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建部大社(たけべ たいしゃ)は、滋賀県大津市に所在する近江國一之宮神社である。<br /><br /><br />該社、御祭祀は、<br /><br />日本武尊(やまとたけるのみこと)<br />天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)<br />大己貴命(おおなむちのみこと)<br /><br />の御3柱である。<br /><br /><br />該社、筆頭御祭祀たる日本武尊(やまとたけるのみこと)(景行11年(72年)〜景行43年(113年))は、父君たる景行帝(けいこう てんのう)(垂仁17年(前13)〜景行60年(130年)12月25日)の命を受け東夷平定の帰路、淡海國伊吹山麓に於いて大白猪に遭遇したが、日本武尊は該獣をして単なる山神の使臣と黙殺した処、実は該猪こそ山神の仮姿で、日本武尊の無礼に激怒した山神は該山中に大氷雨を降らせ、此れが原因で日本武尊は大病に臥し、遂に、伊勢國能褒野(現 三重県亀山市)に於いて薨去するに至った。<br /><br />景行帝は帰還叶わぬ日本武尊の死を嘆き悼み、景行46年(116年)に、妃 布多遅比売命(ふだじひめ)、及び、遺児 稲依別王(いなよりわけのみこ)に対し、勅命を以って、淡海國神埼郡建部郷千草獄(現 東近江市五個荘)の地に社殿を造営させ、日本武尊を建部大神(たけべのおおがみ)として奉祀したのが該社創建とされる。<br /><br />白鳳4年(675年)に、稲依別王子孫たる、建部連安麻呂(たけべのむらじ やすまろ)は、天武帝(てんむ てんのう)(舒明3年(631年)?〜天武15年(686年)10月4日)の勅命に依り、近江國守護神として当時近江國府が所在した瀬田郷大野山嶺に遷祀させ、更に、天平勝宝7年(755年)3月に、建部公伊賀麻呂は、孝謙女帝(こうけん てんのう)(養老2年(718年)〜神護景雲4年(770年)9月1日)の勅命に依り該山麓に迂祀遷宮し、同時に大和國大神神社より大己貴命(おおなみちのみこと)を勧請させ権殿に祭祀し近江國一之宮を宣下せられた。<br /><br /><br />貞観2年(860年)3月 勅命に依り官社指定 正六位上<br />貞観5年(863年)6月8日 従五位下<br />貞観10年(868年)7月11日 従四位上<br />應和2年(962年)6月 正三位勲四等<br />長和3年(1014年)8月 従二位<br />延久4年(1072年)6月正一位勲一等<br /><br />延喜式神名帳(えんぎしき しんめいちょう)記述では、延長5年(927年)式内名神大社。<br /><br /><br />源 頼朝(みなもとの よりとも)(久安3年(1147年)5月9日〜建久10年(1199年)2月9日)は、平治ノ乱(へいじのらん)(平治元年(1160年)1月19日〜同年4月19日)に於いて反乱側加担者として本来は死罪打首が妥当とされたが、若年でもあり死一等を免じ伊豆國流罪が決定し、都を永歴元年(1160年)3月11日に出発したが、同年同月20日に該社に参篭し、前途安泰を祈願した旨が平治物語(へいじ ものがたり)に記載されている。<br />後に、壇ノ浦の合戦(だんのうらのかっせん)(元歴2年(1185年)4月25日)に拠り平家一族が滅亡した事を受け、後白河法皇(ごしらかわ ほうおう)(大治2年(1127年)10月18日〜建久3年(1197年)4月28日)の招致に拠り、建久元年(1190年)11月に征夷大将軍宣下の為に右大将として上洛途上、報賽の為に該社を再訪し多数の神宝、及び、瀬田郷在300封戸を寄進した。<br /><br /><br />第82代 後鳥羽天皇(ごとば てんのう)(治承4年(1180年)8月6日〜延應元年(1239年)3月28日)は、建久6年(1196年)1月11日に皇位を長子 土御門天皇(つちみかど てんのう)(建久6年(1196年)1月3日〜寛喜3年(1231年)11月6日)に譲位後は上皇として院政を行使したが、当時の鎌倉幕府への鬱積不満から京都朝廷側への権力奪還を策し、承久3年(1221年)5月に承久ノ変(じょうきゅうのへん)を勃発させた。<br />然し、畿内の武士だけの朝廷側は、大軍の鎌倉側に対し朝廷軍は多勢に無勢の状態であり、東海道を行軍上洛した北條時房(ほうじょう ときふさ)(安元元年(1175年)〜延應2年(1240年)2月18日)は、上洛途上、瀬田川の合戦(せたがわのかっせん)を目前に該社朝廷側拠点となる事を恐れ、同年6月5日に該社を焼討させ全焼に至らしめた。<br /><br /><br />該社は、第4代鎌倉幕府将軍となった九條頼経(くじょう よりつね)(建保6年(1218年)2月12日〜康元元年(1256年)9月1日)に依り、承久の変勃発の翌々年たる貞應2年(1223年)に現在地に移遷再興されたが、該年で頼経は満5歳で、元服が嘉禄元年(1225年)、将軍宣下に依る征夷大将軍就任は翌嘉禄2年(1226年)たる事を頼経自身の年齢と判断分別を加味考慮すると、該社再興の張本人は、源頼朝の本妻で鎌倉幕府に於ける尼将軍たる北條政子(ほうじょう まさこ)(保元2年(1157年)〜嘉禄元年(1225年)8月16日)が、頼朝の遺徳を偲び、武神として武門の篤き崇敬を受けていた事から、該社再興を実現させたと云うのが真実だと思われる。<br /><br />更に、現在地に奉遷された際に、翌朝、社頭に杉3株が生えていた事から、瑞兆を奇禍として、爾来、3本杉をして該社御神木、且つ、神紋とした。<br /><br /><br />鎌倉末期に、持明院、及び、大覚寺に端を発した南北朝対立は皇室以外に、公家、武士階級を巻き込み権力争奪戦に発展したが、足利尊氏(あしかが たかうじ)(嘉元3年(1305年)8月18日〜延久3年(1358年)6月7日)、及び、弟 直義(あしかが ただよし)(徳治元年〜正平7年(1352年)3月12日)兄弟対立を発生させたが、観應の擾乱(かんおうのじょうらん)(観應元年(1350年)〜観應2年(1351年)で両者の対立は決定的になり、南朝方頂点たる 後醍醐天皇(ごだいご てんのう)(正應元年(1288年)11月26日〜延元4年(1339年)9月19日)配下の直義に対し、北朝方尊氏配下の武将として佐々木道誉(ささき どうよ)(永仁4年(1296年)〜文中2年(1373年)9月13日)との間に瀬田川を挟み唐橋争の為に合戦が生じ際に、道誉は否応無く該社に火を放ち社殿悉く焼捨させ該社は烏有に帰した。<br /><br /><br />室町時代に於ける世情は、下克上に拠る不安定要素が強く、該社再興も覚束無ぬ状態が継続したが、第4代将軍 足利義持(あしかが よしもち)(正中3年(1388年)3月12日〜應永35年(1428年)2月3日)の時代に、漸く再興が成し遂げられた。<br /><br />また、第3代将軍 足利義満(あしかが よしみつ)(正平13年(1358年)9月25日〜應永15年(1408年)5月31日)が死の前年たる應永14年(1407年)4月に該社に参拝祈願し瀬田郷300戸を封戸した。<br /><br /><br />應仁・文明ノ乱(おうにん ぶんめいのらん)(應仁元年(1467年)〜文明9年(1477年))は、山名宗全(やまな そうげん)(應永11年(1404年)7月6日〜文明5年(1475年)4月15日)対 室町幕府管領 細川勝元(ほそかわ かつもと)(永享2年(1430年)〜文明5年(1475年)6月6日)間に於いて、室町幕府を巻込み対立が激化した事で発生した内乱である。<br /><br />宗全は、應仁元年(1467年)5月に、上京ノ合戦(かみぎょうのたたかい)の余勢を駆い該社殿に放火し炎上させた。<br /><br />該時代は混乱を極めていたとは言え、社殿造営は、文明14年(1482年)で神事再興に至っては明應7年(1498年)であり、数年間は神官不在社と言う信じ難い状態が続いた。<br /><br /><br />該社は、室町末期から江戸初期に於いて神道史から消滅する。<br />即ち、該社に於いて神仏習合が進行した結果、寺院勢力が台頭し、該社も仏教勢力増大に反比例するが如く神道勢力が減退した為で、神道史に再登場したのは、徳川幕府第3代将軍 徳川家光(とくがわ いえみつ)(慶長9年(1604年)8月12日〜慶安4年(1651年)6月8日)に幕府から瀬田郡神領郷に於いて20石を安堵される様になってからである。<br /><br /><br />該社が息を吹き返すのは、幕末になり全国に尊皇攘夷論が展開し、勤皇思想が勃興した事から、再生への道がはじまる。<br /><br /><br />該社は、明治32年(1899年)12月8日附で内務省より官幣大社に列せられ国家最高社格が付与された。<br />此れは、当時の明治政府に拠る歴史修史事業進行と共に皇室に於ける南北朝正統論展開に対する世論台頭の懸念から、日本武尊を筆頭祭祀とする該社を重視させたもので、官幣大社としては武蔵國氷川神社より指定拝命は遅いが、信濃國諏訪神社(現 諏訪大社)、宗像神社(現 宗像大社)等々より遥かに早く、当時の政府が該問題を如何に重要視していたかが、朧げながら該論に於ける対抗策が理解される。<br /><br /><br />皇太子嘉仁(よしひと)親王は、明治天皇(めいじ てんのう)(嘉永5年(1852年)11月3日〜明治45年(1912年)7月30日)崩御を受け、直ちに践祚され第123代天皇となったが、大正4年(1915年)11月10日に京都に於いて即位式を敢行される事になり、宮内省から該社造更営が聴許され実施され、殆どの境内社が面目を一新し現在に至る。<br /><br /><br />昭和50年(1975年)4月15日に鎮座1300年大祭が盛大に挙行された。<br /><br /><br /><br />明治4年(1871年)7月1日附 大政官布告に依り 郷社兼縣社<br />明治18年(1885年)6月15日附 官幣中社<br />明治32年(1897年)12月8日附 官幣大社<br /><br /><br /><br />表紙の写真は 御神木三本杉、及び、該社巫女<br /><br /><br /><br />大津市神領1−15−1<br />?: 077−545−0038<br />京阪電気鉄道石山坂本線唐橋前駅 徒歩12分<br />http://takebetaisha.jp/top/<br />http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&amp;view:oid=112

近江國一之宮 建部大社参拝記

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2012/11/24 - 2012/11/24

8位(同エリア328件中)

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

建部大社(たけべ たいしゃ)は、滋賀県大津市に所在する近江國一之宮神社である。


該社、御祭祀は、

日本武尊(やまとたけるのみこと)
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
大己貴命(おおなむちのみこと)

の御3柱である。


該社、筆頭御祭祀たる日本武尊(やまとたけるのみこと)(景行11年(72年)〜景行43年(113年))は、父君たる景行帝(けいこう てんのう)(垂仁17年(前13)〜景行60年(130年)12月25日)の命を受け東夷平定の帰路、淡海國伊吹山麓に於いて大白猪に遭遇したが、日本武尊は該獣をして単なる山神の使臣と黙殺した処、実は該猪こそ山神の仮姿で、日本武尊の無礼に激怒した山神は該山中に大氷雨を降らせ、此れが原因で日本武尊は大病に臥し、遂に、伊勢國能褒野(現 三重県亀山市)に於いて薨去するに至った。

景行帝は帰還叶わぬ日本武尊の死を嘆き悼み、景行46年(116年)に、妃 布多遅比売命(ふだじひめ)、及び、遺児 稲依別王(いなよりわけのみこ)に対し、勅命を以って、淡海國神埼郡建部郷千草獄(現 東近江市五個荘)の地に社殿を造営させ、日本武尊を建部大神(たけべのおおがみ)として奉祀したのが該社創建とされる。

白鳳4年(675年)に、稲依別王子孫たる、建部連安麻呂(たけべのむらじ やすまろ)は、天武帝(てんむ てんのう)(舒明3年(631年)?〜天武15年(686年)10月4日)の勅命に依り、近江國守護神として当時近江國府が所在した瀬田郷大野山嶺に遷祀させ、更に、天平勝宝7年(755年)3月に、建部公伊賀麻呂は、孝謙女帝(こうけん てんのう)(養老2年(718年)〜神護景雲4年(770年)9月1日)の勅命に依り該山麓に迂祀遷宮し、同時に大和國大神神社より大己貴命(おおなみちのみこと)を勧請させ権殿に祭祀し近江國一之宮を宣下せられた。


貞観2年(860年)3月 勅命に依り官社指定 正六位上
貞観5年(863年)6月8日 従五位下
貞観10年(868年)7月11日 従四位上
應和2年(962年)6月 正三位勲四等
長和3年(1014年)8月 従二位
延久4年(1072年)6月正一位勲一等

延喜式神名帳(えんぎしき しんめいちょう)記述では、延長5年(927年)式内名神大社。


源 頼朝(みなもとの よりとも)(久安3年(1147年)5月9日〜建久10年(1199年)2月9日)は、平治ノ乱(へいじのらん)(平治元年(1160年)1月19日〜同年4月19日)に於いて反乱側加担者として本来は死罪打首が妥当とされたが、若年でもあり死一等を免じ伊豆國流罪が決定し、都を永歴元年(1160年)3月11日に出発したが、同年同月20日に該社に参篭し、前途安泰を祈願した旨が平治物語(へいじ ものがたり)に記載されている。
後に、壇ノ浦の合戦(だんのうらのかっせん)(元歴2年(1185年)4月25日)に拠り平家一族が滅亡した事を受け、後白河法皇(ごしらかわ ほうおう)(大治2年(1127年)10月18日〜建久3年(1197年)4月28日)の招致に拠り、建久元年(1190年)11月に征夷大将軍宣下の為に右大将として上洛途上、報賽の為に該社を再訪し多数の神宝、及び、瀬田郷在300封戸を寄進した。


第82代 後鳥羽天皇(ごとば てんのう)(治承4年(1180年)8月6日〜延應元年(1239年)3月28日)は、建久6年(1196年)1月11日に皇位を長子 土御門天皇(つちみかど てんのう)(建久6年(1196年)1月3日〜寛喜3年(1231年)11月6日)に譲位後は上皇として院政を行使したが、当時の鎌倉幕府への鬱積不満から京都朝廷側への権力奪還を策し、承久3年(1221年)5月に承久ノ変(じょうきゅうのへん)を勃発させた。
然し、畿内の武士だけの朝廷側は、大軍の鎌倉側に対し朝廷軍は多勢に無勢の状態であり、東海道を行軍上洛した北條時房(ほうじょう ときふさ)(安元元年(1175年)〜延應2年(1240年)2月18日)は、上洛途上、瀬田川の合戦(せたがわのかっせん)を目前に該社朝廷側拠点となる事を恐れ、同年6月5日に該社を焼討させ全焼に至らしめた。


該社は、第4代鎌倉幕府将軍となった九條頼経(くじょう よりつね)(建保6年(1218年)2月12日〜康元元年(1256年)9月1日)に依り、承久の変勃発の翌々年たる貞應2年(1223年)に現在地に移遷再興されたが、該年で頼経は満5歳で、元服が嘉禄元年(1225年)、将軍宣下に依る征夷大将軍就任は翌嘉禄2年(1226年)たる事を頼経自身の年齢と判断分別を加味考慮すると、該社再興の張本人は、源頼朝の本妻で鎌倉幕府に於ける尼将軍たる北條政子(ほうじょう まさこ)(保元2年(1157年)〜嘉禄元年(1225年)8月16日)が、頼朝の遺徳を偲び、武神として武門の篤き崇敬を受けていた事から、該社再興を実現させたと云うのが真実だと思われる。

更に、現在地に奉遷された際に、翌朝、社頭に杉3株が生えていた事から、瑞兆を奇禍として、爾来、3本杉をして該社御神木、且つ、神紋とした。


鎌倉末期に、持明院、及び、大覚寺に端を発した南北朝対立は皇室以外に、公家、武士階級を巻き込み権力争奪戦に発展したが、足利尊氏(あしかが たかうじ)(嘉元3年(1305年)8月18日〜延久3年(1358年)6月7日)、及び、弟 直義(あしかが ただよし)(徳治元年〜正平7年(1352年)3月12日)兄弟対立を発生させたが、観應の擾乱(かんおうのじょうらん)(観應元年(1350年)〜観應2年(1351年)で両者の対立は決定的になり、南朝方頂点たる 後醍醐天皇(ごだいご てんのう)(正應元年(1288年)11月26日〜延元4年(1339年)9月19日)配下の直義に対し、北朝方尊氏配下の武将として佐々木道誉(ささき どうよ)(永仁4年(1296年)〜文中2年(1373年)9月13日)との間に瀬田川を挟み唐橋争の為に合戦が生じ際に、道誉は否応無く該社に火を放ち社殿悉く焼捨させ該社は烏有に帰した。


室町時代に於ける世情は、下克上に拠る不安定要素が強く、該社再興も覚束無ぬ状態が継続したが、第4代将軍 足利義持(あしかが よしもち)(正中3年(1388年)3月12日〜應永35年(1428年)2月3日)の時代に、漸く再興が成し遂げられた。

また、第3代将軍 足利義満(あしかが よしみつ)(正平13年(1358年)9月25日〜應永15年(1408年)5月31日)が死の前年たる應永14年(1407年)4月に該社に参拝祈願し瀬田郷300戸を封戸した。


應仁・文明ノ乱(おうにん ぶんめいのらん)(應仁元年(1467年)〜文明9年(1477年))は、山名宗全(やまな そうげん)(應永11年(1404年)7月6日〜文明5年(1475年)4月15日)対 室町幕府管領 細川勝元(ほそかわ かつもと)(永享2年(1430年)〜文明5年(1475年)6月6日)間に於いて、室町幕府を巻込み対立が激化した事で発生した内乱である。

宗全は、應仁元年(1467年)5月に、上京ノ合戦(かみぎょうのたたかい)の余勢を駆い該社殿に放火し炎上させた。

該時代は混乱を極めていたとは言え、社殿造営は、文明14年(1482年)で神事再興に至っては明應7年(1498年)であり、数年間は神官不在社と言う信じ難い状態が続いた。


該社は、室町末期から江戸初期に於いて神道史から消滅する。
即ち、該社に於いて神仏習合が進行した結果、寺院勢力が台頭し、該社も仏教勢力増大に反比例するが如く神道勢力が減退した為で、神道史に再登場したのは、徳川幕府第3代将軍 徳川家光(とくがわ いえみつ)(慶長9年(1604年)8月12日〜慶安4年(1651年)6月8日)に幕府から瀬田郡神領郷に於いて20石を安堵される様になってからである。


該社が息を吹き返すのは、幕末になり全国に尊皇攘夷論が展開し、勤皇思想が勃興した事から、再生への道がはじまる。


該社は、明治32年(1899年)12月8日附で内務省より官幣大社に列せられ国家最高社格が付与された。
此れは、当時の明治政府に拠る歴史修史事業進行と共に皇室に於ける南北朝正統論展開に対する世論台頭の懸念から、日本武尊を筆頭祭祀とする該社を重視させたもので、官幣大社としては武蔵國氷川神社より指定拝命は遅いが、信濃國諏訪神社(現 諏訪大社)、宗像神社(現 宗像大社)等々より遥かに早く、当時の政府が該問題を如何に重要視していたかが、朧げながら該論に於ける対抗策が理解される。


皇太子嘉仁(よしひと)親王は、明治天皇(めいじ てんのう)(嘉永5年(1852年)11月3日〜明治45年(1912年)7月30日)崩御を受け、直ちに践祚され第123代天皇となったが、大正4年(1915年)11月10日に京都に於いて即位式を敢行される事になり、宮内省から該社造更営が聴許され実施され、殆どの境内社が面目を一新し現在に至る。


昭和50年(1975年)4月15日に鎮座1300年大祭が盛大に挙行された。



明治4年(1871年)7月1日附 大政官布告に依り 郷社兼縣社
明治18年(1885年)6月15日附 官幣中社
明治32年(1897年)12月8日附 官幣大社



表紙の写真は 御神木三本杉、及び、該社巫女



大津市神領1−15−1
?: 077−545−0038
京阪電気鉄道石山坂本線唐橋前駅 徒歩12分
http://takebetaisha.jp/top/
http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=112

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
4.5
グルメ
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
JALグループ JRローカル 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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この旅行記へのコメント (12)

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  • たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん 2014/03/11 23:38:01
    す・すごい・・・。

    旅行記読ませて頂きました。
    調べられた内容、すごいです。
    私は地元なんで建部さんにも・・・、歩いて30分位で行けるんですが、ここまで深くは考えたことがないです。
    石山近郊の住人は、「安全のお守り神」と言うふうに思われている方も多いですね。滋賀県だと「建部さん」か「多賀大社」の「交通安全お守り」を車に貼り付けている方ってホントに多いです。
    またこちらに来られた際は旅行記期待しております。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2014/03/13 12:43:27
    拝復
    たけちゃんティムちゃんはるちゃん・ついでにおまけのまゆみさま、はじめまして。


    過分なお褒めのお言葉を賜りまして深謝しております。

    あの旅行記は着手するまで、史料を揃えるだけで3年かかった旅行記です。兎に角、東京には国立国会図書館にも史料らしい物が無く、神社本庁内の資料室に合った、唯一の史料を元に作成したのが、あの旅行記でした。

    多賀大社の方が未だ史料らしい史料が散見されます。

    今後とも何卒宜敷くお願いします。



    横浜臨海公園
  • きなこさん 2013/06/10 08:33:08
    そうなんだ〜〜
    こんにちは 横浜臨海公園さん

    先日 京阪の「古都古都」?とか言う石山線の一日乗車券を買って浜大津から途中下車の旅をして来たんですが、ここは多分終点の駅でしょうか?

    そんなに大きな神社じゃなかったんで さらっとお参りさせて頂いたんですが、こんな有名な神社だったんですね 私は外見だけで・・・罰当り者です

    とっても勉強になりました
    これはもう一度行って来ないといけません(^^)


      きなこ

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2013/06/10 10:29:13
    拝復
    きなこさま、こんにちは。


    メッセージを賜りまして誠に有難うございました。

    > 先日 京阪の「古都古都」?とか言う石山線の一日乗車券を買って浜大津から途中下車の旅をして来たんですが、ここは多分終点の駅でしょうか?
    京阪石山線終点の1つ手前の駅でございます。
    とても、一之宮がしそうな雰囲気とはかけ離れた感じでした。

    > そんなに大きな神社じゃなかったんで さらっとお参りさせて頂いたんですが、こんな有名な神社だったんですね 私は外見だけで・・・罰当り者です
    > これはもう一度行って来ないといけません(^^)
    →平日であれば参拝者も少なく、落ち着いて訪れる事ができると思います。
    また、クチコミとして投稿させて頂きました飲食店も、さりげなく好印象でした。



    横浜臨海公園
  • 潮来メジロさん 2013/02/23 21:07:10
    訪問回数900回目、ありがとうございました。ヾ(^o^)
    横浜臨海公園さん、こんばんは! ヾ(^o^)
    毎度、訪問&投票ありがとうございました。
    昨儀日、横浜臨海公園さんの訪問回数が、900回目となっておりました。
    拙いブログなのに、度々お越し戴き、ありがとうございました。

    > 建部大社
    >
    > 皇太子殿下 皇太子妃殿下 行啓記念樹
    > 今上天皇皇后両陛下が、昭和56年(1981年)10月25日に該社行
    > 啓参拝の際に植樹した杉樹。

    この杉の木も、根が一緒なのに、幹が3本・・・。不思議ですね。
    3本の苗木を一緒に植えると、こうなるのでしょうか?
    それとも、何か人間が手を加えて、こういう形に成長するようにしたものなのでしょうか。

    ではまた・・・。(^o^)/~~~
      (潮来メジロ)

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2013/02/25 14:09:40
    拝復
    潮来メジロさま、こんにちは。


    メッセージを賜りまして誠に有難うございました。

    因みに、潮来メジロさまが小生のページを訪問されまして762回となっておりました。

    > この杉の木も、根が一緒なのに、幹が3本・・・。不思議ですね。
    > 3本の苗木を一緒に植えると、こうなるのでしょうか?
    > それとも、何か人間が手を加えて、こういう形に成長するようにしたものなのでしょうか。
    →小生も疑問を抱き当日案内して下さいました巫女に質問をしました処、元来が根元で3本に分れる特別種との説明でした。

    また、御暇なときにお立ち寄りを賜れば幸甚でございます。



    横浜臨海公園
  • ムロろ~んさん 2012/12/24 23:19:01
    きれいに掃除されているのに驚きました。
    横浜臨海公園様

    ムロろ〜んです。いつもお世話になっております。
    建部大社の旅行記を拝見しました。

    まず一番見て驚いたのが、参道の落ち葉がなかったこと、きれいに掃除されているのだなぁと思いました。本当に気持ち良くお参りすることができます。11月下旬、紅葉まっ盛りですが、ここまでするのは大変だと思います。

    私も毎日外の落ち葉掃除をするのですが、翌日になるとまた葉が落ちるのです。

    年末になり大忙しのことと思われますが、お身体だけはどうぞご自愛下さい。そして来年も良い年になるようお祈りいたします。


    ムロろ〜ん(-人-)

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2012/12/25 12:43:26
    拝復
    ムロろ〜んさま、こんにちは。


    掲示板にコメントを賜りまして誠に有難うございました。

    建部大社では此の時期、1日に4回清掃されるそうです。

    全く、此の時期は何所でもそうですが、応仁の乱状態ですね。


    横浜臨海公園
  • りんごあめさん 2012/12/21 12:56:47
    はじめまして
    横浜臨海公園さん、はじめまして。

    先日は旅行記に訪問&投票有難うございました。

    巫女さんの笑顔が可愛いですね。
    紅葉の名残もあり、神社をじっくり巡る旅も良いですね。

    りんごあめ より。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2012/12/23 21:26:08
    拝復
    りんごあめさま、こんばんは。


    掲示板にメッセージを賜りまして誠に有難うございました。

    建部大社は、付近の社寺から比較すると地味な存在ですが、なかなか由緒があり、境内の1つ1つに年代を感じさせるものがございました。

    他の一之宮旅行記も作成予定です。

    何卒、ご期待を!



    横浜臨海公園
  • 鴨川の夕立!さん 2012/12/08 20:37:37
    石灯籠!
    味のある常夜灯ですね

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2012/12/10 11:04:53
    拝復
    鴨川の夕立さま、こんにちは。


    掲示板にメッセージを賜りながら、返事を差し上げるのが遅くなりまして、申し訳ございませんでした。

    件の石燈籠は一之鳥居直下にございます。

    大正天皇の御大礼式が大正4年(1915年)11月10日に京都御所で執行される事を受け、建部大社が全面的に造営物更改が実施された中で、該石灯籠も設置された様です。

    是非とも、鴨川の夕立さまに拠る建部大社の旅行記を投稿を期待しております。



    横浜臨海公園

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