2013/08/20 - 2013/08/20
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ヌールッディーンさん
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寿都町の歌棄地区にある「鰊御殿」を見てきました。
この建物は、鰊漁に直接携わっていた網元や漁師の方が寝泊まりしていた番屋ではなく、この地区一帯の漁場で「仕込屋」として商売をしていた橋本家の住宅兼店舗だったものです。
寿都町のウェブサイトに、電話で予約をすれば見学可能との記載があったため、予約して訪問してきました。2013年8月現在、子孫の方が管理されているようで、親切に案内をしていただきました。
今でも使われているためと思われますが、明治12年竣工とは思えないほど傷みが少ない立派な建物でした。
なお、木造2階建て下見板張りの構造ですが、今回は2階は見学できませんでした。
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橋本家は江戸時代は現在の福井県で庄屋を務めていたそうですが、北前船交易で財を成した家だそうです。最初は江差に移住したようですが、鰊が南側から次第に不漁となったことに伴い歌棄(現在地)に移ってきたようです。
この地区は鰊の千石場所で、数十件の網元たちが集まり、70ほどの網を建てていたとのことで、橋本家はそれらの鰊漁関係者にお金を貸し付けていたとのことです。なお、北前船も3艘保有していましたが、1艘は難破してしまったとのことでした。
入口から入ると土間になっており、左手に帳場がありますが、当時はここに多くの客が来ていたとのことでした。
(IMG3132) -
帳場の様子。明治大正の頃に使われていたタンスなどが残されていました。
奥の部屋は座敷になっています。
(IMG3134) -
入口の左手には帳場がありましたが、正面には暖簾があり、これをくぐると座敷のあるエリアに入っていきます。
手前側が公的ないし仕事に関係するエリアで、これをくぐると私的なエリアに入る境界の目印なのでしょう。
(IMG3133) -
暖簾をくぐると吹き抜けのある廊下的な空間になっており、その左手にこのように囲炉裏のある居間があります。写真の左側が帳場、右側奥は仏間です。(仏間の海側と山側にそれぞれ座敷があります。)
座敷も仏間も(海側と山側の座敷も)15畳の広々とした空間になっていました。また、梁の太さなども大変なもので、この点は明治時代ならでは、という感じがします(江戸時代は規制があり太い木が切出せず、大正頃になると伐採しすぎのため太い木はなくなってしまった)。
入口を入ると土間があり、左手に帳場、吹き抜けの廊下、居間と続く構成は昨年江差で見てきた横山家住宅とかなり似ていて驚きました。
(ただ、江差の横山家は住居兼店舗の奥に複数の倉庫が続く町屋のような全体構造になっていたのに対し、歌棄(寿都)の橋本家は奥側がすぐ山になっており、どちらかというと奥行きより左右に広く土地を使う構成になっていたようで、類似点と相違点があり興味深いものがありました。)
なお、この家は福井県の本家の庄屋宅を模して建てられましたが、本州の建築との対比も是非してみたいと思います。
(IMG3129) -
居間から明かり窓のある吹き抜けを望む。
このあたりの採光の仕方も横山家と共通する構成でした。この建物で使われているガラスは、オランダ製で当時ギヤマンと呼ばれていたもので、気泡のようなものが見えたり、表面が波打っているものがほとんどで風情があります。
この採光のスタイルからは、ヨーロッパのゴシック様式の教会堂のクリアストーリー(高窓)から差し込む光を想起させられましたが、柔らかい光が室内に充ち溢れる様は、それだけで芸術と言ってよいと思います。
(IMG3166) -
海側の座敷の襖は「金唐皮紙」で覆われていて驚きました。
「金唐皮紙」についての説明は、以前、旧日本郵船小樽支店の旅行記を参照してください。ちなみに、東京の旧岩崎邸でも金唐皮紙が使われています。
http://4travel.jp/traveler/nur_al_din/album/10394487/
もともとはこの壁紙も金色に輝いていたはずで、色が落ちた後もきちんと貼られて残されているところにも驚きました。
この家の案内をしてくださったオーナーによると、近年中にこの建物や外の倉庫の傷んでいる箇所を修繕したり、壊してしまった倉庫を復元したりして、歴史的建造物として活用していくことを検討しているというお話も伺えたので、もしかするとその際には金唐皮紙もかつて貼られていた箇所に復元されることもあるかも知れない、などと想像した次第です。(旧日本郵船小樽支店の貴賓室のように。)
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山側の座敷の床の間。左下のタンスは、大木を輪切りにしたものを1/4に分けて作られたものとのこと。これは初めて見ましたが、これに描かれている絵も狩野派の手によるものと聞き、さらに驚きました。
床の間の枠の木は紫檀だったかな?
ここだけでなく、床下には防湿のため木炭が敷き詰められていること等に見られるように、この建物は高価な材料を本州から運んできて丁寧に建てられていることがわかります。
こうした家具といい、金唐皮紙のような内装といい、オランダ製のギヤマンといい、細部に至るまで誠に手の込んだ建物です。
(IMG3151) -
山側の座敷の奥には縁側的な廊下があり、建物の外には裏庭があります。
夏に訪問したので、セミの鳴き声が鳴り響いており、それも非常に風情を感じさせてくれました。
なお、この裏庭の写真左手の方には、以前は銭倉というお金をしまっておくための倉があったとのことです。現在、この母屋の左右に倉が1つづつありますが、以前は全部で8つの倉や使用人が寝泊まりしていた建物などもあったとのことです。こうしたことからもかつての歌棄の繁栄ぶりがうかがえて興味深いものがありました。
歌棄周辺では大正10年頃まで鰊が獲れたそうで、その時期以降は業態変更を余儀なくされたと思われますが、この建物は旅館としても使われていたようで、田中角栄などの首相も何名か宿泊したことがあるとのことです。また、建築家の田上義也もしばしばここを訪れ、ここにいると落ち着くとよく言っていたそうです。
(IMG3156) -
山側の座敷にて。
細部の繊細な装飾に至るまで抜かりがありません。
(IMG3153) -
寿都町のウェブサイトによると、この建物は釘を一本も使っていないとされていますが、「釘隠し」らしきものがあるのが面白いです。この建物の場合は釘を隠すというよりは装飾なのでしょうか。
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元々の海岸線は奥の白線のあたりだったそうです。建物からほんの2〜3メートルくらいでしょうか。
(IMG3177) -
建物の全景はこんな感じです。立地的に奥に延びていくことができないせいか、左右に広く展開していく感じになっています。
(IMG3188) -
イチオシ
道路の向かい側には追分記念碑があります。
江差追分の一節「忍路高島およびもないが せめて歌棄磯谷まで」が記されています。
(IMG3182) -
イチオシ
ここは風が強い地域のため風力発電が盛んです。
景色も非常に良いです。
(IMG3184)
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