2013/04/08 - 2013/04/09
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カメちゃんさん
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昨日は舞鶴引揚記念館を見て、だいぶ熱くなってしまいました。
それなのに、昨夜は一人で寝たせいか少し寒くて、熱くなった心も冷えてしまいました(-_-)
やっぱり、一人で寝るのはイケマセンね。次回からはカミさんも同行してもらえるようお願いしてみたいと思います。
きょうは舞鶴城を見に行く予定です。
昨日ホテルに向かう途中と、ホテルの窓からも、城門などを少し見ることが出来ました。「舞鶴」なんて、とても洒落た名を持つお城だけに、どんな城かは興味あるところです。
それでは、二日目の始まりです。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 新幹線 JR特急 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
昨日撮り忘れていた西舞鶴駅の方です。
総ガラス張りの、とっても綺麗な駅ですね。
きょうは、この駅から帰る予定です。
★西舞鶴駅の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.000493975da6fc0b75017&msa=0&ll=35.441272,135.331258&spn=0.002244,0.002763&iwloc=0004d9fe50d77d67de7b3 -
私の朝食です。
そう、バイキングです。
カミさんがいないからといって、贅沢をするわけではありません(~o~)
私なりに健康に気を使って選んできたつもりですけどね。 -
舞鶴グランドホテルから北に400mほどのところにある田辺城【別名・舞鶴城(ぶがくじょう)】跡の大手門前にやってきました。
実は私は、このお城は舞鶴城だと思っていたのです。ところが本当は田辺城だったんですね。舞鶴城というのは田辺城の雅称だったというのです。
Wikipediaで「舞鶴城」と入れて検索しますと、10ヶ所ものお城が出てきました!(^^)!誤解を招かないようにするには、「丹後田辺城」と言うか、「舞鶴市の」という断りを入れるかする必要があるかもね。
最近はヨーロッパや中国のお城ばっかり見ていて、日本のお城を見るなんて、ホント久々です!!
こうやってみると、日本のお城はオシャレでカッコいいですね。
ホント、最近はそういう思いを強くしていますよ!!
★↓はライン川を見下ろす「ラインシュタイン城」です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/20055973/src.html
★↓は荊州城の東城門です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/24108002/src.html -
それでは記念写真を!!(~o~)
↑でも申しましたように、舞鶴に田辺城があるなんてここに来て初めて知りました。
田辺といえば、私は和歌山県の白浜温泉に近い田辺市の方だと思ってしまいました。
それで、Google mapで田辺市の方を見てみましたら、現在は石垣の一部と水門が残っている程度のようです。どちらの田辺城も明治になって取り壊されているようですね。今にしてみれば惜しいことですけど、権力の移動・歴史の変遷というものはこういうものなんですね。
★(紀伊)田辺城の跡が残っているところは↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.000493975da6fc0b75017&msa=0&ll=33.729868,135.373026&spn=0.002048,0.001947&iwloc=0004dad4a6d728062fd6d -
田辺城の説明がありました。
説明によれば、「織田信長の命により戦国の丹後を平定した細川藤孝(幽斎)とその子忠興が天正10年代に・・築城した」とあります。
そして、「ふるさと創生事業」と「舞鶴地名誕生120周年記念事業」の一環として田辺城城門を再建した」とあります。
こうしてみると、「舞鶴」という地名は120年の歴史しか亡く、結構新しいんですね。 -
またまた記念写真のようですけど、これは城門の作り方の大きさを見ていただくために撮っていただいたのですよ。
-
これは舞鶴公園の図です。
このあたりは、本丸があったところといわれています。
★田辺城址の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.000493975da6fc0b75017&msa=0&ll=35.445778,135.331014&spn=0.002244,0.002763&iwloc=0004d9fe093e6b899dd40 -
こちらは「彰古館」と言われる2層櫓です。
見たところ鉄筋コンクリート造りのようですが、内部は木造になっていて犬山城や彦根城のように、本物感覚がちょっぴり味わえます。
こういうものを見てみますと、名古屋城のように鉄筋コンクリートで造っても、内部には木を使って「木造感覚」を演出すればよかったのでは??と思いましたね。
内部も「鉄筋コンクリート造りで御座います」なんて風に仕上げてしまってるから、ダメなんですよね。その点、彰古館はよく考えられていますね。
これも、あの有名な(^O^)「ふるさと創生事業」で建設されたかと思いましたが、それがなんと!!戦前の昭和15年に建てられているんですね。 -
田辺城城郭復元図です。
現在の街の中では、こんな感じの大きさになるわけですね。
私たちがいるところは、真ん中の赤いところ(本丸)の部分です。
★Google map上で城の外周を簡単に描いてみましたので、ご覧下さい(赤い線の上でクリックして下さい)。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.000493975da6fc0b75017&msa=0&ll=35.445446,135.330008&spn=0.008024,0.007789 -
↑の復元図をお城の部分だけにしてみました。
上が北の方向です。
これで見ますと、元々の大手門は、現在の「大手本町」交差点付近(市立明倫小学校の北西角あたり)にあり、再建された現在の大手門は、そこからおよそ250mほど南東側にあることになり、かつてのお堀の中と言うことになります。
また、先ほどの彰古館ですが、この復元図の本丸(赤いところ)を囲む黒い枠の左角の上に建てられているような感じですね。
本丸を取り囲む黄色のところの大部分は「三の丸」です。
拡大してご覧下さいね。
史実ではないところに史実まがいのものを造るのは、詳しいことを知らない遠来の人たちを惑わせますね。先の中国旅行など海外では、お城や城壁など歴史的なものを見た時に、それを事実として受け止めるしかなかったですからね。
ここでは、地図の上に過去と現在の城門の位置の違いを分かりやすく書いて、それを城門の前に掲示してくれたらと思いますね。 -
舞鶴への観光案内です。
皆さんも是非、舞鶴を訪ねてみて下さいね。 -
田辺城についての説明です。
拡大してご覧下さいね。 -
城郭内から見た大手門です。
やっぱり、外から見た方がカッコいいですね。 -
本丸井戸の跡です。
この井戸は京極氏が藩主だった時代に埋められたというのですから、今からおよそ345年前までには埋められていたのですね。 -
↑の井戸の、詳しい説明です。
直径1.5m、深さ0.9mの桶を転用した井戸とはどんなものだったのか? 出来たらそれを再現して欲しかったですね。
詳しいことは、拡大してご覧下さいね。 -
城郭上から見た「彰古館」です。
この2層櫓の方が大手門よりカッコ良く見えます。
そのせいか、ネットを見ますと大手門より「彰古館」の写真の方が良く出てきます。 -
城郭上から見た「くつろぎ広場(旧本丸跡)」です。
ウイークデーの午前中のせいか、来る人は少ないですね。
桜が半分程度残っていてくれたのが、嬉しかったですよ。 -
この石垣は。本丸を囲んでいた石垣と言うことです。
ここはちょうど角ですから、やはり櫓が建っていたかも知れませんね。
↑の復元図では、本丸を囲む黒い枠の右上の角に当たるかもと思います。 -
史跡を利用した舞鶴公園敷地内に、このような建物があります。
カフェのようですね。
史跡を訪ねて、歴史に想いを馳せている時に見えたこの建物。
ホント、ムードのぶち壊しです。
史跡の景観を維持するということを、間近な範囲だけでも考えて欲しいですね。
せめて、1ブロックでも向こうに建っていたならと思います。
「何でもあり」の今時の雰囲気を考えますと、それを実行する(させる)ことも難しいですね。
ヨーロッパのことをいってはナンですが、アチラでは景観を守ることへの市民の関心が強いですね。ケルンでも、旧市街から離れているライン川の東岸に高層ビルを建てる計画が持ち上がった時、景観を壊すという多くの意見が出て中止になったそうです。
★↓はケルンの街です。中央の河はライン川です。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.000488bfb14d66b234c8d&msa=0&ll=50.93823,6.959109&spn=0.027774,0.044203 -
興が冷めてしまったのは置いといて、こんなに綺麗なところへやってきました。
目の前の「あやめ池」をはじめとして、とっても可愛い庭園って感じですね。
手前の桜の花と、向こうのとてもバランスよく、水面に映る様子も素敵です!! -
先ほどの石段のある城郭を外側から見た様子です。
滝廉太郎の「荒城の月」を想い起こすような風景ですね。
★↓は荒城の月です。
http://www.youtube.com/watch?v=bBP1KE2a4Mc -
ちょっと角度を変えて・・
この「お願い」という「立て札」がじゃまです(-_-;)
どこへいっても、犬のふんを持ち帰らない不届き者がいるから、こういうことになるんですね。(=_=) -
ここからは「心種園」です。
皆さん、「心種園」って、読めますか??
「ハイ!シンタネ園です!!」
あ〜〜、お気持ちは分かりますね。
「ココタネ園じゃないですか?」
そうねぇ、それもあり得ますね(~o~)。
ところがね、「しんじゅ園」って言うそうです。「しんしゅ園」って言ってる人もいますから、実のところ悩んでいるのです。
そこで、カミさんに相談してみたら、
「どっちでもいいじゃないの? お父さんの好きな方にしたら??」
でした(^o^) それで、未だに悩みが消えないってワケです(-_-;) -
その心種園ですが、こんな感じの庭園になっています。
石垣を多く築いている、あの「个園」や「拙政園」とはだいぶ違いますね。
★↓は个園の光景です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/27626498/src.html
★↓は拙政園の光景です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/28623404/src.html -
ここでも、桜が丁度よい感じで待っていてくれました(^^)
ここには盛り土の築山がありますが、石積みの目立つ中国の庭園とはちょっと違いますね。
こういうのを見ますと、夏の時期の中国の庭園を見てみたいと思います。 -
こちらも椿と桜と周囲の緑がちょうど良い感じでした。
この「心種園」という名について。
あの関ヶ原合戦の少し前のこと、石田三成軍に攻められ田辺城に籠城した細川幽斎は、後陽成天皇が勧めた開城を固辞し、勅使に古今伝授の秘伝書と和歌一首を託したというのです。
その和歌に感じ入った後の藩主・牧野親成(ちかしげ)が造園し、細川幽斎の 「いにしへも 今もかはらぬ世の中に 心の種を残す言の葉」という和歌にならって、「心種園」と名付けたという話です。
なんだ、そう言うことだったのか(^_^;)
後陽成天皇が石田三成軍と細川幽斎の戦いに割って入ってまで、幽斎の命を守ろうとしたのはなぜか??これは大いに興味のあるところですね。 -
心種園の名前の由来ともなった細川幽斎の歌碑です。
ここに、↑にご紹介した詩が刻まれていますね。
これを書いたのは、細川幽斎の子孫で細川家17代の当主だった細川護貞です。
細川護貞は、太平洋戦争から戦後にかけて、あの「細川日記」を書いた人ですね。ここは日本海軍が拠点を置いた舞鶴ですから、細川日記は舞鶴を愛する人々にとって大いに参考になるのではないでしょうか。
★細川護貞の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E8%AD%B7%E8%B2%9E -
「舞鶴百撰」という碑がありました。
何を目的に、何から選んで何を以て百撰としたのか、そこは分かりませんが、こんなに立派なものがありました。
詳しい写真は、次をご覧下さいね。 -
↑の写真の文面を大きく撮ってみました。
細川幽斎は当時において「当代随一」と言われる文化人だったのですね。
ここには、 後陽成天皇が幽斎の命を守ろうとした一応の理由が書いてありますね。
幽斎が万一討ち死にすれば、古今和歌集の秘事口伝の伝承者が廃絶してしまうことを憂慮したことだったのですね。
しかし、「古今和歌集の秘事」とは何か?という疑問、なぜ天皇が?という疑問も残ります。また「古今伝授」っていうこと自体にも疑問も残ります。 とにかく、そういうことです。
こんな時に余計な話でナンですが、私にも後世に伝えるべき秘事がありますよ。
それは、カミさんにマッサージをする時、カミさんが一番喜ぶのはどこかと言うことですよ。皆さんの奥様はどこを一番喜ばれますか??
ここだけの極秘の話ですが、当家のカミさんが一番喜ばれるところは、足の指の付け根のところなんですよ!! そこを「きゅっきゅっ」と押すようにして揉むことが、喜んでもらえる秘訣です!(^^)!
しかし、押し方のコツは「秘伝」です!(^^)! それこそは「古今伝授」で伝えていかなければなりません。
★古今伝授の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E4%BC%9D%E6%8E%88
★↓は女性の喜ぶ(^-^) 足裏のツボです。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/23711574/src.html -
中国・拙政園の「倒影楼」ではないですが、湖面への樹木の倒影が綺麗です。
築山も高くなく、石垣も低く、大きな建物もないですから、自然に近い感じで鑑賞できる庭園ですね。
池の奥の方に見える「飛び石」も、日本庭園ならではのものですね。 -
中国の庭園で言うところの、「亭」がありました。
この心種園では、この建物を何と言うのでしょうか。先ほどの案内図を見ますと「休憩所」になっています。「休憩所」は庭園用語なのか??ちょっと分かりませんね。
日本庭園では、拙政園のように各種の建物を造って庭園風景の中に取り込んでいくのと違って、亭とか堂とかあんまりつくらないですね。ですから、庭園の案内図も私がネット等で見た限りでは、建物と共に築山・桜・松・花壇・並木なども一緒に表示してありますね。建物中心の案内図は見かけなかったですね(一部にあるかも知れませんが)。
↓は瘦西湖と拙政園の案内図です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/27629609/src.html
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/28622428/src.html -
こちらは、日本美人の倒影です。
これは最高ですね!!(^-^) -
田辺城址の石垣です。
歴史を物語っているような感じがしますね。
この位置を、↑でご紹介しました田辺城の復元図で見ますと、心種園の外側(東側)になります。
そして、この石垣の外側は田辺城の内堀になっていたようで、私がカメラを以て立っているところは、内堀の中と言うことになります。 -
心種園のなかに日清・日露戦争で亡くなった兵隊さんたちの慰魂の碑がありました。
-
城門前の「休憩所」から見た、「ステージ広場」(左側)と「くつろぎ広場」です。
ここは、田辺城の本丸跡のようですね。
桜が妙に似合っています。 -
休憩所のすぐ右前に見事なしだれ桜がありました。
桜とか松とか紅葉とか、それらのある風景は心癒やされるものがあります。
昔の人々も、その心は同じだったかも知れませんね。 -
先ほどから気になっていた彰古館へ入ってみます。
-
彰古館に入ってすぐ目についたのが、この絵でした。
平安中期の武将で、丹波国大江山での酒呑童子討伐などで知られる源頼光の「酒呑童子討伐」の絵のようですね。
一番奥にいる「平井保昌」は藤原保昌とも言われ、「丹後守」だったこともあったとのことです。また、彼は武術の達人だったらしく「道長四天王」と言われたそうです。
★源頼光の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%85%89
★藤原保昌の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%9D%E6%98%8C
★和泉式部の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B3%89%E5%BC%8F%E9%83%A8 -
↑でも述べましたように、外側は鉄筋コンクリート風でも、内部は木造風になっています。これは良いですね。階段も急角度でお城の感じが出ています。
階段の手摺りの下の方が丸くツルツルに光っている様子は、現代風ですね(^o^)
★↓は彦根城の階段です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/album/10449545/ -
先ほどから何度も見てきた旧本丸跡の広場です。
天守は右奥にあったようです。 -
昭和15年(1940年)頃の舞鶴公園の平面図です。
彰古館は紀元2600年記念事業として計画され、昭和17年に完成したとのことです。
あの時代に(あの時代だからこそ??)、彰古館の内部を木造風にしたのは立派ですね。 -
城門建設後(平成4年・1991年)の平面図です。
↑の図と較べるとだいぶ拡張されています。
この城跡の整備は、あの有名な「ふるさと創生事業」と、「舞鶴地名誕生120周年記念事業」として取り組まれたようです。
心種園もだいぶ変わっているようですが、明治以前の様子を忠実に再現したのかどうか、気になるところです。 -
彰古館から見た光景です。写真中央(立派な桜が咲いているところ)が城壁の上面です。
右下に井戸が少し見えます。 -
田辺城復元模型です。
現在の彰古館と彰古館東に続く城壁は、この模型の範囲外になっています。
彰古館側も是非つくって欲しいものですね。 -
このように大手門から左側(北側)が未完成です。
私たちのいる彰古館は、手前左端から奥(東)の方へ向かうところにあります。 -
昭和10年頃の彰古館建設前の写真とのことです。
この写真は、昭和15年の平面図にある「彰古館」と書いてあるところを、西北西方向から撮ったものと思われます。
石垣は右の方向に伸びておらず、城郭がかなり破壊されていたことが分かりますね。
現在の復元された城門と彰古館の間の石垣は、ふるさと創生資金で新たな場所に造られたものだったんですね。 -
彰古館を出て、城門の方へ向かいます。二層櫓の外側を回って行くことになります。
石の階段のところに、ステンレスの手摺りがあるというのは、ちょっといただけないですね。優しさが行き届くのは日本人のよいところですが、折角史跡復元しているのですから、木などで造って欲しいですね。
そもそも、昔は石段に手摺りがあったかどうかと思いますね。 -
間近に見た彰古館の外観です。
こうやってみると、日本の城はやっぱりカッコいいなぁと思います。 -
城門は2階部分が展示館になっていました。
そこで、最初に目に飛び込んできたのはこの人。ここにも細川幽斎が古今伝授の伝承者であることが記されています。
いったい「古今伝授」って何か? 私にとっては大変難しい問題です。
それでも調べてみますと、どうやら鎌倉時代の公家たちの古今和歌集を中心にした歌学が高じて、古今和歌集の解説などで独自の秘伝を形成し(二条派)、それを後の世代に継承させようとして始まったようです(ほかの歌学形成もあったようです)。
そんなもの、いちいち来古今伝授なんて言わないで、きちんと書いて書庫の奥の方に保管して置いたらどうなの?って思いますよね。 でも、それだと後々の人が色々な解釈を加えて、古今和歌集などへの理解が変形していくからダメだというわけです。
細川幽斎が古今伝授に関わる頃を見てみますと、三条西実隆から三条西実枝へ伝授され、三条西実枝は息子の公国に相伝すべきところ公国がまだ幼いために、武人でありながら弟子の一人だった細川幽斎に、公国成長後の伝授を約して伝授したのでした。
幽斎は公国成長後に伝授したのですが、公国が32歳余で他界したため、古今伝授の秘伝は幽斎によって後陽成天皇の弟の八条宮智仁親王へ伝授されたというのです。八条宮智仁親王は甥の後水尾天皇に古今伝授したというのです。
そういうわけで、細川幽斎が石田三成軍に包囲された時、後陽成天皇が幽斎の討ち死によって古今伝授の絶えることを心配したのですね。天皇家が武家の争いごとで和議の仲裁に関わるなんてことは通常ではあり得ないことで、この件だけが歴史に残っているということです。
★細川幽斎に古今伝授をした三条西実枝の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E8%A5%BF%E5%AE%9F%E6%9E%9D -
それにしても、武士でありながら公家の古今伝授に関わったということは、細川幽斎の類い希な才能と人格があったからなんですね。
話がここまできても、古今和歌集の解説などの独自の秘伝を後世に伝えることが、公家たちにとってどのような利益があるのかという疑問は残ります。
古今和歌集の変わらぬ理解を維持することによって、公家たちの品位を保ち続けることが、公家階級の利益になるのかも知れませんね。
また、古今和歌集のなかに、何らかの秘密があると見ることも出来ないわけではありませんね。
古今伝授の話はこれまでとして、↑の肖像画にしてもこの像にしても、細川幽斎は剃髪しています。 細川藤孝(のちの幽斎)は、本能寺の変のあと上司でもあり親戚縁者でもある明智光秀の度重なる要請を断って、剃髪してしまったのですね。
★細川幽斎(細川藤孝)の詳しいことは↓にて。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%B9%BD%E6%96%8E -
細川幽斎の話が続きます。
細川幽斎の祖先は平安時代末期の保元の乱で活躍した足利義康で、彼の曾孫・義季が足利家から細川の土地を与えられ、その地の名を名字として「細川家」を名乗り、細川郷の「権水城」に入ったというのです。
「額田郡」も「細川」も現存しますから、ビックリでした。そこは、現在の岡崎市細川町だったのですよ!!そこは、私たちが時々近くを通るところなのです。
遠い舞鶴と、私たちの近くの細川町とが思いがけないご縁のあることを知って、豊田市からの私たち4人は一様にビックリしてしまいました。
そして、細川家初代の義季と、その弟義宗、2代俊氏、3代公頼の墓が豊田市内の隣松寺(東名、豊田JCの近く)にあるというのです。
また、「権水城」の近くに5代目の細川頼之が建立した寺院の「蓮性院」にも、細川義季の墓があるというのです。この墓には、第18代当主の細川護煕元首相が平成7年に墓参に来たというのです。
あれっ??
ということは、私も当主なんだ!(^^)!
「おとうさん、おとうさんはね『代表取り締まられ役亭主』でしょ!!」
やっぱり、余計なことは言わないのが一番ですね(=_=)
舞鶴と三河の意外なご縁の話でした。
★権水(地名)と蓮性院(寺)の場所は↓にて。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=35.030444,137.169414&spn=0.002256,0.002645&iwloc=0004da0e874e6f1a774ff
★隣松寺の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=35.016736,137.145223&spn=0.002256,0.002669&iwloc=0004da0efd595d631df41 -
田辺藩の歴代藩主です。
田辺城を築いた細川氏は、僅か2代で転勤(^_^;)して、豊前国で大大名になったのです。
彼らも転勤(転封)族だったわけで、京極氏も豊岡に転勤ということでしたね。
単身赴任ではなかったことは幸いですね(^^)。やっぱり、誰でも・いつの時代でもカミさんと一緒でないと淋しいですからね。
細川幽斎の和歌に心を動かされ、あの「心種園」を作ったのは、1668年(寛文8年)から京極氏のあとに城主になった牧野親重でした。
田辺城はいろいろありながら、1874年(明治7年)取り壊しが開始され294年間の歴史を閉じたのですね。
その6年後には、東京であの「鹿鳴館」が完成することになります。
時代の荒波とは、こういうことですね。
★↓は京極氏から田辺城を引き継ぎ、「心種園」を築いた牧野親成です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E8%A6%AA%E6%88%90 -
田辺城を引き継いだ京極氏です。
京極氏も私たちに比較的近い長野県飯田あたりから転勤しているんですね。
★京極高知の詳しいことは↓にて。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E9%AB%98%E7%9F%A5 -
享保12年に描かれた田辺城下の様子です。
この地図では左が北で、下が西の方向になると思います。
中央の広いところがお城で、その下の黒で塗られたところはいわゆる町人の街、そして赤っぽく塗られたところが武士の居住区だと思います。
武士の居住区がお城に一番近いところにまとまっていないのは、面白いですね。 -
地形と街の模型です。手前が北の方角になります。
真ん中の赤札の立っているところが、現在の大手門(現在地)です。
ここでの人口ですが、幕末の頃には1万人弱程度と言われています。しかし、詳しい分類はないので、それさえも曖昧なものかと思います。 -
城下町の様子です。
海沿いには船が出入りし、蔵が並んでいます。 -
この人は田辺藩の最後の藩主となった牧野弼成です。
この牧野家も、元は現在の豊川市内・牛久保駅付近の「牛久保六騎牧野家」から頭角を現してきた一族で、豊橋の吉田城主などになった牧野家とは別の流れのようです。
またまた、舞鶴と三河とのご縁を見てビックリでした。
なんか、姉妹都市になっても不思議ではないですね。
★最後の城主となった牧野弼成の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E5%BC%BC%E6%88%90
★三河牧野氏の詳しいことは↓にて。下の方にある(牛久保六騎牧野家)をご覧下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E7%89%A7%E9%87%8E%E6%B0%8F
★牧野氏発祥の地は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=34.806567,137.384613&spn=0.004524,0.007462&iwloc=0004dba579ea7451c4a50 -
これは牧野家ゆかりの甲冑だそうです。
この甲冑は戦も終わっていなかった江戸時代初期のもので、兜と胴には鉄砲の試し撃ちの痕跡もあるように、実践向きに造られているようです。こんなのを着て戦場に出ていたんですね。
戦国武士のただならぬ気概を感じます。 -
鉄砲と刀の展示です。
長い銃もありますし、やや短いのもありました。
鉄砲は戦の形を変えてきましたね。
こんなものを人に向けて、弾丸を発射する(>_<)
御免被りたいものです!! -
2000年(平成12年)のNHK大河ドラマに出演された佐々木功氏も、田辺城址を訪ねられたのですね。
彼は細川忠興役でしたから、丹波地域を勉強しに来たのかも知れませんね(^^) -
この建物は、田辺城址のすぐ近くにある「舞鶴市立明倫小学校」です。
コンクリートの学校校舎に惹かれたのではなく、外周の塀に注目しているのです。
日本的な装いを凝らした塀の作りに、感動したのです。
この学校の所在地は「舞鶴市字北田辺」となっていますが、Google map上では「三の丸」と書かれたところにあります。しかし、上でみた「田辺城城郭復元図」では、「明倫小学校」は「二の丸」から「明倫館」にかけての場所にあることになります。
この明倫館のことですが、牧野氏が藩主だったころの天明年間(1781年〜)に藩校「明倫斎」として創立されたようです。そして、文久年間(1861年〜)に明倫館となったとのことです。
文久年間といえば幕末の頃で、日本中が大騒ぎの頃の話ですね。すると、あの「田辺城城郭復元図」は幕末の頃のものかも知れませんね。 -
田辺城見物を終えて、ホテルのチェックアウトも済ませて、西舞鶴駅にやってきました。
立派な駅舎ですね。
お話によりますと、舞鶴では年々人口が微減しているとか。様々な観光要素があるわけですし、海も近く産業もそれなりにありますので、世界に打って出る意気込みで積極的なアピールをして、発展していって欲しいと思いますよ!!
細川幽斎などは、そのお手伝いをしてくれるかも知れませんね。いやいや京極氏や三河と繋がりのある牧野氏もお手伝いしてくれると思います。
田辺城における細川幽斎の存在は本当に大きいと思います。一人の武将として、また城主として頑張ったと言うだけはなかったですね。
古今伝授に代表されるように、広く深い知識を持って日本文学の伝統と神髄に関わり、多くの人々の心に影響を与えて来たことに、彼の奥深い知識と人間性を感じないわけはいきませんでした。
幽斎こそは「舞鶴」と雅称したくなる人材だったように思います。
実は、細川ガラシャのことも触れたかったのですが、少し出すぎる感じがしましたのでやめました。またの機会を待ちたいと思います。 -
私たちは「まいづる6号」で帰ります。
先頭形状の丸っこいところが可愛い特急列車です。
自由席なので座れるかな?と、ちょっと心配でしたが4人でちゃんと座れてホッとしました(^^)
これで舞鶴とお別れとなると、ちょっと淋しいですね。 -
これは、京都・二条駅です。
屋根の内側が木造風の色彩と形で作ってあるところが、日本的な雰囲気を醸し出してとてもいいですね!!
外観もさぞかし日本的?と思ってGoogle map上の写真で見てみましたけど、こちらは期待はずれでした(-_-;) ここは京都なんですから、もうちょっと日本の伝統を取り入れた形にして欲しいと思いましたね。 -
京都駅に到着です。
「まいづる6号」は、これを訴えながら走っていたのですね!!
ホントにご苦労様です!!
世界遺産に登録されて、世界の人々に来てもらえるようになるといいですね!!
次回は天橋立に行きますかね(^^) -
京都からは「ひかり号」でした。
新幹線に乗ったら、やっぱりお弁当を頂きたいですね。
新幹線「ひかり号」の正しい乗り方。
1.お弁当を事前に用意する
2.焦らずに落ち着いて乗る
3.発車したら、おもむろにお弁当を開く
4.お茶かお水を用意する
5.お弁当をよく味わっていただく
6.お弁当の空箱はちゃんと片付ける
楽しい旅行の秘訣はこれですね(~o~)(^O^) -
名古屋まで帰ってきました。
相変わらずの混雑ですね。
私たちは、舞鶴のDさんのお元気なお顔さえ拝見できればよいと、気楽に考えてきてしまったのです。
それが、2日間にわたって舞鶴の各地をご案内していただくことになってしまいました。
見学コースの選択から、ホテルの予約・定例会会場のご相談までお世話になっただけでなく、ホテルにも一緒に泊まっていただき、「定例会」に参加までしていただきました。
Dさんには、幾重にも感謝申しあげたいと思います!!
初めての舞鶴でしたが、引揚記念館と田辺城、そして「海軍」。
そのどれもが強烈な印象となって、新たな関心を抱いてしまったような気がするのです。いや、「抱いてしまった」と言うより、「抱かされた」と言った方がよいのでしょうか?
いつもそう思うのですが、一度来ただけでは分かりません。
もう一度来て、その時こそは隅からすみまで見て、舞鶴の歴史とドラマをより詳しく訪ねたいと思いました。
<おわり>
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