2012/02/18 - 2012/02/18
1050位(同エリア1564件中)
BO/Mさん
先ず、初めに、「さんずい」に「奥」、が現代中国語では、豪州の事を指すのですが、従来の漢字では、「濠」即ち、さんずい+豪、が当てられていた様です。 で、日本語漢字では、さんずい+奥、が出て来ないので(少なくとも、僕のPCでは)、濠、の字をアテさせて貰いました。 注釈迄。
さて、CHINESE MUSEUM ですが、現代に、オーストラリア華人の今に至る歴史を知らしめ、残す事を目的としており、伝統、文化、複素や風俗習慣等を様々な物品を使って、イメージとして伝えています。
メルボルン唐人街の中間、少し路地を入っていった所に在り、目印は中華門と孫文銅像です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 鉄道 タクシー 徒歩 飛行機
- 航空会社
- カンタス航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ゴールドラッシュ移民
ビクトリア地区には、ゴールドラッシュ以前にも多少の中国人労働者が居たにせよ、その殆どは1850年代のゴールドラッシュ時に移入した。 その殆どは広東人で、広東の人口増加や飢餓によるところが大きい。
1853年、最初のゴールドラッシュ移民が到着した。 ビクトリア地区で金が取れると言われてまだ2年の速さだった。 その後の2年間程で、中国人移民数は15,000人にまで急増。 1858年、オーストラリアの中国人人口は40,000人に達し、全人口の3.3%となった。 1980年代後半迄、その数値は破られる事が無かった。 ゴールドラッシュで移入した者の殆どは、男性だった。 -
ビクトリア政府は、欧州人には特段の制限を設けなかったが、中国人が植民地に入る際、10ポンドの課税を1855年に新たに徴収することとした。 中国人採掘者の制限をする為である。 これに伴い、多くの中国人は、課税措置が無いサウスオーストラリアに、寄港、上陸するようになった。
アデレード、キングストン、ローブ港から、中国人移民は歩いて金採掘場所の有るArarat, Ballarat,Castlemaine,Bendigoに州境を越えて向かった。 ローブからBendigo迄の距離は、約500kmで、中国人達は漢字で道標を作り、それに沿って歩いて行った。 -
ビクトリア政府は、中国人に対する人種差別や蔑視等が蔓延し、1857年、中国人金採掘者に対し、一人当たり年間6ポンドの採掘ライセンス料徴収を課した。 多くがそれを拒絶した結果、1860年、2,000名の中国人採掘者がライセンス料未払いの為、投獄された。
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採金地全域で、唐人街が出来、共同体を成し、寺廟、食堂、劇場やクラブ、菜園や茶館が出来た。 氏族毎に自分たちの店(組織・グループ)を持つ様になり、多くの者は、氏族の長や中国社会の契約に縛られていた。 前借りした渡航費用を返すために、働いて徐々に借金を減らして行った。 その殆どが地方の農民や労働者で、借金を返した後はそれ以上とどまる事無く、国に戻ったが、他方、オーストラリアに残り、新たな生活を始めた者も居る。
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1880年代から、多くの中国商人(華商木工家具製造業者)が、メルボルンやシドニーで事業を開始した。 1910年代には、約160の華人家具工場が、800人以上の職工を雇い、ほぼビクトリア地区の家具製造の三分の一を製造するに至った。
華人は中国伝統の工具を使い、彼らの製品は多くの賞賛を顧客から受けた。他方、欧州系オーストラリアン家具製造業者からの妬みを買った。 1896年、工場及び商店法改訂がビクトリア議会を通過、それは華人家具製造業者狙い撃ちの法令改訂であった。
その中の規定で、「全ての家具には、その製造者の名前、工場の住所及び、欧州人製か、中国人製か、を明記しなくてはならない、と言う項目が有った。 これは、華人製造家具不買運動、即ち“オーストラリアン”の家具を買いましょう、運動だったのだが、それがかえって裏目に出て、消費者は質の高い華人家具工場と直接コンタクトするようになってしまった。
1920年代、欧州人種系家具製造業者は、電動工具の使用を開始した。 これにより、手作業の華人系よりも安く製造が可能となり、一方では華人家具製造業者は電動工具の使用を潔しとせず、また若い世代の華人も政府の白豪主義政策により入植が困難となり、華人家具製造は衰退した。 最後の華人家具製造商は、Little Lonsdale通りに在り、1950年代、商いを終え、オーストラリアでの華人家具製造業の幕が閉じた。 -
華人家具製造業者は、その隆盛と衰退を遺し、1950年代に幕を閉じた。 その後の白豪主義政策により、華人進出も頭打ちになった事は、人口推移等の統計を見れば明らかだろう。 1980年代、即ち、大陸中国と香港の99年間の領土植民地化問題の末、返還となるに至る過程で、再度、華人移住者が増えて行った。 1970年代初頭(73−75年)にオーストラリアで行われた人種に対する政策転換期を境に、欧州人のみの受け入れから、国内の原住民に対する政策をも含め、再度の変化が始まった。
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ドラゴン・ダンスの際に使用する旗。 屈強な若者が舞う中国式獅子舞。 アクロバティックなジャンプや激しいうねりで華人魂を人々に魅せる。 その際に、ボンボンのような「珠」が龍の先頭に立ち、それを追いながら龍は進み、くねり、踊り、舞う。
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中国人の家具職工、1880年4月24日 オーストラリアン スケッチャー誌。
西洋式デザインであったが、華人家具職工たちは、中国伝統の工具を用いて、中国木工技術で家具を製造した。 中には、手だけでなく、足も自在に使いながら作る技術も有った。 -
オーストラリアン スケッチャーズによる中華料理店の様子、1880年5月22日版
華人が、レストランでどんな動作で物を食べているかを克明に記載している。 箸を使う動作が西洋人には奇異に見えたのだろう、その動作説明が興味深い。 かなり複雑な動き、として捉えている。 また、イラストは中国系の顔には似ても似つかない、と(勿論中国系の)説明者は説明している。
フフ、結構ティピカルな中国人顔を描写出来ていると僕は思ってしまいますが。(失礼) 当時の「辮髪」(べんぱつ)も、他国人には相当奇異に映った事でしょう。 -
こちらも中華系風俗習慣に対して、興味深く紹介している。 いわく、並び方や食堂の作業の様子等、結構中に入り込んで詳しいリポートである。
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唐人街の様子を示しています。
唐人街は、世界各所で発展し、メルボルン唐人街もアジア以外で古くからの華人により所有されているビルが残る等、意義深い。 メルボルン唐人街の大部分は、19世紀から20世紀初頭にかけて作られた。 多くのビルは、長い間、華人により所有されてきた。 勿論、この地域にも、非華人系の人々は常に居住している。
華人による最初の家は、Celestial Ave.に建てられた。 唐人街は長年にわたり発展を遂げたが、その中心部はLittle Bourke通り、またSwanstonとExhibition通りの間に残っている。
20世紀初頭、華人家具製造商やその家が、Spring通りとLittle Lonsdale通り地区に在った。 また茶館や商館が、Swanston、Russell、Exhibition通りに在った。 -
入場料、等。 年間会員もあるよ!
今日、家人はメルボルン市内全域に済、働いている。 メルボルンには、200を超える華人組織があり、多くの華人協会や寺院、レストランが古くからものものとして残るが、その多くは歴史的建造物であり、観光名所となっている。
1930年代、40年代の華人についてもっと勉強したい方は、街歩きツアーへの参加をどうぞ。(詳しくは、同博物館で!) -
この博物館では、階により様々な切り口で「華人」と言うスケールで見たチャイニーズ・オリジンを総じて語っている。
現代政治で複雑になった、いわゆる中共系か、国民党系か、的な思惑を排除し、オール・チャイニーズとしてのルーツを求め、また、結果的にオーストラリア移住に対して積極的、肯定的なコメントで彩られている。 それらを見ると、大陸中国を出て、ワンクッション、ツークッション、アジア域内の他国を経て、オーストラリアに移入した人々も多く居る事が窺われる。 白豪主義を経て、70年代中盤以降、オーストラリアは人種を問わずその門戸を開き、人々を受け入れて来た事が理解出来る。 -
実際に、最近の移民も含め、オーストラリアは人種、性別、年齢や来歴にフィルターされずに、人々に機会均等を与える、として多くの華人達は、賞賛している様に見受けられるし、それは本当だろう。
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そこに、2009年幕開けとなった孫文先生が鎮座している事も、意義深い。
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