2012/02/05 - 2012/02/05
301位(同エリア573件中)
滝山氏照さん
立川ー日野を繋ぐ多摩川を渡る橋は日野橋のバイパスとして立日橋(たっぴばし)があり、この日野橋側の橋詰めにかつての渡船発着場跡があります。
渡船場跡といっても遺構は何も存在せず、ただ案内板が建っているだけで現在は当然ながら橋を利用していますので完全に見捨てられた状態と言えます。
江戸時代は幕府の政策により橋を造る事が許されず、もっぱら渡船利用を余儀なくされていましたが、ここ甲州街道も然りで貞享元年の渡船着場が日野宿寄りに改変、正式な渡しとなり日野宿がその管理をすることになります。
渡船場が日野宿に接近したことによる宿場としての立場は向上したはずですが規模は拡がらず、本陣1、脇本陣1、旅籠20程度だったそうで宿泊地よりも休憩地としての役割だったと思われます。
日野の渡しは甲州街道の幕府公認の「渡し場」で貞亨年間に現在の場所に指定され、大正15年の日野橋の完成で満願寺の渡しと共に廃止されます
2022年4月28日追記
現場の説明板には下記の通り記述されています。
「 日 野 渡 船 場 跡
日野の渡しは、現在の立日橋付近で、柴崎(立川市)と日野を結んでいた多摩川の渡しで、江戸時代貞亨年間(1684~1688)以前は農耕のため作場渡しとして利用されていた。
この頃、甲州街道は下流の青柳(国立市)付近から満願寺渡船場で多摩川を渡り、満願寺一里塚を経て日野宿に至っていた。
貞亨元年、甲州街道は青柳より上流の柴崎から日野橋渡船場で多摩川を渡り、日野宿へ至る道筋に改変された。これに伴い、日野の渡しは府中宿と日野宿を結ぶ正式な渡しとなり、日野宿の経営となった。3月から10月まで渡船、渇水期の10月から翌3月までは土橋だったが、文政7年(1824)以降は一年中渡し船となった。
渡船賃は人と馬とで別々に徴収されたが、武士、僧侶、宿の人は無料で通行できた。
明治維新後も日野渡船場の経営は日野町へ受け継がれるが、大正15年(1926)、日野橋の開通によって渡船は廃止となった。
日 野 市 教 育 委 員 会 」
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
-
多摩川を渡る多摩モノレール
左手の立川側と右手の日野側に立日橋(たっぴばし)がかかりその上段を多摩モノレールが通過します。 -
イチオシ
日野渡船場跡
多摩モノレール橋桁をくぐりますと渡船場であったとしてその案内板があります。
周辺は渡船場であったと思われる遺構など全くなく、案内板が立ってなければ通過してしまいす。 -
渡船場跡案内板
江戸時代の貞享年間(1684ー1688)以前は下流の青柳(国立市)から万願寺で多摩川を渡っていましたが、貞享元年に甲州街道は上流の柴崎(立川)から当渡船場で多摩川を渡り、日野宿に至る道筋に改変されます。
これに伴い府中宿と日野宿を結ぶ正式な渡しとなり日野宿の経営となります。(案内板) -
日野津挿画
日野側の船着場が描かれています。「江戸名所図会」(長谷川雪旦 天保5年)より -
渡船場の変遷
貞享元年以前(青柳−万願寺)と改変後(柴崎−日野)の渡船ル−トの変遷が地図に描かれています。 -
大正8年当時の多摩川渡船場風景
大正15年(1926)8月25日に日野橋開通までは渡船による通行が日常生活となっていました。 -
現在の立日橋風景
かつての柴崎ー日野ルートは立日橋が開通し、下段は自動車道で上段はモノレールが往来しています。
陸橋の建設によって交通の飛躍的な発展している事を感じないわけにはまいりません。 -
JR中央線を走る特急電車
新宿駅発甲府駅までの特急「かいじ」と松本駅までの特急「あずさ」が運転しています。
八王子・立川駅ー新宿駅は500円で自由席使用可能です。
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