2012/02/25 - 2012/02/28
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haoziさん
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植民地都市として始まった大連の歴史はたかだか100年あまり。それでも、あの時代、この場所ならではの独特の風格を持つ近代建築や家並みが残され、世の転変を今に伝えている。
中山広場の近代建築群をはじめとするコロニアル建築物などは立派な文化財。おそらく今後も大切に守られていくだろう。
一方、かつて形成された住宅街や普通の民家などは、今後どうなっていくのか?
大連の中の“老街”とも呼べる三つの通り、東関街(中国街)、鳳鳴街(日本街)、煙台街(ロシア街)を歩いて、なんともやるせない気持ちになった。
※以下の四部作で構成。
冬八九大連(1)定番の観光名所
冬八九大連(2)消えゆく老街 *本編*
冬八九大連(3)都市の息吹
冬八九大連(4)金州半日旅行
※タイトルの“冬八九”とは、冬至から八回目の九日間、寒さも大分やわらぐ頃の意。
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日曜日朝7時過ぎ、大連駅から長江路を西へ約1キロ。
かつて“小崗子”と呼ばれたこの一帯は、ロシア〜日本統治時代の中国人の居住エリア。大連で最初に中国人自身の手でつくられた住宅街とも言える。
現在は周囲に高層ビルが林立する中、開発の波から取り残されたように、ひっそりと佇んでいる。 -
東関街
まるでタイムスリップしたかのよう。 -
華勝街
日本統治時代、この一帯では中国人による商売も盛んで、町は賑わいを見せていたという。大連の老舗と言える店は、皆この辺りが発祥の地。 -
東関理髪社
解放前からある散髪屋さん。1956年に国営となった。2011年時点ではまだ営業中との情報があるが…? -
華勝街×生福街
古い建物と泥臭い生活感に惹きつけられる。 -
赤レンガの建物。角の造りが素敵。
長屋式住宅で、内側には中庭もあるようだ。(“大雑院”)
後ろに見える病院(大連市二院)は、もとは1917年に台湾人の孟天成氏が個人で創設した博愛医院。孟氏は、満鉄病院の職員として大連に来たが、中国人のための仕事がしたいと辞職して、後にこの病院を設立したとのこと。 -
レンガ造りの2〜3階建ての建物が多い。
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よく見ると細部のデザインもなかなか凝っていておしゃれ。
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往時ここに住んでいたのは、ほとんどが新天地を求めて山東省から渤海を渡って来た人たち。
大連人の大半は山東省にルーツがある。(“闖関東”“海南diu1”)
そして、今この辺りに住んでいるのは、地方からの出稼ぎ労働者が多いらしい。 -
“危険,后果自負”などと書かれた危なっかしい建物も。
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華勝街×西崗街
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年季の入ったバイクリヤカー。
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《蝸居》の世界を連想させられる。
海萍たちが住んでいたのは上海の石庫門。趣のある伝統建築だったが、時代の波の中で、取り壊しの憂き目に遇う。
ここも同様の運命が待っているのか? -
ゴミを片づけて、もう少し手入れをすれば、まだまだ立派で瀟洒な住宅として存続可能そうだが。
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この町と住民の将来は如何に?
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かつて“小崗子”には、大盛況の露天市場があったらしい。ここは、そんな市場の名残りだろうか。
“屋内賣菜”“屋里有人賣菜”
「中で食料品売ってます」
冬場はさすがに露店でなく、室内で商売している。でも、こんな味のある手書き文字で訴えかけられたら、思わず中をのぞきたくなる。 -
人走楼空?
ここはもう空家になっているのかな? -
大龍街×平和街
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続く煙突がノスタルジーを感じさせる。
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ハトを飼っている人も。
伝書鳩?食用? -
アーチ型の窓や胴蛇腹がかわいらしい。
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この家に暮らす男の子。
元気よく飛び出してきて、またすぐに中に戻って行った。 -
経年失修,破敗不堪。
イギリスなどでは古い建物ほど珍重され、手を加えながら大切に暮らすらしい。
もちろん元の建物の質にもよるだろうが、ここでの状態はあんまりだ。もう少し何とかならないのだろうか。 -
向こうには高層ビルが林立。
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長江路はすぐお隣。
目と鼻の先の距離なのに、ここに出ると路面電車も走り、清掃員がいてゴミ一つ落ちていない大連の表の顔になる。 -
古い町並みにはレトロな電車がよく似合う。
大連の路面電車は1909年開通。
当時は、緑色の「納涼車」(日本人と一部の中国人のみが乗れる)と赤色の「労工車」(中国人苦力専用)とが区別されていたそうだ。
日本人は日本が大連のインフラ整備に恩恵を施したと考え、一方中国人は受けた屈辱を忘れない。だから、溝がなかなか埋まらないのだ。 -
こちらは新タイプの電車。
少々感傷的な気分になり、東関街を後にした。 -
そして、翌日の午後。
今度は、鳳鳴街にやって来た。
人民広場の西南、水仙街、新華街、鳳鳴街、高爾基(ゴーリキー)路の一帯は、かつての日本人住宅地。
南山や星海街(旧星ヶ浦)、黒石礁には、日本人の立派なお屋敷が多かったが、この辺りは普通の簡素な家が建っていたという。
唯一昔のままの家並みが残っていたのが鳳鳴街だったが、ついにここも取り壊しが始まったというニュースを以前見た。果して今はどんな状態なんだろう? -
建物が取り壊された土地。
それでも一軒小さな家が残っている。あの家は保存されるのだろうか?それとも立ち退き拒否のお宅?(很牛的釘子戸?) -
鳳鳴街
1945年の終戦時、大連の人口は約70万人、その内日本人が約20万人いたという。
ここは、特に1920〜30年代に集中して造られた日本人の家並み。
かつては、こんな小ぶりの家が整然と並んでいたのであろう。
今は、瓦礫とその中にわずかに残る家が混在。 -
当時この地では、木造住宅の建設は禁止され、厚いレンガ造りの「文化住宅」が建設された。当時の日本では、ストーブ(暖炉と煙突)を使って室内全体を暖めることはまだ少なく、大連に来た日本人はこの暖房システムに大層感激したらしい。
日本風でありながら、日本にはない、あの時代、この場所ならではの日本庶民の家。
そんな家々の分厚い壁が打ち砕かれていく… -
戦後、日本人が去ってからは、中国人が引き続き暮らしてきた。
取り壊しの進む鳳鳴街で遊ぶ子供。
裕福ではなくても幸せそうだ。 -
後ろ姿は開襠[衣庫ku4](尻割れズボン)だった。
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このこじんまりとした感じは、まさしく日本家屋。
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ゴーリキー路×長春路
尚書苑
2005年開業
新書、古書、アンティーク品を置くカフェ。
「文化産業示範基地」のプレートまであるし、ここは残されそうだが…? -
芸典珈琲
店主曰:
自从找到高爾基路和長春路交匯処的這棟老房子起,就知道這条街不久的将来可能会拆。
但還是毅然决然的决定在這里開家珈琲店,只是因為喜歓……
喜歓巷子里的老房子。
喜歓馬路辺的梧桐樹。
喜歓听人講述這里的曾経。
喜歓凭自己去感覚這里曾経的繁栄。
一転眼,高爾基路馬路辺全都塁起了高墻。
這里要拆了……
〈拙訳〉芸典カフェ 店主の言葉:
ゴーリキー路と長春路の交差点に建つこの古い家を見つけた時、この通りが近い将来取り壊されるであろうことは既にわかっていた。
それでも、やっぱりここにカフェを開くことを決めた。ただ、好きだったから…
通りに建つ古い家が好きだった。
プラタナスの街路樹が好きだった。
ここの昔話を聞くのが好きだった。
勝手気ままにここのかつての賑わいを想像するのが好きだった。
気がつけば、ゴーリキー路の沿道には高い柵が組まれていた。
ここはもう取り壊される… -
半分解体された家。
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それでも住人がいる。
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目不忍睹。
こんな光景を見て、心を痛めない人はいないだろう。 -
夕陽無限好,只是近黄昏。
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瓦礫の中から、価値のある物を運び出しているのだろうか?
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“保家衛国”
釘子戸(立ち退き拒否)? -
廃墟中,一面紅旗。
こういう形で何かを主張しようとしているのか?
憤怒、悲哀、无奈…… -
残垣断壁,満目瘡痍。
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大連と姉妹都市である北九州市が、1990年代に、鳳鳴街の日本家屋10棟を買い取って、日本に移築したことがあるという中国の報道を見た。それは喜ばしいことだ。が、それが今どこにあるのか、どうなっているのか調べがつかない。
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西洋風の門。
意味ありげに残されているが…? -
“和式洋風”建築
大連人が日本家屋の特徴としてとらえているのは、
1.小さい
2.塀を作る
3.塀に表札(の跡)がある
4.狭い敷地内に木を植える
だそうである。
確かにその通り。 -
それでも、一軒一軒に違った意匠が凝らされている。
ここにはどんな人が住み、どんな生活をしていたのだろう?
確かに日本人がここに暮らした。
そんな歴史があった。
そして時代は変遷した… -
犬もどこか寂しそう。
あなたのお家は無事ですか? -
鳳凰鳴矣 于彼高岡。
梧桐生矣 于彼朝陽。
《詩経》 -
大連にも、こうした古い家並みを文化資源ととらえ、保存しようと活動している人が少なからずいる。そういう人たちが今後、力を発揮してくれることを期待したい。
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鳳鳴街、ゴーリキー路を北京街から西に向かって歩き始め、気がつけば、槐花大道(アカシア通り)に到達してしまった。
老街の探訪はここまでにして、道の両側にアカシアの木が茂るこの通りを通って中山路まで出ることにする。
この少し先に、郭安娜(郭沫若の日本人夫人)や劉長春(1932年のロス五輪に初めて中国人として参加した陸上選手、《一个人的奥林匹克》という映画も作られた)の家があることを後から知った。見て来なかったことが悔やまれる。 -
槐花大道(アカシア通り)=正仁街
アカシアは大連市の木であり、『アカシヤの大連』(清岡卓行)でも知られるように、大連といえば至る所にアカシアがあるようなイメージが強いが、実はそれほど多いわけではない。おそらく、ここが最も集中して植えられている場所。
この通りには、大連教育学院やその付属高校があって、学生が多く歩いていた。 -
アカシアの開花は5月半ば過ぎ。
今は花はおろか、葉もなくて寂しい状態なので、掲げられた花の写真で我慢。 -
ところ変わって、ロシア風情街の裏手、煙台街。
レプリカだらけの表通りと違って、一歩中へ踏み込めば、本当の古い建物が残っていると聞いて、夜の道を探索開始。 -
すぐに地元臭あふれる市場があったりして、楽しいことは楽しい。
でも、肝心の古い建物が並ぶ老街のようなものは見つからなかった。
道が暗くて、よく見えなかったせいかもしれない。 -
朝、再び煙台街へ。
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古い建物が建つ区域は柵が張られていた。どうりで夜には何も見えなかったわけだ。
勝利橋北のこの辺りが、ロシアによって、大連で最初に建設が進められた地区。そして、1905年までのロシアによる建築物が唯一残る場所でもある。帝政ロシアの統治期間はわずか5年ほどだったから、全体の都市計画は立てても、実際の建設は他の地区には及ばなかったのだ。 -
柵越しに見える修築中の建物。
煙台街に残る28棟のロシア時代のお屋敷は、基本的に全て保存する方針だそうだ。
11棟は補強した上で当初の姿そのままに残し、17棟はアレンジを加えて高級ホテル等に改装する計画とのこと。 -
2011年4月から修築が始まっていて、工期は2年間の予定。
“照旧翻新”“修旧如旧”の成果がうまく出るといいのだが。
薄っぺらな“山寨版倣古建筑”にはなってほしくない。 -
勝利橋北の区域では、煙台街の28棟以外にも、古い家屋を若干見つけた。
これはロシアの家屋ではないのだろうか?
かなり老朽化しているが、歴史を刻み込んだ重厚感がある。 -
しかし、そんなお屋敷の周りには、粗末な小屋が建てられ、荷物が積まれ、ゴミが散乱し、歴史文化価値など全く無視されているようだ。
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この建物も相当古そう。
廃屋のように見えるが、しっかり人が生活している様子を目撃した。 -
極め付きはこのログハウス(“木刻楞”)。
大連に唯一残るロシアのログハウスで、元は黒嘴子埠頭近くに建ち、水上警察署の一部として使用されていたらしい。日本統治時代、埠頭を拡大する際に、この場所に移築されたとのこと。
今は月400元ほどの安い家賃で、何人かの出稼ぎ労働者に貸し出されているという。
家の前には屋台が立ち、荷物が積まれている。 -
ロシア伝統のログハウスは、冬暖かくて夏は涼しく、頑丈で耐久性に優れているそうだ。
三角屋根が典雅で、原木がしっかり組まれていて安定感がある。
こんなぞんざいな使い方をされていても、尚ただならぬ存在感を放っている。
100年以上の歴史を持つ貴重な建物、保存のために、是非行動を起こしてもらいたい。 -
最後に、こちらは七七街の建設現場。かつては日本の邸宅が立ち並んでいた場所。
“南山1910”という物件名で、元の日本家屋に似せた風格の、一戸建ての豪邸が販売されている。(2011年12月入居開始、280〜470平米、1500万元〜/棟)
“庭院,回憶過去(Remembering the past)”というキャッチコピーからは、嫌日の感情は感じられない。ありがたいことだ。
ここは現存の日本風情街のような空虚な町にはならないように願う。
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