2011/06/09 - 2011/06/10
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kuroneko12さん
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一年前、遅めのGW休みを取ってクロアチア~ボスニア=ヘルツェゴビナを回ってみた。
サラエボは東西文化の交流点、あるいは衝突点として、昔から興味のある場所だった。
今回、クロアチアに行くのだから、せっかくのこの機を逃す手はないと思って、サラエボまで足を延ばすことにした。
人には「どこそれ」とか「危なくないの」とか言われる。
たしかに、何をしに行くんだかよくわからないし(笑)、まだまだ完全に平和ではないんじゃないかという不安もないではない。
でも、実際に行ってみると歩きがいがあった。
そしてなにより、人々が温かかった。
うまく伝わるかどうか不安であるけど、そんなサラエボ観光記。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 3.5
- 交通
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 飛行機
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
◆ サラエボへの移動 ◆
午前9時半発のバスで、スプリトからサラエボに向かう。
スプリトを出たバスはアドリア海沿岸を走り、プロチェを過ぎたあたりで内陸に入り、ボスニア・ヘルツェゴビナの国境を越える。
さわやかなリゾート地の風景から、急にひなびた風景に変わり、やがて川沿いの山道に入る。
緑の多さと水のある山の風景が、どこか日本の田舎に近いような気にさせる。
そして、山を抜けると突然、風景に高層住宅が増えてくる。
明らかに雰囲気が変わるので、それでサラエボに入ったことがわかる。
サラエボ。
最近までの紛争地域というイメージに、なんとなく緊張する。 -
そんなことを思っていると、バスはターミナルに着いた。
バスを降りると、雨が降りそうな空だった。
サラエボのバスターミナルには両替所もない。
バスターミナルを背にしてちょっと進んだ場所にある左側の建物が郵便局で、両替はここでする。
そんな間にも、どんよりした目をした少年が近寄ってきて「Money, money」と繰り返す。
これまでも訪れた国で「タバコくれ」とか「電車代をなくしちゃって。10ユーロ貸してくれない?」みたいなことは言われたことがある。
けど、ヨーロッパでここまで露骨に言われたのは初めてで、びっくりした。
なんだか気持ちも暗くなる。
両替を終え、郵便局を出て先に進むと、トラムのターミナルがある。
キオスクでトラムの切符を買って、1番のトラムに乗って街の中心部へ向かう。
ちなみに、両替についてはボスニア=ヘルツェゴビナに入る前に済ませておけばいいではないかと思うかもしれないが、とりあえずスプリトのバスターミナルの両替所ではできなかった。 -
◆ トラム ◆
トラムでは残念な目にあってしまった。
トラムの中にある改札機に切符を入れると、スムーズに入らない。
それでも切符の裏側を見ると、時間が印字されていたのでOKかと思っていた。
ところが、検札がやってきたので切符を見せると、不正だから罰金を払えと言われたのである。
冗談じゃない。ここに時間が印字されてるじゃないかと抗議すると、検札は僕から取り上げた切符を改札機に挿しこんだ。
僕が改札機に切符を挿しこんだときとは違い、切符は改札機に自動的に吸い込まれ、新しく別の印字が追加されて戻ってきた。
…なるほど。
たしかに僕の改札は不十分だ。
しばらく「おかしいでしょ?」とクレームを続けてみたが、もちろんどうにもならない。
彼らはこちらが罰金を払うまで、「Finish」と「Penalty」を繰り返すばかりである。(たぶん英語が通じてない)
仕方ないので26.6KMの罰金を払った。
「歩き方」には罰金は10KMとある。だいぶ値上がりしたなぁ。がっかりだ。
それとも、抵抗したから追加でなにか取られてるのか?
ていうか「歩き方」にある「切符の裏に印字されたことを確認すること」という説明では、これでは対応できない。
正しい改札の方法を検札に聞いても教えてはくれない。
そんなこんなで、サラエボの第一印象は最悪になってしまった。 -
ちなみに、翌日トラムにリベンジしたときに、他の乗客に教えてもらった正しい改札の方法。
なんのことはない。切符の裏面を表側にして改札機に通すだけである。
切符には大きく矢印が描いてあるので、僕はそちらを表側にして改札機に切符を挿しこんだのだけど、それだと改札機は反応してくれない。
でも、逆に切符の裏面、ほとんど白紙の側を自分に向けて改札機に挿しこむと自動的に切符が吸い込まれ、必要な情報が印字されてくるというわけだ。
なんだかなー。
けど、そうすると日本の鉄道の自動改札機はものすごい性能じゃないですか?。
どんな向きに入れても受け付けてくれるし、出てくるときは必ず同じ向きになって戻ってくるんですよ?
ぜひ、サラエボの検札官には日本の鉄道に乗って、この技術に驚いてもらいたいもんだ。
写真は、トラムの切符の表面。
絶対にこちらを表にして改札をしようとしてはいけない。
というか、そもそも一日乗車券を買えばいい。
これなら改札がいらない。 -
◆ 観光 ◆
さて、翌日。
第一印象は最悪だったけど、もちろん観光はする。
まずは街を高いところから見てみようと、バシチャルシァの東にある丘に上がってみる。
教会の塔とか時計台とか、そういう展望台めいたものが街の中心にないサラエボでは、貴重な見晴らしスポットだ。
セビリのある広場の北側の坂や、国立図書館のそばの階段を上っていくと、石造りの高台がある場所に出る。
これがオスマン朝時代の砦の跡らしい。ここからバシチャルシァを中心とした風景を見渡すことができる。
こうして見ると、サラエボが山に囲まれた盆地であることがよくわかる。
街に高い建物は少ない。
郊外に密集して立ち並ぶ無機質な高層住宅以外には、街に点在するモスクの尖塔と、数本だけ建っているオフィスかホテルだけだ。
旧市街のトルコ風の建物の屋根の焦茶色と、モスクや共産主義建築の石屋根の灰色が目立つ。
緑と落ち着いた色合いが多いためだろうか、とても静かな雰囲気に見える。 -
◆ バシチャルシァ〜旧市街 ◆
丘を降りて街を歩く。
実際に歩いてみると分かるけど、このサラエボの中心部には様々な様式の建築が寄り集まっている。
旧市街東側の中心、バシチャルシァのオリエンタルな雰囲気は、オスマントルコ時代のものである。
そこから西に向かって歩いていくと、彫刻で彩られた近代ヨーロッパ風の建築が目立つようになる。
これは19世紀のオスマントルコの衰退と、20世紀初頭のヨーロッパからの撤退後、サラエボがオーストリアの影響下に入ったことによるものだろうか。
そしてさらに進み、聖火を過ぎたあたりから共産主義時代の名残であろう無機質な建築群と、戦争で破壊された後に再建されたためだろう、普通の現代建築の街並になるのである。
まずはバシチャルシァの中心、セビリから。
このあたりは観光客や地元の人が入り乱れて、いつでも賑わっている。
この水は飲めるみたいで、地元民風の人たちが飲んでいたり、観光客がペットボトルに汲んでいたりするのを見た。 -
サラエボの旧市街、バシチャルシァを歩く。
バシチャルシァとは、オスマン帝国統治下の16世紀にアラブの市をモデルに設計された商業地区であるという。
「バシ」とはトルコ語で「主要な」を、「チャルシァ」は「市場」を意味するらしい。
その名の通り、今でも食器や装飾品、衣服などを並べた店が多い。
特にメインストリートは市場というより、観光地のお土産屋さん通りといった感じだ。
突然だけど、僕はサッカーが好きで、訪れた国の代表ユニホームを買って帰ることにしている。
で、ヨーロッパの観光地のお土産屋さんにはオフィシャルかそうでないかはともかく、その国の代表ユニホーム(風)が並べられていることが多い。
ここ、バシチャルシァでも例外ではなかった。 -
僕がお店の軒先に並べられた代表ユニホーム風のシャツを眺めていると、お店の中から中年のおじさんが出てきた。
「これは代表ユニホームですか?」と聞くと、返事は「イエス」である。まぁ信じることにする。
おじさんは僕に「日本人か?」と聞いてきたので、そうだと答えると急に満面の笑顔になった。
「君はオシムを知っているか。オシムはボスニア=ヘルツェゴビナの人間なんだ。日本で監督をしていたはずだ」と嬉しそうにおじさんは話す。
そういえばそうだった。
南アフリカW杯をめざし、サッカー日本代表に「考えて走る」サッカーを植え付けたイビチャ・オシムはボスニア=ヘルツェゴビナ出身である。
「オシムはいい監督でした」というようなことを言うと、おじさんはさらに嬉しそうな顔になる。
そのせいかどうかはわからないけど、おじさんはボスニア=ヘルツェゴビナ代表ユニホームを半額にしてくれた。
さらに、どこのチームのものかよくわからないユニホームもおまけに付けてくれようとしたけど、さすがによくわからないユニホームはいらないので、丁重にお断りした。
するとおじさんは、じゃあ…と言って、店のそとに並んでいたボスニア=ヘルツェゴビナの小さな国旗を手にし、これならどうだと僕に渡してくる。
どうあってもおまけをつけないと気が済まないようだ。
僕は、代表ユニホームとボスニア=ヘルツェゴビナの小さな国旗を持って、空いた方の手でおじさんと握手して、その店を出た。
最後までおじさんは「日本人はいい人たちだ。ありがとう」と繰り返していた。
嬉しいんだけど、なんというか不思議な体験である。
この辺から、サラエボの人たちはいい人たちだなぁという印象を僕はもちはじめていた。 -
このあたりにはカフェやレストランもあるが、バシチャルシァの中心部はカフェがメイン。
カフェはコーヒーと軽食ばかりで、食事には期待できそうにない感じだった。
ちゃんとした食事ができる店は主にセビリの周辺に多い印象だった。
ドルマやチェヴァプチチのような伝統料理を出す店もあるけど、ピザ屋やステーキハウスなんかもあるから、伝統料理が口に合わなそうな人も困らないかもしれない。
このあたりの話については後でまとめて。
そういえば、サラエボではマックもバーガーキングも見かけなかった。
一国の首都で見なかったのは初めてかもしれない。
(後で聞いた話だと、僕が見逃しただけでどこかにはあるらしい) -
オスマントルコ風の建物による街並みは、棟が低いためかレンガや石積みの建物でないためか、やはりヨーロッパというよりはアジア風である。
だから他のヨーロッパの街よりも、どこか懐かしいような、親近感がわくような部分もある。
人々の様子もなんだか素朴だ…というのは言い過ぎだろうか。 -
しかし、やはり違うなと思わせる部分もある。
たくさんのモスクが街中に点在していることである。
いわゆる欧州諸国や東アジア圏では、これだけモスクが街の風景に溶け込んでいることはないんじゃないかと思う。
ボスニア・ヘルツェゴビナは長年オスマントルコの勢力下にあり、そのためヨーロッパにありながらイスラム教徒も多数暮らしていて、モスクも街中にたくさんある。
ときどきコーランが流れて、イスラム教徒に祈りの時間であることを告げる(それはコーランだったっけ?)。
ヨーロッパにおけるイスラム教の国。
なんだか不思議な響きだと思う。 -
ガジ・フスレヴ・ベイ・ジャミーヤ・モスク。
設計したのは、トルコ史上最高の建築家とされ、オスマン様式を確立したと言われるミマール・スィナン。
モスクが完成したのは1531年。
20世紀末の紛争で損傷したが、最近になって再建されたとのことだ。
ここは2KMで見学できる。
敷地の角にある事務所でお金を払うと入口に案内してくれる。
実際のところ、お金を払わなくても入口に直行できそうなのだけど、それはマナー違反というかルール違反。
中に入ると、薄暗い照明の中に、金色とイスラムの象徴色である鮮やかな緑が輝いている。
文字のような模様のような金色のデザインには、きっと宗教的な意味があるのだろう。
日本の寺社、キリスト教の教会よりも派手な感じがする。 -
天井を見上げる。
ドームの高さは、キリスト教の大寺院と比べて低いような気がする。
モスクでも中東のイスラム圏あたりでは、もっと巨大なモスクがあるのだろうか。
ドームや壁には、青色の紋様や、緑色の地に金色で紋様が描かれている。
モスクでは宗教的な言葉や意味を込めたものを書くときは、金色を使うという決まりでもあるんだろうか。
絵画的でもあり、また幾何学的に計算して描かれてるようでもあり、印象的だ。
なんだか自分には理解しえないイスラムの深淵な世界が表現されているみたいに見える。
ところでこのモスク、「歩き方」には「ガジ・フスレヴ・ベイ・ジャミーヤ」とあるが、ネットを検索してみると「ガジ・フスレヴ=ベグ」と呼んでいる人もいる。
どんな違いなんだろう? -
床には一面に絨毯が敷き詰められている。
ぱっと見どれもデザインが違っていて、鮮やかな赤や青で彩られていて華やかだ。
イスラム教の祈りに使うのだろう。
この絨毯にも、ドームや壁にあるのと同じように複雑な図柄が織り込まれている。
自分の家の床に敷いたらちょっと落ち着かないと思う。
こういう色使いやデザインのせいだろうか、このモスクは一つの芸術空間みたいにも見える。
きっともっと地味なモスクもいっぱいあるんだろうけど。
他のモスクも見学してみたかったけど、見学できるという情報がなかったので遠慮してしまった。 -
モスクを出て南の方へ。
ミリャツカ川に行きあたると、そこにかかっている橋がラテン橋である。
そして、この橋の北にあるサラエボ博物館の脇が、第一次世界大戦勃発のきっかけになったサラエボ事件の舞台である。
20世紀初頭、ボスニア・ヘルツェゴビナ地域を併合した、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント夫妻が、愛国心と民族主義に満ちた青年ボスニア党のセルビア人の若者に暗殺された。
これをきっかけにオーストリア=ハンガリーはセルビアに宣戦を布告し、それがやがて泥沼の大戦争につながっていく。
どうしてオーストリアの皇太子が、セルビア人の若者に殺されると、世界を巻き込む大戦争になるのか。
当時の複雑で緊張感に満ちた各国の同盟関係が生んだ悲劇なんだろうけど、風が吹けば桶屋が儲かる的な不思議さがある。
ラテン橋自体は普通の橋だけど、ゆるやかなカーブが美しい。
茶色く濁ったミリャツカ川と、サラエボの街を囲む山並みを眺めることができる。
ラテン橋という名前は、ミリャツカ川に橋が架けられたオスマントルコ支配下の時代、キリスト教徒が住んでいたエリアが川沿いにあったからだという。
このあたりには観光客は少ない。 -
また旧市街に戻って、さらに西に進む。
このあたりから突然街はオスマン風ではなく、ヨーロッパ風に変わる。
それでもまだ旧市街だからと言うべきなのか、それほど現代風の建物は見当たらない。
20世紀初頭のオーストリアの影響かしらと、もしかしたらとんでもなく見当違いかもしれないことを想像しながら歩く。
でも、見るからに建物の雰囲気が移り変わっていくのは面白いと思う。
このあたり、バシチャルシァとの境目あたりには銀行やATMが多いので、現金がなくなっても困らない。 -
このあたりにカトリックの大聖堂がある。
1880年代に建てられた教会だ。
ようやく他のヨーロッパ諸国で目にするようなものを見た。
イスラム国家であるためか、この街では教会はほとんど見かけないような気がする。
ところで、このあたりに本屋があって、村上春樹の小説の現地語訳版が平積みにされていた。
『ノルウェイの森』と『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』である。
店員さんに聞いてみると、今はまだこの2冊しか訳されてないけど村上春樹の小説はサラエボの若者にも人気があるとのことだった。
村上ファンとしては、こんな辺境でも現地語に訳された村上小説に出会えたのは嬉しいことだ。 -
北に折れると、市場がある。
1994年にはここに迫撃砲が撃ち込まれ、68人が死亡したという。
最近まで着弾痕が残されていたらしいけど、改装して今はそんな悲劇があったなんて少しも感じられない。
普通に暮らしている人たちの日常の風景。
こんなところに砲撃を加える尋常ではない神経。
あってはならない。
この市場では果物や花を売っている人が多い。
日本では果物ってけっこう高い印象があるけど、ここではとても安い。 -
さらに進んでいくと、聖火である。
1945年にパルチザンがサラエボを解放したことを称え、戦没者を追悼するためのものだそうな。
サラエボ五輪のときの聖火であるとか、20世紀末の紛争の犠牲者を悼んでいるという話も聞いたことがある。
僕が通ったときには、なんだか肌寒い空気の中、暖を取っている人がいた。
この日は常に消されることなく灯されているというけど、誰が管理しているんだろう?
燃料の問題とか、雨の日はどうなるのかとか、気になる。
誰かに聞いてみればよかったな。
このあたりで旧市街は終わり。
ほとんど普通のヨーロッパ風の街並みになって、現代風のカフェや服屋なんかが軒を連ねるようになる。 -
ここまででだいたい半日。
旧市街を歩く分には半日もあれば十分だと思う。
午後には数多くある博物館か何かにいくのがいいだろう。
と、いうわけでお昼を食べた後は、泊まっていたゲストハウスのオーナーに勧められたトンネル博物館に行くことにした。
写真は、バシチャルシァのどこか。 -
◆ トンネル博物館 ◆
トンネル博物館はサラエボの郊外、空港のそばにある。
3番のトラムで終点のイリジャまで行った後、そこのバスターミナルで32番のバスに乗って終点まで行く。
バスの終点から、さらに歩いて5分ぐらい。
通りの名前もトンネル通り。
民家が途切れる場所まで歩くと、そこがトンネル博物館。
ここまでトラムやバスの待ち時間も入れると、片道で1時間弱ぐらいかかったような気もする。
現地のツーリストインフォメーションや旅行代理店でガイドツアーに参加できたりもするみたいなので、詳しい説明も受けられる分、そっちのほうが利口かもしれない。
個人で行くなら、戻りも考えると最低でも公共交通機関を4回は使うことになるので、トンネル博物館に行くなら公共交通機関の一日乗車券が活躍する。 -
ボスニア・ヘルツェゴビナには、主にセルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人たちが暮らしている。
彼らはそれぞれセルビア正教、ローマ・カトリック、イスラム教と、信仰する宗教も違う。
ボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴスラビアから独立したとき、人口の上では最多のボシュニャク人勢力は、自分たちを中心とした国家統合を進めようとした。
しかし、セルビア人勢力はそもそもセルビアを中心とするユーゴスラビアからの分離に否定的であり、ボスニア・ヘルツェゴビナへの参加を拒否し、スルプスカ共和国(セルビア人共和国)を樹立する。
また、セルビアの勢力を維持したいユーゴスラビアはセルビア人勢力を支援する。
そして、彼らはサラエボの周りに広がる丘の上に陣取り、サラエボを完全に封鎖した。
サラエボ包囲である。 -
サラエボは完全に封鎖され、孤立した。
国連の仲介によってサラエボ空港の周囲は中立地帯となったが、サラエボが孤立し、依然として国連の人道支援以外に物資を得たり、外部と連携したりする機会が存在しないことに変わりはなかった。
その状況を打開するため、サラエボの人たちは滑走路の地下にトンネルを掘り、サラエボ外部との連絡を可能にしたのである。
これによってサラエボ市民はサラエボを脱出したり、クロアチアまで行って物資を入手して戻ってきたり、親しい人と連絡を取ったりできるようになったという。
この博物館には、そのトンネルの一部が保存されている。
他には、紛争に関する報道記録、物品などの展示物と、20分少々のショートフィルム。
ショートフィルムはナレーションもなく、内容は感じるしかないけど、当時の切迫した様子はぎしぎしと伝わってくる。 -
ここで、たまたまガイドツアーの一団に遭遇し、ガイドさんの説明を(こっそりと)聞いた。
彼の家は砲撃によって瓦礫と化したらしい。
一度家があった場所に戻ったけど、何も見つけることができなかったと言っていた。
また、セルビア人勢力の軍隊は、サラエボ五輪施設のうち高価なものから順に破壊していったという。
すなわち、ボブスレーのコースやスキーのジャンプ台などだそうである。
やるせない話だ。
サラエボに行くとわかるけど、サラエボは周りを丘に囲まれた盆地である。
高い場所に陣取ったセルビア人勢力には、さぞや攻撃しやすかっただろう。
今でもサラエボを歩いていると、廃墟や弾痕の残る民家が目に入る。 -
ところで、このトンネル博物館に行くときに、僕はこのサラエボという街が大好きになる経験をした。
サラエボの人たちは、ものすごく親切だってことがわかったのだ。
イリジャのバス停で32番のバスを待っているとき、隣にいた人にトンネル博物館への行きかたを改めて確認してみた。
ガイドにも行きかたがろくに載っていないような場所だ。もし間違えていたら本格的に迷う可能性があったからだ。それは困る。
彼は「終点で降りればいい」と教えてくれたけど、それだけじゃなかった。
「君がちゃんと着けるように、バスの運転手に言っておいてあげる」と言うのだ。
実際にバスが来ると、僕より先にバスに乗った彼は何事か運転手と話していた。
すると、バスの運転手は僕に目を向けて、まかせろと言わんばかりに親指を立ててウィンクしてくれたのである。
頼もしい限りだ。
そして、サラエボの人の親切さはまだ終わっていなかった。
バスが発車してしばらくすると、運転手と話してくれた人が僕の方へやってきた。
なんだろう? と思うと、彼はまた僕が驚くことを言った。
「僕はもう降りるんだけど、後はあの女の人が案内してくれるから」と、全然彼とは関係なさそうな女性を指さすのである。
そして、指さされた彼女も笑顔で僕に向かって手を振っている。
うわぁなんだか申し訳ないなぁなんて思っていると、バスがもう少し進んでから彼女が僕に近づいてきた。
すると彼女も「私は次で降りるけど、後はこの人が案内するから」と、学生風の少年を指さして言うのである。
結局、僕とその少年は一緒に終点で降りた。
彼はちょうど、トンネル博物館までの道の途中の家に住んでいて、僕を家の前まで案内してくれた。
そして「もう少し進むと着くから」と教えてくれて、家に帰っていった。
実際、トンネル博物館はそこからすぐそこだった。
バスの終点の周りには案内も何もないので、もし僕一人だったら見当違いの方向に歩いていってしまったかもしれない。
安っぽい表現になるけど、サラエボの人たちの、まさに「親切のリレー」に助けられた。
日本で同じように困った時に、こんな風に助けてもらえるだろうか。
本当に、人には親切にしなきゃならない。 -
◆スナイパー通り◆
トンネル博物館からサラエボの中心に戻ってきた僕は、バシチャルチァの方まで戻らないでスナイパー通りの途中、ホリディ・インのあたりで降りる。
何があるわけでもないけど、なんとなく降りてみたほうがいいような気がしたからだ。
この大通りは、もともと「チトー将軍通り」という名前だったらしい。
サラエボ中心部で一番大きく、車やトラムの通行量も多い通りだ。
ユーゴスラビア建国の英雄であるチトーの名前が付けられるのも道理である。
しかし、20世紀末の紛争当時、この通りで動く者はみな、高層ビルに潜んだセルビア側狙撃兵の的にされたらしい。
それで呼ばれるようになった名前が「スナイパー通り」。
これはもう、正式名称になっちゃったのだろうか?
今じゃ車がびゅんびゅん走っていて、とてもそんな物々しい雰囲気はない。 -
そして、スナイパー通りと同じように、サラエボに来たらなんとなく眺めておきたかった建物が、このホリディ・イン。
スナイパー通りに面していながら、紛争当時のサラエボで唯一開業していたホテルである。
そのため、サラエボを取材する世界中のジャーナリストがここに集まったという。
危険を顧みず営業を続けるのは、プロ意識によるものか。
セルビア人の攻撃には屈しないという気概によるものか。
ホテルのカフェに入ってみようかと思ったけど、ここでゆっくりしてしまうと回ってみたい場所が回りきれなくなりそうだったので、諦めた。 -
◆展望台◆
ホリディ・インの北側、駅の近くにあるきれいな高いビルが、アヴァズ・ツイスト・タワーである。
きれいなのも当たり前で、完成したのは2009年のことらしい。
ボスニア・ヘルツェゴビナを代表する新聞社、アヴァズ社のビルであり、今のボスニア・ヘルツェゴビナで一番高いビルとのことだ。
ビルの36階には展望台があって、サラエボの街を眺め渡すことができる。
ビルに入ると、普通の会社のように受付がある。
そこで展望台に行きたいと伝えると、社員証のようなカードを使ってエレベータを動かしてくれる。
どうやら勝手にエレベータに乗ることはできないらしい。
料金は1KM。 -
ビルの上からの風景はこんな感じだ。
バシチャルシァから離れているせいか、観光客はほとんどいなかった。
他の国でタワーっていうと、けっこう人が集まるものだと思うんだけど。
サラエボはまだまだ小さい街であることがなんとなくわかる。
高いビルはほとんどないし、密集度が薄い。
もともとこんなものだったのか、それとも紛争で破壊されたためなのか。
真ん中の黄色い建物が、ホリディ・イン。 -
バシチャルシァ方面の風景。
はっきりとはわからないけど、モスクの尖塔が立ち並んでいるあたりがそうなんだと思う。
山肌にまで家がびっしりである。
このエリアの密度は高い。
古い街並みだからか、高層住宅も少ない。
本当にサラエボは、いろんな姿を見せる街だと思う。
朝、バシチャルシァ近くの砦から見たように、やっぱりサラエボは緑の山に囲まれた盆地である。
ひょっとしたら夏は蒸し暑くなるのかな? -
郊外の風景。
高層住宅がいくつか建っている。
山がちで土地の少ないサラエボでは、この先発展して人口が増えてきたらどんどん高層住宅が建つことになるんだろう。
バシチャルシァ方面と違って、モスクが見当たらない。
高層住宅に隠れちゃってるだけで、実際にはあるんだろう。
線路も見えるけど、列車の気配はほとんどない。
一日にどれくらいの列車が運行されているんだろう?
サラエボの駅は、かつては美しい駅として称えられていたらしいけど、あんまりそんな感じはしなかった。
この風景だけ見ると、のんびりした地方都市にしか見えない。
ここで紛争があったなんて全然信じられない。 -
◆オリンピック・スタジアムと墓地◆
ビルから出て、街の北の方へ向かう。
今日の最後の目的地である、オリンピック・スタジアム周辺である。
この街には、紛争の犠牲者のためのものであろう真新しい墓地がたくさんある。
中でも、オリンピック・スタジアム周辺の墓地は「歩き方」にも載っているぐらいだ。すごい規模のものなのだろう。
不謹慎かもしれないし、悪趣味なのかもしれない。
でも、やっぱりなんとなく行ってみたほうがいいような気がした。
写真はアリ・パシナ・ジャミーヤ・モスク。
本当はこの交差点よりもバシチャルシァ寄りの角を左に曲がってコシェヴォ通りを北に向かえばよかったみたいだけど、僕は間違えてこの角で曲がったせいでちょっとだけ迷った。 -
歩くこと15分ぐらいだろうか。
オリンピック・スタジアムの東側の斜面いっぱいに、墓地が広がっていた。
見渡す限りまだ新しい墓碑が立ち並んでいる。
そして、たしかに。
どれもこれも、ほとんどの墓碑の没年は、1992年〜1995年だった。
知識としてその期間に紛争があって、たくさんの人が死んだことは知ってる。頭ではわかってる。
でも、実際にこうしてそれだけの数の墓碑を目の当たりにすると、この事実の重みが圧力として心と身体にのしかかってくるような気がした。
なんかもう手を合わせずにはいられなかった。 -
この墓地の手前には広い公園がある。
なんかもう平和そのもので、やっぱりここで紛争があったなんて信じられない。
でも、ちょっと中心部を外れると、銃痕だらけの家や廃墟が数多く残っているのも事実。
復興は進んでいるけど、ボスニア・ヘルツェゴビナの失業率はとても高く、ヨーロッパの他の国と比べるとまだまだ貧しい。
それでも、この国の人たちはとても優しく、親切だ。
僕にとってはそれだけで十分、この国が大好きになれた。
僕はこの国が早く本当に平和に豊かになればいいのに、と思う。 -
僕がオリンピック・スタジアムに行ったとき、そこでは「キッズ・フェスティバル」なるイベントが催されていた。
具体的にどんなイベントなのかはよくわからないけど、たぶんセレモニーの一環なのだろう。墓地の上空を通って、パラグライダーでスタジアムの中に降りていく人が見えた。
道を聞くついでにスタッフの人に話を聞いたのだけど、このイベントには在サラエボ日本大使館も協力しているのだという。
日本はボスニア・ヘルツェゴビナの復興にはいろいろと援助を行っている。
僕が話を聞いたスタッフも「日本には本当に感謝している」と言ってくれた。
それから「日本からきた観光客を見てると、礼儀正しくて親切な人が多い。日本人は大歓迎だからもっと観光に来てほしい」というようなことも言っていた。
なんだか嬉しくなる。
ちなみに、彼が覚えていた日本語。
「ありがとう」「こんにちは」「もしもし。はいはい」
どこで覚えたのか聞くと、日本人がよく口にしているから覚えたのだという。
…最後の一つが、よくわからない。 -
◆食◆
というあたりで夕方になっていた。
国立博物館等にも行ってみたかったけど、時間切れである。残念。
というわけで食事ができる場所を探す。
前の日に「歩き方」に載っている店に行ったので、この日はそうじゃない店に行きたいなぁと思っていたら、いい感じの店をみつけることに成功した。
バシチャルシァ、セビリのある広場から伸びる太い通りに入り、ツーリストインフォメーションあたりの角を右に曲がる。
お店の名前は看板にもあるように“POD LIPOM”。
この看板だけじゃなくて、店主らしき人と、クリントン元米国大統領が一緒に写った写真が飾ってあるのですぐにわかるはずだ。
雰囲気もいいし、元大統領が食事したならそこそこいい店に違いない(単純)。
でも、店頭にメニューが出てなくてお値段がわからない。
高かったら困るなぁとお店を眺めてると、中からスーツを着たスマートそうな青年が出てきて、通りすがりに「この店はいいよ」と言って颯爽と歩き去っていった。
なんだか、反射的に「ここで食べよう」と思った。
少し前までの迷いを捨てて、席は空いているかと写真の真ん中右手に写っているおばちゃんに尋ねてみると、大歓迎よと席に案内してくれた。 -
このおばちゃんもとても感じが良くて、キュートでカッコいい感じなのだ。
メニューについて聞いてみるといろいろ教えてくれた。
例によって、ボスニア・ヘルツェゴビナの伝統料理が食べたいとリクエストしてみると、いくつかのボスニア料理が少しずつ盛られた料理があるから、それがオススメだという。
"SARAJEVSKI SAHAN"という名前で9KM。
こんな感じで、いろいろと盛られているのでたしかにお得感がありますね。
ボスニア・ヘルツェゴビナの伝統料理は、スパイスなのかハーブなのか、ちょっとよくわからないのだけど独特の風味がある。
でも、けして日本人になじみのない味というわけではないと思う。
サラダも何種類かある。ほとんどはトマトサラダ、レタスサラダという感じで一種類の野菜サラダなんだけど、四種類の野菜にチーズをかけたサラダもあるというので、それにした。
サラダはたしか4KM。
それにボスニア・ヘルツェゴビナ産のワインの200mlのボトルが6KM。
今回の旅行で調べるまで知らなかったけど、ボスニア・ヘルツェゴビナはワインの産地でもある。 -
このお店の料理は美味しかったけど、それほど特別でもないような気がした。
味でいえば、昨日食べた店のほうが上かもしれない。
それでもこの店には不思議な魅力がある。
たぶん、親切ににこやかにいろいろ教えてくれた女性と、僕に料理を運んできてくれた、朴訥でたぶん英語はあまり話せないけど、職務に忠実で実直そうなウェイターのおかげだと思う。
料理を食べ終わった後、そういえば、コーヒー好きとしては気になっていたボスニア・コーヒーをまだ飲んでいないことに気づいた。
この素敵なレストランならコーヒーも美味しいんじゃないか? と思って店員さんを呼んで聞いてみると、メニューにあるという。
そんなわけで、ついついボスニア・コーヒーとデザートを頼んでしまった。
で、これがボスニア・コーヒー。
頼んでみたはいいものの、飲み方がよくわからない。
少し考えて、陶器のグラスから角砂糖を一つ取りだして、そこにコーヒーを注ぐことにした。
一杯飲んだら、残りの砂糖をグラスに入れて、またコーヒーを注ぐのである。
飲んでみると、コーヒーの濃縮された苦みと砂糖の甘みが混ざりつつも、お互いに自己主張をしていてなかなかに味わい深い。
これが飲み方の正解でよかったのだろうか?
誰か正解を教えてください。
調べてみると、ボスニア・コーヒーは細かく挽いたコーヒーの粉を専用のポットに入れ、そのまま沸騰させたものであるらしい。
フィルターで濾さずにそのまま上澄みを飲む。
苦みも強いけど、どおりで芯のしっかりした味になるわけだ。 -
ところで、ケーキも美味しかった。
メニューのデザートのページを見ると、5種類ぐらいのメニューが載っていた。
けど、英語での説明があるのは何故か「アップルパイ」だけで、あとは全部現地語でしか書いてないから、とりあえず一つ目を指さしてこれはなんですかとウェイター氏に聞いてみることにした。
彼の答えは簡潔明瞭。低音の静かな声で一言、「ボスニアン・スペシャル」である。
そうか。スペシャルか。
スペシャルなら問題ない。
何故か迷わずそれを注文してしまった。
彼の言う「ボスニアン・スペシャル」は、ナッツ風味のパイのようなケーキにシロップを浸したものだった。
ひたすらシロップで、見た目にはやたら甘そうで、究極に甘いものの一つみたいに見える。
けど、予想外なことに、不思議と甘すぎない。なかなかに美味しかった。
海外のスイーツには砂糖の甘さでごまかされることが多いけど、そんなことはない。
コーヒーの苦みにこのケーキの味がマッチして、素晴らしかった。
この店には、相当長居してしまっていた。
帰る前にこの写真を撮っていると、ウェイター氏が僕に近づいてきて、「この店にはアメリカの大統領が来たこともある。彼は国連の仕事で来た」と誇らしげに語ってくれた。
最後に、彼が手を出してきたので握手して別れた。
いや、本当にサラエボの人たちは温かい。 -
そして、前の日に行った「歩き方」にも載っている店は、この"Inat Kuca"(イナット・クーチア)である。
ボスニア・ヘルツェゴビナの郷土料理が食べられる。
バシチャルシァを東に進み、国立図書館を過ぎたあたりでミリャツカ川を渡ったところにある。
お店の中は薄暗いけど、木の感じが落ち着く。
席によってはミリャツカ川に面している。
黒猫もうろうろしていたりする。 -
野菜に肉を詰めて煮込んだボスニア・ヘルツェゴビナの伝統料理、ドルマである。
味付けはわりとスパイシー。サワークリームも少しかけられていた。
ビールとドルマで料金は18KM。
もしかしたら、このあたりの店の中では少し高いほうかもしれない。
でもビールも料理も美味しかったし、この店でも若いウェイター氏が朗らかで感じが良かった。
食べ終わったお皿を下げるときに「美味しかった」と伝えると、嬉しそうに顔をほころばせてくれたのが印象的だった。
"POD LIPOM"もこの店も、量もそれほど多くなくて食べやすかった。
海外のレストランは量が多いことがままあるので、食べやすい量で出てくるのは有り難い。 -
サラエボ観光は以上である。
早くこの国が、もっと平和になればいいのにと思う。
ガイドを読んでも、街から街へ移動するときは公共交通機関以外の手段を使うなとか、観光地以外の街には行かないほうが無難とか書いてある。
でも、自然は豊かだし、奥深く面白い歴史はあるし、食べ物は美味しいし、観光地として発展する可能性は十分にあると思う。
そのためにも、早く国が安定して、たしかな平和を手にする必要がある。
道はなかなかに険しそうだけど、筋道はわからないけど、早くそうなるように願うのみだ。 -
ボスニア=ヘルツェゴビナは、交通の便からしてもイメージ的にも、まだまだ日本からは行きづらい場所だと思う。
どこかに行ったついでに立ち寄る隣国の観光地という風でもない。
飛行機の便数も少ないし、近隣の国からの鉄道やバスの便も少ない。
数少ない便を頼っても、サラエボまでは時間がかかる。
観光するにはいろいろとハードルの高い国だと思う。
でも、なんというか温かい国だ。
東欧の国を旅行したときに思うのは、西欧と比べて人が親切だったり、雰囲気が柔らかかったりというところで、僕はそれが好きなのだけど、サラエボでは特にそれを感じた。
本文中では紹介できなかったけど、道を聞いたとき「僕は知らないんだけど…」と言って、タクシーを止めてくれた人がいた。
いや、タクシーには乗らないよと思っていると、その人はタクシーの運転手に道を聞いて、僕に教えてくれた。
タクシーも、止めたからには乗れということはなく、笑顔で手を振って走り去っていった。
サラエボでは、他の国以上に人の親切さに助けられたと思う。
何をするでもないけれど、もう一度、行ってみたいような気がする。
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