2012/10/24 - 2012/10/24
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belleduneさん
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都内にありながら、なかなか訪れる機会がなかった小石川後楽園に初めて行ってきました。
江戸時代の寛永6年(1629)、水戸徳川家の祖・頼房がその中屋敷として造ったものです。二代藩主・光圀の代に完成した庭園は、回遊式築島泉水庭で、光圀が造園にあたり、明の遺臣・朱舜水の指示を受け、円月橋、西湖堤など中国の風物を取り入れた中国趣味のある庭園となっています。各所に京都の名所を箱庭のように設えたり、木曽の山中を想像したりと風情のある景色を楽しむことが出来る場所となっています。
後楽園は、中国の范仲淹(はんちゅうえん)「岳陽楼記」の「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」という文から名付けられました。
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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涵徳亭 創築時に建てられた茅葺きの茶屋で、硝子紙を障子としたため、「硝子ノ茶屋」(ビードロ)と呼ばれていました。享保年間に林信篤が涵徳亭と名付けたそうです。現在の建物は、四代目で、昭和61年に再建されたmのです。
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大堰川に架かる渡月橋から見た眺め
京都・嵐山の渡月橋の名を取っています。 -
馬場桜(枝垂桜)
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陽石
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一つ松 近江の琵琶湖を模した大泉水に対して、琵琶湖の唐崎の一つ松に因んでいます。
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丸屋 昔の田舎の侘びた茶屋の佇まいを現しているそうですが、戦災で焼失しました。昭和41年に復元されました。
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小廬山を上って行きます。
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得仁堂 小石川後楽園を完成させた水戸二代藩主水戸光圀は、園内最古の建物となる得仁堂を創設しました。堂の名は、論語「仁を求めて 仁を得たリ」に因る。
光圀は、6歳で、兄を差し置いて、世継ぎと定められ、苦しみ続けた自らを重ねて、「伯夷・叔斎」の物語を読み、非常に感銘を受けてたそうです。光圀は、「仁を行い得た人達」を祀る得仁堂を建立して、泊夷・叔斎の木像を納め、参詣したと言われています。 -
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通天橋からの眺め 京都・嵐山東福寺のにある通天橋に倣い、大堰川の渓流に朱塗りの虹橋を架けてあります。
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その先に清水観音堂跡があります。
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大正12年の関東大震災で焼失しました。
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上から眺めた西湖堤、大堰川の眺め
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通天橋の下に音羽の滝があります。京都・清水の「音羽の滝」に倣って、名付けられました。元は、萓門外の水車によって、神田川上水の水を汲み上げ、樋で小鹿山の傍に流していましたが、元禄の地震で水流が破壊され、岩組みだけが残っています。
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蓬莱島 島が亀の形をしていて、先端の大きな鏡石は、庭師・徳大寺左兵衛に因んで、「徳大寺」と名付けらて、弁財天を祀った祠があります。
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白糸の滝 六代治保の時に造られました。千条の白糸が垂れているように見えるので、こう呼ばれています。
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大黒山の木々
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向こうに藤棚、手前が花菖蒲田、右手は稲田になっています。
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円月橋 朱舜水の設計で、名工「駒橋嘉兵衛」が造りました。橋が水面に映る姿が満月になることからこう呼ばれました。
八代将軍・吉宗が江戸城吹上の庭に造ろうとしましたが、遂に果たせなかったと言われています。 -
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敷石が面白いです。
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愛宕坂を上ってきたところからの眺め
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ハ掛堂跡 二代目光圀が七歳の時、将軍家光に謁見した折、家光から文昌星像を頂戴しました。後に文学を好むようになり、文昌星を思い起こして、八掛堂を造り、その像を安置したと言われています。
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大正12年の関東大震災で焼失しました。
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小町塚 塚石が常陸の小野の産地であることから、光圀が戯れて小野塚と読んだと言われています。
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琴画亭跡
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藤田東湖の記念碑
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不老水 この井戸は、旱魃にも枯れず、洪水にも溢れなかったことから、不老水と呼ばれています。
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田端 二代光圀が嗣子綱條の夫人に農家の苦労を教えようと造った田園です。現在は、毎年文京区内の小学生が5月に田植え、9月に稲刈りを行っています。
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九八屋 江戸時代の風流な酒亭の様子を表しています。「酒を飲むに 昼は九分 夜は八分にすべし」と万事控えるをよしとする、という教訓に因る。戦火で焼失した後、昭和34年に復元されました。
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九八屋裏手の赤門
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春錦稲荷大明神を祀った祠
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癭鷂碑(えいようひ) 七代治紀は将軍家から賜った鷹を大切にしていました。鷹は、治紀が没した四年後に亡くなったため、八代斉のぶがこれを哀しんで、碑を建てたということです。
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鳴門
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内庭 本園は、内庭と後園に分けられ、内庭は、水戸藩邸の書院の庭で、江戸時代には「うちの御庭」と呼ばれていました。
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唐門跡 内庭から後園に入る門で、唐模様の極彩色の彫刻を施した壮麗な建築物で、朱舜水の書いた「後楽園」の扁額が掛けられていましたが、戦災で焼失しました。
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木曽川から紅葉山へ
左手に寝覚の滝があります。内庭池水の末流が滝となって、木曽川に落ちるところで、木曽路の名所「寝覚の床」に因んで、こう呼ばれています。 -
木曽山 元は古木が空を覆って、昼なお暗く、渓流に沿った様子が木曽路を偲ばせることからこの名が付きました。棕櫚が多くあったことから棕櫚山とも言われています。
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白雲台跡へ上っていきます。
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白雲台跡 木曽の山道を過ぎて、渓流を渡り、ここに上ると、僅かに白雲の行き交うのが見えたという高台。遠くは妙義、榛名の山々、近くは赤城、築土の社を望むことが出来たそうです。
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駐歩泉 九代斉昭は、西行堂傍の流れを西行の和歌に因んで、駐歩泉と命名し、自ら筆を取り、碑を建てました。
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道のべに しみずながるる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ
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西行堂跡
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藩祖・頼房の時代に、御鞍打師「小野荘兵衛」作の西行法師の木像を安置したことから、西行堂と名付けられました。ここにある西行の歌碑は、九代斉昭の駐歩泉の碑に因み、夫人が建てたものだそうです。西行堂は戦災で焼失しました。
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