2012/03/23 - 2012/03/26
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彷徨人MUさん
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1).旅の始めに
長江や その如月も 鼠色
今年も3月に入るや、日本各地で、桜の開花予報が始まり、満開日などの予報も、テレビや新聞紙上で、賑わい始めてきた。その中で、「武漢桜」という聞き慣れない名前の桜の記事を、たまたま、新聞でみつけた。
『桜なき もろこしかけて けふの月』と、中国には桜の木は無いのだと、「蕪村」は、俳句で詠んでいる。貝原益軒は「花譜」で、「唐の書にて、吾未だ見ざる物多し」と書き、その中で「小桜」、「垂糸桜」など桜を筆頭に上げており、このことからも、中国には、桜は、極めて珍しいものと思われていたようだ。然し戦前、大陸に日本人が進出するや、街に桜の植樹をし、花見を楽しんだという話も聞いており、昨今は、日本から、友好のシンボルとして外国へ桜を贈り、植樹祭等の交流が、増えている。この旅では、日中間での桜への思いの絡む、武漢大学の桜を見に行こうと、思い立ったのだ。
2).武漢市へ
その日、14時29分「上海虹橋」駅発の動車列車は、途中安徽省の省都「合肥」に停まるだけで、後は「三国志」の世界をただひたすら1,000キロ余走り続け、19時25分に、「漢口」駅に到着した。「湖北省」は、長江の中流に位置し、省都「武漢」は、長江を挟み、東側には「漢口」、「漢陽」が、西側には、「辛亥革命」の勃発地である「武昌」の、嘗て「武漢三鎮」と呼ばれた三つの街で構成されている。
1858年「天津条約」で開港された「漢口」は、嘗てはイギリス、ドイツ、フランス、ロシア、日本の5か国の租界地が置かれていた。戦前は「上海」から長江を上り、「漢口」までの、日本の船会社の定期航路があった。
芥川龍之介は、1921年7月に、日本の商船で、「上海」から長江を遡っている。「長江游記」の中で、「漢口」については、「欧羅巴的漢口」と、「支那的漢口」があると記述し、「支那的漢口」については、『彩票や麻雀戯の道具の間に西日の赤々とさした砂利道。其処を一人歩きながら、ふとヘルメット帽の庇の下に「漢口」の夏を感じ、「ひと籠の 暑さ照りけり 巴旦杏」と、俳句を、詠んでいる。
3).長江沿いの「亀山路」を歩く
翌朝、長江に沿って南北に走る「沿江大道」を、南に向かい、「漢陽」にある「古琴台」へ出かけた。途中「陽江」に架かる「晴川橋」を渡ると、「晴川閣」が左手に見え、その先には、下に鉄道、上は車歩道の「武漢長江大橋」が、「武昌」との間を繋ないでいる。橋の手前の三叉路を、「亀山」の山裾に添って大きく右手に道を取ると、目的地の「古琴台」が見えてきた。「古琴台」から道路を挟んだ北東前に、「長江」に平行して小高い細長い山が「亀山」である。「亀山北路」側から石段を中腹まで上がった処に、入場口があり、そこで5元の入場料を支払った。
更に登ると、「長江」に添って北東に道が通っており、木々の間から、「武漢長江大橋」が見えてきた。「長江」の流れと、対岸の「武昌」を眺めると、靄掛かりの利休鼠一色に覆われたその中に、「黄鶴楼」が、影絵のように浮かび上がっていた。
「黄興」銅像の案内看板に沿って、細い道路を、下って行くと、湖南・湖北の革命の中心人物であった「黄興」の銅像前に出た。湖南省長沙の名家に生まれ、「湖南の俊才」と言われた、洋服姿の「黄興」像の前に立ち、僕は、暫し、彼と見つめ合っていた。
4).「黄鶴楼」へ
「亀山」から下りて、「晴川碼頭」から、対岸の「黄鶴楼碼頭」までの、僅か10分ほどではあるが、長江を渡る船の旅を楽しんだ。「武昌」側につくと、この一帯は人で溢れていた。民国時代の街並みの「民主路」の商店街を、人に押され東へ歩いていくと、左手に「戸部巷小吃街」の正門を見つけた。両側には、いわゆるファーストフードの店が並んでおり、後ろから押されるまま、僕は、「蔡林記」という店の前に並んでいたのだ。この店は、カップに入れた「汁なし麺」の店で、「蝦熱乾麺」と「全料熱乾麺」の乾麺があり、僕はゴマがしっかりとかけられた「全料熱乾麺」を注文した。
そこから、「蛇山」の高台に、「黄鶴楼」が見えていたが、「黄鶴楼」への石段は、人で溢れていた。「黄鶴楼」の南側下にある「武珞路」を下り、「蛇山」南麓に『辛亥革命記念館』に向かった。1911年辛亥革命が成功し、「湖北軍政府」が置かれ場所である。そこには、中国服を着た「孫文」の銅像が置かれてあった。
5).武漢大学の「桜園路」での、花見へ
今回の旅の主たる目的は、「武漢大学」構内での「花見」である。「辛亥革命記念館」の前のタクシー乗り場は、混んでいたので、仕方なく、バス停に向かった。しかし、来るバスは、いずれも満員状態、やっと乗り込むも、後ろにある降車口まで進めず、やきもきしている内に、「武漢大学」に着き、慌てて降車口へ強引に向かった。しかし、この寒さで、桜の開花は、どうだろうかと、聊かやきもきしながら、武漢大学構内の「桜園路」へ向かって歩いて行った。(以下写真参照)。
* Coordinator: H. Gu
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス タクシー 徒歩
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①漢口 夜の駅舎正面
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②漢口 旧漢口租界地
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③漢口 旧漢口租界地
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④漢口 旧漢口租界地にある宿泊したホテル【武漢江城明珠豪生大酒店】
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⑤漢口 3月23日夕食 【慎成宴】
「私房搾筍」(筍料理) -
⑥漢口 3月23日夕食【慎成宴】
「藕餅」(レンコンのてんぷら) -
⑦漢口 3月23日夕食【慎成宴】
「刀魚双吃」(長江で獲れる貴重な魚)
最近ますます獲れなくなり、今では高級魚である
小ぶりの鰯の大きさの「刀魚」5匹で、780元であった。 -
⑧漢口 3月23日夕食【慎成宴】
「刀魚双吃」(長江で獲れる貴重な魚)の骨のから揚げ -
⑨漢口 3月23日夕食【慎成宴】
「木瓜○雪蛤」(○は、火偏に屯)(デザート) -
⑩漢口 宿泊した【武漢江城明珠豪生大酒店】の夜景
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⑪漢陽 「古琴台」
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⑫漢陽 「古琴台」
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⑬漢陽 「古琴台」
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⑭漢陽 「古琴台」
前の「月湖」での釣り風景 -
⑮漢陽 「亀山」
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⑯漢陽 「亀山」
【長江第一大橋】を眺める。中央に「黄鶴楼」が見える -
⑰漢陽 「亀山」
日本への留学生で、湖北・湖南革命の主導者、辛亥革命の立役者の一人である「黄興」の像 -
⑱武昌 「民主路商店街」
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⑲武昌 「民主路商店街」
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⑳武昌 「黄鶴楼」
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武昌 「黄鶴楼」
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武昌 辛亥革命博物館前の「孫文」の銅像
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武昌 「辛亥革命博物館」
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武漢大学正門
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武昌 「武漢大学」
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武昌 「武漢大学」
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武昌 「武漢大学」
【桜園路】 -
武昌 「武漢大学」
【桜園路】 -
武昌 「武漢大学」
【桜園路】 -
武昌 「武漢大学」
【桜園路】 -
武昌 「武漢大学」
【桜園路】
未だ蕾も堅い「武漢桜」 -
武昌 「武漢大学」
【桜園路】 -
武昌 「武漢大学」
【桜園路】
未だ蕾の堅い「武漢桜」
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漢口 3月24日夕食 「亢龍太子酒軒」
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漢口 3月24日夕食 「亢龍太子酒軒」
【珍珠元子】 -
漢口 3月24日夕食 「亢龍太子酒軒」
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漢口 3月24日夕食 「亢龍太子酒軒」
【扇貝】 -
漢口 3月24日夕食 「亢龍太子酒軒」
【京都佛跳墻】 -
漢口 3月24日夕食 「亢龍太子酒軒」
【清炒養生菜】 -
漢口 3月24日夕食 「亢龍太子酒軒」
【清蒸武昌魚】
湖南省出身の毛沢東は、この地で、この魚料理を食べ、「遊泳」という題の詩を読んでいる。
纔飲長沙水 叉食武昌魚
(今しがたまで故郷長沙の水を飲んでいたのだが、今は「武昌魚」を、食べている)
正直言うと、小骨の多い、歯ごたえのない魚である。 -
漢口 長江沿いにある毛沢東の記念碑
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