2013/04/07 - 2013/04/09
82位(同エリア129件中)
ナームさん
関宿の歴史
関宿は、江戸時代の徳川家康の宿駅制度化で、旧東海道53の宿場の47番目の宿場町として、大和街道と伊勢別街道の分岐点となったので、参勤交代や伊勢参りの交通の要所として繁栄した宿場町。
この町並みの原型は、天正年間(1573~92)に関盛信により造られたという。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル 徒歩 Peach
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JR関駅
亀山から車窓を眺めていると、間もなく関駅に着く。
どこにもありそうな、何の変哲のない平凡な駅だ。 -
関宿への道
駅舎を降りて、さあ〜どうやって関宿へ行くのかなあ、と思案していると真っ正面の大通り100メターほど先に古い町並みが見えた。 -
関宿の案内板
1.8キロに及ぶ街道の様子が克明に記されている。
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イチオシ
古い町並み
江戸から明治にかけての町並みがよく保存されている。
三重県内で残なれている宿場町としては、一番整備されているだろう。
その割には、観光客が少なくのんびり散策を楽しめる。 -
古い町並みー銘菓関の戸ー
寛永年間から370年間の歴史を持つ餅菓子。 -
古い町並みー銘菓関の戸ー
赤小豆のこし餡を白い求肥皮で包み、うえに阿波特産の和三盆でまぶされている。
鈴鹿の峰に積もる白雪をなぞらえたと伝えられている。 -
伊藤本陣の跡
本陣は参勤交代の大名や、公家公用の幕臣など格式の高い宿泊施設。
広大な敷地は千坪ほどの家屋を持っていたという。 -
旧鶴屋脇本陣
本陣の補助的役割を担う旅籠。
天保14年(1843) には、家屋632戸、人口1942人、本陣2、脇本陣2,旅籠屋42となっており、東海道屈指の宿場であった。 -
旧玉屋脇本陣
「関に泊まるには玉屋か鶴屋〜」と歌われたほど…
格式の高い人が泊まらないときは、一般の人も泊まることが出来たので、こう歌われていたのだろう〜 -
旧玉屋脇本陣
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旧玉屋脇本陣
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旧玉屋脇本陣
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あいづやー旧山田屋旅籠ー
この山田屋にはこんな逸話がある。
夫の仇討ちの途中、鈴鹿峠越で体力が尽き行き倒れになったところを、山田屋夫婦に助けられ、女の子を産み子万と名付けたという。 -
あいづやー旧山田屋旅籠ー
子万の母親が死後は山田夫婦の子として育てられ。そして、15歳の時実母の遺言を聞き剣術の修行に励み、天明3年(1738)仇討ちの本懐を遂げた。 -
あいづやー旧山田屋旅籠ー
子万は享年3年(1803)に36歳で病死。
その後経緯は分からないが、いまだに続く「あいづや」 -
いちご大福屋
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百五銀行
見事に古い町並みにとけ込んでいる地元の銀行。
ATMを「自動現金取扱所」とあるのがピッタリ〜 -
骨董屋さん
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骨董屋さんの看板
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美容室もこんな佇まい。
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喫茶店こんな感じ!
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高札場
江戸時代の高札場は、法度や掟書き、宿場の決まりなどを掲示した場所。 -
高札場
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高札場
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旅人宿 石垣屋
気さくな宿主が何と言っても一番!
夜は中庭でバーベキューをしたり、午前3時頃まで数人で飲み明かしたり楽しい一夜を過ごした。 -
旅人宿 石垣屋
石垣屋ともおさらば! -
旅人宿 石垣屋
ここは古い町家「旧石垣家 辰巳屋」の跡と思われる。
肥料や米穀商を営み、明治42年にこの屋敷を建てたという。
昭和の末までは五代目が開業医をしていたので、「診察室」プレートのかかった部屋があった。
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