南アルプス市旅行記(ブログ) 一覧に戻る
台が原宿<br /><br />台が原の続きは次回!

甲州古道歩き No12. 台が原宿(33)への古道は鄙びた水田風景が日本的でした。

8いいね!

2012/05/25 - 2012/05/25

144位(同エリア246件中)

0

34

ムッシュ

ムッシュさん

台が原宿

台が原の続きは次回!

  • 【万休院庭園】<br />曹洞宗万休院は元亀2年(1571年)武田四天王の一人馬場美濃守信春の子馬場民部少輔の開基です、民部は父が長篠合戦で戦死した後に馬場家を継ぎました、本尊は観世音菩薩です、本堂には武田菱があしらわれています。<br /><br />舞鶴松と呼ばれた樹齢450年の赤松がありましたが、平成18年(2006年)松くい虫の被害により枯れ、平成20年(2008年)に伐採された。<br />

    【万休院庭園】
    曹洞宗万休院は元亀2年(1571年)武田四天王の一人馬場美濃守信春の子馬場民部少輔の開基です、民部は父が長篠合戦で戦死した後に馬場家を継ぎました、本尊は観世音菩薩です、本堂には武田菱があしらわれています。

    舞鶴松と呼ばれた樹齢450年の赤松がありましたが、平成18年(2006年)松くい虫の被害により枯れ、平成20年(2008年)に伐採された。

  • 【馬頭観世音文字塔と石塔】があります。<br />〔馬頭観世音〕<br />  馬頭観音は馬の守り神であり、石仏として地蔵、庚申とともに親しまれてきた石造物で、馬頭観世音の字だけを彫ったものと馬の頭に冠をつけた馬頭観世音がある。馬は、古来より労働力として農耕、運搬、乗用等に重用されていたので、馬の供養と無病息災の祈願をこめて建立されていた。馬の頭上の冠は、生死の大海を渡った四魔を承伏する大威力や精神力、無明の重障を食い尽くすとの意味がある。<br />                     平成十七年三月吉日 台ヶ原区

    【馬頭観世音文字塔と石塔】があります。
    〔馬頭観世音〕
      馬頭観音は馬の守り神であり、石仏として地蔵、庚申とともに親しまれてきた石造物で、馬頭観世音の字だけを彫ったものと馬の頭に冠をつけた馬頭観世音がある。馬は、古来より労働力として農耕、運搬、乗用等に重用されていたので、馬の供養と無病息災の祈願をこめて建立されていた。馬の頭上の冠は、生死の大海を渡った四魔を承伏する大威力や精神力、無明の重障を食い尽くすとの意味がある。
                         平成十七年三月吉日 台ヶ原区

  • この手前右手に旧甲州街道一里塚跡碑があります、碑には「甲府ヨリ七里ナノデ七里塚トモ云ウ」と刻まれています。

    この手前右手に旧甲州街道一里塚跡碑があります、碑には「甲府ヨリ七里ナノデ七里塚トモ云ウ」と刻まれています。

  • 甲州街道古道入口【はらぢみち碑】があります<br /><br />〔横山の道標〕 台ヶ原宿案内板番号22 (右側) <br />  ここの道を古道という。古府中より穴山、日野を経て台ヶ原村へ通じる道で、後に「はらぢみち」ともいわれていた昔日の主要道路である。<br />  甲州道中の開設により台ヶ原村への入口でもあったので、江戸時代には交通の足である馬の四魔を承伏し、交通の安全を祈願して建てられた馬頭観世音の側面に道しるべとして「右かうふみち」「左はらぢ道」と記されている。<br />  甲州台ヶ原宿に現存する唯一の道標である。<br />                平成十七年三月吉日 台ヶ原区

    甲州街道古道入口【はらぢみち碑】があります

    〔横山の道標〕 台ヶ原宿案内板番号22 (右側) 
      ここの道を古道という。古府中より穴山、日野を経て台ヶ原村へ通じる道で、後に「はらぢみち」ともいわれていた昔日の主要道路である。
      甲州道中の開設により台ヶ原村への入口でもあったので、江戸時代には交通の足である馬の四魔を承伏し、交通の安全を祈願して建てられた馬頭観世音の側面に道しるべとして「右かうふみち」「左はらぢ道」と記されている。
      甲州台ヶ原宿に現存する唯一の道標である。
                    平成十七年三月吉日 台ヶ原区

  • 道標を兼ねた馬頭観音が三体祀られています、横町の道標と呼ばれ、台ケ原宿に現存する唯一の道標。安永5年(1776年)建立の道標には「右かうふみち 左はらぢ通」、寛政4年(1792年)建立

    道標を兼ねた馬頭観音が三体祀られています、横町の道標と呼ばれ、台ケ原宿に現存する唯一の道標。安永5年(1776年)建立の道標には「右かうふみち 左はらぢ通」、寛政4年(1792年)建立

  • 国見坂の左手には馬頭観音や庚申塔が並んでいます。

    国見坂の左手には馬頭観音や庚申塔が並んでいます。

  • 天保14年(1843年)の頃、台ケ原宿の宿内家数は153軒、うち本陣1、問屋1、旅籠14軒で、宿内人口は670人でした、宿並は建設省”日本の道百選”に選ばれています。

    天保14年(1843年)の頃、台ケ原宿の宿内家数は153軒、うち本陣1、問屋1、旅籠14軒で、宿内人口は670人でした、宿並は建設省”日本の道百選”に選ばれています。

  • ここから、台ケ原宿です。

    ここから、台ケ原宿です。

  • 【本陣跡&常夜燈】<br />常夜燈に隣接、ここが御本陣小松屋伝右衛門跡です、天明2年(1782年)の記録によると、敷地は間口18間、奥行き19間で坪数は351坪、建坪は92坪でした。<br />甲州道中の参勤交代の大名は高島藩(諏訪伊勢守)、高遠藩(内藤大和守)、飯田藩(堀大和守)の三藩に限られていた、ところが天明3年(1783年)浅間山の大噴火によって中山道の浅間三宿(軽井沢、沓掛、追分)が壊滅すると、甲州道中が迂回路となり、大いに賑わったといいます。<br /><br />【秋葉大権現常夜石燈籠の由来】 <br />  往年、台ヶ原宿が火災と水害に見舞われたことに起因して、慶應三年「秋月講」というグループが誕生し、防災を念願して、「秋葉大権現」の石灯籠を旧小松家(本陣)屋敷跡に建立して、大火の防火を祈願した。<br />  その後「秋葉講」として祈願グループが広がり、年々秋葉山に代参をたて、地域の火災予防に寄与してきたが、諸般の事情により自然消滅した。近年、集落内に火災が続発し、恐怖心に包まれた折もこの石燈籠が地元住民の心の支えになり、毎年、十二月十五日を祈願祭としている。<br /><br />記<br />建立年月日 慶応三年十一月祭日<br />平成十七年三月吉日 台ヶ原区

    【本陣跡&常夜燈】
    常夜燈に隣接、ここが御本陣小松屋伝右衛門跡です、天明2年(1782年)の記録によると、敷地は間口18間、奥行き19間で坪数は351坪、建坪は92坪でした。
    甲州道中の参勤交代の大名は高島藩(諏訪伊勢守)、高遠藩(内藤大和守)、飯田藩(堀大和守)の三藩に限られていた、ところが天明3年(1783年)浅間山の大噴火によって中山道の浅間三宿(軽井沢、沓掛、追分)が壊滅すると、甲州道中が迂回路となり、大いに賑わったといいます。

    【秋葉大権現常夜石燈籠の由来】 
      往年、台ヶ原宿が火災と水害に見舞われたことに起因して、慶應三年「秋月講」というグループが誕生し、防災を念願して、「秋葉大権現」の石灯籠を旧小松家(本陣)屋敷跡に建立して、大火の防火を祈願した。
      その後「秋葉講」として祈願グループが広がり、年々秋葉山に代参をたて、地域の火災予防に寄与してきたが、諸般の事情により自然消滅した。近年、集落内に火災が続発し、恐怖心に包まれた折もこの石燈籠が地元住民の心の支えになり、毎年、十二月十五日を祈願祭としている。


    建立年月日 慶応三年十一月祭日
    平成十七年三月吉日 台ヶ原区

  • 【名酒”七賢”の山梨酒造さん。本名は北村家】<br />江戸時代から続く老舗の酒屋。名水100選の白州の水を利用している。<br />山梨銘醸(北村家)は寛延2年(1749年)の創業、銘酒七賢の蔵元です。<br /><br />当家は脇本陣も兼ね、幕末には高遠藩の御用商人を勤め、明治13年(1880年)には明治天皇本県巡幸の際には行在所になりました。<br /><br />天保6年(1835年)建替えの際、高遠城主より竹林七賢(ちくりんしちけん)の欄間を拝領し、以来銘酒を七賢と称しました、七賢とは三国志末期の頃、中国河内郡山陽の竹林で、酒を飲みながら政談を行った七人の賢人のことです。

    【名酒”七賢”の山梨酒造さん。本名は北村家】
    江戸時代から続く老舗の酒屋。名水100選の白州の水を利用している。
    山梨銘醸(北村家)は寛延2年(1749年)の創業、銘酒七賢の蔵元です。

    当家は脇本陣も兼ね、幕末には高遠藩の御用商人を勤め、明治13年(1880年)には明治天皇本県巡幸の際には行在所になりました。

    天保6年(1835年)建替えの際、高遠城主より竹林七賢(ちくりんしちけん)の欄間を拝領し、以来銘酒を七賢と称しました、七賢とは三国志末期の頃、中国河内郡山陽の竹林で、酒を飲みながら政談を行った七人の賢人のことです。

  • この銘酒七賢の蔵元、北村さんちは、【明治天皇行在所】としても有名。<br />当家は脇本陣も兼ね、幕末には高遠藩の御用商人を勤め、明治13年(1880年)には明治天皇本県巡幸の際には行在所になりました。さらには大名の宿舎として使用されていた。<br /><br />【説明】<br />明治十三年六月山梨三重京都御巡幸の際同月二十二日行在所となりたる處にして主要部分はよく舊規を存せり。    昭和十年二月 文部省<br />【北原家住宅 四棟】 山梨県指定有形文化財(平成12年10月指定)<br />主  屋  桁行18.1m、梁間18.7m、一重一部二階 切妻造 銅版葺<br />      附  表門及び両脇屋根塀<br />奥便所  桁行3.8m、梁間2.6m、一重 切妻造 銅版葺 主屋間の渡り廊下を 含む<br />文庫蔵  土蔵造、桁行7.3m、梁間5.5m、一重二階 銅版葺<br />文化蔵  土蔵造、桁行14.5m、梁間5.5m、一重一部二階 切妻造 割板葺<br />  当家は、寛延二年(1749)頃、信州の高遠で酒造業を営んでいた北原伊兵衛光義が、この地に分家をして大中屋(現山梨銘醸株式会社)という屋号で酒造りを創めたと伝える。以来営業は大いに発展し幕末には諏訪高遠藩、伊那高遠藩の御用商人を務め、また脇本陣をも兼ねていた豪商である。<br /> 降って、明治十三年(1880)に明治天皇本県御巡行の際は行在所となった。<br /> 北原家住宅は、台ヶ原宿の街道に面して建つ大規模な町屋建築である。主屋は主部の桁行が十間、梁間十間半で、東側の土間、店舗および居住部分から構成され、一部に二階居室がある。西側につづく突起部は桁行が六間、梁間七間半で、南面に式台付き玄関、北西に座敷部分が並び、総桁行は十六間に及ぶ。屋根は緩勾配の切妻造りで銅板葺になっているが、もとは石置き板葺屋根であった。玄関の正面には両脇に塀を付けた表門が建つ。<br />  とくに座敷部は三室を南北に並べた配位で、格式の高さを示し、北端の奥座敷(行在所)は座敷飾に床の間、違棚、付書院を備えた十畳間で北側に畳廊下が付く。奥座敷と中の間堺との欄間装飾は「竹林の七賢人」の彫刻である。<br />  これは立川流宮大工・彫刻師として名高い立川専四郎富種の作品であり、酒名「七賢」の由来とされる。<br />  建築年代は天保1830‐43‐43)から嘉永七年(1854)にかけて完成したと考えられる。主屋はじめ文庫蔵等付属建物が当時の状態でよく保存され、また建築関係資料も多く残されており、江戸時代末期の優れた商家遺産である。<br />         平成十二年十月十二日 山梨県教育委員会 白州町教育委員会

    この銘酒七賢の蔵元、北村さんちは、【明治天皇行在所】としても有名。
    当家は脇本陣も兼ね、幕末には高遠藩の御用商人を勤め、明治13年(1880年)には明治天皇本県巡幸の際には行在所になりました。さらには大名の宿舎として使用されていた。

    【説明】
    明治十三年六月山梨三重京都御巡幸の際同月二十二日行在所となりたる處にして主要部分はよく舊規を存せり。    昭和十年二月 文部省
    【北原家住宅 四棟】 山梨県指定有形文化財(平成12年10月指定)
    主  屋  桁行18.1m、梁間18.7m、一重一部二階 切妻造 銅版葺
          附  表門及び両脇屋根塀
    奥便所  桁行3.8m、梁間2.6m、一重 切妻造 銅版葺 主屋間の渡り廊下を 含む
    文庫蔵  土蔵造、桁行7.3m、梁間5.5m、一重二階 銅版葺
    文化蔵  土蔵造、桁行14.5m、梁間5.5m、一重一部二階 切妻造 割板葺
      当家は、寛延二年(1749)頃、信州の高遠で酒造業を営んでいた北原伊兵衛光義が、この地に分家をして大中屋(現山梨銘醸株式会社)という屋号で酒造りを創めたと伝える。以来営業は大いに発展し幕末には諏訪高遠藩、伊那高遠藩の御用商人を務め、また脇本陣をも兼ねていた豪商である。
     降って、明治十三年(1880)に明治天皇本県御巡行の際は行在所となった。
     北原家住宅は、台ヶ原宿の街道に面して建つ大規模な町屋建築である。主屋は主部の桁行が十間、梁間十間半で、東側の土間、店舗および居住部分から構成され、一部に二階居室がある。西側につづく突起部は桁行が六間、梁間七間半で、南面に式台付き玄関、北西に座敷部分が並び、総桁行は十六間に及ぶ。屋根は緩勾配の切妻造りで銅板葺になっているが、もとは石置き板葺屋根であった。玄関の正面には両脇に塀を付けた表門が建つ。
      とくに座敷部は三室を南北に並べた配位で、格式の高さを示し、北端の奥座敷(行在所)は座敷飾に床の間、違棚、付書院を備えた十畳間で北側に畳廊下が付く。奥座敷と中の間堺との欄間装飾は「竹林の七賢人」の彫刻である。
      これは立川流宮大工・彫刻師として名高い立川専四郎富種の作品であり、酒名「七賢」の由来とされる。
      建築年代は天保1830‐43‐43)から嘉永七年(1854)にかけて完成したと考えられる。主屋はじめ文庫蔵等付属建物が当時の状態でよく保存され、また建築関係資料も多く残されており、江戸時代末期の優れた商家遺産である。
             平成十二年十月十二日 山梨県教育委員会 白州町教育委員会

  • その向かいには、甲州銘菓”信玄餅”本舗である【金精軒】があります。

    その向かいには、甲州銘菓”信玄餅”本舗である【金精軒】があります。

  • 白州町の農業排水マンホール

    白州町の農業排水マンホール

  • 信玄餅の金精軒

    信玄餅の金精軒

  • 本陣跡碑

    本陣跡碑

  • 【荒尾神社と田中神社】<br />荒尾神社は、もと中山の麓の根古屋にあった。祭神は罔象女命と日本武尊である。<br /> 甲斐国誌に「荒キ尾白川ニ臨ムノ意ニテ荒尾ト名付クト云」とあり、尾白川の氾濫などから村人が、台ヶ原などに移り住むようになり、明治四十三年に台ヶ原田中神社境内に境内神社末社を合祀、大正三年四月五日その境内に遷都した。<br /> 田中神社は、祭神は大己貴命と媛太神で、安産の神として近郷に知られていた。<br />この拝殿は、江戸時代(慶安五年から元禄三年)にお茶壺道中の宿舎に当てられ、二回修造料として各拾両宛拝領の記録がある。<br />  なお、甲斐国誌に「祀側ニ虎石アリ故ニ古来本村ニテハ獅子舞ヲ禁シテ入レス正月十四日道祖神祭ニモ虎舞ト名付ケテ他村ノ獅子トハ其形異ナリ」とあり、明治初年頃まで虎舞が続けられていた。虎頭のみ残して絶えていたこの舞を、近年集落の若者を中心に保存会が発足し、復活させた。<br />  また境内を出発地として明治初年まで行われていた昆虫除けの祭礼は、資料が残存していて、江戸末期の農村事情を知ることができる。<br />                  平成九年七月吉日 白州町教育委員会

    【荒尾神社と田中神社】
    荒尾神社は、もと中山の麓の根古屋にあった。祭神は罔象女命と日本武尊である。
     甲斐国誌に「荒キ尾白川ニ臨ムノ意ニテ荒尾ト名付クト云」とあり、尾白川の氾濫などから村人が、台ヶ原などに移り住むようになり、明治四十三年に台ヶ原田中神社境内に境内神社末社を合祀、大正三年四月五日その境内に遷都した。
     田中神社は、祭神は大己貴命と媛太神で、安産の神として近郷に知られていた。
    この拝殿は、江戸時代(慶安五年から元禄三年)にお茶壺道中の宿舎に当てられ、二回修造料として各拾両宛拝領の記録がある。
      なお、甲斐国誌に「祀側ニ虎石アリ故ニ古来本村ニテハ獅子舞ヲ禁シテ入レス正月十四日道祖神祭ニモ虎舞ト名付ケテ他村ノ獅子トハ其形異ナリ」とあり、明治初年頃まで虎舞が続けられていた。虎頭のみ残して絶えていたこの舞を、近年集落の若者を中心に保存会が発足し、復活させた。
      また境内を出発地として明治初年まで行われていた昆虫除けの祭礼は、資料が残存していて、江戸末期の農村事情を知ることができる。
                      平成九年七月吉日 白州町教育委員会

  • お茶壺道中で有名な神社<br />【お茶壺道中と当社の由来】 <br />  お茶壺道中は、江戸幕府三代将軍家光の寛永十年から毎年四月中旬、京都の宇治に採茶使を派遣して、将軍家御用達の新茶を茶壷に納封して、江戸城へ運んだ行列である。<br />  行列の往路は東海道であったが、帰路は中仙道を経て甲州街道へ入り、谷村勝山城の茶壷蔵に収蔵して、熟成後の秋に江戸城に搬入されていた。この茶壷行列は権威が高く、御三家の大名行列さえも道を譲らなければならないほど格式の高い行列であった。<br />  資料によれば、このお茶壷行列は、中仙道奈良井宿や下諏訪宿に逗留後、当田中神社に宿泊したと記録されている。甲斐国誌には「此ノ拝殿昔時ハ毎年御茶壷一泊ノ処ナル故ニ修造料トシテ金拾両宛二度拝領セリ、慶安五年六月ノ立札ノ写ニ御茶壷毎年当社拝殿御一泊候間拝殿並ニ御番所柱壁等落書一切仕ル間候」とあり、また「御茶壷通行ノ停マリシハ元禄三年ナリト見タリ」と記されている。故に当社は、お茶壺道中とゆかりがあり、由緒ある神社である。<br />                     平成十六年十月吉日 台ヶ原区

    お茶壺道中で有名な神社
    【お茶壺道中と当社の由来】 
      お茶壺道中は、江戸幕府三代将軍家光の寛永十年から毎年四月中旬、京都の宇治に採茶使を派遣して、将軍家御用達の新茶を茶壷に納封して、江戸城へ運んだ行列である。
      行列の往路は東海道であったが、帰路は中仙道を経て甲州街道へ入り、谷村勝山城の茶壷蔵に収蔵して、熟成後の秋に江戸城に搬入されていた。この茶壷行列は権威が高く、御三家の大名行列さえも道を譲らなければならないほど格式の高い行列であった。
      資料によれば、このお茶壷行列は、中仙道奈良井宿や下諏訪宿に逗留後、当田中神社に宿泊したと記録されている。甲斐国誌には「此ノ拝殿昔時ハ毎年御茶壷一泊ノ処ナル故ニ修造料トシテ金拾両宛二度拝領セリ、慶安五年六月ノ立札ノ写ニ御茶壷毎年当社拝殿御一泊候間拝殿並ニ御番所柱壁等落書一切仕ル間候」とあり、また「御茶壷通行ノ停マリシハ元禄三年ナリト見タリ」と記されている。故に当社は、お茶壺道中とゆかりがあり、由緒ある神社である。
                         平成十六年十月吉日 台ヶ原区

  • 台が原宿内にある一里塚跡碑

    台が原宿内にある一里塚跡碑

  • 甲斐駒岳の雄姿

    甲斐駒岳の雄姿

  • 次の教来石宿につながる街道道。水田に挟まれたのどかな路です。

    次の教来石宿につながる街道道。水田に挟まれたのどかな路です。

  • 甲斐駒岳の雄姿

    甲斐駒岳の雄姿

この旅行記のタグ

8いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

南アルプス市の人気ホテルランキング

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP