡」 の説明です。
「大手道」 の 「左右」 に 「家臣の館」 を配置しています。
これも 「信長」 ならではの配置です。 -
対面には 「伝 前田利家邸跡」 です。
なんだかんだで 「幕末」 まで 「お家」 が存続した 「前田家」 です。
-
「伝 前田利家邸跡」 の説明です。
入口付近にあるのですが、「守り」 を固める 「重要な位置」 なんだそうです。 -
「石仏(せきぶつ)」 ちらほら見受けられます。
「石仏」 を 「石垣」 の一部として使用してます。 -
「安土城」 は 「近代城郭の範」 と言われてます。
「総奉行」 は 「丹羽長秀」 。
「縄張奉行」 は 「羽柴秀吉」 。
二人とも 「織田五大将」 です。
他の3人は。
「柴田勝家」、「明智光秀」、「滝川一益」
です。 -
この地に 「安土城」 を築いた理由。
① 京都に近かった。
② 琵琶湖の水運力。
③ 北陸街道(当時は日本海が表)
④上杉謙信への対策
だそうです。
(ウィキペディア) -
「天守閣」 が 「金箔」 で有名です。
「復元案」 が多く出回ってます。 -
こちらも 「伝 羽柴秀吉邸跡」 です。
「上下2段」 あった 「上層」 かな? -
「羽柴秀吉」 の 「主殿」 があったようです。
この頃の 「秀吉」 は 「40歳」 です -
角度を変えて 「伝 羽柴秀吉邸跡」 です。
「信長の四男」 の 「織田秀勝」 を 「養子」 に向かえ 「織田家準一門」 となりました。 -
「伝 羽柴秀吉邸」 の 「復元図」 です。
-
長い階段をさらに登ります。
とは言っても長さ 「180m」 しかありません。
幅は 「6m」 だそうです。 -
「本能寺の変」 直後の 「山崎の戦い」 の後に 「安土城」 は焼失しています。
焼失の理由にはいくつか説があり、
① 明智軍の敗戦時の 「放火」 説。
② 城下の放火からの 「延焼」 説。
③ 野盗や土民の略奪目的の 「放火」 説。
④ 落雷による 「火災」 説。
などがあります。
(ウィキペディア)
写真は 「大手道」 を振り返り1枚。 -
多くの 「石仏(せきぶつ)」 があります。
-
「安土山」 の 「中腹」 あたりでしょうか。
走りながら撮りながらだと疲れます。
いつも旅は 「時間との戦い」 のような気がしてきた・・・ -
「織田信忠邸跡」 です。
「織田信忠」 は 「信長」 の 「嫡男」 です。
「本能寺の変」 で一緒に 「戦死」 してます。 -
「織田(津田)信澄邸跡」 と 「森蘭丸邸跡」 です。
「織田(津田)信澄」 は 「信長」 の子ではありませんが 「一門」 です。
「織田(津田)信澄」 も 「森蘭丸」 も 「信長」 の 「側近中の側近」 です。 -
「道幅」 が 「広く」 なりました。
-
「黒金門跡」 。
こちらを通り階段を登れば 「二の丸跡」 です。 -
「黒金門跡」 の説明です。
ここからが城の 「中枢部」 と書かれてます。 -
「主郭部平面図」 です。
-
場所は 「二の丸跡」 だと思われます。
写真は 「仏石足」 です。 -
「二の丸」 には 「織田信長本廟」 もあります。
中には入れません。 -
同じく 「織田信長本廟」 です。
「信長の遺骨」 は 「不明な点」 が多いのですが、「京都市上京区」 にある 「蓮台山阿弥陀寺」 に埋葬されているものが一番 「信憑性が高い」 と言われてます。 -
隣には 「名城100スタンプラリー」 のスタンプがありました。
-
「本丸跡」 です。
「信長の家族」 が住んでいました。 -
「本丸跡」 の説明です。
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「天守台跡」 へ向かいます。
当時は 「天守台の石垣」 の高さが 「9m」 あったそうです。 -
「天守台跡」 です。
「望楼型地上6階地下1階」 の天守が建ってました。
「伊勢・安土桃山文化村」 に行けば屋外に 「原寸大の模擬天守」 が再現されている模様。 -
「天守台跡」 の説明です。
「信長」 が実際に 「天守」 に住んでいました。
当時の常識で、通常は天守に住むことはなく、信長が 「高層住宅」 に住んだ初めての日本人だとされてます。 -
こちらも 「天守台」 の説明。
「天守閣」 は 「32m」 ありました。 -
ここが最終地点、 「頂上?」 です。
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頂上? からの眺望です。
当時はここが 「都会」 だったのかと考え込みます。 -
遠くには 「琵琶湖」 が望めます。
-
来た道と 「違う道(遠回り)」 を進みます。
「元摠見寺」 と書いてあります。 -
「摠見寺本堂跡」 です。
「摠見寺」 は 「織田家」 の 「菩提寺」 でもあります。 -
「摠見寺三重塔」 です。
「安土城」 の 「城郭」 に 「伽藍」 がありました。 -
「摠見寺仁王門」 です。
当時のまま 「現存」 していると書かれているが・・・ -
同じく 「摠見寺仁王門」 です。
この道は 「百々橋口道」 というらしい。 -
現在は 「滋賀県」 の 「財政上の問題」 で 「調査」 は継続されてないそうです。
「歴史ロマン」 も 「お金次第」 ですね。 -
「安土山」 を麓から見上げます。
かなり 「疲れる」 城でした。
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