戸塚・いずみ野・港南台旅行記(ブログ) 一覧に戻る
鎌倉幕府の有力御家人畠山重忠(はたけやま・しげただ、1164~1205)は政治権力を高めつつある北条氏と武蔵国にて大勢力を保有している畠山氏を苦々しく思っている御家人達の策略に乗せられて本領地である菅谷館から鎌倉に向かう途中、待ち伏せていた北条義時(ほうじょう・よしとき、1163~1224)らの大軍により滅ぼされた二俣川古戦場(ふたまたがわこせんじょう、神奈川県横浜市旭区)を訪問しました。<br /><br />そもそも畠山氏は平姓秩父氏の一族で秩父地方から関東平野に開ける境目の地域に進出開発、その一部が畠山郷に所領を得て地域名を自らを畠山と名乗っています。<br /><br />歴史を遡りますと畠山氏と源氏との繋がりは古く、保元・平治の乱では畠山重能(はたけやま・しげよし、生没不詳)は源義朝(みなもと・よしとも、1123~1160)の軍勢に参加していましたが、義朝が敗死し平氏の時代になりますと源氏に誼を通じていた畠山氏ら関東武士達は上京して大番役などを務めるなどして平氏に仕えるようになります。<br /><br />従い治承4年(1180)源頼朝(みなもと・よりとも、1147~1199)が伊豆で平氏に対する挙兵の際に、いち早く頼朝軍にはせ参じる武士団もありましたがこれらはごく少数派で、畠山氏やその一門は平氏の恩顧を受けている立場を堅持、大庭氏を大将とする頼朝追討軍の一員として謀反人頼朝の追跡に血眼になっているのが実情でした。<br /><br />畠山重忠は地域姓を名乗った畠山氏嫡流として畠山重能の二男として長寛2年(1164)畠山郷(現在の埼玉県大里郡川本町付近)で生まれます。<br /><br />一方安房に逃れた頼朝たちは上総・下総の武士団の支援を受けて勢力を盛り返し状況は一変し、武蔵国に入る時には既に総勢3万にもなろうかとの勢いでした。<br /><br />畠山氏がいつ頼朝の陣に参陣したのかについては以下の通りです。<br />即ち頼朝が下総・武蔵の国境を流れる隅田川を渡るに先立ち、頼朝入国を阻もうとする武蔵の武士達たちに参陣するように呼びかけます。<br /><br />頼朝は秩父系一族の長老格である江戸重長(えど・しげなが、生没不詳)、に書状を送り参陣を迫り、ようやく一族の畠山重忠や河越重頼(かわごえ・しげより、生誕不詳~1185)らと共に頼朝に参向するになり、戦いを交えず武蔵に入り武蔵国府中を経て遠祖義家の本領であった相模国鎌倉に入りますが、その先陣役を果たしたのは畠山重忠であったと言われています。<br /><br /><br />2022年7月30日追記<br /><br />「首洗い井戸」と題する説明板には次のように記載されています。<br /><br />『 首洗い井戸<br /><br />畠山重忠公は鎌倉時代の智・仁・勇を備えた武将でした。しかし、幕府の実権を巡る争いに巻き込まれ、鎌倉に至急参上せよという北条時政からの命に接して鶴ヶ峰に差しかかったところ、北条勢の大軍に待ちぶせされました。<br />熱戦を繰り広げましたが、弓の名手愛好三郎季高(すえたか)の放った矢にあたり、42才の生涯をこの地に閉じました。元久2年(1205年)6月22日のことです。<br /><br />ここは重忠公の首を洗い清めたといわれる井戸がありました。以前は椎子川の河原に直径1メートル程の穴があり、水が湧いていたといいますが、川の流れが変わって失われてしまいました。<br /><br />     平成22年2月吉日設置<br />                  旭区観光協会 』<br />

相模二俣川 幕府随一の御家人で頼朝以降武蔵国の勢力争いで北条時政・義時親子の策謀にかかった畠山重忠が落命した『二俣川古戦場』散歩

7いいね!

2012/09/21 - 2012/09/21

198位(同エリア1787件中)

0

11

滝山氏照

滝山氏照さん

鎌倉幕府の有力御家人畠山重忠(はたけやま・しげただ、1164~1205)は政治権力を高めつつある北条氏と武蔵国にて大勢力を保有している畠山氏を苦々しく思っている御家人達の策略に乗せられて本領地である菅谷館から鎌倉に向かう途中、待ち伏せていた北条義時(ほうじょう・よしとき、1163~1224)らの大軍により滅ぼされた二俣川古戦場(ふたまたがわこせんじょう、神奈川県横浜市旭区)を訪問しました。

そもそも畠山氏は平姓秩父氏の一族で秩父地方から関東平野に開ける境目の地域に進出開発、その一部が畠山郷に所領を得て地域名を自らを畠山と名乗っています。

歴史を遡りますと畠山氏と源氏との繋がりは古く、保元・平治の乱では畠山重能(はたけやま・しげよし、生没不詳)は源義朝(みなもと・よしとも、1123~1160)の軍勢に参加していましたが、義朝が敗死し平氏の時代になりますと源氏に誼を通じていた畠山氏ら関東武士達は上京して大番役などを務めるなどして平氏に仕えるようになります。

従い治承4年(1180)源頼朝(みなもと・よりとも、1147~1199)が伊豆で平氏に対する挙兵の際に、いち早く頼朝軍にはせ参じる武士団もありましたがこれらはごく少数派で、畠山氏やその一門は平氏の恩顧を受けている立場を堅持、大庭氏を大将とする頼朝追討軍の一員として謀反人頼朝の追跡に血眼になっているのが実情でした。

畠山重忠は地域姓を名乗った畠山氏嫡流として畠山重能の二男として長寛2年(1164)畠山郷(現在の埼玉県大里郡川本町付近)で生まれます。

一方安房に逃れた頼朝たちは上総・下総の武士団の支援を受けて勢力を盛り返し状況は一変し、武蔵国に入る時には既に総勢3万にもなろうかとの勢いでした。

畠山氏がいつ頼朝の陣に参陣したのかについては以下の通りです。
即ち頼朝が下総・武蔵の国境を流れる隅田川を渡るに先立ち、頼朝入国を阻もうとする武蔵の武士達たちに参陣するように呼びかけます。

頼朝は秩父系一族の長老格である江戸重長(えど・しげなが、生没不詳)、に書状を送り参陣を迫り、ようやく一族の畠山重忠や河越重頼(かわごえ・しげより、生誕不詳~1185)らと共に頼朝に参向するになり、戦いを交えず武蔵に入り武蔵国府中を経て遠祖義家の本領であった相模国鎌倉に入りますが、その先陣役を果たしたのは畠山重忠であったと言われています。


2022年7月30日追記

「首洗い井戸」と題する説明板には次のように記載されています。

『 首洗い井戸

畠山重忠公は鎌倉時代の智・仁・勇を備えた武将でした。しかし、幕府の実権を巡る争いに巻き込まれ、鎌倉に至急参上せよという北条時政からの命に接して鶴ヶ峰に差しかかったところ、北条勢の大軍に待ちぶせされました。
熱戦を繰り広げましたが、弓の名手愛好三郎季高(すえたか)の放った矢にあたり、42才の生涯をこの地に閉じました。元久2年(1205年)6月22日のことです。

ここは重忠公の首を洗い清めたといわれる井戸がありました。以前は椎子川の河原に直径1メートル程の穴があり、水が湧いていたといいますが、川の流れが変わって失われてしまいました。

     平成22年2月吉日設置
                  旭区観光協会 』

交通手段
私鉄 徒歩
  • 旭区役所遊歩道<br /><br />区役所に通じる遊歩道のベンチ横には何やら説明板らしきものが建っています。<br />

    旭区役所遊歩道

    区役所に通じる遊歩道のベンチ横には何やら説明板らしきものが建っています。

  • 二俣川古戦場・案内板<br /><br />鎌倉幕府重鎮の御家人である畠山重忠が北条氏の策略に落ち、当地で待ち伏せに遭い一門もろとも殺害されることになります。

    二俣川古戦場・案内板

    鎌倉幕府重鎮の御家人である畠山重忠が北条氏の策略に落ち、当地で待ち伏せに遭い一門もろとも殺害されることになります。

  • 畠山重忠足跡

    畠山重忠足跡

  • 主たる遺跡

    主たる遺跡

  • 首洗い井戸<br /><br />北条軍の待ち伏せに遭い、命を落とした畠山重忠の首を洗い清めたと言う井戸だそうです。以前は水が湧いていましたが流れが変わって失われてしまいました。

    首洗い井戸

    北条軍の待ち伏せに遭い、命を落とした畠山重忠の首を洗い清めたと言う井戸だそうです。以前は水が湧いていましたが流れが変わって失われてしまいました。

  • 畠山重忠・石碑<br /><br />鶴ヶ峰駅入口交差点を横断歩道を渡りますと、向かいに畠山重忠の石碑がひっそりと佇んでいます。

    畠山重忠・石碑

    鶴ヶ峰駅入口交差点を横断歩道を渡りますと、向かいに畠山重忠の石碑がひっそりと佇んでいます。

  • 畠山重忠終焉の地柱標<br /><br />

    畠山重忠終焉の地柱標

  • 畠山重忠碑・説明板<br /><br />元久2年(1205)6月に畠山重忠はこの地で戦死、没750年を迎えた昭和30年(1955)に地元の鶴ヶ峰と深谷市の有志により建立されました。

    畠山重忠碑・説明板

    元久2年(1205)6月に畠山重忠はこの地で戦死、没750年を迎えた昭和30年(1955)に地元の鶴ヶ峰と深谷市の有志により建立されました。

  • 畠山重忠碑全景

    畠山重忠碑全景

  • 畠山重忠石碑

    畠山重忠石碑

  • さかさ矢竹の由来・説明板<br /><br />畠山重忠は待ち伏せの幕府軍に居いた弓の名手愛甲三郎李隆(あいこう・さぶろう・すえたか、1150~1213)が放った矢に当たり命を落としますがその直前に「わが心が正しければこの矢にて枝葉を生じ繁茂させよ」と言って矢を地面につきさしますとやがてこの矢が自然に根付き2本ずつ生えて茂ったそうです。

    さかさ矢竹の由来・説明板

    畠山重忠は待ち伏せの幕府軍に居いた弓の名手愛甲三郎李隆(あいこう・さぶろう・すえたか、1150~1213)が放った矢に当たり命を落としますがその直前に「わが心が正しければこの矢にて枝葉を生じ繁茂させよ」と言って矢を地面につきさしますとやがてこの矢が自然に根付き2本ずつ生えて茂ったそうです。

この旅行記のタグ

7いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP