2006/12/02 - 2006/12/14
14位(同エリア30件中)
魅々さん
古代の商業都市ヴィディシャーから9キロメートルほどのサーンチーの小高い丘の上には、マハー・ストゥーパ(大塔)として知られる第1ストゥーパを中心に、多くのストゥーパや祠堂、僧院址などが残っています。
約50の遺構のほとんどは、古い擁壁によって平らにされた約380メートルに200メートルの台地に散在しています。
イギリスのテイラー将軍によって発見された1818年当時、この仏教遺跡は何世紀も前から廃墟と化して植物におおわれていました。
本格的な学術調査と発掘が行われたのは1912年から1919年にかけてでした。
その調査報告書によれば、これらの建造物の造営は2期に大別され、
第1期は古代のマウリヤ朝から シュンガ朝、サータヴァーハナ朝の時代(前3世紀〜後1世紀)であり
、
第2期は中世のグプタ朝以降の時代 ( 4世紀〜11世紀)とされています。
したがってサーンチーは、インドにおいて仏教が栄えた ほとんどの時代を通じて、一大仏教センターとして機能していたのでした。
ブッダの生涯と直接の関係もない地域に、これほど栄え、多くの施設が建てられたのは、ヴィディシャーの商人たちの保護によるものと考えられています。
写真はサーンチーの復元図です。
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- 一人旅
- 交通手段
- 観光バス
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- ユーラシア旅行社
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サーンチー仏教遺跡の配置図です。
-
2006年12月6日、サーンチー仏教遺跡を訪れました。
遺跡はひろびろとした、芝生の公園にありました。 -
写真の第1ストゥーパは、サーンチーの遺跡の中心で、最大の規模を誇ります。
紀元前 3世紀、マウリヤ朝のアショーカ王 (在位・前 268頃〜前 232頃 ) の時代に創建されました。
最初は直径が現在の半分程度の大きさでしたが、1世紀後のシュンガ朝の時代にその焼成レンガによるストゥーパを核として大幅な「増広」が行われ、全体は石でおおわれました。
その結果 第1ストゥーパは、ドーム状の「覆鉢 (ふくはち)」の高さが約 16m、基壇の直径が約 36mという、大規模なものとなりました。 -
古来インドでは、聖なるもの(チャイティヤ)の周りを時計回りの方向でめぐることが礼拝行為となり、その道筋を「繞道 (にょうどう 」といっていました。
第1ストゥーパでは繞道が2段構成になっています。
高さ約 5mある上の繞道への階段は写真にように南側につけられていて、その手すりにはわずかにレリーフ彫刻が残っています。
下の繞道は 高さ 3mを超える石造の「欄楯 (らんじゅん)」で囲まれていますが、も古い時代には 木製の柵であったろうと推測されています。 -
下の繞道への四方の入り口には「トラナ(記念門)」が立ち、くまなくレリーフ彫刻がほどこされています。
これらの門の形も木造のものを石で置き換えた姿をしていています。
日本の鳥居もこれが原型でないかともいわれています。 -
第1ストゥーパの四方のトラナには、1世紀初めのサータヴァーハナ朝時代に 南、北、東、西の順で建てられたと推定されています。
これらのトラナは浮き彫りでうめつくされています。それらのモチーフは、仏伝図、ブッダの前生の説話を描く「本生図(ほんしょうず)」、そして 仏教のシンボル群です。
これらのさまざまな光景の描写と装飾が、各トラナの 2本の柱と、それをつなぐ3本の梁に、びっしりと描かれています。
写真は北の塔門です。 -
東の塔門です。
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南の塔門です。
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西の塔門です。
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写真は第3ストゥーパです。第1ストゥーパの北側 60mほどの所に位置し、1世紀に建造されました。
規模は 基壇の直径が約15mなので、第 2ストゥーパとほぼ同じです。
形態は第1ストゥーパを小規模にしていて、傘蓋の数が 1枚であること以外は、かつては第1ストゥーパと同じでしたが、今では 周の欄楯が失われ、トラナも南側の1基しかありません。
このストゥーパの内部の小室からは、ふたつの凍石製の舎利容器が発見されました。
これらはブッダの十大弟子のうちのシャーリプトラ(舎利弗 しゃりほつ)と マハーマウドガリヤーヤナ(摩訶目揵連 まかもっけんれん)の名が記されていました。
現在は丘の上の 新しい寺院に保存されているとのことでした。 -
第3ストゥーパのトラーナです。
お札のデザインに使われているとかで、ガイドさんがお札を見せてくれました。 -
現地ガイドさん、トラーナの説明だけで終わってしまい(ガイドさんの手抜き?)、後は自由時間となってしまいました。
ここからは、遺跡の表示板と、帰国後撮った写真と資料を比較し調べた結果を紹介します。
第3ストゥーパのまわりにも、いりいろな遺跡がありました。 -
サーンチーはストゥーパばかりでなく、当時の寺院やヴィハーラ(僧院)の姿を知ることができます。
写真は5世紀のグプタ朝によって建てられた「17寺院」です。
それまで木造文化の国であったインドが、石造建築を作り始めた最初期の建物とされています。
この建物は正方形の聖室の前に4本柱のポーチがついているが、シカラ(塔状部)はまだありません。 -
写真は、南の塔門の南にあり「18寺院」です。7世紀にたれられました。
「17寺院」より、規模は大きいですが、土台と 9本の柱以外は失われてしまっています。
前方後円形をしたチャイティヤ堂で、内部にはストゥーパを祀っていたと考えられています。 -
残っている土台と9本の柱です。
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サーンチーには 僧院も7院ありました。
その一つ「51僧院」は第1ストゥーパから西へ一段下がった所にありました。
広い中庭を回廊と僧室が囲む形が完全に復元されていました。
他の僧院と同じように、失われた柱と屋根は木造だったと推定されています。 -
「51僧院」の遺跡の中の写真です。
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「51僧院」の遺跡の中の写真です。
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遺跡の中の表示板には「40寺院」と表示されていました。
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この写真も「40寺院」の一部です。
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この写真も「40寺院」の一部です。
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後は、写真は撮りましたが、何かよくわかりません。
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かなたに見えた「45僧院」です。
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少し離れたところにある「第2ストゥーパ」です。
サーンチーからの帰り道に、バスを降りて撮りました。 -
ネットで得た、第2ストゥーパ」の写真です。
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最後に考古学博物館を訪れました。
カメラも大きな荷物も持ち込み禁止です。
博物館の正面にあるアショカ王の石柱の上に乗っていた4頭のライオンの像がありました。紀元前3世紀のオリジナルのものです。
アショカ王の椅石柱の一部もありました。
そのほかに、サーンチーで発掘された当時の写真やさまざまな出土品が展示されています。
現在の状況を発掘当時の写真と比べてみると、あまりにも整備されているのが良くわかります。
整備されすぎている・・・・・
そんな感じがしました。
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