2013/03/09 - 2013/03/11
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倫清堂さん
ひときわ雪の多かった冬も過ぎ、ようやく春の足音が聞こえて来る頃となりました。
待ち遠しかった春の訪れとともに、歓迎せざる客も日本列島を覆い始めました。
大陸から海を越えてやってくる、黄砂と有害物質PM2.5です。
旅の前日、まさに黄砂予報が初めて発表され、せっかくの旅も風景が汚されて喜び半分となることが予想されました。
当日の朝は風が強く、飛行機が飛ばない程ではないにしろ、やはり黄砂の影響は相当にあるのだろうと残念がっておりました。
しかしそれ以上に重大なトラブルが、自分の不用意によって発生してしまったのです。
空港へ向かう途中の高速道路で、自家用車が故障してしまったのです。
間もなく廃車にするつもりでいたのですが、空港までの高速移動には耐えられなかったようでした。
いくらアクセルを踏んでも40キロ以上は出なくなってしまい、走行すると車体が激しく上下に揺れることから、パンクしたのだとばかり思っていました。
必死の思いで高速道路を出て、近くのコンビニへ入ると、運の良いことにその隣で空港への送迎サービスが営業を開始していたのです。
事情を話して故障した車を預け、空港まで送ってもらうと、飛行機の離陸に滑り込みで間に合ったのでした。
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伊丹空港から電車と車で広島県内に入り、まず向かったのは多家神社。
安芸郡府中町に鎮座しています。
『古事記』には神武天皇の御東征の際、安芸国の多祁理宮に7年間滞在されたと記録が残っており、社殿によるとその跡地に創祀されたのがここ多家神社とのことです。
また『日本書紀』には同様に安芸国の埃宮に皇居を置かれたと記されており、今も神社は別名として埃宮を称しています。
中世以降は武士の争いによって衰退し、江戸時代になると所在地が不明になって南氏子と北氏子がそれぞれ正統を主張して対立してしまいました。
そこで明治6年、現在の鎮座地である「たれその森」に広島城三の丸の稲荷神社社殿を移築し、多家神社を復興したのでした。
たれその森は神武天皇が瀬戸内海から上陸された際、土地の者に「汝は誰ぞ」とお尋ねになったことから名付けられた森と伝えられます。多家神社の宝蔵 名所・史跡
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主祭神は神武天皇と安芸津彦命。
神武天皇は言わずと知れた初代天皇ですが、安芸津彦命はあまり聞かない神様です。
『先代旧事本紀』「国造本紀」によると、第13第政務天皇の御代に飽速玉命が安芸国造に任命されとありまsすが、その祖先で天孫降臨にも同行した天湯津彦命こそが安芸津彦命と同一人物と考えられます。 -
明治時代に移築された広島城三の丸稲荷神社の社殿のほとんどは、大正4年9月に起きた火災によって焼失してしまいましたが、唯一宝蔵のみが当時のまま残されています。
正倉院と同じ校倉造ですが、その木材(あぜこ)の一本一本が四角形に加工されており、非常に珍しい建物となっています。 -
次に向かったのは呉市海事歴史科学館、通称大和ミュージアムです。
呉は明治22年に呉鎮守府、明治36年に呉海軍工廠が置かれ、東洋位置の軍港として栄えた町です。
世界最大最強を誇った戦艦大和を建造し、戦後はそれによって培った技術を用いて数多くの船舶を造り、日本の戦後復興と経済成長を支えて来ました。
その戦艦大和の建造から海上特攻までの活躍や、造船技術などを一般に知ってもらうために作られたのが、この大和ミュージアムです。
入口ではなぜかローマ神話に登場する海神ネプチューンの全裸像が。
ここは日本神話の海神を置いてほしいところですが、文句を言わずに中へと進むことにします。呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館
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1階の吹き抜けの展示室に置かれているのは、この施設のシンボルで最大の見どころ、戦艦大和の10分の1模型です。
縮小模型とは云え、全長26.3メートルもあります。
設計図や在りし日の写真などをもとに、出来る限り忠実に再現しています。
戦艦大和は昭和12年、ロンドン海軍軍縮条約の期限切れを契機とし、更なる防衛力教科のために着工されました。
しかし時代は無常にも、大艦巨砲主義の終わりを迎えようとしていました。
昭和16年に就役したものの、海上での戦闘はすでに航空機が主役となっており、ミッドウェー海戦・ソロモン海戦では実際の戦闘で活躍することはありませんでした。
マリアナ沖海戦とレイテ沖海戦においては対空防衛のために砲撃を行いましたが、大和と同時に建造された戦艦武蔵は撃沈され、大和も魚雷や爆撃を受けて相当なダメージを負ってしまいました。 -
ミュージアムでは戦艦大和の最期と、海底に眠っている現在の大和の調査経過までを紹介しています。
昭和20年3月、いよいよアメリカ軍が沖縄に上陸し、大東亜戦争は敗戦の色を濃くしていまいた。
大和が最後に命を下された沖縄へ出撃は、まさに海上特攻の名に相応しい片道切符の作戦でした。
既に沖縄周辺の制海権は米軍に握られ、連合艦隊に残された艦艇は大和を含めてもごくわずかの数しかなく、空からの援護も数に差が開き過ぎていました。
しかしそこまでして大和を出撃させたのは、何もせずに滅ぶことよりも一点の光明を見出すことに望みをつなごうとしたのでしょうし、それ以上に帝国海軍が誇る史上最大の戦艦に生き恥をさらさせることを恐れ、自決させようという日本人の美学があったのかも知れません。
4月7日、米軍の猛攻によって戦艦大和は海底へと姿を消したのでした。
この時、大和の艦長有賀幸作中将をはじめ帝国海軍の兵士およそ2500名が、大和と運命をともにしたのでした。
その沈没地点は北緯30度43分、東経128度04分の場所です。
戦後50年以上が経過し、平成11年に行われた調査によって、水深350メートルの海底に大和の姿が確認されたのでした。
ミュージアムでは、その時の調査の記録映像や引き上げられた遺品などの展示も行われています。 -
大和ミュージアムのテラスからは、道路を挟んで反対側にある海上自衛隊呉史料館の展示物、潜水艦「あきしお」の姿を見ることができます。
大和ミュージアムの展示はとても充実していて、思ったよりも時間をかけて見学することとなったため、見学を終えて施設を出た時にはすでに史料館は閉館時間となっていました。海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館) 美術館・博物館
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宿泊施設のある広島市内に戻り、この日の最期の目的地である才蔵寺を目指します。
新しいマンションが立ち並ぶ小高い丘に、才蔵寺はひっそりと建っていました。
しかしこちらも閉門時間となっており、門の外から中をうかがうことしか出来ません。
遠くから、可児才蔵の銅像が確認出来ました。
可児才蔵は宝蔵院流槍術を胤栄に学び、故郷美濃の主である斎藤龍興や信長公家臣の柴田勝家・明智光秀などに、信長公が滅びた後は羽柴秀次・佐々成政など、次々と主君を変えて戦国の世を渡り歩きました。
才蔵が最期に仕えたのが福島正則で、正則が関ヶ原の功績を認められて初代広島藩主に就くと、それに従って広島へ移り住むこととなったのでした。
才蔵は戦において次々と敵の首を取るため、それを抱えきれず、笹の葉を首の口に咥えさせて目印としたことから、笹の才蔵とあだ名されています。
元和5年、主君の福島正則に改易処分が下されると、才蔵は城を受け取りに来た浅井軍に囲まれることとなりました。
立て籠った小さな山城は完全に包囲され、兵糧攻めにされると、才蔵は付近の住民に対し、味噌と米を笹に乗せて城山のお地蔵さんにお供えすれば、どんな願いも叶うだろうとの噂を流しました。
それを耳にした住民たちがその通りにしたため、才蔵の軍は食べ物に困ることもなく、安心して逃れることが出来たと伝えられているそうです。才蔵寺 寺・神社・教会
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夕食はまず玉一の広島つけ麺。
冷やし中華のたれを辛口にし、麺にはかけずに別にしたような内容です。
他の店よりも味は辛口とのことなので、半辛で注文しました。
自分にとってはこれでちょうどよい辛さでしたが、もっと刺激が欲しい人は辛みを足すことも可能なのだそうです。 -
次にひなたのお好み焼き。
広島では食べたいものが多いため、昼食は少なめにしておきましたが、やはりお好み焼きまで食べると満腹になってしまいました。
他ではお目にかかれない、うどんのお好み焼きを注文。
食べるまでは合わないのではないかと心配でしたが、実際はうどんの水分がしっかり抜かれていて、食感も味も申し分のないものでした。ひなた グルメ・レストラン
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2日目の行動は宮島から開始しました。
日本三景の一つ宮島へは、宮島口からフェリーに乗って渡ることになります。
フェリー乗り場の前では舞楽「蘭陵王」の像が、参拝客を迎えるようにポーズを決めています。 -
宮島へ渡るフェリーは2つの会社が運航していますが、今回はJR西日本宮島フェリーの方へ並びました。
大鳥居の間近まで寄ってくれるという、有り難いサービスが提供されるからです。
大鳥居経由は9時発の便から。
少し早く着いたので1便をやり過ごし、9時の便へ乗るための最前に並ぶことが出来ました。
それにしても1時間に4本も往復するフェリーを2社が運航しているというのに、人の姿が途絶えるということがありません。
それだけ宮島は人気のある観光地ということなのでしょう。宮島フェリー 乗り物
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フェリーが宮島へ向けて桟橋を出発すると、ほどなくして厳島神社の大鳥居が間近に迫ってきました。
厳島神社は正式には嚴島神社と書きますが、更に時代をさかのぼると「伊都岐島神社」と表記されていたということで、大鳥居の扁額は本土側が「嚴嶋神社」と書かれているのに対し、宮島側は「伊都岐島神社」と書かれています。
厳島神社は安芸国一之宮。
御祭神は市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命の宗像三女神で、「いちきしま=いつきしま」には「神を斎(いつ)き祀る島」という意味があり、宮島そのものが御神体として信仰されて来たのでした。
大鳥居は明治8年に再建された8代目。
鳥居の柱を稚児柱が支え笠木には屋根が乗る両部鳥居という様式です。
厳島神社の大鳥居の特異な点は、その笠木の下の部分の東西それぞれに、太陽と月が描かれています。
昨年も暴風で鳥居の一部が壊れてしまいましたが、修復工事を終えてもとの姿を取り戻していました。厳島神社 寺・神社・教会
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フェリーは10分ほどで宮島桟橋に到着。
何かと便利なので、レンタサイクルを利用することにしました。
自転車に乗って厳島神社へ向かうと、ぽつりぽつりと水滴が顔に当たります。
大降りになると行動が大きく影響されるので、なんとか持ちこたえてほしいと祈る気持ちでした。
宮島桟橋から厳島神社まで、自転車だと何てことのない距離ですが、徒歩だと10分はかかりそうです。
自転車を所定の位置に停め、拝観料を納めて神社境内へと進みました。
東回廊から入場すると、まず参拝客を迎えてくれるのが客(まろうど)神社。
天忍穂耳命など5柱の神を祀り、神社の祭典は必ずここ客神社から始まると決められています。厳島神社 寺・神社・教会
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国宝に指定される客神社の社殿を囲むように、鏡の池が広がっています。
水面に秋の名月が映るさまがまるで鏡のようであることから名付けられたのでしょう。
更に奥には五重塔も視界に入り、変化に富んだ非常に美しい風景となっています。
宮島はどこを見ても一幅の絵になる優れた景観を持つ島です。
安藝國嚴島神社に詣でて詠む
春なればもみぢ色なく波の上(へ)の
御やしろのみぞくれなゐに染む五重塔 名所・史跡
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更に回廊を進むと卒塔婆石。
この時はまだ海水に浸かっていますが、潮が引くとそこには石で囲まれた池が現れるのです。
治承元年、平家転覆の密議いわゆる鹿ケ谷の陰謀が露見し、平康頼・藤原成経・僧俊寛の3名が鬼界ヶ島へと流罪に処せられました。
このうち平康頼は同じ平氏を名乗っていますが、もとは中原氏の流れで後白河法皇の近習。
康頼は都に残してきた母の身をことに案じ、卒塔婆に自らの名と2首の和歌を刻んで、都に届くことを念じて海に流し続けたところ、千本目を数えた時に卒塔婆がこの場所に流れ着き、たまたま厳島神社を参拝に訪れていた康頼の知人の僧がこれを発見して、都に住む康頼の母と妻に届けたのでした。
その後この経緯を後白河法皇も聞こし召すこととなり、京の人々もそこに刻まれた歌を流人の歌として口ずさむようになります。
そして治承2年、清盛の娘である中宮徳子が御子を身ごもられたことを祝って恩赦が行われ、康頼は罪を減じられて帰京を許されたのでした。
その後康頼は厳島神社への恩返しとして、一基の石灯籠を奉納しました。
その石灯籠は康頼灯籠と名付けられ、卒塔婆石の近くにひっそりと立っています。厳島神社 寺・神社・教会
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イチオシ
厳島神社が御創建されたのは推古天皇元年のことと伝えられています。
当時安芸国で勢力を誇っていた佐伯鞍職が、市杵島姫命の神託によって宗像三女神をお祀りしたのが始まりです。
佐伯氏はもともと天忍日命を祖とする大伴氏の流れで、大伴金村の弟である歌から分家した家系のようです。厳島神社 寺・神社・教会
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東回廊を抜けると、海上の大鳥居から直線上の位置に出ます。
社殿の最先端は火焼前(ひたさき)と呼ばれる桟橋のような舞台で、最も大鳥居に近い場所。
管絃祭ではここに管絃船が還御します。
その両脇には、室町時代に建てられた門客(かどまろうど)神社のこけら葺きの社殿。
それぞれ櫛磐窓神と豊磐窓神をお祀りしています。 -
中央の高舞台では、例祭ごとに様々な舞楽が演じられます。
佐伯氏による御創建当時はこのような豪壮な社殿はありませんでした。
厳島神社が今のような豪壮な寝殿造りの社殿となったのは、平清盛の篤い信仰があったからです。
久安2年、安芸守に任じられた平清盛は、瀬戸内海の海路を活用して宋との貿易を行ない、莫大な利益をあげて勢力を築き上げました。
ちょうどその頃、清盛の夢に弘法大師が現れ、厳島神社の修復を行えば一族の繁栄が訪れることを告げられます。
その言葉を信じた清盛は厳島神社を尊崇し、保元の乱・平治の乱で勝ちを得るなどして一門は栄え、ますますその信仰は強いものとなるのでした。
長寛2年には『平家納経』(国宝)を奉納し、4年後の仁安3年には厳島神社の社殿を、海上に浮かぶ寝殿造りの社殿へと造り変えたのでした。厳島神社 寺・神社・教会
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祓殿では儀式の準備でしょうか、神職の方たちが慌ただしく動き回っていました。
祓殿・拝殿・幣殿・本殿は大鳥居から続く直線上に並んでおりますが、いずれも国宝に指定されています。
祓殿は清盛造営の時は屋根がなかったそうです。
柱間が全て開放されて壁がない今よりも、更に開放的な空間が広がっていたことでしょう。
高舞台で演じられる舞楽は、都の文化を根付かせようという清盛の夢によって始まったもので、本殿におわす神様もここまで豪勢な建物や優雅な舞を日々見せられては、平家一門の繁栄を拒むこともできなかったでしょう。 -
厳島神社、というよりも宮島が再び歴史の舞台となるのは天文24年。
主君の大内義隆を討った家臣の陶晴賢と、新興大名として名を馳せていた毛利元就とがここ厳島で戦い、緻密な戦略と大胆な奇襲によって毛利軍が陶軍を打ち破った厳島の戦いです。
兵力には圧倒的な差があるため真正面からぶつかることの出来ない毛利軍は、家臣を偽って投降させたりするなどの謀略を用い、陶晴賢をこの狭い宮島におびき寄せることに成功。
大しけの中、毛利軍は二手に分かれて宮島に上陸して陶軍を奇襲。
陶軍の兵たちは舟を奪い合って島外に逃れようと大混乱に陥り、うまく海上に逃れることが出来てもそこで待ち構える伊予水軍にことごとく討ち取られ、さすがの晴賢ももはやこれまでと自刃して果てたのでした。
この戦いの後、毛利元就は能舞台を新造し、京から観世太夫を招いて能を奉納。
現在の能舞台は第3第広島藩主浅野綱長による再建です。厳島神社 寺・神社・教会
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現在修復中の反橋は毛利元就・隆元父子による再建。
御鎮座祭など重要な祭事にのみ、勅使が渡られることになっています。 -
厳島神社の参拝を終え西回廊から境内を出ると、すぐに宝物館の建物が見えて来ます。
ここの展示の目玉は、やはり平清盛によって奉納された『平家納経』です。
『法華経』28巻、『無量義経』『観普賢経』『般若心経』『阿弥陀経』各1巻、平清盛の「願文」を加えた全33巻とそれらを収める経箱は、当時の最先端の工芸技術で制作されました。
写経は、量の多さと得られる功徳が比例するような考え方がされていましたが、平家一族によるこの写経は、金銀の切箔や漆、水晶や銀金具などを用いて芸術作品としての質の高さを極限まで追求しています。
あでやかな姿が描かれる貴族の人々の絵には永遠の栄華への願いが、写経の一字一字には平家一門の繁栄と極楽往生の願いが込められているかのようです。
このような作品を見るにつけ、昔の日本人は偉大だったのだと思い知らされます。
確かに国内に戦はなくなり、全ての国民が等しく教育を受けられるということは、当時の人たちから見れば別世界のように羨むべきことでしょう。
しかし現在の教育が、これほどまでの文化を一つでも生み出したでしょうか。
家族親類の幸せを一途に神に祈ることの尊さを、どこの小学校で教えてくれるのでしょうか。
平家の政権には腐敗もありましたが、少なくとも後の源家・北条家の政権のような一族間の騙し合いや殺し合いはありませんでした。嚴島神社宝物館 美術館・博物館
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宝物館の入り口にあるのは、昭和26年に修復された際に交換された、大鳥居の根元材が置かれています。
材料は楠で、人の背丈を軽く超えるほどの幅があります。
高さ16メートルもある大鳥居を明治8年の建て替え当時から支えて来た根本材で、ご苦労様と声をかけたくなりました。
大鳥居は波の力をうまく逃すために、海底の土に固定されているのではないそうです。 -
大鳥居から本殿を結ぶ直線のちょうど裏側へ出ました。
境内と域外を分ける不明門は、決して扉が開かれることのない開かずの門。
更にその先に宝蔵が建っていますが、その造りがなんと前日に訪れた多家神社の宝蔵と同じ校倉造なのです。
説明文によると、この宝蔵が建立されたのは室町中期のことで、校子は全て五角形に加工されているとのこと。
本殿の更に奥に位置する宝蔵には、宝物殿が立てられる以前は『平家納経』などが収められていた経緯があり、とても重要な位置づけがされていました。
これは想像なのですが、紅葉谷川の河口付近で小高い丘の上にあることや、厳島神社に参拝する人は必ず本殿真裏のこの宝蔵にも同時に参拝することになる位置関係などを根拠とすると、平清盛によって社殿が整備される以前の厳島神社は、ここに信仰の中心が置かれていたのかも知れません。
なお、広島県内の校倉造建築は全部で3つあり、今回訪れた以外の残り一つは三次の熊野神社の宝蔵なのだそうです。厳島神社 寺・神社・教会
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宮島に渡ってからあちこちで見かけた鹿の姿を、この宝蔵の周辺でも見ることができました。
古くから宮島に住み着いている鹿は、神の遣いとして大切にされて来ました。
自転車のかごに荷物を置いたまま離れると、いたずらされてしまいます。
(このことをつい失念してしまい、後で失敗しました) -
後白河法皇が承安4年に参詣遊ばされた際にお手植えされた行幸松は、明治初期に切り倒されて遺木として置かれています。
第77代、後白河天皇は約3年の御在位でしたが、二条天皇に譲位されてからは院政を敷かれ、ますます武力がものをいう時代に約30年間も、武家を手なずけたり対立させたりしながら、武力を持たない朝廷の存在意義を守り通そうと苦心されたのでした。
しかしそれは必ずしも民衆の暮らしを守ることにはならず、勢力を強めた武家同士が潰し合いを行う時代を呼んでしまったのです。 -
そんな後鳥羽上皇と平清盛とが対立することになったのも、歴史の必然というものでしょう。
六波羅の小松谷に邸を構えていたことから小松殿と呼ばれていた平重盛は、鹿ケ谷の陰謀の露見によって後白河法皇を幽閉しようとした父清盛に対し、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず、重盛の進退ここに極まれり」と言ってその行動を諌めました。
しかし重盛は若くして亡くなり、清盛は後白河法皇の幽閉を断行。
そこから平家滅亡の第一楽章は始まったと言っても過言ではありません。
そんな重盛も生前に厳島神社を参拝し、松を植えました。
その遺木は大願寺の境内に置かれています。 -
厳島神社の周辺にはいくつもの小規模なお社が建てられていますが、その中で特に気になったのがここ三翁神社。
中央・左殿・右殿の3社に、安徳天皇や二位尼などが祀られています。
第81代安徳天皇は高倉天皇と建礼門院の間に生まれた御子、即ち後白河法皇と清盛入道を祖父に持つという数奇な生れの方です。
現在の年齢にすると1歳にして即位しますが、平家一門が都落ちするのとともに動座を強いられ、壇ノ浦の戦いで神璽と宝剣とともに入水、二位尼らとともにわずか6歳で波の下の都へと旅立って行かれたのでした。
三翁神社とは本来、佐伯翁・岩木翁・所翁の3神を祀る神社であり、ここにも3神は祀られていることから、安徳天皇や二位尼らは平家滅亡後に御霊が鎮まれることを願った住民が、平家にゆかりの深かった厳島神社に近いここ三翁神社にお祀りしたのではないかと考えられます。三翁神社 寺・神社・教会
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ようやく自転車駐輪場の辺りまで戻って来ました。
しかし自転車には乗らず、反対側の高台になっている方へと足を向けることにします。
厳島神社の社殿から遠く望むことが出来た五重塔が、その高台の上に見えたからです。
階段を登ると、五重塔よりも千畳閣の大きさの方に圧倒されます。
千畳閣は豊太閤によって天正15年に着工された桃山建築の建物です。
朝鮮征伐の戦死者を弔うため、毎月1回『千部経』の読経をするために建立が計画されますが、完成を前に太閤は亡くなってしまったため、未完のまま現在に到っています。
明治の廃仏毀釈によって仏像は大願寺に遷され、豊国大明神を御祭神とする豊国神社となりました。豊国神社(千畳閣) 名所・史跡
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千畳閣の拝観は有料。
内部へと上がらせていただくと、多くの絵馬や大杓子などが目に入ります。
江戸時代に広島から移って来た僧誓真が、島民の生活向上を目指して伝えたという木工技術により、弁財天の琵琶をかたどった杓子は宮島の名物となりました。
おみやげに、授与所で杓子をひとつ購入。
実際にご飯を盛るために使う本物の杓子ですが、表参道商店街ではお土産用のおしゃれな杓子や、杓子に自分で文字を書くサービスなどもあるそうです。宮島の大杓子 名所・史跡
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千畳閣からは、厳島神社の水上神殿が一望のもとに見渡せます。
神様を見下ろすという禁忌を犯してまでも見ていたい、それほど強い思いを抱かせるほどの魅力が厳島神社の社殿にはあるということでしょうか。厳島神社 寺・神社・教会
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五重塔は応永14年の建立で、禅宗様を基調としつつ和様を加えた折衷様式となっています。
千畳閣の着工より先にここにあったことから、千畳閣の建築計画は五重塔をも境内の建築群に含めることが初めから計画されていたのでしょう。
この塔の心柱は地上へ達しておらず、二層目で浮いているような状態になっているのが特徴で、同じ様式のものは全国に5棟あるそうです。五重塔 名所・史跡
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ここで一度島内の散策を中断し、表参道商店街へ向かいます。
上陸した時間はまだそれほど人通りもありませんでしたが、さすがに昼近くになると自転車は押して通らなければならないほどの混雑になります。
商店街の中ほどで大杓子を発見。
観光協会によると、昭和58年に2年10ヶ月の歳月を費やして制作されたものの、展示できる場所がなくお蔵入りに。
しかし平成8年に厳島神社が世界遺産に登録されたことを記念して、ようやくこうして日の目を見ることになったとのことです。 -
実はここで、予約していたもみじ饅頭の手作り体験の時間が来ました。
昭和7年創業のやまだ屋宮島本店さんが、昔ながらの手作り体験を受け付けているというので、予約しておいたのでした。
もみじ饅頭の外側はカステラの生地で、中には餡やクリームからいちごジャムまで様々な具を入れて販売しています。
今回はオーソドックスな漉し餡と、ちょっと変わったチョコレートを入れて作る体験となりました。
現在は機械による大量生産でオートメーション化されていますが、熱する時間や回数などは基本的に本来のもみじ饅頭と全く同じだということです。やまだ屋 マリーナホップ店 グルメ・レストラン
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体験が終わったところでちょうど正午となっていました。
やまだ屋本店から10歩ほどの場所に位置する食事処梅山で、宮島名物のあなご弁当を注文。
タレは回転寿司のような甘さではなく、あなご本来の持つ風味を生かした味を出しています。 -
腹も膨れたところで宮島の散策を再開。
またも厳島神社の方向へ自転車を走らせますが、人通りが相当多くなったようで、歩くのとほとんど変わらない速度でしか移動できないほどです。
しかし一つ道を外れると、人ごみはとたんに消えてしまいました。
目指すは大聖院。
地図を見て予想はしていましたが、標高の高い場所にあるため、ゆるい上り坂をしばらく走ることになりました。
ちらほらと観光客の姿が見えますが、厳島神社とは比べものにならないほど閑散としています。
忘れられた名所の一つではないでしょうか。大聖院 寺・神社・教会
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イチオシ
大聖院は大同元年に弘法大師によって開基されたと伝えられています。
弘法大師が本当に宮島に渡ったかどうか、史実は定かではありませんが、その出生は佐伯氏の流れであるという記録から、全く無縁の関係ではないと言うことが出来ると思います。
観音堂には、明治18年に明治大帝が御宿泊された御所の間があります。
観音堂で参拝し、そこから上を見上げると、阿弥陀仏千体を安置する摩尼殿の重厚な造りが目に入ります。 -
厳島神社の参拝ルートの出口、西回廊からすぐ見えた大願寺に改めて参拝。
こちらも弘法大師による開基の伝承が残されています。大願寺 寺・神社・教会
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前庭にある「九本松」は、初代総理大臣伊藤博文による植樹。
長州藩に生まれた伊藤博文も、毛利氏が飛躍することになった厳島の戦いの舞台に立ち、感慨ひとしおであったことは間違いありません。 -
嫡男の重盛が世を去り次男基盛も既になく、清盛の三男宗盛が家督を継ぎますが、復権を果たした後鳥羽上皇は既に平家を見限られており、やがて平家は壇ノ浦で完全に滅ぼされることとなってしまいます。
日本の歴史において足利尊氏同様、清盛の評価はきれいに真っ二つに分かれます。
明治維新以降終戦までは、どちらかと云うと逆賊として批判する声の方が高く上げられていましたが、終戦を迎えて清盛を評価することも何を憚る必要もなくなりました。
昭和29年、清盛が厳島神社を現在の姿に造営したことを讃えるため、海がよく見える砂浜に、地元の人々の手によって清盛神社が建てられました。
清盛がなければ頼朝もなく、頼朝がなければ家康もない。
そういう意味では平清盛は歴史に大きな功績を残した人物だと評価されるべきです。清盛神社 寺・神社・教会
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汽船に乗って宮島をあとにし、次の目的地に向かうことにしたのですが、道を誤って辿り着くことが出来なくなってしまいました。
また広島市内に入ってからは渋滞にはまってしまい、新たな目的地も諦めることになってしまったのです。
疲れもあるし、心のどこかに故障して置き去りにされているマイカーへの意識もあったのでしょう。
そういう時は無理をせず、旅を終わらせるのが一番です。
広島市内で最後に寄ったのは鶴羽神社。
当初の予定にはその名前さえ上りませんでしたが、こうして参拝出来たのは神様のご縁でしょう。鶴羽神社 寺・神社・教会
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安芸国城下鬼門鎮守の鶴羽根神社は、鎌倉時代の御創建。
源三位頼政公の室、菖蒲ノ前の遺言によって建立されたと伝えられます。
もとは朝櫻神社と地主大神を併せてお祀りしていたのを、原爆投下からの復興時に鶴羽根神社の古社名、椎の木稲荷神社と改称しました。
今の二葉山、当時の椎木山が修理料として寄進されたことに由来します。 -
境内には桃の花が満開に咲き誇っていました。
さて、こうして今回の旅は終わりました。
その後マイカーはどうなっかたと云うと、契約していた保険の無料レッカーサービスを利用して、馴染みの修理屋に運んでもらいました。
予定より2ヶ月ほど早く廃車です。
何度か自宅と空港を移動してくれたマイカーよ、ありがとう。
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