2013/05/08 - 2013/05/13
28834位(同エリア34639件中)
Q太さん
海で遊ぶ予定を立てていた時間帯に
もし雨が降ったら…のコンチプランとして予定していた
プランテーションビレッジ
昔実際に使われてた家を一か所に集めた民家村的な施設だって
わたしの大好物なタイプ
聞いたことなかったから最近できたのかと思いきや
ずっと以前からあったそうな
キレイに保全されてるし、みどころはたくさんあるし、
ボランティアの方の説明も丁寧
面白いのに知れ渡っていませんねという質問に
ボランティアの方は宣伝下手だからかなと照れ笑い
静かでのんびりしてるのも魅力で沢山人が来るのもアレだから
教えたくないけど、でも教えたいスポットです
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- レンタカー
PR
-
2時間弱時間が余ったからと軽い気持ちで行ってみました
事務所が改装中とかで向かって右隣のトレーラーハウスが
仮事務所になってた -
事務所で料金を払ってよく手入れされている公園の木陰で待っていると
ガイドさんがやってきた
ガイドはリタイア後にハワイに移住したというヤスさん
ここの施設が好きでみんなに知ってほしくて
ボランティアで日本語ガイドを引き受けているとのこと
今日も日本人客は来ないと思って免許の更新に帰るところだったそうな -
はじめに時間を聞かれ、予定があるから2時間程と伝えると
それじゃ急がないととのこと
2時間もあれば十分かと思ってたのに
でも実際ヤスさんはひとつひとつ丁寧に説明してくれて
本当に2時間じゃ足りなかった
最後に日系移民のおばあさん達に
この施設の庭で取れたという果物を数種類いただき
お土産までもらい
消化不良のまま施設を後にしたのだ -
…ということで
次の日ノースの海が荒れてて早く切り上げて時間が余ったから
もう一度来ちゃいました
ガイドがいないと展示園には入れないんだけど
事情を説明したら特別に入っていいよとのこと
展示園入り口には過去にハワイが移民として受け入れた国の旗が
このころはまだ沖縄が琉球王国だったから
日本と琉球王国それぞれの旗が立ってるとのこと -
移民の人々が住んでた家は移民を受け入れた順の時系列に並んでおり
最初に現れるのは中国
家と言っても複数家族で住む寮みたいなものだそうな -
内覧はもちろん可能
当時の家具類も移設されてるの -
中国人の炊事場
「中国人の炊事場はTsoong Nyee Tongg共済組合の1部分として建てられました。」 -
「独身男性の食事は大きな中華鍋を使って作られ、燃料として薪を使っていました。」
-
「この再生された建物は、この辺り(ワイパフ)で最も古い木造建造物の1つで、ハワイでわずかに残っている内の1つです。
この炊事場は、歴史的な建造物として登録されています。」 -
中国の家にはその他移民の歴史資料が展示されてて
ここで資料を見ながらこれからのガイダンスを受けます
写真は日本人が船で到着したところとのこと -
日本人移民の初期の住宅
こんな感じの家が -
こんな感じに立ち並び
-
さとうきびの収穫の仕事の傍ら
自分たちで食べるお米の栽培もしていたそうな
ハワイに米をもたらしたのは日本人
…しかし住むのはあんなかんじの家だよね〜
大変だなあ
と思ったけど
まだドルがめちゃくちゃ高い時代だったから
契約の3年(だったかな?)をこなすと
そうとうお金持ちになって日本に帰れたそうな -
そしていずれはこんな感じの整備された町になっていく
ちなみに、こんなお金の稼げるいい話は
実は明治維新の官僚の出身元である薩摩・長州・土佐以外には
もたらされなかったらしい -
お次はポルトガル人の家
-
一転してすっかり洋風
ストーブもある -
白が基調の家具でおしゃれ〜
-
「初期のプランテーションの家は生活や睡眠に使われる幾つかの部屋を考慮に入れても非常に小さく簡素でした。」
-
「この白塗りの建物は天井がなく直接屋根なのでプライバシーはほとんどありませんでした。」
-
「初期の単一家族の家はプランテーション労働者の為の住施設の歴史の1つの発達段階でした。
それは、寮形式からのステップアップを意味していましたが後期の住居に比べれば劣っていました。」
〜説明書きより〜 -
ポルトガル人の台所
「初期の家には裏に離れて台所の建物がありました。
室内には洗い場、食物貯蓄庫(食物貯蔵のための開け閉めのできる食器棚)、灯油か石炭を燃料とするかまどなどがありました。
これらの台所は粗末だったけれども外で料理していた初期のころよりはずっと向上しました。」
〜説明書きより〜
この窯でパンを焼き、ポルトガル人がハワイにパンをもたらしたそうな -
続きまして、
プエルトリコ人の家 -
プエルトリコ人の家
「約5,000人のプエルトリコ人が砂糖きびのプランテーションの為にやってきました。
1899年に彼らの国を襲ったハリケーンが彼らをハワイに移住させた1つの要因でした。」 -
「2つの部屋と6フィートの幅のラナイやポーチは1900年のはじめの標準的な家の1つでした。」
-
「よく製材されていない材木で作られた幅の広い床板と壁は、典型的な初期のプランテーションの建物でした。」
-
急にマネキンがいてビックリした〜
-
プエルトリコ人の台所
「プエルトリコ人がコーヒーを飲むことをハワイに伝えました。
彼らの台所の壁には、鉄製のコーヒー豆を挽くための器具が取り付けられています。
コーヒー豆は、最初に外皮を剥き、次にストーブで豆を煎り、それから一週間ほど乾燥させます。
その後、この豆挽きで豆を挽きました。」 -
「食器棚の上には、ガスを燃料とするアイロンが、また下の段には5段のそうになった弁当箱が置かれています。
昼休みには、母親と子供がこの弁当箱を持って砂糖きび畑で働く父親に会いに行き、一緒に昼食をとったことでしょう。
プランテーション・ストアで買ったハムが天井からつられています。
壁の棚には家庭で作られたハーブ薬がソーダのビンに入れられて並んでいます。
左端のびんがヘンルーダとヘーゼルの頭痛薬、中央がヘンルーダとシナモンの腹痛薬、そして右端が蜂蜜とレモンとラム酒で作った風邪薬です。
薪を燃料とする背の低いかまどはフォゴンといいます。」 -
さあいよいよ日本人の家
-
日本人の複合住宅
「複合住宅はプランテーションによって建てられた最初の標準的な構造物の1つで日本人の家族に提供された建物の典型的な物でした。
初めのころ家族は寮形式の建物に住まわされ、定員過剰、プライバシーが守れない事がよくあり、この形式が生活には不適当だと証明されました。
新しい複合住宅は、労働者がより良い労働及び住居環境を要求した1903年の悪名高いストライキの後に供給されました。
便利良さを考えて台所は建物の外に離れて作るのではなく建物の中に造られました。」 -
仏壇
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囲碁
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布団
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足踏みミシン
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お釜
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そろばん
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あ、これは
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おフロ!
日本人がもたらしたそうよ -
お手洗いもだって
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豆腐屋
「プランテーションでは、畑仕事以外の副収入を得るために豆腐作りが多く行われていました。
特に女性が豆腐作りに従事し、それを近所の住民に売り歩きました。
出来上がった豆腐は一日で悪くなってしまうので、できたその日のうちに売らなければなりませんでした。」 -
「プランテーション時代の豆腐の作り方は以下の通りです。
まず大豆を洗い、一晩(約8時間)水につけておきます。
次に夜中の3時ころから石臼で豆を砕きます。
砕いた後、布で濾して投入とおからに分けます。
できた豆乳をかまどの大きな中華鍋でよく熱し、にがりを加えます。
そして布を張った型に流し込み、その布で包みます。
その上に重石を置いて圧縮し固めます。
こうして出来上がった豆腐を冷たい水にすばやく流し込み、適当な大きさに四角く切ります。
豆腐は売るまで冷たい水につけておきます。
途中でできたおからは、主に豚の餌として使われていました。」 -
稲荷神社
「この若宮稲荷神社はホノルル市のカカアコ(ワード・センター近く)に1914年に建てられました。
その後1919年に日本人コミュニティのあったモイリイリのキング通りに移築され、様々な神道の儀式が行われました。
その後、この神社を参拝する人が減って荒廃しましたが、とり壊すことを避ける為、1979年にこのハワイ・プランテーション・ビレッジに寄付されました。
日本古来の宗教、神道の一派で、稲荷神社は農業の神様を祭っており、コメの収穫期には多くの日本人の農民が稲荷神社を訪れたといいます。
またこの宗教ではキツネが神の使いだと考えられていました。
本来神社の前にはキツネの像が2つ並んでいたのですが、ここへ移築させる前に盗まれてしまったそうです。」 -
鳥居はそもそも朱かったけど
ここに移設する際の塗り替えで
間違えて白く塗られてしまったらしい
このフワッと感がハワイっぽいww -
散髪屋
「散髪屋はプランテーション共同体の中で一番最初の職業で、初期のころは道具もなく戸外で行われていました。
次第に25世帯以上のそれぞれのプランテーションキャンプで作られ、異本人はこの職業に多く就いていました。」 -
本棚にその当時の本があったよ
「ハワイ事情」だって
すごい読んでみたい〜〜〜 -
当時の写真も飾ってあったよ
-
大衆浴場
「大衆浴場は日本人キャンプではごく普通にありました。
風呂に入るのは勿論のこと、皆の社交場としてすべての共同体に設けられましたが、デザインやレイアウトはまちまちでした。
一つの例として大きなコンクリートのバスタブの中央に木の仕切りをして男湯と女湯を分けていました。
子供たちは仕切りの下をくぐって男湯と女湯の行き来をしていました。」 -
沖縄人の家
「日本人の家と韓国人の家はよく似ています。
これら3つの建物はプランテーションビレッジで見られる典型的な建物です。
このいいえは9フィート×2フィートの石製の流し、食物貯蔵庫などを備えた「清潔な台所」がありました。 -
昭和天皇が来たんだ
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やっぱしお布団なんだね
-
ここにも当時の写真
-
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台所
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韓国人の家
「沖縄人の家と造りがよく似ていました。
造りはそっくりでしたが「清潔な台所」の燃料は薪ではなく灯油という違いがありました。」 -
ベットなんだ
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-
-
台所
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プランテーションビレッジには植物がいっぱい
ヤスさんは果物やお花の説明も盛り込んで説明してくれまして
その一つがクラウンフラワー -
花びらをむしると王冠になるのだ
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フィリピン人の寮
「中国人同様にフィリピンの移民者は寮などに住む独身の男性が多く、食事を共同食堂や隣の家族などと一緒に摂っていました。
そして、同僚の奥さんに洗濯物を頼んだりしていました。
1920年頃の寮の設計はコテージ型とU字型でした。」 -
なるほど独身の男性らしい部屋だ
-
隣の部屋の装飾は一転してニワトリ!?
あと釣り針!?
ニワトリ小屋があったし仕事熱心な人が住んでたのかな〜 -
豚の丸焼きの再現かな
プエルトリコ人の家のマネキンといい
ちょいちょい驚きポイントがww -
あ、冷蔵庫!電話も!
-
ユニットバスも登場
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プランテーションの店
「この店は、プランテーション労働者の日々の生活用品を売っていた「雑貨店」でした。
食料品は新鮮な肉や魚、野菜、果物、様々な缶詰、箱詰めの食料などが売っていました。」 -
-
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診療所
「プランテーションの医療スタッフは、例えば種痘、栄養教育、妊婦の世話などの健康問題だけでなく、緊急手当てや日常の病気を扱っていました。
畑や工場での仕事を休むためには、プランテーションの医者の許可が必要でした。
離れたところにある集合体(村)には、診療所の建物があり、プランテーションの薬局や病院を運営している医療スタッフによって定期的に巡回されました。
民族によって昔ながらの薬が使われていました。」 -
車いす
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診察椅子
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掲示板
「ご用心
鼠が黒死病をかくまい、ノミが鼠から黒死病を人間に移す」
だって -
社交場
「1920年のストライキの後、娯楽設備は従事している労働者は家族を惹きつける条件として発達しました。
社交場やクラブハウスは、労働者にとってお金を使わずに済みました。
社交や楽しみの場に加えて、組合の加入や集会のための場所でもありました。」
いまはボランティアスタッフの待合所のようなところになってて
私たちが行ったときは日系のおばあさんがプランテーションビレッジ内で採れたフルーツを剥いたのを食べさせてくれましたよ
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