2012/10/17 - 2012/10/17
511位(同エリア874件中)
滝山氏照さん
JR川崎駅から市役所通りを7~8分歩きますと交差点北側に稲毛神社(いなげじんじゃ、神奈川県川崎市川崎区宮本町)が在ります。
創建年代は不詳ですが御神木の大銀杏が樹齢一千年との推定から古社であることが明らかです。
奈良時代頃は東国での争いが日常化となっており、この動乱を鎮めるため歴代天皇は当社に戦勝と和平を祈り、その後も長く勅願所であったようです。
鎌倉時代では幕府より社領700石を得て、頼朝の命により佐々木四郎高綱(ささき・しろう・たかつな、1160~1214)が社殿の造営を担います。
室町時代では当時の神主が新田氏との関係があったため、社領が20石に減ぜられるありさまでした。
江戸時代では幕府から20石を得るなか、社家九家を擁するほどの位置を占め、川崎宿とその周辺の鎮守として住民の崇敬を集めます。
社寺の名称については、多摩川の南部流域は歴史的に「稲毛荘」と呼ばれていたため「川崎大神稲毛神社」を経て明治中期には「稲毛神社」となり現在に至っています。
2022年8月11日追記
当該神社ホームページには下記の通り紹介されています。
『 ご 由 緒
当神社のご創建の年代は詳らかではありませんが、御神木大銀杏の樹齢が一千年と推定されるところから、当地の古社であることがわかります。
社伝によれば、当神社は東国に争乱の絶えなかった頃、武神・武??神をまつり、天皇軍の戦勝を祈る社として建てられたと伝えられています。第十二代景行天皇が東国御巡遊のおり当社に賊難を避けられたといい、第二十九代欽明天皇の御代、この地方に動乱が絶えなかったため、天皇は当神社に幣?・七串を奉り、新たに経津主神、菊理媛神、伊弊諾神、伊弊再神を配祀せしめられ、戦勝とその後の親和協力を祈られ、以後長く勅願所であったと伝えられます。
鎌倉時代以降
鎌倉時代には将軍家より社領七百石を賜り、佐々木四郎高綱公が源頼朝公の命を受けて御社殿の造営に当たりました。
足利時代には、当時の神主が新田家と関係が深かったため社領を二十石に削られてしまいました。しかしこの時代の信仰の深さを物語る資料として、応永11年(1404)の大般若経六百巻施入の記録があります。また新潟県の国上寺に現存する長禄2年(1458)銘の鰐口は河崎山王社すなわち当社に奉献されたものです
秀吉公および江戸幕府からは二十石を賜りました。とくに家康公江戸入府に際し天海僧正ご巡見の参拝あり、随身門、神馬等の寄進を受けたと伝えられます。江戸時代中期以降は平和な時代風潮の中で殷賑を極め、社家九家社人十三人を擁し、川崎宿および河崎七ヶ村の鎮守として広く近隣一円の崇敬を集め、例大祭「川崎山王まつり」は6月15日に行われ、その盛況なさまから「東の祇園」と称されて街道名物の一つとなっていました。』
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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