2012/05/06 - 2012/05/06
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秀吉・清正所縁のお寺の紹介です。最初は、加藤清正の生誕の地とされる妙行寺です。豊国神社や秀吉清正記念館などがある、中村公園の東に隣接したお寺です。(ウィキペディア)
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妙行寺の正門です。日蓮宗の寺院で、山号は正悦山です。ご本尊は、法華三法です。日蓮宗の熱心な信者だった、加藤清正の出生地と伝えられています。
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正門の左脇にあった石碑です。『南無妙法蓮華経・清正公誕生地』の文字と、一番上には加藤清正の家紋の『蛇の目紋』が刻まれています。
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石塀に記されていた妙行寺の縁起などです。真言宗から日蓮宗のお寺に改宗したのが1294年、現在の正悦山妙行寺の名前に改称、再建されたのが1535年と記されています。
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妙行寺の境内と建物光景です。1610年(慶長15年)のン語や城築城の時、余った資材で、自分の生誕地に妙行寺を再建したと伝えられます。
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正門の近くにあった大きな石灯篭です。一対の内の一体です。財を成した日蓮宗の檀家の方の寄進でしょうか。
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石灯篭の胴の部分のアップ光景です。『献灯』の文字と、寄進者の名古屋市船入町の住所、海産物業と名前が記されていました。
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内側から眺めた、正門の付近の光景です。石灯篭には、大正4年(1915年)建立の文字がありました。建立されて、やがて100年です。左側の灯篭には折れた跡のような斜めの傷が見えますから、地震で倒壊したことがあるのかも知れません。
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こじんまりとした鐘楼の光景です。梵鐘も吊り下げられていました。鐘楼の周りにも〆縄が張られていました。
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鐘楼の近くにあった小さな堂宇です。『聚宝窟』の文字の扁額がありました。石造りの壁に、頑丈な金属製の扉がありますから、宝物殿のような建物かもしれません。
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〆縄が張られた、清めの水の建物光景です。『洗心殿』の扁額が懸かっていました。右手に清めの水の柄杓が見えますが、正面には、仏像が見えていました。
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『洗心殿』の建物の奥にあった石造の立像です。合掌のお姿でした。観音菩薩像でしょうか、あるいは薬師如来像でしょうか。いつも見かける光景では、水懸け寺蔵さんです。
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横から眺めた、『洗心殿』の光景です。一番後ろの巨大な鬼瓦、その前に立像が見えます。巨大な鬼瓦は、よほど大きな建物でなければ必要がなさそうです。
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加藤清正公のブロンズ像の光景です。旗には、南無妙法蓮華経の文字と、蛇の目の家紋があります。
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加藤清正公のブロンズ像のアップ光景です。豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人でした。秀吉没後は、徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いで功績を挙げました。籐堂高虎と並ぶ築城の名手とされ、最後は肥後国、熊本城主となりました。
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イチオシ
本堂ではない堂宇ですが、金箔を使った立派な造りに見えます。周りには、清正公に因む沢山の幟があ利ました。
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対になった狛犬の内の一体です。口を締めた、ウン形の姿のようです。足元付近がかなり傷んでいました。簡単な修復もされていました。
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対になった狛犬の内のもう一体です。口を開けた、阿形の姿のようです。松の枝が伸びてきて、飾りになっていました。
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木彫や〆縄のアップ光景です。例祭の時の補助具として使われるのでしょうか、カラフルな横木もありました。
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右から読んで『清正大霊●』の金文字が揮毫された扁額です。●の文字は、幟にも記されていましたが、文字を撮影することができませんでした。
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手間を端折って、斜め上からの撮影ですので、石碑の文字などが読み難くなりました。少し間違っているかもしれませんが『清正公旧城石』、祖kl面には明治45年の文字もありました。
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妙行寺の境内にあった、枯山水風の庭園光景です。由緒がありそうな石碑などが、いくつもありました。広くはありませんが、雰囲気がある庭です。
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程よいカーブを持った、風情のある石橋の光景です。橋の部分は、加工された1枚の石です。清正公は、朝鮮石も持ち帰ったとされますが、熊本城主の時ですから、このお寺とは直接の繋がりがない時代のことです。
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角度を変えて眺めた石橋の光景です。コケやシダの葉、それにツワブキの葉が風情を添えていました。
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スマートな石灯篭があった庭園の光景です。灯篭の前の細長い敷石は、石橋に続きます。さり気ない中に、大きな仕掛けがありました。
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側面に『新道開設』の文字があった石碑です。その下に発起人の名前が連なっていました。正面の文字は、『キヨ●ハシ』のようです。片仮名は新しいように感じますが、起源は、9世紀初めとされます。奈良の学僧が、漢文を和読するため、訓点として万葉仮名を付記したのが始まりとの説があります。
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正面に『清正公生誕之地』、側面に『愛知郡上中村妙行寺』の文字がありました。元々は、豊国神社の境内にあったものが、この場所に移されたとのネット情報もありました。納まるべき場所に納まったようです。
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庭木に隠れて見えなかった文字のピックアップです。『是ヨリ十一(二十?)余』の文字でした。単位は歩、間、あるいは町でしょうか、距離を示しているようです。
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別の面には、建立主も刻まれていました。烏森村の住所と、名前が刻まれていました。烏森(かすもり)の地名は、現在は中村区烏森町と中川区烏森町として残っています。
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屋根付きの石碑です。恐らく風化が進んだために、後から付けられた屋根のようです。文字はほとんど読めませんが、14行に亘って長文の漢文が刻まれています。拾い読みからの推測です。『晋州』『兵5百』『大破』などから読み取れる物語は、加藤清正の2度に亘る朝鮮遠征のことです。
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つくばい(蹲踞、蹲)の光景です。つくばいは、茶室に入る前に、手を清めるために置かれた背の低い手水鉢のことです。露地に設置されます。相撲や剣道の初めに向かい合う姿勢も、蹲踞(そんきょ)と呼ばれています。
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