2012/11/10 - 2012/11/10
173位(同エリア258件中)
滝山氏照さん
小田急線愛甲石田駅東口から北上しますと高台にそびえ立つ建物が武蔵七党の横山党に属した愛甲氏居館(あいこうしやかた、神奈川県厚木市愛甲東)で現在は西嶺山・円光寺(えんこうじ)と称する臨済宗健長派の寺院です。
この円光寺一帯が愛甲氏の本拠であったと言われていますが、地勢的に見ますと打ち続く西から延びる台地の東端がちょうどこの円光寺の位置で、館を構えるには極めて好都合であったと推測されます。
円光寺境内は思ったより狭く墓地も狭く、かつての城域と思われるところは一部は畑、一部は居住地などに変わり昔の面影は感じられません。
そもそも愛甲氏は武蔵七党の一つ現在の八王子付近を本拠とする横山党の系列の小規模武装集団であります。12世紀初めに横山党により愛甲一族の中心人物と思われる内記平太夫が殺害され、その後横山党の支配下にはいります。
鎌倉時代には横山党の一族、季隆(すえたか)が愛甲三郎を称して当地域の総帥となり、同時に幕府の御家人に列せられ、以降季隆は御家人中屈指の「弓の名人」として幕府の儀式や競技には必ず登場するほどでありました。
頼朝没後御家人の利害関係が顕在化し、建暦3年(1213)、主導権を握る北条義時(ほうじょう・よしとき)と侍所別当である和田義盛(わだ・よしもり)との戦いでは季隆は横山党の一員として和田氏に与しその結果敗北、所領を奪われ没落するに至ります。
2022年5月18日追記
境内の壁に掲げられた「愛甲三郎季隆の歴史」と題された手製の説明板には
下記の通り紹介されています。
「 愛 甲 三 郎 季 隆 の 歴 史
愛甲三郎季隆(生年不詳~1213)は愛甲庄を領した武将である。愛甲庄は厚木市愛甲を中心とした庄園でその庄域は七沢・小野・愛名・船子・岡田(厚木)を含む玉川流域に広がっていた。
愛甲三郎は平安時代末期武蔵国におこった武士団武蔵七党の一つである横山党の流れをくむ。父は山口季兼。三郎季隆は愛甲庄を領したことから愛甲氏を名乗ることになった。」
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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円光寺山門
傾斜地を巧みに使った現代的な社寺となっています。 -
円光寺社石標
「西嶺山圓光禅寺」と刻印されています。 -
愛甲三郎季隆と西嶺山円光寺の案内板
壁面に愛甲三郎季隆と円光寺がパネルにそれぞれ紹介されています。 -
愛甲三郎季隆の歴史の説明板
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西嶺山円光寺
西嶺山円光寺は宗派は円光寺派(本山)。沿革縁起・・・・・・・(判読不可) -
愛甲三郎供養塔
本堂から墓地に入る手前にひっそりと供養塔が佇んでいます。 -
愛甲三郎供養塔・標柱
供養塔の傍らに標柱が建てられています。 -
円光寺・本堂
手造りの扁額には「西嶺山圓光禅寺」と山号並びに寺号が揮毫されています。 -
境内風景
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市街展望
高台の墓地から市街地を一望します。 -
愛甲三郎供養塔
高台の墓地から愛甲三郎供養塔を探ります。 -
宝積寺・山門
円光寺を辞して更に西方に足を進め、宝積寺に移動します。 -
宝積寺・本堂
愛甲山宝積寺と称し、鎌倉時代の武将愛甲三郎季隆の菩提寺として創建されています。 -
扁額
「宝積禅寺」と寺号が揮毫されています。 -
愛甲三郎季隆の墓
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愛甲三郎季隆の墓石(近景)
鎌倉時代の武将ですから五輪塔も素朴な加工技術を施しているように感じます。 -
墓地改修誌
愛甲三郎の墓地改修記念碑があります。 -
愛甲三郎季隆墓所
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宝積寺周辺風景
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境内風景
本堂から境内を見渡します。 -
神明神社
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神明神社
鳥居の向こうに祀堂が小規模ながら建立去れています。 -
稲荷神社
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愛甲三郎居住標柱
「愛甲三郎館跡」石柱に刻されます。 -
愛甲三郎館跡標柱
愛甲氏は武蔵横山党の一族で愛甲庄を領し館跡はこのあたりと伝えられている。一門の愛甲三郎季隆は鎌倉幕府の御家人で弓を取っては天下の名手、毎年のお弓初めの行事には参加している。(標柱記載) -
土塁
霊堂の周辺は一部土塁らしきものが見受けられますが勿論当時のものではありません。 -
周辺の風景
すっかり農地化されて当時の遺構は全く見当たりません。
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