1992/02/15 - 1992/02/15
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がおちんさん
彼はバイクタクシーの運転手。
ホテルから旅行社まで往復するのに乗せてもらったが、別れ際に「もし行きたい所があれば、私にガイドさせてくれないか」と言われた。謙虚さと誠実さを持った人に見えたので、案内をお願いした。
トゥール・スレンやキリングフィールドを見学するうちに、彼が暗黒の時代を生き延びたインテリであることがわかった。どれだけの苦難を乗り越えてきたのかは計り知れない。
市内に帰ってきたとき、虐殺の爪跡を見てショックを受けた私に、彼は優しく微笑んだ。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩 バイク
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1992年2月15日(土)
バイクタクシーの男性から、「戦争だけでなく、美しいカンボジアも見てほしい」と言われ、まずはワットプノンへ向った。 -
ナーガの出迎え。
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お寺は丘の上にある。
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参拝客を出迎える仏と獅子。
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階段を上ったところにあった、「釈迦生誕」のレリーフ。
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美しいデバター。
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同じく、日光に照らされたデバター。
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寺の中にあった、ナーントランニーの像
インドシナ半島や雲南ではおなじみの女神像だ。 -
正座はちょっと横座り。
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ワットプノンの仏塔。
参拝客が少なく、静かな寺だった。 -
ワットプノンの仏教美術を堪能し、トゥール・スレンに向う。
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トゥール・スレン博物館に着いた。
もともと高校だった建物を、クメールルージュが政治犯収容所にしたところだ。
当時は存在自体が秘密にされており、暗号でS21と呼ばれていたという。 -
一見しただけではわからないが、S21に収容された人は1万5000人〜2万人にものぼり、ほとんどの人が拷問、虐殺された。
生き残った人は僅か8名だけといわれる。 -
有刺鉄線に覆われたゲートの中へ入る。
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これから虐殺される人々の写真が沢山並んでおり、いきなり度肝をぬかれた。
また、死亡後の写真まで記録してあり、狂気を感じる。 -
拷問に使われた道具。
看守は洗脳のたやすい13歳ぐらいの少年が主だった。地方の田舎から連れてこられ、最初は家畜の世話をさせられ、幹部に信用されると看守に起用された。
そして、善悪も考えず、党の言うままに動く殺戮マシーンとなっていった。 -
尋問室。
取調べは三班に分かれていたという。まずは政治的な罪を告白させる。それに応じないと暴力が加えられる。それにも屈しないと、供述するまで拷問が続けられた。
壁には、ベトナム軍がS21を制圧した当時の写真が掲げられている。 -
注:生々しい写真はモノクロにしました。
この部屋で囚人は手足を縛られて拷問を受け、やってもいない反革命的行為を自白させられた。無実の人々は虐待に耐え切れず、CIAのスパイだの、ベトナムに協力しただのと言わされたのだ。
収容所の床には、10数年経っても血痕が生々しく残っていた。 -
拷問の目的は「気持ちをくじき、恐怖を与えて情報を得ること」にあった。
しかし、もともと無実な人々に有用な情報があるはずもなく、看守たちの都合に合わせて調書を書かせられた。もはや情報を得るためではなく、記録をとるために拷問が行われるようになる。
「CIAの妨害工作に加担して糞尿を撒いた」などの滅茶苦茶な供述が記録されていく。
ベッドの上にある弾薬箱は排泄用に使われた。 -
S21の独房。
拷問により、捕らえられた人々は衰弱していく。
囚人に死なれては尋問が出来ないため、子供だましの治療が行われた。
3ヶ月程度の医療教育を受けた少年医が塩水で傷を消毒して包帯を巻き、小麦粉と砂糖と酢で作ったビタミン注射をしたという。治療をする目的は、再び拷問を加えるためである。
収容所では処刑される以外、死ぬことも許されなかった。正に地獄だ。 -
S21の看守たちはだんだんと党の規則をも超えた行為に及んでいく。
女性囚人へのレイプや、過度の拷問による死亡などが発生し、それを隠蔽した。
採血のために殺害される囚人もいた。一人から4袋の血液が採られ、衰弱した囚人は穴に埋められたという。輸血をするために殺されるなんて狂気の沙汰だ。 -
収容所で虐殺された人々の頭蓋骨で作られた、カンボジアの地図。
メコン川とトンレサップ湖は赤く描かれていた。 -
まさにクメールルージュを支援していたのが中国である。カンボジアの悲劇は毛沢東思想が生み出したとも言えるだろう。
ポル・ポトは写真までマオになりきっている。 -
S21を見学して、もっとも戦慄したのが3階の雑居房だった。
この部屋は見学者に公開されていなかったようだが、たまたま階段を上がったらビックリするような光景が目に入ってきた。
囚人が使ったと思われる衣服や食器などが散乱しており、すえた臭いがする。 -
処刑された囚人は、S21の裏手にある小学校の校庭に埋められていたが、そこが手狭になると郊外のチュンエク村に連行して殺すようになった。
その際、衣服は剥ぎ取って再利用したという。
目の前にあるのが「それ」かと思うと、悲しみを通り越しておぞましくなった。 -
部屋の片隅にあったポル・ポトの像と、囚人にはめていた足枷。
この白い像も、毛沢東にそっくりだ。 -
S21を後にする。
ここから出れた人はほとんどいない。看守でさえ、7割の者が殺されたという。結局、囚人も看守も被害者だったわけだ。
2012年2月、S21収容所長のドッチは終身刑の判決を受けた。
※フランスが2002年に製作した映画『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』には、奇跡的に生還した元囚人と元看守らがS21に集まり、当時の様子を再現・検証する様子が映されています。ネットで観れますので、まだの方は検索してみてください。 -
ポル・ポト派による大虐殺は本で読んで知っていたが、やはり実際に見るのとは違った。
のどがカラカラになり、博物館前の店でジュースを飲んで一休みする。
食事に来ていた子供を見たら、とても愛おしくなった。 -
休憩したあと、チュンエク村の処刑場(キリングフィールド)に向う。
トラックに乗せられた囚人たちも、このガタガタ道を通っていったのだ。 -
チュンエク村に行く途中にあった溜池。
子供たちが泳いでいた。 -
カメラを向けると、元気そうに手を振った。
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彼らの明るい笑顔に救われた思いがする。
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キリングフィールドに着いた。
穴が開いているところは遺骨が発掘された場所だ。
まだ、未発掘の場所がたくさんある。
囚人は目隠しをされたまま穴の前にひざまずかされ、撲殺されたそうだ。 -
少し土を掘るだけで、骨や服の切れ端が出てくる。
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上腕骨にロープが巻かれたままになっていた。
凄惨すぎる。 -
「その木を見てくれ」と、バイクタクシーの男性に言われた。
私が何のことか分からずにいると、彼は「木の皮がはげている理由」を教えてくれた。小さな子供は足をつかんで振り回し、この木に頭をぶつけて殺したのだという。
なぜ、幼い命まで奪わなくてはならなかったのだ? -
キリングフィールドに建つ慰霊塔。
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慰霊塔には穴に埋められた人々の頭蓋骨が納められている。
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理由も無く、死ななければならなかった人々。
さぞ無念だったろう。 -
のどかな光景が広がるチュンエク村を後にする。
こうした処刑場はカンボジア各地にあり、罪の無い多くの人々が殺されていった。
ポル・ポト政権下のカンボジアでは、3年8ヶ月の間に200万人が虐殺、餓死、病気で亡くなったとされている。 -
プノンペン市内へと戻った。
かつて、この街から人影が消えたなんて嘘のようだ。 -
バイクタクシーの男性と野外のカフェに入る。
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「腹が空いた、さあ何か食べよう」と彼。しかし私は気分が重く、食欲がわかなかった。
今朝までの観光気分は消え失せていた。S21で看守をしていた人達が自分と同年代であることもショックだった。私はたまたま日本人に生まれただけにすぎないのだ。
「君の見たものを家族や友人に伝えて欲しい」と彼は言い、静かに笑った。
まるで、バイヨンの観世音菩薩のような顔だった。
憧れのアンコールワットへ〜カンボジアの旅1992(その3)に続く
http://4travel.jp/travelogue/10679712
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この旅行記へのコメント (4)
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- arfaさん 2012/07/16 20:32:38
- S21
- こんばんは、arfaです。
私が行った時にはS21は上へ上がる階段2ヶ所で柵に施錠されていて上に上がれないようになっていました。このようになっていたんですね。無理にでも上がったら良かったです。
アウシュビッツの髪の毛や衣類、靴などが大量に置かれた部屋が公開さているようですがこれに匹敵する者だと思います。
実はS21には他人も連れてその後2度行っていますが、入り口までで中には2度と入りません。ここは敷地近くに行くだけで何かものすごく重く大量の霊の存在を感じてしまい、頭痛や気分が悪くなるので寄りたくないのです。
次の3でアンコ―ルワットの第3回廊への階段が壊れていましたが私が行った時にもまだ壊れていたのを思い出しました。
行かれた時期もベトナム軍撤収完了の1989年9月、カンボジア和平パリ国際会議が行われた1991年10月23日、1992年5月23日〜28日の国民議会選挙の間のこれから安全になりそうという頃に行かれたのですね。この頃はまだ怖くて行けませんでした。
- がおちんさん からの返信 2012/07/17 00:38:52
- RE: S21
- alfaさん、こんばんは。
このときの旅行はアンタックが入る前だったので治安面には不安がありました。旅行記には書いていないですが、プノンペンでは何度か銃声を耳にしましたし、警察への賄賂などもえげつなかったです。
アンコール遺跡では、地雷が沢山埋まっているのに注意書きなどはないため、あらかじめ決められた道しか通れませんでした。夜になるとクメールルージュに対する威嚇攻撃の音が聞こえてきて緊張した記憶があります。ちなみに私の妻は89年にアンコールワットに行っていますが、そのときは兵士に護衛されて見学したそうです。
S21は確かに気分が重くなる場所ですし、何度も行く所ではないかもしれませんね。しかし、もし大量の霊の存在を感じて気分が悪くなるのならば、ナガサキやヒロシマも歩けないはずです。そしてトウキョウも。霊は人に悪さをしません。人に悪さをするのは、生きている人間だけです。
がおちん
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- keiさん 2012/07/10 15:44:48
- Imagine there’s no Heaven
- こんにちは、がおちんさん。
恥ずかしながら私はこの事実を今まで知りませんでした。
カンボジアといえば内戦ということしか浮かびません。
でも今日、がおちんさんの記録を拝見して、
ショックを受け、また、無知だった自分が
なんて平和ボケしているのか身につまされました。
過去というにはあまりにも近すぎる過去の出来事ですよね。
2012年収容所長のドッチは終身刑の判決を受けたそうですが、
それでは今までどうなっていたのでしょうか?
ポルポト派幹部たちの公判もやっと最近らしいですから、
何か隠蔽された部分や責任逃れや、そんな見苦しいことが
底辺で行われているのでしょうね。
いったい何のための革命だったのか・・・
文化大革命に憧れていたのでしょうか・・・。
ナチスはユダヤ人を虐殺しましたが、カンボジアはカンボジア人を
自国民を虐殺しています。
まったく意味がわかりません。
そしてこの事実が日本ではずっと後になってやっと
報道されたことも、意味がわかりません。
私も慰霊碑の前で手を合わせたい気持ちでいっぱいです・・・。
がおちんさんが見学の後で見た子ども達の笑顔は本当に
心が軽くなったことでしょう。
おそらく私の場合は軽くなったと同時に大泣きしていると
思います。
貴重な記録をありがとうございました。
とても勉強になりました。
kei
- がおちんさん からの返信 2012/07/10 20:47:43
- RE: Imagine there’s no Heaven
- Keiさん
こんばんは、感想をありがとうございます。
1979年1月、ベトナムの侵攻によってプノンペンが陥落したあと、ドッチはS21から4ヶ月かけてタイ国境のあたりに逃げたとされています。ポル・ポト派の支配地域で活動し、北京でも働いていたそうですが、1992年にポル・ポト派を逃げ出して政府側の支配地域に行き、民間人として暮らします。名前を変えて学校の教師をしたり、難民キャンプで働いたりしていましたが、1999年にダンロップというジャーナリストに正体を見破られ、カンボジア政府に投降しました。
彼は途中でキリスト教徒になっています。やはり自分の犯した罪の重圧に耐えられなかったのでしょうか。ドッチについては、カン・ケク・イウで検索すると、wikiに詳しく書かれています。
この旅行から20年が経ちましたが、この日のことは今も鮮明に記憶しています。カンボジアもすっかり変わったようですが、機会があればいつか再訪したいと思っています。
がおちん
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