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昔から人の住みやすい場所は、日当たりがよく、水に恵まれた場所と相場が決まっていたようで、下に池や川がある台地の上は人気の生活環境でした。その点では、市川には、房総台地のはずれに当たる国府台が南に張り出し、西に江戸川が、南に真間川(古代には真間の入江が深く入り込んでいた)が流れ、最適な生活環境でした。堀之内貝塚(縄文後期晩期)、須和田遺跡(弥生中期から平安初期)などの遺跡があり、人口が多く、豊かな土地だったのでしょうか、下総国国府の所在地となり、国分寺、国分尼寺跡、六所神社などが残っています。<br /><br />今回、市川駅から出発して、駅付近のアイリンクタウン展望施設に上り、市川市を眺望してから、新田春日神社、真間川、六所神社、須和田遺跡、郭沫若記念公園、国分寺、国分尼寺跡、国府台、真間山弘法寺を経て、市川駅に戻るコースを歩きました。昼過ぎから歩き始めたため、途中で日が沈み、国府台ではすっかり夜になってしまいました。<br />

市川を歩く (1) ―須和田から国分寺に―

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2012/01/08 - 2012/01/08

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traveldog

traveldogさん

昔から人の住みやすい場所は、日当たりがよく、水に恵まれた場所と相場が決まっていたようで、下に池や川がある台地の上は人気の生活環境でした。その点では、市川には、房総台地のはずれに当たる国府台が南に張り出し、西に江戸川が、南に真間川(古代には真間の入江が深く入り込んでいた)が流れ、最適な生活環境でした。堀之内貝塚(縄文後期晩期)、須和田遺跡(弥生中期から平安初期)などの遺跡があり、人口が多く、豊かな土地だったのでしょうか、下総国国府の所在地となり、国分寺、国分尼寺跡、六所神社などが残っています。

今回、市川駅から出発して、駅付近のアイリンクタウン展望施設に上り、市川市を眺望してから、新田春日神社、真間川、六所神社、須和田遺跡、郭沫若記念公園、国分寺、国分尼寺跡、国府台、真間山弘法寺を経て、市川駅に戻るコースを歩きました。昼過ぎから歩き始めたため、途中で日が沈み、国府台ではすっかり夜になってしまいました。

同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 市川アイリンクタウン展望施設45階からの眺望です。東京都と千葉県の県境を流れる江戸川の向こうにスカイツリーが見えました。千葉県からでもこんなに大きく見えるとは、さすが634mの高さです。<br />この展望施設はマンションの屋上を開放しているもので、無料で登れます。この反対側からは市川市が一望に見渡せます。まだ見ていないが夜景も美しいそうです。

    市川アイリンクタウン展望施設45階からの眺望です。東京都と千葉県の県境を流れる江戸川の向こうにスカイツリーが見えました。千葉県からでもこんなに大きく見えるとは、さすが634mの高さです。
    この展望施設はマンションの屋上を開放しているもので、無料で登れます。この反対側からは市川市が一望に見渡せます。まだ見ていないが夜景も美しいそうです。

  • アイリンクタウンから北側、国府台方面を臨む。いい場所なので、大学等の学校や病院が多い。かつての下総国国府があった場所です、といっても何も残っていません。古墳時代の遺跡として、法皇塚古墳(東京医科歯科大学構内)、明戸古墳石棺(里見公園)があり、戦国時代には国府台城が築かれました。明治以降は、陸軍教導団が、次いで野砲兵第16連隊が駐屯しました。まさに国府台は要衝の地でした。

    アイリンクタウンから北側、国府台方面を臨む。いい場所なので、大学等の学校や病院が多い。かつての下総国国府があった場所です、といっても何も残っていません。古墳時代の遺跡として、法皇塚古墳(東京医科歯科大学構内)、明戸古墳石棺(里見公園)があり、戦国時代には国府台城が築かれました。明治以降は、陸軍教導団が、次いで野砲兵第16連隊が駐屯しました。まさに国府台は要衝の地でした。

    国府台駅

  • 市川駅を出て千葉街道に沿って東に、新田の春日神社を目指しました。しばらくして吉田医院の前で足を止めました。建物は新しいが、周囲の石柱がなにか歴史の重みを感じさせます。この吉田医院は、昭和3年に松井天山が描いた『市川町鳥瞰図』にも掲載されている由緒ある医院です。

    市川駅を出て千葉街道に沿って東に、新田の春日神社を目指しました。しばらくして吉田医院の前で足を止めました。建物は新しいが、周囲の石柱がなにか歴史の重みを感じさせます。この吉田医院は、昭和3年に松井天山が描いた『市川町鳥瞰図』にも掲載されている由緒ある医院です。

    市川駅

  • 千葉街道を渡り、春日神社の参道に着きました。市川は松が多い。昔は総武線の電車の車窓から松林があちこちに見えたという記憶があります。この辺りは万葉の昔には「真間の入江」と呼ばれる入江が深く湾を形作っていて、その南側に砂州が張り出していました。境内の砂地に生える松の木が当時の白砂青松の風景を今に残しています。

    千葉街道を渡り、春日神社の参道に着きました。市川は松が多い。昔は総武線の電車の車窓から松林があちこちに見えたという記憶があります。この辺りは万葉の昔には「真間の入江」と呼ばれる入江が深く湾を形作っていて、その南側に砂州が張り出していました。境内の砂地に生える松の木が当時の白砂青松の風景を今に残しています。

  • 新田の春日神社の境内。松の木の根が張り出しているので有名です。ここに佇んでいると潮騒の音が聞こえてくるようです。<br /><br />かつてはこの辺りは砂州で、その外側に海があって、万葉の時代には、<br /><br /> 葛飾の真間の浦廻(うらみ)を榜ぐ船の船人騒く波立つらしも(万葉集、東歌)<br /><br />と詠われた光景が広がっていました。今では海岸は、ここからはるか数キロ先に遠のいています。<br /><br />

    新田の春日神社の境内。松の木の根が張り出しているので有名です。ここに佇んでいると潮騒の音が聞こえてくるようです。

    かつてはこの辺りは砂州で、その外側に海があって、万葉の時代には、

     葛飾の真間の浦廻(うらみ)を榜ぐ船の船人騒く波立つらしも(万葉集、東歌)

    と詠われた光景が広がっていました。今では海岸は、ここからはるか数キロ先に遠のいています。

  • 「文学の道」として整備された桜土手公園が真間川まで続きます。北原白秋、幸田露伴、永井荷風などの市川ゆかりの歌人や作家の解説が掲示されていました。<br /><br />北原白秋---大正5年から江口章子と亀井院の六畳を借りて田園生活を過ごしたとのこと。小岩時代の住居「紫煙草舎」が国府台に移築されています。<br /><br />幸田露伴---戦後、市川市菅野4-3-3に娘幸田文とともに居住。<br /><br />永井荷風---昭和21年市川菅野の大島五叟方に奇遇、昭和34年4月29日、京成八幡駅近くの大黒屋で銚子1本にカツ丼をたいらげ、帰宅し、最後の日記を1行書いて、翌朝亡くなっているのを通い手伝い婦が発見。(永井荷風、私生活そのものが芸術なのでしょうか、最後まで赤裸々ですね)<br /><br />

    「文学の道」として整備された桜土手公園が真間川まで続きます。北原白秋、幸田露伴、永井荷風などの市川ゆかりの歌人や作家の解説が掲示されていました。

    北原白秋---大正5年から江口章子と亀井院の六畳を借りて田園生活を過ごしたとのこと。小岩時代の住居「紫煙草舎」が国府台に移築されています。

    幸田露伴---戦後、市川市菅野4-3-3に娘幸田文とともに居住。

    永井荷風---昭和21年市川菅野の大島五叟方に奇遇、昭和34年4月29日、京成八幡駅近くの大黒屋で銚子1本にカツ丼をたいらげ、帰宅し、最後の日記を1行書いて、翌朝亡くなっているのを通い手伝い婦が発見。(永井荷風、私生活そのものが芸術なのでしょうか、最後まで赤裸々ですね)

  • 真間川に出ました。西の方に流れ、江戸川に注いでいます。真間の入江の跡です。<br /><br /> 勝鹿の真間の入江に打ち靡く玉藻苅りけむ手兒名し思ほゆ(山部赤人)<br /><br />河岸には桜並木があったと思うがもう少し下流の方だったかな。<br />

    真間川に出ました。西の方に流れ、江戸川に注いでいます。真間の入江の跡です。

     勝鹿の真間の入江に打ち靡く玉藻苅りけむ手兒名し思ほゆ(山部赤人)

    河岸には桜並木があったと思うがもう少し下流の方だったかな。

  • 真間川に架かる府中橋。何故、府中橋というのでしょう。<br />国府跡はここからは遠いが、六所神社はこの道をまっすぐ行ったところにあり、六所神社に近い橋だからだと勝手に想像。

    真間川に架かる府中橋。何故、府中橋というのでしょう。
    国府跡はここからは遠いが、六所神社はこの道をまっすぐ行ったところにあり、六所神社に近い橋だからだと勝手に想像。

  • 六所神社に着きました。大己貴尊、伊弉諾尊、素戔嗚尊、大宮売尊、布留之御魂、彦火瓊々杵尊を祀っているとのこと。<br />明治以前は国府台にあったが、明治19年に陸軍軍用地となったため、この地に遷座したとのことです。<br /><br />六所神社の起源は、国司の任務であった神格の高い国内の神社を巡拝する手間を省くために、国府近くに合祀したのが、六所神社の始まりだそうです。古代の人も合理的な考え方を持っていたなんて面白いです。

    六所神社に着きました。大己貴尊、伊弉諾尊、素戔嗚尊、大宮売尊、布留之御魂、彦火瓊々杵尊を祀っているとのこと。
    明治以前は国府台にあったが、明治19年に陸軍軍用地となったため、この地に遷座したとのことです。

    六所神社の起源は、国司の任務であった神格の高い国内の神社を巡拝する手間を省くために、国府近くに合祀したのが、六所神社の始まりだそうです。古代の人も合理的な考え方を持っていたなんて面白いです。

    国府台駅

  • 歩いたのは1月、寒さが増し、トイレを探したが見当たらず。神社にもなし。先ほど通り過ぎたそば屋「田中屋」にトイレを借りる目的で暖を兼ねて入りました。<br />早速、温かそうなたぬきそばを注文。

    歩いたのは1月、寒さが増し、トイレを探したが見当たらず。神社にもなし。先ほど通り過ぎたそば屋「田中屋」にトイレを借りる目的で暖を兼ねて入りました。
    早速、温かそうなたぬきそばを注文。

  • 田中屋で出てきた「たぬきそば」は、揚げ玉にいんげん、それにスライスした玉ねぎが乗っていて結構いけました。たぬきそばには玉ねぎが合うと思う。しかしなかなかお目にかかれない。揚げ玉が乗っていればたぬきそばという店が大半である。<br />お店の感じも、昔からのそば屋さんという店内の様子で、浮世絵に描かれていそうな丸い金魚鉢−いいですね。<br />食べ終わり、トイレをお借りしました。そしたら厨房に案内され、そこを通って裏庭に回り、家の裏口からあがった所にトイレがありました。<br /><br />市川市は観光に力を入れるなら、先ず公共トイレの整備をお願いしま〜す。

    田中屋で出てきた「たぬきそば」は、揚げ玉にいんげん、それにスライスした玉ねぎが乗っていて結構いけました。たぬきそばには玉ねぎが合うと思う。しかしなかなかお目にかかれない。揚げ玉が乗っていればたぬきそばという店が大半である。
    お店の感じも、昔からのそば屋さんという店内の様子で、浮世絵に描かれていそうな丸い金魚鉢−いいですね。
    食べ終わり、トイレをお借りしました。そしたら厨房に案内され、そこを通って裏庭に回り、家の裏口からあがった所にトイレがありました。

    市川市は観光に力を入れるなら、先ず公共トイレの整備をお願いしま〜す。

  • 六所神社から西に向かい、最後に坂を上って、須和田公園に着きました。須和田台地上にあり、ここから弥生中期から平安初期にかけての住居跡が発見されています。西に国府が、北に国分寺があり、当時としては人口密集地だったのです。<br />さてトイレはあるかなと見回してもそれらしき建物がありませんでした。

    六所神社から西に向かい、最後に坂を上って、須和田公園に着きました。須和田台地上にあり、ここから弥生中期から平安初期にかけての住居跡が発見されています。西に国府が、北に国分寺があり、当時としては人口密集地だったのです。
    さてトイレはあるかなと見回してもそれらしき建物がありませんでした。

    国分寺 寺・神社・教会

  • ここに昭和44年に復元された弥生中期初頭の竪穴住居がありましたが、数年前に不審火で焼失して今はありませんでした。ムム、残念。

    ここに昭和44年に復元された弥生中期初頭の竪穴住居がありましたが、数年前に不審火で焼失して今はありませんでした。ムム、残念。

  • 郭沫若のレリーフと同氏作「別須和田」の詩が公園内にありました。<br /><br />昭和3年から昭和12年まで日本に亡命し、市川市須和田の六所神社近くに住んだとのこと。昭和30年に中国学術文化視察団の団長として来日し、懐かしの旧居を訪れ、「別須和田」の詩を作ったとのことです。<br /><br />「草木有今昔 人情無變遷<br /> (中略)<br />  再来慶解放 別矣須和田」

    郭沫若のレリーフと同氏作「別須和田」の詩が公園内にありました。

    昭和3年から昭和12年まで日本に亡命し、市川市須和田の六所神社近くに住んだとのこと。昭和30年に中国学術文化視察団の団長として来日し、懐かしの旧居を訪れ、「別須和田」の詩を作ったとのことです。

    「草木有今昔 人情無變遷
     (中略)
    再来慶解放 別矣須和田」

  • 須和田公園を国分寺の方に行くと、坂を下ったあたりに郭沫若記念公園がありました。須和田の旧宅を移築して記念館が公開されています。入館料無料。

    須和田公園を国分寺の方に行くと、坂を下ったあたりに郭沫若記念公園がありました。須和田の旧宅を移築して記念館が公開されています。入館料無料。

    国分寺 寺・神社・教会

  • 坂道を登りきると正面に国分山国分寺の朱塗りの仁王門が見えてきました。この辺りは地名も国分です。現在は真言宗豊山派のお寺です。

    坂道を登りきると正面に国分山国分寺の朱塗りの仁王門が見えてきました。この辺りは地名も国分です。現在は真言宗豊山派のお寺です。

    国分寺 寺・神社・教会

  • 国分寺の仁王門、昭和53年に天平時代の創建当時の様式で復元されました。創建時には、金堂、講堂に何と七重塔があったとのことです。

    国分寺の仁王門、昭和53年に天平時代の創建当時の様式で復元されました。創建時には、金堂、講堂に何と七重塔があったとのことです。

    国分寺 寺・神社・教会

  • 戦前から戦後にかけての住職吉澤永弘氏の宝塔がありました。<br /><br />吉澤永弘氏は真言宗の僧侶ですが、市川在住した川柳作家阪井久良伎は、<br />「住職吉澤永弘氏は風流の僧で、日本新聞時分から余を知つてゐて話が合ふ。快活恬淡禪僧に近い。」(『真間名所』)と記しています。<br /><br />宝塔の碑文に永弘僧正の略歴が次のように書かれていました。<br /><br />國分寺第六十世永弘権大僧正本吉澤氏<br />明治十年十月十七日東京田園調布町守神蜜定二男生誕後成吉澤彦左衛門養子<br />明治廿二年入下総國分寺永豊室<br />同年十一月廿一日剃度<br />同廿三年九月四度加行成満<br />同廿八年四月於東京田端與楽寺<br />隋大阿賢信浴両部密灌受具足戒尚拝雷斧正盛教純亮誉興澄等極各流奥義<br />昭和十六年於総本山長谷寺成両大会已講<br />是先明治丗二年松戸西蓮寺晋住次転龍珠院同四十二年転補國分寺<br />昭和十三年後事託法資恒信隠退圓能寺<br />此間丗余年寺門益栄檀信帰徳化<br />又龍珠院西蓮寺圓能寺燈明寺等兼摂教化普及<br />尚宗務支所役員宗会議員等歴任宗冶功亦大<br />昭和廿一年進権大僧正栄位為宗門地方頭領 <br />昭和廿七年七月廿一日於國分寺示寂<br /><br />遺弟恒信当七回忌法要勤修建立五輪宝塔報師恩<br /> 昭和三十四年十月二十一日<br /> 大僧正慶信選書<br /><br />昭和丗四年十月廿一日<br />  遺弟恒信建之<br />

    戦前から戦後にかけての住職吉澤永弘氏の宝塔がありました。

    吉澤永弘氏は真言宗の僧侶ですが、市川在住した川柳作家阪井久良伎は、
    「住職吉澤永弘氏は風流の僧で、日本新聞時分から余を知つてゐて話が合ふ。快活恬淡禪僧に近い。」(『真間名所』)と記しています。

    宝塔の碑文に永弘僧正の略歴が次のように書かれていました。

    國分寺第六十世永弘権大僧正本吉澤氏
    明治十年十月十七日東京田園調布町守神蜜定二男生誕後成吉澤彦左衛門養子
    明治廿二年入下総國分寺永豊室
    同年十一月廿一日剃度
    同廿三年九月四度加行成満
    同廿八年四月於東京田端與楽寺
    隋大阿賢信浴両部密灌受具足戒尚拝雷斧正盛教純亮誉興澄等極各流奥義
    昭和十六年於総本山長谷寺成両大会已講
    是先明治丗二年松戸西蓮寺晋住次転龍珠院同四十二年転補國分寺
    昭和十三年後事託法資恒信隠退圓能寺
    此間丗余年寺門益栄檀信帰徳化
    又龍珠院西蓮寺圓能寺燈明寺等兼摂教化普及
    尚宗務支所役員宗会議員等歴任宗冶功亦大
    昭和廿一年進権大僧正栄位為宗門地方頭領 
    昭和廿七年七月廿一日於國分寺示寂

    遺弟恒信当七回忌法要勤修建立五輪宝塔報師恩
     昭和三十四年十月二十一日
     大僧正慶信選書

    昭和丗四年十月廿一日
      遺弟恒信建之

  • 国分寺を出て国分尼寺跡に着いた頃にはすっかり日が沈んで満月が上っていました。発掘されて、公園として整備され、金堂跡、講堂跡には基壇が復元されています。

    国分寺を出て国分尼寺跡に着いた頃にはすっかり日が沈んで満月が上っていました。発掘されて、公園として整備され、金堂跡、講堂跡には基壇が復元されています。

    国分寺 寺・神社・教会

  • 史跡下総国国分尼寺跡の碑

    史跡下総国国分尼寺跡の碑

  • 国分寺の台地を下ると再び国府台に登る坂道が続きます。ふたつの台地に挟まれた低地には酒屋さんがありました。かつて、じゅんさい池を水源とする平川という川が流れていましたが、今は暗渠になっています。右手上流方向をたどるとじゅんさい池に出ます。<br />

    国分寺の台地を下ると再び国府台に登る坂道が続きます。ふたつの台地に挟まれた低地には酒屋さんがありました。かつて、じゅんさい池を水源とする平川という川が流れていましたが、今は暗渠になっています。右手上流方向をたどるとじゅんさい池に出ます。

  • 夜も更けた国府台の道を歩きました。人通りも少なくさびしいです。途中、千葉商科大学の塀と真間山弘法寺の墓地との間の真っ暗な道をとぼとぼと歩き、弘法寺の境内を抜けて、真間商店街に続く石段に出ました。街の明かりが恋しいです。

    夜も更けた国府台の道を歩きました。人通りも少なくさびしいです。途中、千葉商科大学の塀と真間山弘法寺の墓地との間の真っ暗な道をとぼとぼと歩き、弘法寺の境内を抜けて、真間商店街に続く石段に出ました。街の明かりが恋しいです。

  • 弘法寺の石段を降り切り、左手にあるだろう真間の手児名霊堂を思いながら行くと朱塗りの橋に出ました。「つぎはし」と書かれています。<br /><br />万葉集の「足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ」の歌に因んで作られました。継橋は、真間の入江の開口部に国府台に至るために砂州を中継にして複数の板橋でつないだ橋との説が有力です。

    弘法寺の石段を降り切り、左手にあるだろう真間の手児名霊堂を思いながら行くと朱塗りの橋に出ました。「つぎはし」と書かれています。

    万葉集の「足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ」の歌に因んで作られました。継橋は、真間の入江の開口部に国府台に至るために砂州を中継にして複数の板橋でつないだ橋との説が有力です。

    国府台駅

  • 真間山弘法寺参道入り口。ここからは市川駅も近い。

    真間山弘法寺参道入り口。ここからは市川駅も近い。

  • 今日一日の行程です。古代遺跡などを探索しながら市川をぐるっと一回りしました。<br />市川の古代の地理・風土については、市川市教育委員会『郷土読本 市川の歴史を尋ねて』を参考にしました。

    今日一日の行程です。古代遺跡などを探索しながら市川をぐるっと一回りしました。
    市川の古代の地理・風土については、市川市教育委員会『郷土読本 市川の歴史を尋ねて』を参考にしました。

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  • 一歩人さん 2012/12/26 09:15:01
    ふ、ふ、ちい散歩みたいで、いいですね
    traveldogさんへ
    ふ、ふ、私は、江戸川区なので、市川はすぐそばですよね。

    ふ、ふ、文学散歩道もあるのですね。なかなか。

    タワーの風景もとてもよかったです。

    ありがとうございました。

    失礼しま〜す♪

    traveldog

    traveldogさん からの返信 2012/12/27 12:14:16
    RE: 読んでくださりありがとうございました。
    一歩人さんへ

    一歩人さんは、江戸川区ですか。市川は鼻の先ですね。
    私の祖父母が市川の出なので、市川に愛着があり、よくふらふらと散歩に行きます。

    読んでくださり、ありがとうございました。とても嬉しいです。

    > traveldogさんへ
    > ふ、ふ、私は、江戸川区なので、市川はすぐそばですよね。
    >
    > ふ、ふ、文学散歩道もあるのですね。なかなか。
    >
    > タワーの風景もとてもよかったです。
    >
    > ありがとうございました。
    >
    > 失礼しま〜す♪

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