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 歴史に「~してたら」というのはナンセンスではあるが、もしかの時代、ユーゴスラビアのチトーの時代にコソボが他の六共和国と同格に近い自治州にしていなければ、今のコソボはセルビアからの独立を宣言する事はあり得なかったであろう。<br /><br /> ユーゴスラビアは第一次世界大戦後に、南スラブに起こった凡スラブ主義の理想の下、スロベニア、クロアチア、セルビア人(モンテネグロ人はセルビア人と同様の扱い)の国として成立した。しかしそれぞれ異なった国の中で文化が形成され宗教や文字や言語すらも異なる上、経済格差も大きかった為、ユーゴスラビア建国当初から不和が多かった。そんな中、ユーゴスラビアのイニシアチブをとったのは、第一次世界大戦で大きな痛手を被りながらも勇敢に戦い、政治的中心を握る自負心があったセルビア人だった。セルブ・クロアート・スロベーン王国という名前から、民族融和のためにユーゴスラビア(南スラブ人の国の意)と改名されたものの、後進国のセルビアによる中央集権的な政治手法は継続され、特に反発したのはクロアチア人で、セルビア人の国王アレクサンダル1世の暗殺や民族主義のウスタシャの結成を許すことになった。<br /> <br /> 第二次世界大戦では枢軸国に支援されたクロアチア人に結成されたウスタシャによるセルビア人の大量虐殺、これに対抗しセルビア人の組織チェトニックによるクロアチア人への虐殺、血を血で洗う民族浄化が行われた。こうした中クロアチア人とスロベニア人の両親を持つチトーがパルチザン活動を形成し、ユーゴスラビア全土を解放した。<br /><br /> 第二次世界大戦後チトーにより再出発をしたユーゴスラビア(所謂第2のユーゴ)は、民族分布とは相反しセルビア人の力を削ぐ形で共和国が作られた。例えばセルビア共和国のマケドニア地域は元来「スラブ系マケドニア人」や「マケドニア共和国」は存在しなかった。マケドニアはセルビア、ギリシャ、ブルガリアにまたがる広域な地域であり、二つのバルカン戦争と二つの世界大戦の過程で現在の国境となった。マケドニアで話される言語は当初ブルガリア人たちはブルガリアの方言の一部とし、セルビア人たちはセルビア語の方言の一部としていた。チトーは巧みにセルビアにおけるマケドニア地域に住むマケドニアの人々を「マケドニア人」と位置付け、そのアイデンティティたる言語を「マケドニア語」として認め、ユーゴスラビアを形成する一共和国として認めた。<br /><br /> 一方セルビアの一地方だったヴォイヴォディナとコソヴォは自治州に格上げされ、クロアチアのダルマチア地方のクライナヤ東西スラヴォニアはセルビア人とクロア人の混住地域でセルビア人が多数居住し、セルビア人の自治州であることが検討されたが、連邦国におけるクロアチアの影響力を下げることとなるため自治州として認められなかった。とりわけコソボは中世セルビア帝国の発祥の地であり、セルビア正教会の主教が置かれているほど、宗教的にも重要な地でもある。またセルビア帝国はオスマントルコにコソボの戦いに敗れ、以後トルコの軛に苦しむことになった場所でもある。<br /><br /> このようなセルビアの精神的な支柱をアルバニア人主体のコソボ自治州にすることはセルビア人にとり容易にに受容できるものではないが、チトーの力でユーゴスラビアは6つの共和国(セルビア、クロアチア、スロベニア、ツルナ・ゴーラ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、マケドニア)と2つの自治州(ヴォイヴォディナ、コソボ=メトヒヤ)、5民族(セルビア人、クロアチア人、スロベニア人、マケドニア人、モンテネグロ人)、4言語(セルビア語、クロアチア語、スロベニア語、マケドニア後)、3宗教(セルビア正教、カトリック、イスラム教)2つの文字(キリル文字とアルファベット)で形成された。第二のユーゴのこうした国境の線引きがのちのクロアチア内戦の激戦化にもつながったとも言える。<br /> <br /> 当初自治州にはほとんど権限はなかったが、1969年に大幅な自治権が与えられ、アルバニア語による教育も行えるようになった。こうした背景にはユーゴスラビアの南北の経済格差が広がる一方で、コソボの貧困は深刻なものになっていた。コソボの人口も1945年当初セルビア人が40%を占めていたが、さらに貧困に喘ぐアルバニア本国からのアルバニア人の流入(チトーはアルバニア人の不法移民を黙殺していた)やアルバニア人の人口爆発によりアルバニア人の人口が飛躍的に伸び、セルビア人はアルバニア人の増加による治安の悪化や経済的な側面からコソボから離れるものがあとを立たず、アルバニア人が大多数を占めるようになった。<br /><br /> チトーが存命中はユーゴスラビアの民族主義派は厳しく取り締まられていたが、1980年のチトーの逝去後には多くの共和国で民族主義派が台頭し、コソボでもアルバニア人の民族主義派とセルビア政府との間で激しい対立があった。また、ユーゴスラビアの南北間の経済格差も埋まることはなかった。ハプスブルクやハンガリーで支配され生真面目に働く土壌が培われていたスロベニアとクロアチア、そしてヴォイヴォディナという先進地域で得た収益は、コソボやマケドニアといった後進地域の復興に使われるも、職がない上に勤勉さに欠ける文化で一向に改善されず、最先進地域のスロベニアと最貧のコソボでは経済格差は8倍を超えていた。こうした実状に先進地域は後進地域と連邦政府の対応に大きな不満を持っていた。 <br /><br /> チトーの作ったユーゴスラビアは1991年に崩壊し、クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナでは内戦となった。ユーゴスラビアが崩壊する1995年までの過程においてコソボでは連邦軍により治安が統制されていたせいもあり、内戦は発生していなかったが、こうした独立に誘発されてアルバニア人のあいだでも独立の機運が高まる一方、ボスニア内戦でのセルビアの失墜による政治的失点を回復すべく、セルビア及びユーゴスラビアの大統領でもある民族主義派のミロシェヴィチはコソヴォの引き締めた。これによるアルバニア解放軍の無差別の暴徒化、これに対抗して連邦軍の虐殺、30万人ものアルバニア人の難民化、そしてNATOの介入・・・、セルビア軍の撤退によるアルバニア人のセルビア人に対する報復、そしてコソボの独立・・・。彼の政策によりセルビアの失ったものはあまりにも大きかった。<br /><br /> 現在では90カ国により独立を承認されたコソボ。旧ソ連諸国や中国では独立を認めていないが、事実上もはやセルビアに再編入されることはないだろう。現在コソボはセルビア人とアルバニア人の民族紛争を除けば治安はヨーロッパの中でも平均よりも上だろう。プリシュティナを歩いていても全く危険な雰囲気もなければ、これまで戦争をしていた国だとは全く感じ取れない。むしろイタリアを旅行するときよりも安心感があるほどだ。国連によりコソボ治安維持軍が両民族の紛争を抑え、そしてEUやアメリカの大量の支援によって成り立っているコソボ。しかし、EUやアメリカの支援がなくなった時にコソボは一体どうなるのだろうか?

SUビジネスクラスで3歳小娘と二人で欧州旅行 ⑧コソボのプリシュティナ・グラチャニツァへ

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2012/08/09 - 2012/08/17

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worldspan

worldspanさん

 歴史に「~してたら」というのはナンセンスではあるが、もしかの時代、ユーゴスラビアのチトーの時代にコソボが他の六共和国と同格に近い自治州にしていなければ、今のコソボはセルビアからの独立を宣言する事はあり得なかったであろう。

 ユーゴスラビアは第一次世界大戦後に、南スラブに起こった凡スラブ主義の理想の下、スロベニア、クロアチア、セルビア人(モンテネグロ人はセルビア人と同様の扱い)の国として成立した。しかしそれぞれ異なった国の中で文化が形成され宗教や文字や言語すらも異なる上、経済格差も大きかった為、ユーゴスラビア建国当初から不和が多かった。そんな中、ユーゴスラビアのイニシアチブをとったのは、第一次世界大戦で大きな痛手を被りながらも勇敢に戦い、政治的中心を握る自負心があったセルビア人だった。セルブ・クロアート・スロベーン王国という名前から、民族融和のためにユーゴスラビア(南スラブ人の国の意)と改名されたものの、後進国のセルビアによる中央集権的な政治手法は継続され、特に反発したのはクロアチア人で、セルビア人の国王アレクサンダル1世の暗殺や民族主義のウスタシャの結成を許すことになった。
 
 第二次世界大戦では枢軸国に支援されたクロアチア人に結成されたウスタシャによるセルビア人の大量虐殺、これに対抗しセルビア人の組織チェトニックによるクロアチア人への虐殺、血を血で洗う民族浄化が行われた。こうした中クロアチア人とスロベニア人の両親を持つチトーがパルチザン活動を形成し、ユーゴスラビア全土を解放した。

 第二次世界大戦後チトーにより再出発をしたユーゴスラビア(所謂第2のユーゴ)は、民族分布とは相反しセルビア人の力を削ぐ形で共和国が作られた。例えばセルビア共和国のマケドニア地域は元来「スラブ系マケドニア人」や「マケドニア共和国」は存在しなかった。マケドニアはセルビア、ギリシャ、ブルガリアにまたがる広域な地域であり、二つのバルカン戦争と二つの世界大戦の過程で現在の国境となった。マケドニアで話される言語は当初ブルガリア人たちはブルガリアの方言の一部とし、セルビア人たちはセルビア語の方言の一部としていた。チトーは巧みにセルビアにおけるマケドニア地域に住むマケドニアの人々を「マケドニア人」と位置付け、そのアイデンティティたる言語を「マケドニア語」として認め、ユーゴスラビアを形成する一共和国として認めた。

 一方セルビアの一地方だったヴォイヴォディナとコソヴォは自治州に格上げされ、クロアチアのダルマチア地方のクライナヤ東西スラヴォニアはセルビア人とクロア人の混住地域でセルビア人が多数居住し、セルビア人の自治州であることが検討されたが、連邦国におけるクロアチアの影響力を下げることとなるため自治州として認められなかった。とりわけコソボは中世セルビア帝国の発祥の地であり、セルビア正教会の主教が置かれているほど、宗教的にも重要な地でもある。またセルビア帝国はオスマントルコにコソボの戦いに敗れ、以後トルコの軛に苦しむことになった場所でもある。

 このようなセルビアの精神的な支柱をアルバニア人主体のコソボ自治州にすることはセルビア人にとり容易にに受容できるものではないが、チトーの力でユーゴスラビアは6つの共和国(セルビア、クロアチア、スロベニア、ツルナ・ゴーラ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、マケドニア)と2つの自治州(ヴォイヴォディナ、コソボ=メトヒヤ)、5民族(セルビア人、クロアチア人、スロベニア人、マケドニア人、モンテネグロ人)、4言語(セルビア語、クロアチア語、スロベニア語、マケドニア後)、3宗教(セルビア正教、カトリック、イスラム教)2つの文字(キリル文字とアルファベット)で形成された。第二のユーゴのこうした国境の線引きがのちのクロアチア内戦の激戦化にもつながったとも言える。
 
 当初自治州にはほとんど権限はなかったが、1969年に大幅な自治権が与えられ、アルバニア語による教育も行えるようになった。こうした背景にはユーゴスラビアの南北の経済格差が広がる一方で、コソボの貧困は深刻なものになっていた。コソボの人口も1945年当初セルビア人が40%を占めていたが、さらに貧困に喘ぐアルバニア本国からのアルバニア人の流入(チトーはアルバニア人の不法移民を黙殺していた)やアルバニア人の人口爆発によりアルバニア人の人口が飛躍的に伸び、セルビア人はアルバニア人の増加による治安の悪化や経済的な側面からコソボから離れるものがあとを立たず、アルバニア人が大多数を占めるようになった。

 チトーが存命中はユーゴスラビアの民族主義派は厳しく取り締まられていたが、1980年のチトーの逝去後には多くの共和国で民族主義派が台頭し、コソボでもアルバニア人の民族主義派とセルビア政府との間で激しい対立があった。また、ユーゴスラビアの南北間の経済格差も埋まることはなかった。ハプスブルクやハンガリーで支配され生真面目に働く土壌が培われていたスロベニアとクロアチア、そしてヴォイヴォディナという先進地域で得た収益は、コソボやマケドニアといった後進地域の復興に使われるも、職がない上に勤勉さに欠ける文化で一向に改善されず、最先進地域のスロベニアと最貧のコソボでは経済格差は8倍を超えていた。こうした実状に先進地域は後進地域と連邦政府の対応に大きな不満を持っていた。 

 チトーの作ったユーゴスラビアは1991年に崩壊し、クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナでは内戦となった。ユーゴスラビアが崩壊する1995年までの過程においてコソボでは連邦軍により治安が統制されていたせいもあり、内戦は発生していなかったが、こうした独立に誘発されてアルバニア人のあいだでも独立の機運が高まる一方、ボスニア内戦でのセルビアの失墜による政治的失点を回復すべく、セルビア及びユーゴスラビアの大統領でもある民族主義派のミロシェヴィチはコソヴォの引き締めた。これによるアルバニア解放軍の無差別の暴徒化、これに対抗して連邦軍の虐殺、30万人ものアルバニア人の難民化、そしてNATOの介入・・・、セルビア軍の撤退によるアルバニア人のセルビア人に対する報復、そしてコソボの独立・・・。彼の政策によりセルビアの失ったものはあまりにも大きかった。

 現在では90カ国により独立を承認されたコソボ。旧ソ連諸国や中国では独立を認めていないが、事実上もはやセルビアに再編入されることはないだろう。現在コソボはセルビア人とアルバニア人の民族紛争を除けば治安はヨーロッパの中でも平均よりも上だろう。プリシュティナを歩いていても全く危険な雰囲気もなければ、これまで戦争をしていた国だとは全く感じ取れない。むしろイタリアを旅行するときよりも安心感があるほどだ。国連によりコソボ治安維持軍が両民族の紛争を抑え、そしてEUやアメリカの大量の支援によって成り立っているコソボ。しかし、EUやアメリカの支援がなくなった時にコソボは一体どうなるのだろうか?

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
4.5
グルメ
5.0
ショッピング
3.0
交通
3.5
同行者
乳幼児連れ家族旅行
一人あたり費用
15万円 - 20万円
交通手段
鉄道 高速・路線バス タクシー 徒歩 飛行機
航空会社
アエロフロート・ロシア航空
旅行の手配内容
個別手配

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  • 朝6時のバスに間に合うように出発するとNobel Hotelに言うと、子供がいるからということで5時から食事ができるように準備してくれていた。本当にその心遣いに感謝!

    朝6時のバスに間に合うように出発するとNobel Hotelに言うと、子供がいるからということで5時から食事ができるように準備してくれていた。本当にその心遣いに感謝!

  • 早朝出発のため、二人共19時には就寝し、娘も朝4時過ぎに起床。朝食時はまだ眠気眼

    早朝出発のため、二人共19時には就寝し、娘も朝4時過ぎに起床。朝食時はまだ眠気眼

  • 朝6時にNobel Hotel近くからプリシュティナ行きのバスは出発。バスはドイツのゼトラ社。

    朝6時にNobel Hotel近くからプリシュティナ行きのバスは出発。バスはドイツのゼトラ社。

  • 朝6時頃のスカンデルベルク広場付近。バスは静寂な広場を出発

    朝6時頃のスカンデルベルク広場付近。バスは静寂な広場を出発

  • 車内は7割程度の乗客

    車内は7割程度の乗客

  • ティラナは大きな街ではないので、10分も走ると高層住宅も見えなくなる。

    ティラナは大きな街ではないので、10分も走ると高層住宅も見えなくなる。

  • バスは北進し、シュコダル方面に走る。

    バスは北進し、シュコダル方面に走る。

  • 平坦な道を進んでいるが

    平坦な道を進んでいるが

  • 道を途中で右折し、山岳地帯へ・・・

    道を途中で右折し、山岳地帯へ・・・

  • そしてコソボの国境に入るまでは川と並走する。

    そしてコソボの国境に入るまでは川と並走する。

  • 今までほとんど家もなかったところで急に河岸に街が現れた。どうやってこの街は経済が成り立っているのだろうか。

    今までほとんど家もなかったところで急に河岸に街が現れた。どうやってこの街は経済が成り立っているのだろうか。

  • アルバニア国旗が描かれている。

    アルバニア国旗が描かれている。

  • 山の雰囲気はツルナ・ゴーラの急峻な山岳地帯によく似ている。

    山の雰囲気はツルナ・ゴーラの急峻な山岳地帯によく似ている。

  • そんな山岳地帯にもポツンと家があるのが実に不思議

    そんな山岳地帯にもポツンと家があるのが実に不思議

  • 草木が生えていない

    草木が生えていない

  • 厳しい山岳

    厳しい山岳

  • 峠を超えると草原が広がる

    峠を超えると草原が広がる

  • 山岳を越えるといよいよコソボの国境に。アルバニアのイミグレーションではパスポートの確認はなく、コソボ側で行われた。コソボの国境ではバスの車掌がパスポートを集めイミグレに渡し、イミグレの担当官がそのパスポートを持って顔の照合を行う。そしてバスは国境を出発し車掌からひとりひとりパスポートが返却されて入国審査は終了。意外と簡素な手続きだった。

    山岳を越えるといよいよコソボの国境に。アルバニアのイミグレーションではパスポートの確認はなく、コソボ側で行われた。コソボの国境ではバスの車掌がパスポートを集めイミグレに渡し、イミグレの担当官がそのパスポートを持って顔の照合を行う。そしてバスは国境を出発し車掌からひとりひとりパスポートが返却されて入国審査は終了。意外と簡素な手続きだった。

  • ダムの湖が広がる。

    ダムの湖が広がる。

  • 国境を越えて10分も走らぬうちに休憩所で停車。ティラナから出発して2時間半位の場所。休憩所では20分程度停車するので、運転手や車掌たちは食堂でご飯を食べたりしている。乗客もコーヒーを飲んだり、付近を歩いて気分転換

    国境を越えて10分も走らぬうちに休憩所で停車。ティラナから出発して2時間半位の場所。休憩所では20分程度停車するので、運転手や車掌たちは食堂でご飯を食べたりしている。乗客もコーヒーを飲んだり、付近を歩いて気分転換

  • プリズレン手前の村には建築中の家々が。しかもとても立派な建物で誰が済むのか実に不思議。

    プリズレン手前の村には建築中の家々が。しかもとても立派な建物で誰が済むのか実に不思議。

  • 戦争で追われたアルバニア人たちに用意されたものなのだろうか?

    戦争で追われたアルバニア人たちに用意されたものなのだろうか?

  • バスはティラナを出発して5時間後にプリシュティナバスターミナルに到着。バスターミナルの手前に止まるタクシーは、バスターミナルまでタクシーを近づけるには1ユーロ余分に支払うので、タクシーを利用すると若干高め。バスターミナルから道路に出たところにタクシーが止まっているのでそれを利用すると安い。ターミナルからプリシュティナ市内までは目安として3?4ユーロ

    バスはティラナを出発して5時間後にプリシュティナバスターミナルに到着。バスターミナルの手前に止まるタクシーは、バスターミナルまでタクシーを近づけるには1ユーロ余分に支払うので、タクシーを利用すると若干高め。バスターミナルから道路に出たところにタクシーが止まっているのでそれを利用すると安い。ターミナルからプリシュティナ市内までは目安として3?4ユーロ

  • プリシュティナの街並み。坂道が多く、街の雰囲気も旧ユーゴスラビアのベオグラードやニーシュといった街とは全く異なる。

    イチオシ

    プリシュティナの街並み。坂道が多く、街の雰囲気も旧ユーゴスラビアのベオグラードやニーシュといった街とは全く異なる。

  • プリシュティナで宿泊したのはホテルシリウス

    プリシュティナで宿泊したのはホテルシリウス

  • 比較的新しいホテルでスタイリッシュな内装

    比較的新しいホテルでスタイリッシュな内装

  • バスルームも清潔感があってGOOD!

    バスルームも清潔感があってGOOD!

  • ホテルに荷物を置いてランチに出かける。ホテルから歩いて2分のところにおしゃれなカフェがあったので、ここで食べるとする。

    ホテルに荷物を置いてランチに出かける。ホテルから歩いて2分のところにおしゃれなカフェがあったので、ここで食べるとする。

  • だいたいこれで2ユーロくらい。物価は安い

    だいたいこれで2ユーロくらい。物価は安い

  • 食後に向かったのがプリシュティナ郊外に位置する世界遺産のグラチャニツァ修道院。プリシュティナからタクシーで往復し、修道院に30分待ってもらい20ユーロ。

    食後に向かったのがプリシュティナ郊外に位置する世界遺産のグラチャニツァ修道院。プリシュティナからタクシーで往復し、修道院に30分待ってもらい20ユーロ。

  • セルビア人の居住地域にあるこの修道院は以前はスウェーデン軍に保護されていたが、現在スウェーデン軍はいない模様。しかし付近にはセルビア人がじっと修道院の出入りを監視しており、周辺はとてもピリピリした雰囲気がした。<br /><br />グラチャニツァ修道院はコソボにある四つの世界遺産の一つ。いずれもセルビア帝国時代のセルビア正教の建築物であるが、グラチャニツァ修道院は1310年に建設。

    イチオシ

    セルビア人の居住地域にあるこの修道院は以前はスウェーデン軍に保護されていたが、現在スウェーデン軍はいない模様。しかし付近にはセルビア人がじっと修道院の出入りを監視しており、周辺はとてもピリピリした雰囲気がした。

    グラチャニツァ修道院はコソボにある四つの世界遺産の一つ。いずれもセルビア帝国時代のセルビア正教の建築物であるが、グラチャニツァ修道院は1310年に建設。

  • プリシュティナでは全くセルビア語を聞くことがないが、修道院の中ではセルビア語が使われる。娘がセルビア語で修道士に挨拶をするととても喜んでくれた。

    プリシュティナでは全くセルビア語を聞くことがないが、修道院の中ではセルビア語が使われる。娘がセルビア語で修道士に挨拶をするととても喜んでくれた。

  • とても威厳のある教会で、もう少し長いあいだ滞在をしたかった。

    とても威厳のある教会で、もう少し長いあいだ滞在をしたかった。

  • ということで旧市街をぶらぶら街を回る。写真はチャルシアモスク。15世紀の初頭にスルタン・バヤズィットにより建設された。

    ということで旧市街をぶらぶら街を回る。写真はチャルシアモスク。15世紀の初頭にスルタン・バヤズィットにより建設された。

  • チャルシアモスクはプリシュティナを代表するモスクの一つ。

    チャルシアモスクはプリシュティナを代表するモスクの一つ。

  • チャルシアモスク

    チャルシアモスク

  • 旧市街の街並み

    旧市街の街並み

  • 旧市街の時計台(サハト・クッラ)。19世紀に作られた。

    旧市街の時計台(サハト・クッラ)。19世紀に作られた。

  • 時計台の向かい近くにあるのはムブレティトゥモスク。フェイスモスクの名前でも知られている。オスマントルコのメフメト2世により1460年に建設

    時計台の向かい近くにあるのはムブレティトゥモスク。フェイスモスクの名前でも知られている。オスマントルコのメフメト2世により1460年に建設

  • 旧市街の街並み。セルビア共和国にない雰囲気。

    旧市街の街並み。セルビア共和国にない雰囲気。

  • 旧市街はややくたびれた感じが残る。

    旧市街はややくたびれた感じが残る。

  • 旧市街の建物の修繕は進んでいない。

    旧市街の建物の修繕は進んでいない。

  • 素敵なテラス

    素敵なテラス

  • 旧市街は渋滞がひどく、タクシーやバスを利用する場合時間が読めない。

    旧市街は渋滞がひどく、タクシーやバスを利用する場合時間が読めない。

  • どこのモスクか忘れてしまったが・・・

    どこのモスクか忘れてしまったが・・・

  • 鶏肉のケバブ。パンとセットで2ユーロもしないやすさ。娘とシェアしても十分な量

    鶏肉のケバブ。パンとセットで2ユーロもしないやすさ。娘とシェアしても十分な量

  • 失敗したなーっと思ったのが、娘の服にここのコソボの民族衣装を買っておけばよかった。

    失敗したなーっと思ったのが、娘の服にここのコソボの民族衣装を買っておけばよかった。

  • 花が飾ってあるとどこかホッとする。

    花が飾ってあるとどこかホッとする。

  • 旧市街のメインストリートの一つ、アギム・ラマダニ。銀行も多い。

    旧市街のメインストリートの一つ、アギム・ラマダニ。銀行も多い。

  • 1995年から建設され始めたセルビア正教会。1999年のコソボ紛争で中断し、そのまま放置されている。

    1995年から建設され始めたセルビア正教会。1999年のコソボ紛争で中断し、そのまま放置されている。

  • アルバニア人のマザーテレサを死を悼み建設されたマザーテレサ・カテドラル。本来ならば二本の聖楼が建つはずだが、未だ一本しかたてられていない。

    アルバニア人のマザーテレサを死を悼み建設されたマザーテレサ・カテドラル。本来ならば二本の聖楼が建つはずだが、未だ一本しかたてられていない。

  • 異様な建築スタイルの国立図書館

    異様な建築スタイルの国立図書館

  • ホテル付近にあるスーパーマーケット、ベン・アフで購入したお土産。コソボやトルコでは結構メジャーなお菓子らしい。

    ホテル付近にあるスーパーマーケット、ベン・アフで購入したお土産。コソボやトルコでは結構メジャーなお菓子らしい。

  • ホテルで飲むために購入したワインとピーチジュース

    ホテルで飲むために購入したワインとピーチジュース

  • そしてグレープを購入。グレープはこれで60円!

    そしてグレープを購入。グレープはこれで60円!

  • ホテルの朝食。種類は決して多いわけではないが、どれも美味しい。

    ホテルの朝食。種類は決して多いわけではないが、どれも美味しい。

  • ホテルから見た旧市街。

    ホテルから見た旧市街。

  • 朝食のレストランは最上階に有り、テラスもあるので、眺めは最高に良い。

    朝食のレストランは最上階に有り、テラスもあるので、眺めは最高に良い。

  • 1日目の朝食は部屋の中で。

    1日目の朝食は部屋の中で。

  • でもやはりテラスで食べるのが気持ちが良い。

    でもやはりテラスで食べるのが気持ちが良い。

  • コソボの旧市街を眺めながら食す。

    コソボの旧市街を眺めながら食す。

  • 昨年北欧に行った時には娘は食事が合わず、お米を買って炊いたので、今回イタリア、アルバニア、コソボ、トルコで食事が合うのか少し心配していたが、意外と娘はコソボやアルバニアの料理に合っていたようで、美味しそうに食べていた。

    昨年北欧に行った時には娘は食事が合わず、お米を買って炊いたので、今回イタリア、アルバニア、コソボ、トルコで食事が合うのか少し心配していたが、意外と娘はコソボやアルバニアの料理に合っていたようで、美味しそうに食べていた。

  • プリシュティナ国際空港。ホテルからタクシーで20分ほど走った場所にある。ベンツタクシーで20ユーロ

    プリシュティナ国際空港。ホテルからタクシーで20分ほど走った場所にある。ベンツタクシーで20ユーロ

  • アルバニアやコソボ、トルコでは娘はいろんな人に可愛がられ、写真を撮られたり、抱っこされたりして、本当に彼女は得だなーと感じたが、本人は恥ずかしがり屋でなかなか愛想を振りまくことができない。特にコソボやアルバニアでは、アルバニア人から、「我々の町にこんな小さな子供を連れてきて本当にありがとう」と感謝をされることもかなりあった。こんなに感謝をされて、しかも娘もそれなりに旅行を楽しんでくれたので、今回コソボとアルバニアを選択して間違いはなかったと改めて思った。

    アルバニアやコソボ、トルコでは娘はいろんな人に可愛がられ、写真を撮られたり、抱っこされたりして、本当に彼女は得だなーと感じたが、本人は恥ずかしがり屋でなかなか愛想を振りまくことができない。特にコソボやアルバニアでは、アルバニア人から、「我々の町にこんな小さな子供を連れてきて本当にありがとう」と感謝をされることもかなりあった。こんなに感謝をされて、しかも娘もそれなりに旅行を楽しんでくれたので、今回コソボとアルバニアを選択して間違いはなかったと改めて思った。

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この旅行記へのコメント (15)

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  • mom Kさん 2018/11/19 17:01:51
    お嬢さんの10年後、20年後・・・・
    私も夢を見ます。ありがとうございます。ご自身の紹介欄で同じところに行かれるとか。私の旅もそうです。数年同じ国か町に行きます。今年まではハンブルグとベルリンでした。来年あたりはまたスペインか新領域開拓か。旅行記を拝見して、15年来の憧れ地クロアチアを皮切りにコソボにも訪れたくなりました。

    worldspan

    worldspanさん からの返信 2018/11/19 18:05:14
    Re: お嬢さんの10年後、20年後・・・・
    コメントありがとうございます。
    コソボやクロアチアはとても治安が良いので、一部を除けば安心感はあります。特にコソボの世界遺産となっているセルビア正教会は厳かで西側諸国の教会とは全く異なる雰囲気を味わうことができると思います。

    今後ともよろしくお願いします。
    worldspan
  • bawkazanさん 2013/02/20 13:11:20
    更に投票をありがとうございました
    worldspanさま

    トルコ旅行記に追加投票をありがとうございました。

    コソボ旅行記、興味深く拝見しました。

    豊富な歴史の知識があっての旅行は、どんなにか充実して楽しいことだろうとうらやましくなります。
    トルコのガイドさんが「我々の祖先は15世紀に小アジアからやってきて…」と言うのを聞いて、歴史ってこういうことかとストンと落ちたのを思い出しました。彼にとってはそれ以前は祖国ではないのですよね。日本(本土)にいると「別の国に代わる」という感覚がほぼゼロなので、中東やヨーロッパへは歴史の流れをしっかり勉強してから行かなきゃ、と改めて思います。まあ、と言いましてもなかなか…と目を伏せがちなんですけど。

    どうそこれからも充実した旅を楽しまれますように。

    bawkazan

    worldspan

    worldspanさん からの返信 2013/02/20 22:17:14
    RE: 更に投票をありがとうございました
    bawkazanさん

    こちらこそ投票+コメントありがとうございます。
    中東欧圏は自分が学生時代に研究した地域なので特に思い入れが強く、歴史や政治、文化を知っているだけウンチクが多くなってしまいます(笑)。現に冬に訪れたスリランカや香港・マカオといった地域はあまり知識を持ち合わせていないので、ほとんどこうしたことには触れていません。でも確かに旅行に行く国の文化や歴史を知っておくと、より一層旅の面白さが強くなりますよね!小さな話ですが、私は広島出身で現在は大阪に住んでいますが、こちらに根を下ろした感じになっています。自分にとって大阪はやはり故郷とは違うんですよね。故郷は広島であり、アイデンティティをなくさないように努めてこっちでも広島弁を話すようにしていますが、娘にとっては大阪が古里であり、大きくなっても私のように広島に郷愁を感じるわけではないとおもいます。正しくトルコの人たちの感覚はうちの娘の感覚なのかもしれないですね。祖先は広島でも遠く離れるとそこには多少は思いはあっても強くはないのだと思います。現在いるところが自分たちのふるさとであり、その思いは強くなるのかなーって思ったりしました。

    PS:bawkazanさんは8月終わりにイスタンブールに行かれたのですね!私たちは8月15日位に滞在してました。約2週間違いですね!

    worldspan
  • りんごあめさん 2012/09/18 10:47:19
    歴史を知っていると・・・
    worldspanさん、こんにちは。

    旅行記の表紙部分のコソボの説明が長めなので、最初理解できるかな〜?
    と読み進めると、worldspanさんが歴史をしっかり理解したうえの説明だったので私でも最後まで(多分)理解出来ました(^ ^)

    旅行先の歴史を分かって行くのでは旅の楽しさも変わってきますよね。

    お嬢さん、大人気ものだったようですね♪
    食事が合う合わないでは旅の大変さも変わるので、楽しくお食事出来て良かったですね(^ ^)

    民族衣装を着たお嬢さん、見たかったな〜。

    りんごあめ より。

    worldspan

    worldspanさん からの返信 2012/09/18 21:04:56
    RE: 歴史を知っていると・・・
    りんごあめさん
    こんばんは。
    学生時代、特に旧ユーゴスラビアの歴史や政治(特にクロアチアやセルビア、近代ユーゴスラビア)が専門だったので、コソボの歴史も中世セルビア帝国を研究するさいに色々勉強したので、他の旅行者よりも知っている方だとは思います。こうして歴史や文化等をよく知ってるので中東欧圏への旅行は居心地がよく、繰り返し旅をしていたのんでしょうね。。

    娘はアルバニアやコソボ、トルコでは色んな人から写真を一緒に撮らせて!といわれたり声をかけられることもあったのに、恥ずかしがって、自分の足下から離れなかったり隠れたりして、もったいないなーと、親ながらにして思っちゃいました。

    > 食事それにしても、食事が合ったのはたすかりました。コソボやアルバニアではそんなにレストランのレパートリーが多いわけではないので、合わなかったらどうしようかと思いましたが、イタリアはパスタやピザが美味しいし、アルバニアやコソボでもケバブ、ピザ、ドネルも娘に合っていて本当に良かったです。あぁぁ!民族衣装は現地でしか手に入らないのでホンマ買っておけばよかったです
  • iguasufallさん 2012/09/18 09:31:41
    up有難うございます!コソボ楽しみにしてました!
    worldspanさま、

    多くの日本人が、世界遺産とか人気スポットを目当てに旅行する傾向なのに
    worldspan様はその土地の歴史をしっかり踏まえて訪問されるというのは
    ホント素晴らしいですね!

    お嬢さんも可愛らしいのですが、アルバニア人のお姉さん、物凄い美人じゃ
    ないですか???モデルさんみたいです〜街中皆こんな美形ばっかりで
    溢れているのでしょうか?
    あ、昔、何気にタイでかっこいい男性が多くて驚いた(東南アジアって
    美形ってイメージではないので)それから、トルコで、ヨーロッパの血が
    色濃い人ってかなりの美形で驚いた(トルコ人は濃くてどっちかと言うと
    暑苦しいイメージだったので)という経験はあるんですけどね〜

    worldspan

    worldspanさん からの返信 2012/09/18 20:46:36
    RE: up有難うございます!コソボ楽しみにしてました!
    Iguasufall さん

    コメントありがとうございます。元々学生時代に中東欧史を研究していたのと、何度もこうした地域に足を運んでいたので詳しいだけで、他に訪問したことのある西欧や、アジアの事なんて全く精通してないので、はっきりいってよくわかっていません。
    中東欧圏は、大国の狭間に位置しているので、その時代ごとの列強に翻弄され、血を流した歴史が多く、必ず民族問題や宗教問題がつきまといます。こうした波乱に満ちた歴史があって乗り越えて来たからこそ民族としての誇りがあり、自負心があります。多面的に見ていかないとなかなか紐解けないものが多いので、勉強もとても面白く感じます。

    アルバニア人は美人。。う~ん、どうでしょうか。確かに時々美人はみかけましたが、セルビア人のほうが、スラッとして顔もキリッとしてとても素敵な女性が多いです(あくまで見た目ですが)。でも写真の彼女は本当に素敵な女性でした。

    worldspan

    worldspanさん からの返信 2012/09/18 20:47:36
    RE: up有難うございます!コソボ楽しみにしてました!
    Iguasufall さん

    コメントありがとうございます。元々学生時代に中東欧史を研究していたのと、何度もこうした地域に足を運んでいたので詳しいだけで、他に訪問したことのある西欧や、アジアの事なんて全く精通してないので、はっきりいってよくわかっていません。
    中東欧圏は、大国の狭間に位置しているので、その時代ごとの列強に翻弄され、血を流した歴史が多く、必ず民族問題や宗教問題がつきまといます。こうした波乱に満ちた歴史があって乗り越えて来たからこそ民族としての誇りがあり、自負心があります。多面的に見ていかないとなかなか紐解けないものが多いので、勉強もとても面白く感じます。

    アルバニア人は美人。。う~ん、どうでしょうか。確かに時々美人はみかけましたが、セルビア人のほうが、スラッとして顔もキリッとしてとても素敵な女性が多いです(あくまで見た目ですが)。でも写真の彼女は本当に素敵な女性でした。

    iguasufall

    iguasufallさん からの返信 2012/09/20 06:48:50
    お返事有難うございます!
    worldspanさま、

    へー、セルビア人の方が美人が多いのですね。私はロシアに行った時、色白の方が多くて美人だらけだって気がしたのですが、ちょっと御歳を召されると寒さで肌が赤化してるような、、つまり、美人は多くても美人期間は短いかな、と思いましたね。

    もう年末年始のご旅行決定されていて、航空券まで押さえておられるのですね!自分は、、早くて2か月前の時もあったけど、一週間前に慌てて〜なんてのもありますよ。全くworldspanさま見習って、計画的にやりたいものです。。

    民族衣装、、う〜ん、ショーウインドウのものはかなり魅惑的ですね!でも、、お嬢さんはすぐ大きくなられるから、すぐ着れなくなる&一回写真撮ってその後は捨てるに捨てれなくて、、保管に場所とるだけの厄介者になる可能性ありますよ〜私も折角来たんだし、ここでしか買えないし、で、購入したものの出番はない民族衣装、あちこちで眠っています。

    worldspan

    worldspanさん からの返信 2012/09/20 21:01:13
    RE: お返事有難うございます!
    Iguasufallさん

    確かに一昔前のロシア人女性はそうでしたけど今は違うと思いますよー。お金をもってますので、美容にお金をかけてる話はよく聞きますし、昔と違って色んな食事があって、高カロリーのロシア料理はあまり人気がないとも聞いてます。セルビアに限らず旧ユーゴ諸国の南スラブ系の女性は美人の確率が確かに高いです。色んな民族の血が入ってるからなんでしょうかね?

    年末の旅行は会社の年間スケジュールが二月にはでるし、大体過去の仕事の流れから行けると判断していくことにしました。でも年末に旅行に行くのは価格が高いのでいつもそんな時期に行ってなくて、この時期に行くのは六年ぶりです。
    なのでいつもはシーズンオフに行くので仕事を読みながらギリギリになります。それでも、寝る時間を割いても色んな手だてを調べて極力費用対効果のあるものを手配してます。
    > もう年末年民族衣装とかは少し大きめにして2年は着れるように購入すると効率いいですよ。大連でチャイナドレスやNZでお洒落な服を買いましたが、二年間は来てますよ。少し大きくても着せ方を考えればそれなりにいけますし。それに今度は次女に受け継がれるので、案外長い間きれますよ。今年はトランジット先のクアラルンプールで子供服を探してみようと思ってます。チャイナドレスは特に自分の住まいの沿線が関空から大阪しないに出る路線の沿線上で外国人も多いせいか、娘が着とると写真を撮らせてって言われて撮られることもけっこうありますよ。そんな感じなのでそれなりには着てます。ラトビアで購入した民族衣装風ポンチョなんて、去年の冬はかなり活躍しましたし、今年も着させるつもりです。 そういう感じなので、普段でも着れるような衣装、若しくは一張羅、または民族衣装風のものを買うと十分着こなせますよ

    iguasufall

    iguasufallさん からの返信 2012/09/20 22:30:06
    さ、流石です〜
    worldspanさま、

    おっしゃる通り、私がロシアに行ったのは10年以上前です! そう言えば去年、旅先でロシア青年に出逢い、自分がロシア旅行した時の話を一生懸命したら、今は違うぞ、と色々反論されました。
    (例;worldspan様の写真にも写っていましたアルバート通りのマクドナルドに長蛇の列が出来ていた→今はマクドナルドの数も増え行列はないそうです) という事は、、美人期間が長くなり美人が溢れているって事ですね!

    へー、民族衣装もお上手に活用なさっておられるんですね!出番が多いならご購入し甲斐もあっていいですね〜

    worldspan

    worldspanさん からの返信 2012/09/21 07:21:40
    RE: さ、流石です〜
    そうそう、自分もよく言われます、現地の人に。例えばウクライナの事なんて、二回は行っとるけど、二年間は96年以来訪れてないけーどれだけ変わったか是非見てほしいと言われましたよ。まぁユーシェンコやティモシェンコの政争が報道されとったけー、ニュースでは現地の様子をみてましたけど、あか抜けたなーと思いましたもん。ラトビアの女子大生をうちで受け入れた時も、私が知ってるラトビアとは随分変わったので訪れてほしいと言われて、実際に去年行くと殆どソ連を感じませんでした。彼女が三歳の頃のラトビアからすると随分変わりましたよ。因みにラトビアには四回訪れてますが、訪れるたびに町が変貌し、雰囲気も変わっていく姿をみると、とても勉強になるし、楽しかったです。アジア大会の頃に広島のまちが、実家に帰るたびに変貌を遂げていたのと、まさしく同じ感じでした。

    そんないみではそのロシア人の言うことはよくわかりますよ。今のロシアはお金も力もあるし、相当変わったと思います。シェレメチェボでさえ、あまりの変貌ぶりにおどろきましたもん。
    アルバート通りのマクドは確か一号店でしたよね?95年に訪れた時にはトベルスカヤ通りの3号店までしかなかったのが、翌年にはそこそこ増えてて、99年にはサンクトペテルブルグにまであって、モスクワでもけっこう見かけましたもんね。こうやって何回も同じ中東欧圏を回遊魚のように回ってると、この国は変わったけど、あの国は成長が遅れてるなーっていうのが本当によくわかって、面白いですよ。
    因みに昔は各国でマクドに訪れてトレイに敷かれた広告をもって帰ってましたよ。マクドとはいえ、そのお国柄がでてますので。95年にアルバート通りのマクドに訪れた時の用紙は、履歴書になってて、そのまま書いてマクドに持っていくと仕事ができる、そんな感じでした。今も持ってますよ(笑)

    iguasufall

    iguasufallさん からの返信 2012/09/22 12:24:26
    マクドのトレイに敷かれている広告ですか〜面白いですね!!
    worldspanさま、

    そう言えば、物価が高くてマクドで食事っていう事もあったし、お茶休憩の為に寄ったり、、あちこちのマクドにはお世話になっていますよ!でもでも、、あのチラシきっと目にしてるはずだけど、どの国のものも全く思い出せん!!どの国のものも面白かったに違いないです!ホンマ、流石の流石ですね。今から行く国のマクドでは私も絶対持ち帰る事にします!ロシアではマクドには入らなかったんですが、アルバート通りの店は一号店より若干小さいと思います。昔のアルバムを捜し出して再確認してみましたが、若い世代は色白で美形ばかりですよ〜

    一度訪れた国に何度も行って変化を確認できるなんて、素晴らしいですね!
    自分は、日本人に有り勝ちなスタンプラリー、行った事ない所に目が行きます。

    worldspan

    worldspanさん からの返信 2012/09/23 10:12:22
    RE: マクドのトレイに敷かれている広告ですか〜面白いですね!!
    確かに西側諸国ではマクドが1000円を超えるようなビックリ価格だったりして、到底そこで食事をするなんて考えられないし、しかもマクドのトイレですらさらに有料だったりとあまりメリットがないので、ほとんど行くことがなかったですが、旧東欧圏でその昔、ビックマックセットが300円代だったりしたので我々日本人には比較的安価にお茶したり食事が出来たりしたので(しかもトイレも綺麗ですし)、よく利用していました。今はだいぶ高くなってるので使い勝手が悪くなったかもしれません。とはいえ、バックパッカーとして行ってた頃のあの広告は見るとあの頃を思い出してとても懐かしく感じます。

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