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次に向かったのは、「秋山兄弟生誕地」です。<br />「坂の上の雲ミュージアム」から5分くらいで歩いていける距離でした。<br />松山空襲で焼失し、石牌が残っていただけだったのを<br />有志の方たちによって復元したようです。<br /><br />当時は藁屋根に木造平屋建てで、典型的な下級武士の住宅で<br />秋山好古が北予中学校の校長時代に住んでいた時は、当時の家<br />(4部屋と土間、台所の質素な家)<br />に若干手を加えただけのものだといわれています。<br />「坂の上の雲」が書かれていなかったら、牌が立っているだけ<br />だったかもしれませんね。<br /><br />松山の市長だったか、愛媛県知事だったか忘れましたが<br />ドラマや映画に映像化したいと、司馬遼太郎にお願いしたそうですが、<br />戦争賛美と思われたくないとのことで、拒否していたそうです。<br />司馬遼太郎死後、妻のみどりさんによって許可され映像化できた<br />そうです。<br /><br /><br />展示物で、印象深かったのは真之がエルトゥールル号で<br />助かった方たちをトルコまで送ったということが<br />わかる手紙があったことです。<br /><br />「エルトゥールル号遭難事件」といえば、<br />1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国<br />(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号が<br />現在の和歌山県串本町沖にある、紀伊大島の樫野埼東方海上<br />で遭難し500名以上の犠牲者を出した事件です。<br /><br />イラン・イラク戦争で、イラクのフセイン大統領が48時間後に<br />イラン領空の航空機を無差別攻撃すると宣言、テヘランの外国人<br />は緊急脱出しますが、日本政府は救援機を出せず、幼児を含む<br />日本人200数十人が取り残されました。<br />その時に、恩返しと言って助けてくれたのがトルコですよね。<br />それによって「エルトゥールル号遭難事件」を知った方も<br />多いはず。<br /><br />その船に真之が乗っていて、旅先から送ってきた手紙でした。<br />帰るときに植民地に成っているアジアの国々の港に寄り、<br />各国の状況を見て、日本の行く末を憂えている文面でした。<br /><br />高杉晋作が、「清」の上海で外国人の使用人になって<br />しまっているシナ(すみません)の人たちを見て、<br />危機感を感じていたのと<br />同じような心境だったのでないかと思いました。<br /><br />真之のこの気持ちが描かれていれば、<br />また違ったものになっていたかも<br />しれないと研究員の方は残念がっておりました。<br />私も、「エルトゥールル号遭難事件」では<br />山田寅次郎くらいしか印象になかったので<br />この事件に真之も関わっていたことが<br />盛り込まれていればもっと<br />大きなスケールになっていたかもしれない<br />と感じました。<br /><br /><br />外には、秋山好古と真之の銅像があり<br />向かい合って立てておりました。<br />写真であるように真之の銅像の<br />手のあたりが光っていました。<br />『智謀湧くが如し』と称された秋山真之は、<br />海軍兵学校を首席で卒業したため、<br />松山では受験の神様のように慕われていて、<br />毎年冬になると、学生さんが触りに来るそうです。<br /><br />このように、現地に行かなければ知れない発見が沢山出来<br />とても充実した場所になりました。<br />時間がなくなってしまって、まだお話途中だったので<br />まだ新しい発見があったかも…<br />残念でした。<br />

四国初上陸(*´∀`*) 松山・道後温泉の旅  No.4

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2013/01/06 - 2013/01/07

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dosanyanko

dosanyankoさん

次に向かったのは、「秋山兄弟生誕地」です。
「坂の上の雲ミュージアム」から5分くらいで歩いていける距離でした。
松山空襲で焼失し、石牌が残っていただけだったのを
有志の方たちによって復元したようです。

当時は藁屋根に木造平屋建てで、典型的な下級武士の住宅で
秋山好古が北予中学校の校長時代に住んでいた時は、当時の家
(4部屋と土間、台所の質素な家)
に若干手を加えただけのものだといわれています。
「坂の上の雲」が書かれていなかったら、牌が立っているだけ
だったかもしれませんね。

松山の市長だったか、愛媛県知事だったか忘れましたが
ドラマや映画に映像化したいと、司馬遼太郎にお願いしたそうですが、
戦争賛美と思われたくないとのことで、拒否していたそうです。
司馬遼太郎死後、妻のみどりさんによって許可され映像化できた
そうです。


展示物で、印象深かったのは真之がエルトゥールル号で
助かった方たちをトルコまで送ったということが
わかる手紙があったことです。

「エルトゥールル号遭難事件」といえば、
1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国
(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号が
現在の和歌山県串本町沖にある、紀伊大島の樫野埼東方海上
で遭難し500名以上の犠牲者を出した事件です。

イラン・イラク戦争で、イラクのフセイン大統領が48時間後に
イラン領空の航空機を無差別攻撃すると宣言、テヘランの外国人
は緊急脱出しますが、日本政府は救援機を出せず、幼児を含む
日本人200数十人が取り残されました。
その時に、恩返しと言って助けてくれたのがトルコですよね。
それによって「エルトゥールル号遭難事件」を知った方も
多いはず。

その船に真之が乗っていて、旅先から送ってきた手紙でした。
帰るときに植民地に成っているアジアの国々の港に寄り、
各国の状況を見て、日本の行く末を憂えている文面でした。

高杉晋作が、「清」の上海で外国人の使用人になって
しまっているシナ(すみません)の人たちを見て、
危機感を感じていたのと
同じような心境だったのでないかと思いました。

真之のこの気持ちが描かれていれば、
また違ったものになっていたかも
しれないと研究員の方は残念がっておりました。
私も、「エルトゥールル号遭難事件」では
山田寅次郎くらいしか印象になかったので
この事件に真之も関わっていたことが
盛り込まれていればもっと
大きなスケールになっていたかもしれない
と感じました。


外には、秋山好古と真之の銅像があり
向かい合って立てておりました。
写真であるように真之の銅像の
手のあたりが光っていました。
『智謀湧くが如し』と称された秋山真之は、
海軍兵学校を首席で卒業したため、
松山では受験の神様のように慕われていて、
毎年冬になると、学生さんが触りに来るそうです。

このように、現地に行かなければ知れない発見が沢山出来
とても充実した場所になりました。
時間がなくなってしまって、まだお話途中だったので
まだ新しい発見があったかも…
残念でした。

同行者
家族旅行
交通手段
ANAグループ
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行なし)

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  • コンスタンティノープルは、東ローマ帝国の首都であった都市で、<br />現在のトルコの都市イスタンブルの前身です。<br />ここから、子規に手紙を出していることで<br />「エルトゥールル号」で送っていった中に<br />真之がいたことがわかったそうです。

    コンスタンティノープルは、東ローマ帝国の首都であった都市で、
    現在のトルコの都市イスタンブルの前身です。
    ここから、子規に手紙を出していることで
    「エルトゥールル号」で送っていった中に
    真之がいたことがわかったそうです。

  • 日本とトルコの航海ルートです。

    日本とトルコの航海ルートです。

  • 真之が書いた「熟慮断行」です。<br />

    真之が書いた「熟慮断行」です。

  • 真之像

    真之像

  • みんなが、触るのではげてしまっている<br />真之の手

    みんなが、触るのではげてしまっている
    真之の手

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