2012/11/18 - 2012/11/18
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哈桑湖さん
1931年にスペイン王政が倒れてから、スペイン政界は左右両陣営の対立から、昏迷を極めます。
1936年には、総選挙で左翼系の人民戦線政府が、成立します。
人民戦線もブルジョワ議会制民主主義を志向する穏健派と、共産主義あるいは無政府主義革命を志向する強硬派が存在しました。
共産主義者たちは、ソ連のチェーカー(秘密警察)の影響を受け、右翼人物を暗殺で
排除します。これに反発をした右派が、急速に台頭します。
これに対抗するために左派勢力も、革命を叫びはじめました。
このような状況のなかでフランコ将軍はモロッコで、人民戦線政府に対して、反乱を起こします。
スペインの共産主義者たちは、無神論を唱え、教会への焼き討ち、神父の殺害を繰り返し、尼僧への凌辱行為までしました。
このことはフランコ陣営を利することになります。フランコ将軍は、反乱軍を率いて、イベリア半島上陸にあたり「自らを、祖国と神にささげる」と宣言していました。
信心深いスペインの若者たちは、恋人に別れを告げ、フランコ陣営に加わり、大勢が帰らぬ人となります。残された乙女たちは尼僧になっていきます。
スペインの反乱軍や植民地のモロッコ兵を、ドイツの空軍、海軍がイベリア半島に運びました。
ドイツは義勇軍の形をとっていた、コンドル軍団をスペインに送り込んだのです。
スペイン南部では、コンドル軍団将兵は、共産主義の魔手から、スペインを救うために、命がけでやってきたとされ、住民たちからは、大歓迎を受けました。カトリック教会もコンドル軍団に,宿舎として修道院をあてがうなど、援助を惜しみませんでした。
ところで、スペイン北部のバスク地方は、保守的な地域で人民戦線政府と、相容れない部分がありました。
しかし高度な自治を約束した、人民戦線政府側につきます。フランコ陣営は、統一スペインを目指していたからです。
フランコの反乱軍は、バスク地方にも迫ってきます。
ゲルニカの町の手前には、ムンダカ川が流れていました。人民戦線の兵士たちは、この川にかかるレンテリア橋という石橋を渡って、ゲルニカに入るものと、見られていました。
レッド・バロンとうたわれた第一次世界大戦の空の英雄であるマンフレート・フォン・リヒトホーフェン男爵の従弟である、ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン中佐が、
ドイツ・コンドル軍団の参謀長として、作戦を指揮していました。
ゲルニカの悲劇は、彼抜きには語れません。
1937年4月26日、リヒトホーフェン中佐は、作戦司令室に入ってきて、このレンテリア橋を主目標とした、橋に向かう交通路の破壊を命令したのです。
橋の少し西には、ゲルニカの町がありました。
それゆえこの橋のみの破壊であれば、新式のユンカースJu87 シュトゥーカ急降下爆撃機を使えば、ゲルニカの住民に被害を与えず、一発で破壊が可能でした。
しかしリヒトホーフェンは、旧式のユンカースJu 52爆撃機の使用を決めます。
しかも石橋に対して、高高度から焼夷弾投下を命じたのです。
これに対してひとりのドイツ将校は、「ゲルニカには木製の橋が多いようだな」と皮肉を込めて言ったようです。
なぜなら焼夷弾は、高高度から投下すると、木の葉が舞うように落下するからです。
最初に爆弾を投下したのは、コンドル軍団きっての操縦士と爆撃手を乗せたハインケル He 111爆撃機でしたが、橋をそれ駅前広場に落下したのです。
このあとユンカースJu52爆撃機が、レンテリア橋をめがけて焼夷弾を投下しますが、最後までこの橋は、無傷でした。
このゲルニカ爆撃で無辜の市民が大勢犠牲になりました。このことは国際的な反響を呼び、
ピカソは義憤にかられて、「ゲリニカ」の絵を完成させます。
ゲルニカの破壊は、フランコ陣営は、人民戦線による自作自演だと、必死の嘘をついてきました。
またフランコを支持する人たちは、ピカソ作のゲルニカを、狂人の絵と呼んでいました。
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バスは鳴門大橋に近づきます
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大塚美術館入り口です
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目の前の建物です
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中に入ると巨大なエスカレーター
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また入り口が
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大塚美術館のお庭です
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ピカソ作 ゲルニカ
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ドイツ・コンドル軍団により1937年4月26日爆撃を受けました。
戦後、コンドル軍団の戦闘機隊所属で、バトル・オブ・ブリテンで名をはせた、ちょび髭がトレードマークの、アドルフ・ガランドが、ゲルニカ爆撃に参加したクルーたちに、ゲルニカ爆撃について尋ねると、彼らは口をつむったようです。
なお近年、ドイツ連邦議会は、コンドル軍団に参加した将兵の、名誉の剥奪を、議決しています。 -
ゲルニカ爆撃に参加した最終波のクルーたちは、ゲルニカの町は黒煙がたなびき、爆撃の目標地点など、視認できなかったようです。
でも爆弾を投下せずに引き返せません。なぜなら敵戦闘機につかまったらおしまいです。また爆弾を抱いたまま、基地に着陸するといった危険な行為はできません。
クルーたちは、どこに落ちるかわからないまま、爆弾を投下したようです。 -
ゲルニカの人々は、敵とはいえ、教会は攻撃しないと信じていました。
でも教会にも爆弾は落ちました。 -
義憤にかられて、ゲルニカを書き上げます。
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ドイツ・コンドル軍団の将兵は、スペイン南部では、熱烈な歓迎を受けました。
そして兵士たちは、地元娘に大変もてて、女の子には不自由しませんでした。
ところが北部に行くと、地元民たちの態度は、冷淡になります。
神父たちは、コンドル軍団の人間と地元娘の交際を禁止する声明すら出します。
ドイツ人軍医の管理のもと、コンドル軍団専用の慰安所が設置されます。
激戦のあとは、慰安所は大盛況だったようです。
順番が待てない兵士たちは、私娼に手を出し、病気を感染させられ、ドイツ本国送りが、ひっきりなしにあったようです。
日本のシベリア出兵も、私娼に手を出して病気になる者がいて、それが周囲の人間に感染させたようです。
慰安所の設置は、戦争には感染予防と、犯罪防止のために、必要悪なんです。 -
リヒトホーフェン中佐は、オイス山の頂上から、ゲルニカの町が破壊されたのをみて、技術の勝利と書き記したのです。
リヒトホーフェンは後に、スターリングラードへの無差別爆撃を行っています。
貴族でありながら、ヒトラーお気に入りの将軍の一人となります。
クラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵大佐による、ヒトラー暗殺未遂事件には、フォンの称号を持つ、貴族出身の軍人が、多く関与していました。
ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンは、この事件後、ヒトラー総統のもとにかけつけ、フォン族を代表して、総統に忠誠を誓っています。 -
人民戦線の兵士たちは、西のビルバオに退却する際に、ゲルニカの町の手前に架かるレンテリア橋を渡るものと、思われました。
そこでリヒトホーフェんは、この橋の破壊することを、決意します。
ただなぜ、橋を破壊するだけなら、急降下爆撃機を使わなかったのでしょうか?
ユンカースJu87シュトゥーカなら、一発で橋を破壊できました。
この爆撃機は、命中精度が高く、ポーランド、フランス戦で大活躍をしました。
使用されたユンカースJu52爆撃機は、爆弾投下のさいに、爆撃手室を機外に押し出すんです。当然空気抵抗は増し、機体は揺れます。 -
日本軍による重慶爆撃は1938年に開始。
航続距離の短い戦闘機は、途中で引き返したため、重慶上空は、爆撃機のみで突入しました。
曇天の多い重慶では、爆撃目標を定めることが、困難でした。
こちらも一般市民が巻き添えに。
ニュルンベルク裁判でも東京裁判でも、都市爆撃は問われませんでした。
連合軍もハンブルクやドレスデンへの無差別爆撃、広島・長崎への原爆投下を行っていますからね。
そして現在でも、アフガン,イラク、リビアでおなじようなことが。 -
このスペイン市民戦争、フランコ陣営には、モロッコ兵がいました。彼らは、スペイン人から見下され、虐げられ続けてきました。このモロッコ人のスペイン人に対する敵愾心を、フランコ陣営は利用して、人民戦線との激戦地に投入しました。
占領した地域において、モロッコ兵たちは、略奪、強姦と、やり放題でした。 -
ドイツ・コンドル軍団の戦没者の地には、各地に墓碑銘がたてられます。
ただドイツ語表記とスペイン語表記では、異なっています
ドイツ語表記では「自由とスペインのために」
スペイン語表記では「神とスペインのために」 -
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美術の教科書にあったような
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