2011/10/17 - 2011/10/17
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ライオンベラーさん
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またまた月曜日が休みになったので、京都を歩いて来ました。
前日に宿泊して、翌日に街を歩きました。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
宿の近くに六角堂があると知って、さっそくやって来ました。
幕末関係の書物などを読んでいると、よく六角獄舎が出てきました。
これはおそらく六角堂の境内(けいだい)かその近くにあったのだろうと思っていたので、そこへ行って、当時収容されていた人たちの心情を探ってみたいというのが大きな動機でした。 -
いよいよ六角堂の境内に入って行きます。
しかし、どこを見ても六角獄舎のことは書いてありません。
??? -
門を潜(くぐ)ります。
10時40分です。 -
本堂があります。
北向きです。 -
本堂の左にはこのように、たくさんの小さなお地頭さんがありました。
本堂はこの右です。
そしてこの左に近代的なビルディングがあって、そのエレベーターで上に上がれるようになっていました。
無料だったので、さっそく上がってみました。 -
隣のビルのエレベーターでここまで上がって来ました。
六角堂の本堂が見えます。
なるほど屋根は六角形です。
写真の右に、ここへ入ってきた門があります。
この六角堂は聖徳太子が建立(こんりゅう)されたということなので、とても古いお寺だということになります。
まだ奈良時代も始まっていなかった頃なので、当時は広大な自然の緑地の中に、東寺(とうじ)とか、このお寺とかが、ぽつんぽつんととあったということになります。 -
また、降りて来ました。
斜め右から本堂の方を見ています。 -
さらに右(東)に進んで来ました。
本堂(北西)を見ています。 -
西向きです。
この向こうが本堂です。 -
高台に登って、北に回り込んできました。
南西向きです。
本堂が見えます。
右手前に池があります。
この池の右側の建物は昔からの僧坊で、池のほとりにあるので池坊(いけのぼう)と呼ばれていました。
ここでお花が活けられているうちに、それが華道に発展しました。
だから、その流儀は今でも池坊と呼ばれています。 -
本堂の左後ろに、先ほど登ってきたエレベーターが見えます。
このお堂は明治時代の再建ですが、昔の建物もこのような六角形をしていたので、京都に住む人たちから六角さんと呼ばれて親しまれていました。
今では、そのような古いものと、後ろのビルディングのような近代的なものとが、奇妙に調和しています。
そのような風景がこの京都の街の不思議な魅力となっています。 -
高台を戻っていきます。
西向きです。
本堂は右前方です。 -
本堂は正面です。
-
左に回って来ました。
-
下りて来ました。
本堂は左です。 -
今、登ってきた高台です。
東向きです。 -
北に進んで来て振り返りました。
本堂はこの右(西)です。 -
先ほど上から見た池です。
本堂は左正面、池坊は右後ろです。
-
白鳥に餌(えさ)をやっていました。
-
最後にもう一度六角堂を見上げて、ここを出ました。
この六角堂の前の東西に延びる狭い通りを六角通りといいます。
後で調べると六角獄舎は、ここから西に1kmほど離れたところにあったようです。
六角通りに面していたので六角獄舎と呼ばれていたようです。
そこにとらえられていた人たちの中の一部の人たちは、そこから市内を引き回されたうえで、河原町の河原で獄門首になっていたようです。 -
そこには平野國臣(くにおみ)などの幕末の勤王の志士や、安政の大獄でとらえられた人たちも入れられていました。
その人たちは、1864年の禁門の変で火の手が迫った時に、次々と斬首(ざんしゅ)されてその地で散っていったようです。
斬首(ざんしゅ)は午後2時から夕刻までかけて行われ、そのとき引き出された33名の首がすべて切り落とされました。
11時になりました。
この後、本能寺に向かいました。 -
地図で調べると、本能寺の正門は、市街の中央部を南北に走る烏丸(からすま)通りとその東を同じく南北に走る河原町通りの間にある、やはり南北に走っている寺町通りに面しています。
その南北の位置は、東西に走る御池(おいけ)通りを少し下ったところです。
言うまでもなく、本能寺は織田信長が天下統一を目前にして、家臣の明智光秀に打たれた場所です。
本能寺に向かう途中で、河原町から寺町付近までの御池通りに地下街があることを知って、どんなところかと思って、降りてみました。
写真はその地下街(西向き)です。 -
本能寺にやって来ました。
これが正門(東向き)です。
門の前を南北に走っているのが寺町通りです。 -
11時半です。
さあ、さっそく中に入ってみましょう。 -
少し行くと本堂(東向き)がありました。
-
これが本堂です。
ここで織田信長が、明智光秀に打たれたのでしょうか?
でもそのときの本堂は焼け落ちてしまっているので、これは復元された建物ということになります。
当時の通りに復元されているのでしょうか?
それともまったく違う形で復元されているのでしょうか?
もし、当時の通りだとすると、信長はこのような建物の中にいて、光秀の軍に応戦して、最後はこのような建物の中で死んでいったということになります。 -
本堂の右を進んで行くと、信長の墓がありました。
信長は1536年に尾張(おわり)の国(現在の愛知県)に生まれ、戦国時代に、天下(てんか=日本)の統一に向けて、周辺諸国と戦い、領土を拡張していました。
そしてそれを目前にした1582年、この本能寺で、家臣の明智光秀に討たれて、その生涯を閉じました。 -
この向こうが、先ほどの墓です。
東向きです。
本堂はこの左です。 -
本堂(北西向き)です。
先ほどやってきた入り口付近(この左奥)に宝物館があったので、入ってみました。 -
信長が着ていたという鎧兜(よろいかぶと)がありました。
信長の考え方は、「人の(自分の)人生は50年しかないのだから、その間に、できるだけのことをやり通す。」というもので、実際に、物事にまったく躊躇(ちゅうちょ)することなく、自分の意のままに人生をまい進していました。
そのような信長にとっては、光秀は自分の思いを遂(と)げていくための格好の道具でした。
では、光秀の方はどうだったのでしょうか?
それまでは光秀と信長は、大きないさかいを起こすことなく、天下の平定を進めてきました。
ということは、光秀は、誰からも支配されたくないという信長の唯我独尊(ゆいがどくそん)の意をかなえながらも、自らもそれ相応の満足を得ていたということになるでしょう。
もし、いづれ信長を倒して天下を取ろうなどという下心があったとすれば、側で頻繁(ひんぱん)に会話していたと思われる信長は、当然それを察知していたのではないでしょうか?
それとも、信長の唯我独尊の性格は、そのような懐疑(かいぎ)を抱くこともないほど、純粋だったのでしょうか? -
光秀は領民からは慕(した)われていたといいます。
ということは、信長が統一した後の天下について強い懸念(けねん)があって、あのような行動に出たとは考えられなかったでしょうか?
光秀は自らを周の開祖(かいそ)、武王になぞらえていたと言います。
武王は傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な振る舞いで民衆を苦しめていた殷(いん)の暴君を倒し、新しい国、周を起こしました。
ということは、暴虐な支配者である信長を倒し、周のような理想的な国づくりをしようというような心情だったのでははないでしょうか?
しかし、光秀がそのような純粋(じゅんすい)な気持ちの人だったとすれば、信長の命で、積極的に比叡山(ひえいざん)を焼き討ちして、大量の僧侶や女子供を殺したということは、どう解釈すればいいのでしょうか?
光秀は、最初は当時としてはごく当然のこととして、主君の命に従(したが)っていたけれども、その主君のあまりの暴虐振りに、次第に疑問を感じるようになっていったとは考えられないでしょうか? -
もし本能寺の変が起こらずに、このまま信長が天下を取っていたとすれば、今とはずいぶん違った世の中になっていたはずです。
そのときは、秀吉が築いた大坂(大阪)の街や、家康が築いた江戸(東京)の街は、存在しなかったということになります。
江戸幕府も成立せずに、鎖国(さこく)も行われなかったために、日本はこの京都か、それ以外のどこかの街を首都として発展させながら、中国や西洋の文化を積極的に取り入れて、国際社会の中で他国との関係を築きながら現在を迎えているということになるでしょう。
信長が光秀に討(う)たれた、当時の本能寺は、ここより1kmほど南西にあったようです。
この本能寺は、変の10年後に秀吉の命によって、この地に再建されたようです。 -
本能寺を出た後、寺町通りを北へ歩きました。
京都御苑(ごえん)の門(寺町御門)です。
西向きです。
時刻は12時半です。
この門から中に入るつもりでしたが、ここへ来る途中に気になるところがあったので、引き返しました。 -
ここです。 (南東向きです。)
ここは、同志社大学を設立した新島襄(にいじまじょう)の生家があったところで、現在は卒業生のための同志社会館になっていました。
新島襄は21歳の時、国禁を犯して、単身でアメリカへと旅立ちました。
その銅像が、函館にありました。http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10372447/
また、その妻の八重は、戊辰(ぼしん)戦争で会津城に立てこもって戦った人でした。http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10343866/ -
先ほどの門を潜(くぐ)って御苑の中に入って来ました。
ここに来るのは本当に久しぶりです。
ずっと昔、私は京都に住んで大学予備校に通っていましたが、もしかして、その時以来かも知れません。
とても懐かしい気持ちです。
写真は西向きで、右(北)の塀(へい)の向こうは仙洞御所(せんとうごしょ)です。 -
それにしても広い!
この風景は、昔と少しも変っていません。
写真の右(東)から塀に沿って歩いて来ました。
ここから左奥(北)に歩いて行きます。
右の塀の中は仙洞御所です。 -
先ほどの写真の左奥の中ほどに見えていた門です。
東向きです。
この中が仙洞御所です。
ここは江戸時代、天皇を退位した後の上皇(じょうこう)の住まいで、仙人(深山に隠居している高尚(こうしょう)な人)の居住地という意味で、仙洞御所と名付けられています。
この後、この写真の真後ろにある道をまっすぐ(西向きに)進んで行きます。 -
長い塀の端までやって来ました。
写真は南向きです。
左側(東)からやって来ました。
この御苑(ごえん)の広さは南北が1300m、東西が700mあります。
8月に行ったニューヨークのセントラルパークは南北が4km、東西が800mなので、セントラルパークの東西はここよりもやや広く、南北はここの3倍よりもやや広いということになります。 -
反対(北)を向きました。
写真の右(東)からここまでやって来ました。
これからあの門に向かって歩いて行きます。 -
門の前にやってきました。
この向こうが御所です。
この御所や、最初に見た仙洞御所などを含む広大な敷地が、京都御苑(ぎょえん)です。
この門は建礼門と言って、御所の南正面にあって、天皇や外国の元首だけが利用できる門です。 -
建礼門です。
この御所は1331年から1869年までの538年間、天皇の住まい及び執務所でした。
1869年(約150年前)に皇居は東京の吹上御苑(ふきあげぎょえん)に移っています。 -
建礼門に突き当たってから、左(西)に進んで来ました。
写真は北東向きで、建礼門はこの右(東)にあります。
この写真の右外は角になっていて、そちらからここまで進んで来ました。
右の塀の向こうが御所です。
この後、まっすぐ北に進もうか、左(西)に進もうか迷いましたが、左に進んで行くことにしました。 -
西に進んで行くと、門がありました。
門のこちら側が、今、歩いてきた京都御苑です。
この京都御苑の中には江戸時代は、二百もの宮家や公家の邸宅が立ち並んでいたようです。
1853年、アメリカのペリーの蒸気船(黒船)がやってきてからは、長く続いた太平の(穏やかで平和な)時代に陰りが見え始めました。
時の政権を握っていた徳川幕府は、幕府と朝廷が協力しながら事態を打開しようとしていました。
そのような考えの人たちを公武合体派といいます。 -
しかし徳川家とは縁が薄くて、不利益を被(こうむ)り続けてきたような人たちは、この機会に幕府を廃止し、皆が朝廷の元に結集して、外国を打ち払って、新しい日本をつくろうとしていました。
そのような考えの人たちを尊王攘夷派(そんのうじょういは)といいます。
黒船来航から10年近く経った頃、尊王攘夷を掲げる急進派の人たちが、闇(やみ)にまぎれて、公武合体派の人たちを襲うなど、この京都の治安は悪化していました。
そこで、徳川慶喜(よしのぶ)らが幕府に働きかけて、1862年に会津藩の松平容保(かたもり)を擁(よう)して京都守護職を設け、会津藩やその縁戚(えんせき)の桑名藩などが、この京都の治安にあたりました。 -
その翌年の1863年に、公武合体派は政変を起こして、長州藩や尊王攘夷派の公家(くげ)たちをこの御所から追い出してしまいました。
平野國臣らが地方の代官所を占拠するなどして、それに対抗しましたが、すぐに鎮圧(ちんあつ)されて、國臣は六角獄舎に収容されてしまいました。
さらにその翌年の1864年、今度は長州藩が、藩をあげてこの長州にやって来ました。
武装した大軍の長州兵は、この写真の向こう(西)からやってきて、この門や、この門の左右に並行して並ぶいくつかの門に迫りました。 -
この写真のあたりは会津藩が守っていましたが、各門で交戦が始まり、ここもこの門を挟んで、向こう側の長州藩と、こちら側の会津藩の戦いが始まりました。
砲撃や切り合いによって、この写真のこの場所で、両軍の兵は次々と倒れ、死んで行きました。
長州藩がこの場所で、もう少しで会津藩を撃破するかと思われたときに、この北方の門を守っていた薩摩藩が援軍に来て、長州藩をここから追い出してしまいました。
この写真の門は蛤御門(はまぐりごもん)(または禁門)と呼ばれていたので、この戦いを蛤御門の変(禁門の変)といいます。 -
これまで長州藩を引っ張ってきた、尊王攘夷派の中心人物のひとりである日下玄瑞(くさかげんずい)もこの禁門の変で戦死しました。
玄瑞は、この南東(写真左後ろ)500mほどのところにある堺町御門から攻め込み、その後その付近で自害しました。
そして、ここで上がった火の手は、この向こう側の家屋を広範囲に焼き尽くしました。
この南西(写真左前方)2kmぐらいのところにあった六角獄舎にも火の手が迫り、収監されていた平野國臣たちは、斬首(ざんしゅ)されました。 -
蛤門を出て、後ろ(東)を振り返っています。
長州藩兵はここから攻め込んで、門の向こう側で守る会津藩兵を撃破しようとしましたが、写真の左側(北)から援軍にやってきた薩摩藩兵に、阻止されてしまいました。
1時になろうとしています。
これから二条城に向かいます。
二条城は、ここから南西(写真右後ろ)に1kmぐらいのところです。 -
二条城にやって来ました。
北東向きです。
写真中央右の東大手門を潜って来ました。
左の建物は番所です。
50人ほどが交代で門の番をしていたようです。
ここは特に戦いもなかったので、門番はかなり退屈な仕事だったのではないでしょうか?
あああ〜・・・とあくびが出てしまいそうです。 -
前の写真の右にある、東南隅櫓(やぐら)です。
矢倉はもちろん矢を納(おさ)めた蔵ですが、矢を納めていなくても、このような建物はみな矢倉と呼ばれるようになって、櫓と書くようにもなりました。 -
西に進んで来ました。
北向きです。
写真の右(東)からここへ進んで来ました。 -
門(唐門(からもん)の向こうに二の丸御殿があります。
-
この二の丸御殿の中に入って出てきました。
15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)が大政奉還した部屋もありました。 -
この二の丸御殿は1603年に徳川家康が建てました。
中の部屋は、狩野(かのう)派の見事な襖絵(ふすまえ)が飾られていました。
家康が上洛(じょうらく)したときの住居と、御所を警備するための城として、建てられました。
この左にある本丸は、3代将軍の家光が建てました。 -
二の丸御殿です。
そのまま左に進んで行くと・・・ -
庭園がありました。
-
庭園です。
-
庭園です。
さらに進んで行くと・・・ -
お堀がありました。
南向きです。
写真の左(東)から進んで来ました。
この右が本丸です。
この右にある入り口から本丸に入ってみます。 -
本丸に入っても、木造の大きな建物があるだけで、天守閣のようなものは何もありませんでした。
本丸を進んで行くと、左前方隅に天守台がありました。
さっそく登ってみましょう。
かなり急です。
写真は南向きです。 -
天守台の上は何もありませんが、高台のために、見晴らしがよく、いい気分です。
東を見下ろしています。 -
北東です。
本丸の建物です。
写真の右奥からやってきました。
ここは堀に囲まれていて、二の丸はこのさらに右奥になります。
遠くには比叡山(ひえいざん)が見えます。 -
こちらは北です。
-
西です。
登ってきた階段を降りながら撮っています。 -
2つ前の写真の橋から撮っています。
今、登ってきた天守台が見えます。
南東向きです。 -
最初入ってきた東大手門の近くまで戻って来ました。
北向きです。
東大手門はこの右にあります。
何かの行事でしょうか、このような行列に出くわしました。 -
皇室のどなたかの結婚式かも知れません。
2時を少し回っています。 -
行列がやってきたところに進んで行くと、ここで物産展のようなものをやっていました。
チョコレート入りの生八つ橋などを買って帰りました。
(完)
京都散策 11秋 [写真版] http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10671911/
京都散策 11秋 [写真版] セレクション http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10671916/
※ 次回の旅は呉です。(http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10673732/)
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