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50年前、20代前半から30代にかけて横浜に勤務した。事務所は関内・尾上町にあり、常盤町、馬車道、伊勢佐木町、野毛周辺を夜な夜な彷徨したものである。<br /><br />先日、久しぶりに横浜行を決行した。テーマは「思い出の横浜散歩」…50年前の思い出に沿って歩いてみた。添付の写景はいわゆる横浜イメージとは大分異なるものが多いが、私の青春の何ページ、また古き良き時代の横浜なのである。<br />山下公園、中華街、元町、根岸園、磯子、杉田などにも思い出はあるが、次回の散歩が何時にになるやらわからない…。<br /><br />【表紙写真】:幕末幕府大老・井伊掃部頭直弼(いい かもんのかみ なおすけ)の銅像 

思い出の横浜散歩!<掃部山(かもんやま)・岩亀横丁から関内周辺>

9いいね!

2013/04/29 - 2013/04/29

5475位(同エリア9495件中)

1

34

osd

osdさん

50年前、20代前半から30代にかけて横浜に勤務した。事務所は関内・尾上町にあり、常盤町、馬車道、伊勢佐木町、野毛周辺を夜な夜な彷徨したものである。

先日、久しぶりに横浜行を決行した。テーマは「思い出の横浜散歩」…50年前の思い出に沿って歩いてみた。添付の写景はいわゆる横浜イメージとは大分異なるものが多いが、私の青春の何ページ、また古き良き時代の横浜なのである。
山下公園、中華街、元町、根岸園、磯子、杉田などにも思い出はあるが、次回の散歩が何時にになるやらわからない…。

【表紙写真】:幕末幕府大老・井伊掃部頭直弼(いい かもんのかみ なおすけ)の銅像 

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩

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  • 【掃部山公園入り口の坂道】<br />連休の29日、快晴。横浜駅は人であふれていた。東口から市営バス・本牧行き乗車。料金は全域210円(大人)とあった。<br />「掃部山公園はどこで降りたらいいのかな?」<br />「かもんやま?知りません。」運転手はソッケなかった。<br /><なぬー、オヌシ掃部山を知らんのか。何ちゅう横浜人か…> <br />横浜散歩はスタートでショック!<br />むかし、市電は高島町を曲がって、花咲町、雪見橋…そうだ雪見橋だ。思い出がよみがえる。バス停・雪見橋を降りると道路の向こうに樹林の山が見える。間違いない。だがなにかが変だ。桜川がない。雪見橋もない。埋め立てられてしまったようだ。<br /><br />

    【掃部山公園入り口の坂道】
    連休の29日、快晴。横浜駅は人であふれていた。東口から市営バス・本牧行き乗車。料金は全域210円(大人)とあった。
    「掃部山公園はどこで降りたらいいのかな?」
    「かもんやま?知りません。」運転手はソッケなかった。
    <なぬー、オヌシ掃部山を知らんのか。何ちゅう横浜人か…>
    横浜散歩はスタートでショック!
    むかし、市電は高島町を曲がって、花咲町、雪見橋…そうだ雪見橋だ。思い出がよみがえる。バス停・雪見橋を降りると道路の向こうに樹林の山が見える。間違いない。だがなにかが変だ。桜川がない。雪見橋もない。埋め立てられてしまったようだ。

  • 【岩亀横丁】<br />埋め立てられた広ろびろとした道路に、交差点の信号が点滅している。横断歩道を渡ると上り坂の横丁があり、<岩亀横丁>の表示街路灯がならんでいた。<br />「露をだに いとふ倭の女郎花 ふるあめりかに袖はぬらさじ」…幕末文久二年、横浜・港崎(みよざき)遊郭 岩亀楼の遊女喜遊が外国人の身請けを拒否し自害した際の辞世である。勤皇攘夷の烈婦として一世を風靡した。浮世絵なども盛んに摺られた。この岩亀楼の遊女たちの寮(保養所)がこの地にあったことから、岩亀横丁の名がついたようである。幕末、神奈川奉行関連の施設、役宅などがあった。横浜開港以降、野毛浦の埋め立て、横浜道工事などで賑わい、明治に入り鉄道敷設工事、横浜造船所の職員、職人の花街として繁盛したようである。<br />

    【岩亀横丁】
    埋め立てられた広ろびろとした道路に、交差点の信号が点滅している。横断歩道を渡ると上り坂の横丁があり、<岩亀横丁>の表示街路灯がならんでいた。
    「露をだに いとふ倭の女郎花 ふるあめりかに袖はぬらさじ」…幕末文久二年、横浜・港崎(みよざき)遊郭 岩亀楼の遊女喜遊が外国人の身請けを拒否し自害した際の辞世である。勤皇攘夷の烈婦として一世を風靡した。浮世絵なども盛んに摺られた。この岩亀楼の遊女たちの寮(保養所)がこの地にあったことから、岩亀横丁の名がついたようである。幕末、神奈川奉行関連の施設、役宅などがあった。横浜開港以降、野毛浦の埋め立て、横浜道工事などで賑わい、明治に入り鉄道敷設工事、横浜造船所の職員、職人の花街として繁盛したようである。

  • この横丁の右側のしもたや二階に、一年ほど間借りしていた。横浜勤務2年目だった。土地勘もすこし出てきて、会社の帰りが大変だった。関内の飲み屋で軽食とビール、伊勢佐木町か野毛に引っかかり、岩亀横丁は花街であった。老舗の<岩亀>という料理屋があり、近所の置屋から三味の音なんかも聞こえてきたりもした。探してみたが全く間借りのしもたやは分からなかった。<岩亀>本店はいまも現存する。<br />カキコミのためウェブ検索していたら、<異国情緒あふれる港町 横浜(174) 「岩亀横丁」 - はげまるのぶら〜り日記>を発見した。岩亀横丁探索の素晴らしいレポートである。<br />

    この横丁の右側のしもたや二階に、一年ほど間借りしていた。横浜勤務2年目だった。土地勘もすこし出てきて、会社の帰りが大変だった。関内の飲み屋で軽食とビール、伊勢佐木町か野毛に引っかかり、岩亀横丁は花街であった。老舗の<岩亀>という料理屋があり、近所の置屋から三味の音なんかも聞こえてきたりもした。探してみたが全く間借りのしもたやは分からなかった。<岩亀>本店はいまも現存する。
    カキコミのためウェブ検索していたら、<異国情緒あふれる港町 横浜(174) 「岩亀横丁」 - はげまるのぶら〜り日記>を発見した。岩亀横丁探索の素晴らしいレポートである。

  • 岩亀横丁の半ばを過ぎると、左に掃部山公園入り口がある。けっこうな上り坂である。新緑は美しいが、年寄りは息が切れる。<br />なにやら祠のような岩窟もあった。

    岩亀横丁の半ばを過ぎると、左に掃部山公園入り口がある。けっこうな上り坂である。新緑は美しいが、年寄りは息が切れる。
    なにやら祠のような岩窟もあった。

  • 山を登りきったと思ったら、さらに高い頂上への階段があり、そこにも掃部山公園のプレートがあった。井伊掃部頭(いいかもんのかみ)の銅像はこの上にあった。

    山を登りきったと思ったら、さらに高い頂上への階段があり、そこにも掃部山公園のプレートがあった。井伊掃部頭(いいかもんのかみ)の銅像はこの上にあった。

  • 【井伊掃部頭の銅像】<br />横浜市の銅像広場整備工事中であった。金網ごしにカメラをかまえていたら、工事監督のような人がきて金網のゲートを開けてくれた。「観光の人が来たら、撮影させてくださいと市から言われています。」<br /><ウヌ…横浜市やるなー!> 今朝のソッケないバス運転手とのスタートショックの陰りが晴れてゆく。<br /><br />※井伊掃部頭 直弼(なおすけ)は、幕末の大名。近江彦根藩の第15代藩主。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。(ウィキペディア フリー百科)<br />

    【井伊掃部頭の銅像】
    横浜市の銅像広場整備工事中であった。金網ごしにカメラをかまえていたら、工事監督のような人がきて金網のゲートを開けてくれた。「観光の人が来たら、撮影させてくださいと市から言われています。」
    <ウヌ…横浜市やるなー!> 今朝のソッケないバス運転手とのスタートショックの陰りが晴れてゆく。

    ※井伊掃部頭 直弼(なおすけ)は、幕末の大名。近江彦根藩の第15代藩主。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。(ウィキペディア フリー百科)

  • 【横浜能楽堂】<br />井伊掃部頭の銅像の後側を下りると横浜能楽堂があった。能楽に相応しい美しい日本建築の建物であった。私のいた頃は影も形もなかった。<br /><br />※掃部山公園の一角にあり、1996年(平成8年)3月に竣工。 能舞台は、1875年(明治8年)に東京・根岸の前田斉泰邸に建てられ、東京・染井の松平頼寿邸に移築された「旧染井能舞台」で、関東地方では最古の能舞台である。 (公財)横浜市芸術文化振興財団が運営する。(ウィキペディア フリー百科)<br /> <br />

    【横浜能楽堂】
    井伊掃部頭の銅像の後側を下りると横浜能楽堂があった。能楽に相応しい美しい日本建築の建物であった。私のいた頃は影も形もなかった。

    ※掃部山公園の一角にあり、1996年(平成8年)3月に竣工。 能舞台は、1875年(明治8年)に東京・根岸の前田斉泰邸に建てられ、東京・染井の松平頼寿邸に移築された「旧染井能舞台」で、関東地方では最古の能舞台である。 (公財)横浜市芸術文化振興財団が運営する。(ウィキペディア フリー百科)
     

  • 【神奈川県立音楽堂(Wikipedia)】<br />横浜能楽堂の斜向いに県立音楽堂がある。(1954年・昭和29年開館) 岩亀横丁にいた頃、休日の午前、掃部山を散歩していると大きな会館の前に出た。県立音楽堂であった 和服を着た婦人や若い娘が会館に入って行くので、なんとなく後についていった。入り口の催事掲示版に<○○流舞踊発表会>とあり、入場無料とあったので、ご婦人たちに続いて館内に入った。受付があって「どなたのご招待でしょうか」と聞かれた。名刺を出した。 「あっ ご苦労様です。」 パンフレットとお弁当が差し出された。マスコミ関蓮の名刺は時々こうした誤解を生む、ありがたく頂戴した。しかし舞踊はよかった。非日常的な美しさに感動した。お弁当を食べ、終演まで「塩汲、三番叟、藤娘、安珍・清姫」など、花柳流だったと思うが舞台に魅せられた。後にも先にも人生ただ一回の経験となった。                     <br />

    【神奈川県立音楽堂(Wikipedia)】
    横浜能楽堂の斜向いに県立音楽堂がある。(1954年・昭和29年開館) 岩亀横丁にいた頃、休日の午前、掃部山を散歩していると大きな会館の前に出た。県立音楽堂であった 和服を着た婦人や若い娘が会館に入って行くので、なんとなく後についていった。入り口の催事掲示版に<○○流舞踊発表会>とあり、入場無料とあったので、ご婦人たちに続いて館内に入った。受付があって「どなたのご招待でしょうか」と聞かれた。名刺を出した。 「あっ ご苦労様です。」 パンフレットとお弁当が差し出された。マスコミ関蓮の名刺は時々こうした誤解を生む、ありがたく頂戴した。しかし舞踊はよかった。非日常的な美しさに感動した。お弁当を食べ、終演まで「塩汲、三番叟、藤娘、安珍・清姫」など、花柳流だったと思うが舞台に魅せられた。後にも先にも人生ただ一回の経験となった。                     

  • 【紅葉橋】<br />桜木町まで歩く。手前の紅葉橋。<br />野毛地区の桜川に、ただ一つ有形保存されたかっての紅葉橋。

    【紅葉橋】
    桜木町まで歩く。手前の紅葉橋。
    野毛地区の桜川に、ただ一つ有形保存されたかっての紅葉橋。

  • 【桜木町駅】<br />大正4年まで、ここが「横浜駅」であった。

    【桜木町駅】
    大正4年まで、ここが「横浜駅」であった。

  • 【旧読売新聞横浜支局ビル】<br />写真中央、今は閉鎖されているようなビル。大岡川に寄り添った細長い建物で、狭い階段には船窓のような丸い窓があり、船のようであった。

    【旧読売新聞横浜支局ビル】
    写真中央、今は閉鎖されているようなビル。大岡川に寄り添った細長い建物で、狭い階段には船窓のような丸い窓があり、船のようであった。

  • 【大岡川の大江橋】<br />関内入り口になる。橋を渡る。右側に<アルプス?>喫茶店があったはずだが…ない。店頭のガラスケースにシベリアが美しく飾られていた。なぜかこのシベリアは口に入れずじまいであった。<br />市電が走っていた頃の馬車道であった。

    【大岡川の大江橋】
    関内入り口になる。橋を渡る。右側に<アルプス?>喫茶店があったはずだが…ない。店頭のガラスケースにシベリアが美しく飾られていた。なぜかこのシベリアは口に入れずじまいであった。
    市電が走っていた頃の馬車道であった。

  • 【大岡川とJR磯子線の橋】

    【大岡川とJR磯子線の橋】

  • 【うなぎや・若菜】<br />当時、格式もお値段も高く小生ごとき若造には入り難かった。<br /><br />※ホースネック(写真はない):うなぎや「若菜」の後あたりの横丁にあった、私の横浜時代の核心の部分の酒場バー。いまはない。画廊喫茶「ホースネック」戦後、横浜の復興活動に活躍したジャーナリスト出の牧野勲氏(横浜名誉市民)が経営。昭和20年代後半から40年代にかけて、横浜の文化人が集い横浜の文化サロンとなった。横浜ペンクラブの発祥の地でもあった。店の入り口にべたべた葉書がはってあり、見ると高木東六であったり、篠原あや(横浜詩人)であったり、さすがに山本周五郎、大仏次郎、長谷川伸などはなかった。前記大作家などとも牧野氏は交友があったようで、池波正太郎の「食卓の情景・横浜にて」にも登場する。店の常連の誘いで笠間の焼き物を見に行ったことがある。リーチ、柳宋悦、浜田庄司の名と民芸品の美をこの時教授された。1972年(昭和47年)牧野氏が死去したあと閉店したようである。奥さんと息子が転居して店を開いたことを風の便りで聞いたが、名古屋に転勤した後であった。その後一度、昭和50年ごろ関内を訪ねたが分からなかった。今回の散歩カキコミの確認調査で、その後継店「三春」を発見。わが支社のビルのすぐ後ろ常盤町にあったとは…。また2007年にそれも閉店したとは…実にあとの祭り。残念無念なり。

    【うなぎや・若菜】
    当時、格式もお値段も高く小生ごとき若造には入り難かった。

    ※ホースネック(写真はない):うなぎや「若菜」の後あたりの横丁にあった、私の横浜時代の核心の部分の酒場バー。いまはない。画廊喫茶「ホースネック」戦後、横浜の復興活動に活躍したジャーナリスト出の牧野勲氏(横浜名誉市民)が経営。昭和20年代後半から40年代にかけて、横浜の文化人が集い横浜の文化サロンとなった。横浜ペンクラブの発祥の地でもあった。店の入り口にべたべた葉書がはってあり、見ると高木東六であったり、篠原あや(横浜詩人)であったり、さすがに山本周五郎、大仏次郎、長谷川伸などはなかった。前記大作家などとも牧野氏は交友があったようで、池波正太郎の「食卓の情景・横浜にて」にも登場する。店の常連の誘いで笠間の焼き物を見に行ったことがある。リーチ、柳宋悦、浜田庄司の名と民芸品の美をこの時教授された。1972年(昭和47年)牧野氏が死去したあと閉店したようである。奥さんと息子が転居して店を開いたことを風の便りで聞いたが、名古屋に転勤した後であった。その後一度、昭和50年ごろ関内を訪ねたが分からなかった。今回の散歩カキコミの確認調査で、その後継店「三春」を発見。わが支社のビルのすぐ後ろ常盤町にあったとは…。また2007年にそれも閉店したとは…実にあとの祭り。残念無念なり。

  • 【尾上町・有楽ビル】<br />このビルの2階に会社の横浜支社があった。当時周りには戦災の焼け野原も点在していた中、関内目抜きの尾上町交差点に白亜の殿堂のごときビルであった。誇らしく思ったものである。

    【尾上町・有楽ビル】
    このビルの2階に会社の横浜支社があった。当時周りには戦災の焼け野原も点在していた中、関内目抜きの尾上町交差点に白亜の殿堂のごときビルであった。誇らしく思ったものである。

  • 【中華・紅花】<br />尾上町交差点にある。驚いた!紅花はその団地式の下駄ばきビルのまま、店舗も50年前と全く変っていない。赤・黄の華々しい店装も同じ、ここだけタイムスリップしたようだ。当時のように焼きソバを注文する。「50年前、前のビルにいて、ランチをよく食べにきました。当時すてきな美人の娘がいましてね!」と初老のおかみに話しかけた。美人の話にはふれず「きのうも、同じような人がきましたよ。」 との返事。当人かもしれない。黒目、口元のキリリとしたスレンダー美人であった。なんせ50年は遠い昔なのだ。注文した焼きソバがきた。昔とおなじように洋ガラシがたっぷりついていて、うまい。

    【中華・紅花】
    尾上町交差点にある。驚いた!紅花はその団地式の下駄ばきビルのまま、店舗も50年前と全く変っていない。赤・黄の華々しい店装も同じ、ここだけタイムスリップしたようだ。当時のように焼きソバを注文する。「50年前、前のビルにいて、ランチをよく食べにきました。当時すてきな美人の娘がいましてね!」と初老のおかみに話しかけた。美人の話にはふれず「きのうも、同じような人がきましたよ。」 との返事。当人かもしれない。黒目、口元のキリリとしたスレンダー美人であった。なんせ50年は遠い昔なのだ。注文した焼きソバがきた。昔とおなじように洋ガラシがたっぷりついていて、うまい。

  • 【中華・紅花】<br />

    【中華・紅花】

  • 【天吉】<br />明治5年創業。昭和31年より関内の現在地で営業。てんぷらの老舗である。和風建築の白壁が美しい。月曜定休。連休の29日(月)でも定休日は定休。日本家屋といい定休といい老舗の格式を思う。<br />※昭和42年春、杉田に家内と所帯をもった。東京の実家からの帰り、磯子行きの終電に乗ると原弘之氏が乗車してきた。天吉の社長(先代)である。終電車の中でおかしかったが家内を紹介した。ちなみにサザン「ハラ坊」のご実家であることは著明である。原氏とは前記「ホースネック」つながりで、笠間行のとき知り合ったと思う。<br />

    【天吉】
    明治5年創業。昭和31年より関内の現在地で営業。てんぷらの老舗である。和風建築の白壁が美しい。月曜定休。連休の29日(月)でも定休日は定休。日本家屋といい定休といい老舗の格式を思う。
    ※昭和42年春、杉田に家内と所帯をもった。東京の実家からの帰り、磯子行きの終電に乗ると原弘之氏が乗車してきた。天吉の社長(先代)である。終電車の中でおかしかったが家内を紹介した。ちなみにサザン「ハラ坊」のご実家であることは著明である。原氏とは前記「ホースネック」つながりで、笠間行のとき知り合ったと思う。

  • 【尾上町のビル】<br />写真中央の黒いガラス張りのビル。たしか牛乳屋のような店で、牛乳とパンを店頭販売していたのだ。

    【尾上町のビル】
    写真中央の黒いガラス張りのビル。たしか牛乳屋のような店で、牛乳とパンを店頭販売していたのだ。

  • 【ソバやの跡地】<br />ビルの間にぽっかり空地が広がっている。支社のあるビルの裏口と直結したようなソバやがあった。利休庵だったか店名は忘れたが、当時、昼・夕の食事のお世話になった。でっぷり肥えたご夫婦と、娘がいた。当時、夏盛りのある日、亭主が海老の凍り詰をミス注文。新聞半紙大・厚さ5cm位の氷板が3枚冷蔵庫に入らなかった。夕方行くと、亭主いわく「食おう!」<br />その晩はエビ・パーティであった。ビールを飲みながら天ぷら、フライ、焼き物。ゲップが出るほど堪能した。しかし、その後エビの黒い筋の匂いが鼻に付き、2,3日気分が悪く苦しんだ。気がついたら海老が食べれなくなっていた。アレルギーを発症したようである。今でも積極的には手がでない。食い意地が張っているのだ。<br />写真右隅のブリキ張りの古い家、現役の小料理店のようであるが、かってのソバやが背中を向けてるようだ。…「エビ食おう!」50年前の情景が映画のように突然立ち現われる。それに亭主の妹が店の手伝いをしていたなー。未亡人で中学生と小学生の娘がいた。美園と美鈴。二人とも美人でかわいい娘であった。クリスマスに金と朱のボールペンをプレゼントしたら、「おじさんにしては、趣味がいい」と憎まれ口をきいていたっけ!<br /><br />

    【ソバやの跡地】
    ビルの間にぽっかり空地が広がっている。支社のあるビルの裏口と直結したようなソバやがあった。利休庵だったか店名は忘れたが、当時、昼・夕の食事のお世話になった。でっぷり肥えたご夫婦と、娘がいた。当時、夏盛りのある日、亭主が海老の凍り詰をミス注文。新聞半紙大・厚さ5cm位の氷板が3枚冷蔵庫に入らなかった。夕方行くと、亭主いわく「食おう!」
    その晩はエビ・パーティであった。ビールを飲みながら天ぷら、フライ、焼き物。ゲップが出るほど堪能した。しかし、その後エビの黒い筋の匂いが鼻に付き、2,3日気分が悪く苦しんだ。気がついたら海老が食べれなくなっていた。アレルギーを発症したようである。今でも積極的には手がでない。食い意地が張っているのだ。
    写真右隅のブリキ張りの古い家、現役の小料理店のようであるが、かってのソバやが背中を向けてるようだ。…「エビ食おう!」50年前の情景が映画のように突然立ち現われる。それに亭主の妹が店の手伝いをしていたなー。未亡人で中学生と小学生の娘がいた。美園と美鈴。二人とも美人でかわいい娘であった。クリスマスに金と朱のボールペンをプレゼントしたら、「おじさんにしては、趣味がいい」と憎まれ口をきいていたっけ!

  • 【常盤町・馬車道】<br />旧横浜東宝会館(横宝)前から万国橋方面、博物館通りを写。<br />連休の中、天気も良いのに馬車道は閑散としていた。みなとみらい21、赤レンガ、元町、中華街などにひとが流れているのだろう。

    【常盤町・馬車道】
    旧横浜東宝会館(横宝)前から万国橋方面、博物館通りを写。
    連休の中、天気も良いのに馬車道は閑散としていた。みなとみらい21、赤レンガ、元町、中華街などにひとが流れているのだろう。

  • 【ハマのメリーさん】<br />今は映画化もされて有名である。昭和40年前後、この馬車道の横宝前でよく会った。真っ白なドーラン化粧とピンクのロングドレス、そしてピンクのパラソル。たしか最初にあってビックリしたのは、海岸通りのシルクホテル(生糸会館?今はない。)前の横浜海岸教会のところであった。キリスト教会のアンテックな鉄柵とよく合っていて、遠目には洋画の一シーンを見ているようであった。近づいて見て、その尋常ならざる雰囲気に気圧された。当時まだ45歳位で、小柄ながら背筋を伸ばし、ハイヒールで歩く姿はキレイであった。ゆっくりとふりむくように見つめられると、まだ24,5歳の若手はドキドキしたものであった。

    【ハマのメリーさん】
    今は映画化もされて有名である。昭和40年前後、この馬車道の横宝前でよく会った。真っ白なドーラン化粧とピンクのロングドレス、そしてピンクのパラソル。たしか最初にあってビックリしたのは、海岸通りのシルクホテル(生糸会館?今はない。)前の横浜海岸教会のところであった。キリスト教会のアンテックな鉄柵とよく合っていて、遠目には洋画の一シーンを見ているようであった。近づいて見て、その尋常ならざる雰囲気に気圧された。当時まだ45歳位で、小柄ながら背筋を伸ばし、ハイヒールで歩く姿はキレイであった。ゆっくりとふりむくように見つめられると、まだ24,5歳の若手はドキドキしたものであった。

  • 【居酒屋・潮】<br />馬車道を旧横宝てまえを左に入る横丁。現役の小料理屋が4,5軒並んでいる。写真の半どんは50年前と同じ店構えだ。<br />「潮」は半どんの隣にあった。ママはもと関内の芸者だというが、本人は否定も肯定もしない、自分のことは殆んど言わなかった…50前後の柄の大きな静かな女性であった。月〜金のうち4日は呑みに行ったと思う。小さな店でカウンターに5人、テーブルに4、5人。10人も入ったらギュウぎゅう詰めになった。それでも居心地がよかった。酒も料理も旨かった。なにより支払いが盆暮の節季払いだったことが有難かった。仕事でなにか発生すると、必ずここが議論の場になった。みんな若かった。泣いたり笑ったり、真剣に人生を模索し、苦しんだりしたが、この頃は楽しかった。「若い」ということはそれだけで美しい思い出になる。昭和50年頃、「潮」は閉店した。私は名古屋に勤務していた。

    【居酒屋・潮】
    馬車道を旧横宝てまえを左に入る横丁。現役の小料理屋が4,5軒並んでいる。写真の半どんは50年前と同じ店構えだ。
    「潮」は半どんの隣にあった。ママはもと関内の芸者だというが、本人は否定も肯定もしない、自分のことは殆んど言わなかった…50前後の柄の大きな静かな女性であった。月〜金のうち4日は呑みに行ったと思う。小さな店でカウンターに5人、テーブルに4、5人。10人も入ったらギュウぎゅう詰めになった。それでも居心地がよかった。酒も料理も旨かった。なにより支払いが盆暮の節季払いだったことが有難かった。仕事でなにか発生すると、必ずここが議論の場になった。みんな若かった。泣いたり笑ったり、真剣に人生を模索し、苦しんだりしたが、この頃は楽しかった。「若い」ということはそれだけで美しい思い出になる。昭和50年頃、「潮」は閉店した。私は名古屋に勤務していた。

  • 【潮のあとの店:花亭】<br />関心はあるが、入ったことはない。

    【潮のあとの店:花亭】
    関心はあるが、入ったことはない。

  • 【常盤町・馬車道十番館】<br />潮のあった横丁を抜けると馬車道十番館がある。洒落たアンチックなフランス・レストランである。もと高島嘉右衛門(幕末・明治の大実業家、高島易断でも有名。)の旧跡という。<br />※「牛馬飲水」:牛馬が陸上交通の主体であった明治期、各地に設けられたかっての牛馬のための専用水飲み槽・休憩所の標識。これは磯子の八幡橋から移設されてきたという。

    【常盤町・馬車道十番館】
    潮のあった横丁を抜けると馬車道十番館がある。洒落たアンチックなフランス・レストランである。もと高島嘉右衛門(幕末・明治の大実業家、高島易断でも有名。)の旧跡という。
    ※「牛馬飲水」:牛馬が陸上交通の主体であった明治期、各地に設けられたかっての牛馬のための専用水飲み槽・休憩所の標識。これは磯子の八幡橋から移設されてきたという。

  • 【伊勢佐木町入り口:吉田橋から】<br />伊勢崎町と原稿に書いて、横浜蓄音器(ヨコチク)の社長からお説教されたことがあったなー!<br />いま、ヨコチクはあるのかなー。

    【伊勢佐木町入り口:吉田橋から】
    伊勢崎町と原稿に書いて、横浜蓄音器(ヨコチク)の社長からお説教されたことがあったなー!
    いま、ヨコチクはあるのかなー。

  • 【伊勢佐木町通り】<br />6,7分の入りといった通行量。ゆったりとは歩ける。

    【伊勢佐木町通り】
    6,7分の入りといった通行量。ゆったりとは歩ける。

  • 【都橋】<br />焼け残ったような石柱である。

    【都橋】
    焼け残ったような石柱である。

  • 【都橋の飲食店ビル】<br />大岡川に半分乗り出しているような、不思議な景観である。<br />「レモン」まだあるかなー。支社の上司のOK次長。レモンの女の子に惚れこんで、私が仕事を終わらせて帰ろうとすると「ちょと、待て!」とお誘いがかかる。そのころの都橋は新宿歌舞伎町裏より危険な場所だった。一人では心もとなかったのだ。<br />

    【都橋の飲食店ビル】
    大岡川に半分乗り出しているような、不思議な景観である。
    「レモン」まだあるかなー。支社の上司のOK次長。レモンの女の子に惚れこんで、私が仕事を終わらせて帰ろうとすると「ちょと、待て!」とお誘いがかかる。そのころの都橋は新宿歌舞伎町裏より危険な場所だった。一人では心もとなかったのだ。

  • 【都橋沿い飲食店ビル】<br />大岡川の反対側の陸側から景観。通りはガランとしていた。午後の日差しだけが明るく光っていた。レモンらしき店はなかった。

    【都橋沿い飲食店ビル】
    大岡川の反対側の陸側から景観。通りはガランとしていた。午後の日差しだけが明るく光っていた。レモンらしき店はなかった。

  • 【野毛小路】<br />都橋通りから、野毛を通って桜木町駅に向かう。足が少しくたびれてきた。

    【野毛小路】
    都橋通りから、野毛を通って桜木町駅に向かう。足が少しくたびれてきた。

  • 【野毛小路】<br />

    【野毛小路】

  • 【野毛仲通り】<br />野毛商店街を抜ける。振り返って桜木町側から野毛仲通り入り口を写。<br />帰途につく。3、4時間の散歩ながら疲れた。年寄りは無理をしてはイカンのだ。

    【野毛仲通り】
    野毛商店街を抜ける。振り返って桜木町側から野毛仲通り入り口を写。
    帰途につく。3、4時間の散歩ながら疲れた。年寄りは無理をしてはイカンのだ。

  • 【横浜ランドマークタワー】<br />ご存知、有名ビルである。桜木町駅前から見上げる。やはりデカイ!観光客がみなとみらい地区に流れている。<br /><br />京浜東北線に乗る。車内はすいていた。<br />そういえば「博雅のシュウマイ」伊勢佐木町で見なかった。本日買って帰るつもりの一品であったが、店を見落としたのか…。<br />そんなこと考えているうち、気持ちよく寝てしまった。<br /><br />これを前編として、後編に<山下公園、元町、中華街、本牧、根岸園、磯子など>を思い出散歩したいものですが、いつになるやら!<br />なんせ気力体力が充実し、天気がよく、家内の都合がよく、そして本人がその気にならないと出られない。年寄りはヤッカイなのだ。<br /><br />いづれにしても「思い出の横浜散歩!」お読みいただき有難うございました。<br /><br /><br />

    【横浜ランドマークタワー】
    ご存知、有名ビルである。桜木町駅前から見上げる。やはりデカイ!観光客がみなとみらい地区に流れている。

    京浜東北線に乗る。車内はすいていた。
    そういえば「博雅のシュウマイ」伊勢佐木町で見なかった。本日買って帰るつもりの一品であったが、店を見落としたのか…。
    そんなこと考えているうち、気持ちよく寝てしまった。

    これを前編として、後編に<山下公園、元町、中華街、本牧、根岸園、磯子など>を思い出散歩したいものですが、いつになるやら!
    なんせ気力体力が充実し、天気がよく、家内の都合がよく、そして本人がその気にならないと出られない。年寄りはヤッカイなのだ。

    いづれにしても「思い出の横浜散歩!」お読みいただき有難うございました。


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この旅行記へのコメント (1)

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  • ゆみナーラさん 2013/05/07 23:49:25
    ぐるっと思い出お散歩、お疲れ様でした。
    osdさん本当にご無沙汰しております、久しぶりに相変わらずの軽快なコメント、分かりやすい説明とご自身の心境を明快に書かれた明るい文章を見て、何だか安心しました(笑
    今回思い出めぐりをされたこの辺りに私自身は今まで縁は残念ながらなく、イメージ的に場所によっては”敷居の高い” 横浜人向けの界隈だなと感じていましたが、osdさんの回顧録を拝見し、そのような部分と非常に人間臭い部分が混在している場所だなと感じました^^
    果たして今の20〜30代の働き盛りの若者は、高度成長期を支えてきたosdさん達のような熱い時間を過ごせるのか、甚だ疑問ですが、そういう時間は例えその場所のカタチが代わったり姿を消した後でも、心の中にずーーーっと残るものですネ。

    ゆみなら

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