2012/05/12 - 2012/05/12
366位(同エリア843件中)
滝山氏照さん
JR中央総武線三鷹駅から南に徒歩15分に森鴎外・太宰治の墓所が霊泉山・禅林寺(ぜんりんじ、東京都三鷹市下連雀)にあります。
禅林寺の由緒は、現在の三鷹市下連雀(しもれんじゃく)が江戸時代の頃、開村際に明暦の大火により移住してきた村民が、松の坊という庵室を建立して僧賢州が元禄13年(1700)中興、梅嶺雲老が開山したとされます。
森鴎外(本名は林太郎)は文久2年(1862)津和野藩の13代も続いた藩医の長男として生まれます。父は既に蘭方医であったので鴎外は8~9歳の頃は既にオランダ語を学んでいました。明治14年(1881)東京大学医学部卒業後は陸軍省に入り明治17年(1884)に衛生研究の為ドイツに留学します。
明治21年(1888)帰国した鴎外は軍医の傍ら「青年」「雁」等の小説のほか翻訳・詩歌・戯曲の多数の著作を発表しています。
以降鴎外は軍医の仕事と文学者としての活動を続けて大正11年(1922)7月9日に文京区千駄木の自宅で息を引取ります。享年60歳。
(尚鴎外の旧自宅地に生誕150年を記念して「森鴎外記念館」が丁度本年11月1日に開館しています)
太宰治(本名は津島修治)は明治42年(1909)青森県北津軽郡金木村(現青森県五所川原市)に11人子どものうち10番目の六男として生まれます。
青森中学時代は泉鏡花や芥川龍之介の作品に傾倒する中、左翼運動に走る場面がありましたが昭和5年(1930)東京帝国大学仏文学科に入学します。
その後文筆活動に入り昭和8年(1933)に短編「列車」を「サンデー東奥」に太宰治のペンネームでデビューします。
昭和13年(1938)に井伏鱒二の仲人で結婚、子どもにも恵まれて1男2女を得ますが他方治の廃頽的な作風も手伝い4回の自殺未遂を経て昭和23年6月13日玉川上水で入水自殺38歳の人生に幕を閉じます。遺族では本人の生前の意を汲んで日頃から尊敬していた森鴎外の墓の傍に墓を作った経緯があります。
(治の郷里五所川原市に太宰治記念館「斜陽館」があります)
2022年9月21日追記
禅林寺のホームページには下記の通り詳細にわたって紹介されています。
『 禅林寺の起源
元禄12年(1699)8月台風のため建物が倒壊したので、松之坊は寺社再建不可能のため寺社地を村方へ返還した。そこで村方一同は協議の末、江戸本所石原に在った黄檗宗賢洲元養禅師に寺社建立のことを懇請した。
かくして村方一同より官へ願い出て、元禄13年12月、黄檗宗霊泉山禅林寺と改称、江戸神田紺屋町駒田孫右衛門が開基となって堂宇伽藍の経営も着々と進み、当時天下の大小名より尊信を集めていた黄檗大眉門下の梅嶺道雪禅師を請して開山とし、賢洲禅師自ら第一代となり宗風の宣場につとめ、黄檗宗大本山万福寺の直末寺隣、現在に至る。
八幡社とは明治初年の「神仏分離」令によって分離し、塔頭であった松仙院(八幡社を管理)と円通庵は廃仏毀釈の頃本寺に合併した。』
『 三鷹駅と禅林寺
大正末期、現在の三鷹市付近は5.6戸の民家が散在していただけで、一帯は畑地であり都心へ出るには吉祥寺駅で乗降していました。これがため、禅林寺では、住民の利便を計り、大正13年11月、駅設置請願書に地方有志の記名捺印を求め、東京鉄道局長に提出しましたが、間もなく武蔵野市からも駅設置請願書が出され、競願となりました。当局では、慎重審議の末、三鷹市の採用を決定し、昭和3年初春に駅設置の通知をしてきました。
これによって、禅林寺はその社地750坪を駅に敷地として寄付し、当局は車庫敷地等の買収に着手、昭和5年6月25日に待望の三鷹駅が開設されました。以来発展の一途をたどり、現在にいたります。』
『 明暦大火と連雀
明暦3年(1657)正月18日、江戸本郷丸山町の本妙寺から出火した火事は折からの烈風のため大火となり、焦土の広さ二里八丁、死者十万七千余人と記録されている。世にこれを振袖火事という。この惨事によって、幕府は各所に適当な火除地(防火地帯)を作り、一朝有事の備えとした。
万治元年(1658)神田連雀町もまたこの火除地として、住宅の再建を許されず、罹災者二十五世帯には、野方領茅場千丁野の内に代地を賜り、開拓農民として移住せしめた。これが現在の三鷹市下連雀のはじまりである。
この当時は、宗門改め(現在の戸籍調査にあたる)が非常に厳格であって、その手続きは、年々寺院が調査奥印して、社寺奉行に届け出たものである。然るに元神田連雀町民たちの入植生活においては、宗門改めを受ける寺院がないため、寛文4年(1664)名主松井治兵衛外年寄、組頭などの連署をもって寺社創建の議を幕府に請願した。時の大老松平伊豆守及び寺社奉行石谷将監は代官野村彦太夫に命じて検知せしめ、寺地二万坪、社地一万坪として、寺社の創建を許可した。これによって連雀の住民は、直ちに寺社を創建し、江戸築地本願寺の寺中末之坊を迎え、年々宗旨判形すなわち現地の戸籍調査をなして、社寺奉行に届けていたのである。』
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
-
太宰治作品オブジェ
JR三鷹駅南口から直線に走る三鷹通り沿道には太宰治の小説「斜陽」の一端がオブジェとなっています。 -
「無頼派の祈り」
当時の三鷹村居住の太宰治の生活ぶりが描かれています。 -
禅林寺・周辺地図
大正末期の交通事情は吉祥寺駅まで歩くしかなく不自由な状況あり、大正13年11月新駅設置を請願し、昭和5年6月25日に三鷹駅が開設となります。そのため禅林寺は社敷地約750坪を寄附し駅舎設置に貢献し現在の三鷹駅発展の礎となっています。 -
イチオシ
禅林寺・山門
珍しい山門が出迎えてくれます。色彩も寺院と異なり白色系の外壁で個性的な寺院となっています。 -
禅林寺・扁額
「禅林寺」の寺号となっています。 -
森鴎外・遺言碑
「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス・・・」で始まる遺言碑があります。遺言により墓には「森林太郎墓」とのみ刻され、向島弘福寺に埋葬されますが関東大震災後当寺に改葬されています。 -
禅林寺・本堂
-
禅林寺・境内
中央部に観音像が見えます。 -
森鴎外・太宰治墓所案内板
丁寧に墓所の位置をしっかり案内しています。 -
森鴎外遺言書
作成日は死去の3日前の大正11年7月6日となっており、死に臨む森鴎外の生き様が遺言書に凝縮されているようです。 -
森鴎外墓(近影)
遺言に従い一切の栄誉と称号を廃し、本名「森林太郎」名で刻されています。遺言によりかねてより親交あった中村不折(なかむらふせつ、1866~1943 洋画家・書家)が墓碑銘を書しています。 -
森鴎外墓(全景)
鴎外の墓は当寺の他永明寺(島根県鹿足郡津和野町)にありますがその墓石にもやはり「森林太郎墓」と刻されています。大正11年7月9日没、 -
太宰治墓
治の「花吹雪」に禅林寺にある森鴎外墓所について記載があり、その意を汲んで夫人が鴎外の傍らに葬ったそうです。昭和23年6月13日没
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
吉祥寺・三鷹(東京) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
13