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二日目(平泉観光~陸前高田から南三陸町視察 同町民宿泊)<br /> <br /> 樹氷のシーズンではないが、せっかく蔵王まで来たのだからと、エコーラインを上がってみる。前日と違ってあいにくの小雨模様だ。そして寒い。滝見台からは100選に入るという「三階の滝」を眺める事が出来る(写真1)。なかなかの景色と喜んだのもここまで、以降は悪天候で景観を楽しむ事は出来ない。高度が上がると次第に道路端の雪が増えてくる。挙句の果ては、積雪による行き止まりである(写真2)。<br /> <br /> 東北道を1時間北上する。続いて世界遺産である中尊寺の観光だ。天台宗東北本山で、西暦850年、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)により開山され、12世紀奥州藤原氏初代清衛により造営された。駐車場に車を置き参道を進む。弁慶堂では等身大と言われる弁慶像が安置されていて、社会科見学の中校生らがきゃぴきゃぴと賑わっている。地蔵院、瑠璃光院、中尊寺本堂と続くが、下調べもしておらず、時間もないため先を急ぐ。何はともあれ金色堂である。20分程歩き何はともあれ黄金に輝く場所に着く。<br /> <br /> 「五月雨の 降りのこしてや 光堂」。松尾芭蕉は、何百年もの風雨にも流れず永遠の美しさを称えていると詠った(写真3)。内部はもちろん撮影不可である。金色堂は名前の通り、ほぼ全面金箔である。思った程大きくないが、あれだけの表面積が金だとやはり相当なものである。思った程けばけばしくないが、やはり豪華絢爛であり美しい限りである。さらに言えば、そこには時空を超えた圧倒的な存在感があり、その永遠の美しさはまさに感動的である。私はこの地で感動したもう一人の人物を思い出した。そして「黄金の国ジパング」にやって来たマルコポーロの気分にもなって、改めて「東北見聞録」を書かなくちゃ、と心に決めるのであった。<br /> <br /> 最後に金色堂旧覆堂を観る(写真4)。1962年改修工事が始まるまで、金色堂はこのお堂に覆われ風雨から守られてきた。そう考えると地味な存在だが、なかなか、どうして感慨深い。復路、途中のそば屋で名物のわんこそばでない、普通のそばを食べる。どうも、わんこそばは割高な気がしてしまう。この地は他にも毛越寺や達谷窟毘沙門堂など観るところがありそうだが、しばらくは観光モードを打ち消して被災地の視察に頭を切れ換える。株も酷い状況だ。こちらもしばし忘れよう。<br /> <br /> 内陸の平泉から海岸線に移動する。岩手県の南端に位置する陸前高田市。入りくんだ湾岸に市の中心部があり津波の被害を大きく受けた。中心部は壊滅的な状況で、瓦礫が整理されて保管されるも一部の大きな建物が残っているほかは全く街の様子はない。三階や四階建ての建物は、その上層部まで津波が押し寄せた事を物語る(写真5)。住宅や商店だったと思われる場所は僅かに基礎のコンクリートだけを残して原形をとどめない。海岸近くは一年以上たって未だ雨水に満たされた沼地状態の場所すら多い(写真6)。列車が通らないはずの信号機と線路を徐行しながら通り過ぎる。幹線道以外のほとんど道は、続くのか行き止まりかわからないため、基本的にゆっくりと進まざるを得ない。<br />  <br /> 私達は海岸の道路端でのぼりを立てて営業するセルフ給油所でガソリンを注いだ。ここから先、気仙沼・南三陸町と南下するのだが、こうした風景が続くのかと思うと何とも気が重くなる。気仙沼はバイパスを通り、市街には行かない事とする。陸前高田市を過ぎ去ろうとしたその時、水門近くの海岸端で、あの「奇跡の一本松」を見つけることが出来た(写真7)。防腐処理が施されたツートンカラーの幹。その痛々しい姿は、「復興は進んでいない」と声なき声を発しているかのようにさえ思われた。<br /> <br /> 南三陸町と言えば、あの日、防災無線で高台に避難するよう叫び続けながら亡くなられた役場の職員、遠藤未希さんが生きた町である。命をかけた遠藤さんの呼びかけ・放送で多くの町民が避難して助かった。一方で遠藤さんら役場職員は大半にあたる41名もの方々が犠牲になられた。(写真8右上)、やはり多くの犠牲者を出した志津川病院は残っているようだが、あれば右端辺りに位置すると思われる防災庁舎は既に取り壊されているようだ。全く酷い状況である(写真9 防災庁舎と思い写真に収めたが、位置から考えると別の建物のようだ )。もちろん高台移転せず同じ場所に再建が出来ないという事情は理解できる。それにしても、瓦礫の処理は1年以上たって未だ数%の進捗なのだから。明日はこの町でボランティアだ。宿泊予定の民宿へと車を急ぐ。<br /> <br /> 民宿はお世辞にも快適な宿とは言い難い。町の中心部の志津川から離れた入江の少し高台に位置する。微熱が続いていたのでふうちゃんだけが宿の階下にある風呂に入る。後で聞いたのだが、あの日、津波はこの地区も襲い、風呂まで浸かったものの宿は被災を免れたそうだ。この地区で家屋を流された人は多く、仮設住宅が建つまでの間、多くの人を受け入れたという。客は私達意外には、福島で被災し宮城で復興土木に雇われて連泊している四人の若者である。<br /> <br /> トイレは和式、建物は相当に古く老朽化している。食事も魚介類が並ぶもあまり上等な品とは言えない。若夫婦が料理をつくり、母親が給仕をしてくれたのだが、早く片付けようとご飯も汁もビールも一緒に出されるから敵わない。タオル・ハブラシ等は要求しないともらえない。そうした不自由な宿ではあるが、考えてみればボランティアの宿には誠に相応しい。それは未だに仮設住宅に住む被災地の人々と同じような生活なのである。電気も水道も不通の日々がずっと続いていたここの人々からすれば、快適な日常生活のはずだ。  <br />        (つづく)

東北見聞録 ~ボランティア、視察、観光の旅~その2

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2012/05/10 - 2012/05/14

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つう

つうさん

二日目(平泉観光~陸前高田から南三陸町視察 同町民宿泊)

 樹氷のシーズンではないが、せっかく蔵王まで来たのだからと、エコーラインを上がってみる。前日と違ってあいにくの小雨模様だ。そして寒い。滝見台からは100選に入るという「三階の滝」を眺める事が出来る(写真1)。なかなかの景色と喜んだのもここまで、以降は悪天候で景観を楽しむ事は出来ない。高度が上がると次第に道路端の雪が増えてくる。挙句の果ては、積雪による行き止まりである(写真2)。

 東北道を1時間北上する。続いて世界遺産である中尊寺の観光だ。天台宗東北本山で、西暦850年、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)により開山され、12世紀奥州藤原氏初代清衛により造営された。駐車場に車を置き参道を進む。弁慶堂では等身大と言われる弁慶像が安置されていて、社会科見学の中校生らがきゃぴきゃぴと賑わっている。地蔵院、瑠璃光院、中尊寺本堂と続くが、下調べもしておらず、時間もないため先を急ぐ。何はともあれ金色堂である。20分程歩き何はともあれ黄金に輝く場所に着く。

 「五月雨の 降りのこしてや 光堂」。松尾芭蕉は、何百年もの風雨にも流れず永遠の美しさを称えていると詠った(写真3)。内部はもちろん撮影不可である。金色堂は名前の通り、ほぼ全面金箔である。思った程大きくないが、あれだけの表面積が金だとやはり相当なものである。思った程けばけばしくないが、やはり豪華絢爛であり美しい限りである。さらに言えば、そこには時空を超えた圧倒的な存在感があり、その永遠の美しさはまさに感動的である。私はこの地で感動したもう一人の人物を思い出した。そして「黄金の国ジパング」にやって来たマルコポーロの気分にもなって、改めて「東北見聞録」を書かなくちゃ、と心に決めるのであった。

 最後に金色堂旧覆堂を観る(写真4)。1962年改修工事が始まるまで、金色堂はこのお堂に覆われ風雨から守られてきた。そう考えると地味な存在だが、なかなか、どうして感慨深い。復路、途中のそば屋で名物のわんこそばでない、普通のそばを食べる。どうも、わんこそばは割高な気がしてしまう。この地は他にも毛越寺や達谷窟毘沙門堂など観るところがありそうだが、しばらくは観光モードを打ち消して被災地の視察に頭を切れ換える。株も酷い状況だ。こちらもしばし忘れよう。

 内陸の平泉から海岸線に移動する。岩手県の南端に位置する陸前高田市。入りくんだ湾岸に市の中心部があり津波の被害を大きく受けた。中心部は壊滅的な状況で、瓦礫が整理されて保管されるも一部の大きな建物が残っているほかは全く街の様子はない。三階や四階建ての建物は、その上層部まで津波が押し寄せた事を物語る(写真5)。住宅や商店だったと思われる場所は僅かに基礎のコンクリートだけを残して原形をとどめない。海岸近くは一年以上たって未だ雨水に満たされた沼地状態の場所すら多い(写真6)。列車が通らないはずの信号機と線路を徐行しながら通り過ぎる。幹線道以外のほとんど道は、続くのか行き止まりかわからないため、基本的にゆっくりと進まざるを得ない。

 私達は海岸の道路端でのぼりを立てて営業するセルフ給油所でガソリンを注いだ。ここから先、気仙沼・南三陸町と南下するのだが、こうした風景が続くのかと思うと何とも気が重くなる。気仙沼はバイパスを通り、市街には行かない事とする。陸前高田市を過ぎ去ろうとしたその時、水門近くの海岸端で、あの「奇跡の一本松」を見つけることが出来た(写真7)。防腐処理が施されたツートンカラーの幹。その痛々しい姿は、「復興は進んでいない」と声なき声を発しているかのようにさえ思われた。

 南三陸町と言えば、あの日、防災無線で高台に避難するよう叫び続けながら亡くなられた役場の職員、遠藤未希さんが生きた町である。命をかけた遠藤さんの呼びかけ・放送で多くの町民が避難して助かった。一方で遠藤さんら役場職員は大半にあたる41名もの方々が犠牲になられた。(写真8右上)、やはり多くの犠牲者を出した志津川病院は残っているようだが、あれば右端辺りに位置すると思われる防災庁舎は既に取り壊されているようだ。全く酷い状況である(写真9 防災庁舎と思い写真に収めたが、位置から考えると別の建物のようだ )。もちろん高台移転せず同じ場所に再建が出来ないという事情は理解できる。それにしても、瓦礫の処理は1年以上たって未だ数%の進捗なのだから。明日はこの町でボランティアだ。宿泊予定の民宿へと車を急ぐ。

 民宿はお世辞にも快適な宿とは言い難い。町の中心部の志津川から離れた入江の少し高台に位置する。微熱が続いていたのでふうちゃんだけが宿の階下にある風呂に入る。後で聞いたのだが、あの日、津波はこの地区も襲い、風呂まで浸かったものの宿は被災を免れたそうだ。この地区で家屋を流された人は多く、仮設住宅が建つまでの間、多くの人を受け入れたという。客は私達意外には、福島で被災し宮城で復興土木に雇われて連泊している四人の若者である。

 トイレは和式、建物は相当に古く老朽化している。食事も魚介類が並ぶもあまり上等な品とは言えない。若夫婦が料理をつくり、母親が給仕をしてくれたのだが、早く片付けようとご飯も汁もビールも一緒に出されるから敵わない。タオル・ハブラシ等は要求しないともらえない。そうした不自由な宿ではあるが、考えてみればボランティアの宿には誠に相応しい。それは未だに仮設住宅に住む被災地の人々と同じような生活なのである。電気も水道も不通の日々がずっと続いていたここの人々からすれば、快適な日常生活のはずだ。
        (つづく)

同行者
友人
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
レンタカー JALグループ
旅行の手配内容
個別手配

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