2011/11/19 - 2011/11/20
2968位(同エリア4227件中)
倫清堂さん
東京文化会館の50周年記念フェスティバルで、黛敏郎オペラ「古事記」が日本初演されることとなり、久しぶりのオペラ鑑賞のために上京することにしました。
この日は朝だけ仕事をして、昼過ぎに東京に着く新幹線に乗りました。
仙台は曇り空でしたが、新幹線で南下するにつれて雨と風が激しくなり、東京は季節外れの台風のような暴風雨となっていました。
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東京文化会館の50周年記念フェスティバルで、黛敏郎オペラ「古事記」が日本初演されることとなり、久しぶりのオペラ鑑賞のために上京することにしました。
この日は朝だけ仕事をして、昼過ぎに東京に着く新幹線に乗りました。
仙台は曇り空でしたが、新幹線で南下するにつれて雨と風が激しくなり、東京は季節外れの台風のような暴風雨となっていました。
ダイヤに乱れが生じていますが、遅れて来た電車に乗れるような幸運も重なり、時間通りに最初の目的地の横須賀に到着。
駅の売店で傘を買い、バスと徒歩で向かった先は三笠公園。
日露戦争において東郷元帥が座乗した連合艦隊旗艦・三笠が、岸壁に保存されています。
艦内では「元帥東郷平八郎」特別展が行われており、東郷元帥の書や写真などが展示されていました。記念艦 三笠 美術館・博物館
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東郷平八郎元帥は薩摩藩士の子として生まれ、薩英戦争や戊辰戦争などで戦いました。
明治維新後は海軍に仕官し、明治4年からポーツマスに留学して、国際法などを学びますが、彼を国費留学させるために尽力したのは西郷隆盛でした。
帰国後、日清戦争では巡洋艦浪速の艦長を務め、日露戦争では山本権兵衛によって連合艦隊司令長官に抜擢されますが、明治天皇に対する山本権兵衛の説明は「東郷は運のよい男ですから」であったと伝えられています。
ロシアのバルチック艦隊との決戦に際しては、「本日天気晴朗なれども波高し」「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」との言葉を残し、みごとな戦術によってほぼ無傷で敵艦隊を海の底に叩き沈めたのでした。 -
戦艦三笠は、ワシントン軍縮条約によって廃艦が決定しますが、多くの国民の要望によって保存されることとなり、大正14年に現在の場所で地面に固定するための工事が行われたのでした。
しかし大東亜戦争に敗れたことで、ソ連がその解体を強く望み、解体まではされなかったものの、多くの部品が盗難されてしまったのでした。
現在の三笠は、船の形をした資料館と言った方がよいのかも知れませんが、その雄姿を見るとなぜか心が熱くなるのは、かつて栄光を経験した日本人の血を受け継いでいるからなのでしょうか。
甲板を移動するうちに靴の中にまで雨水が入り込み、傘は強い風によって骨組みを曲げられてしまいました。
今回はせっかく古事記の世界を楽しめる旅なので、日本武尊ゆかりの走水神社まで行く予定でしたが、残念ながら1日目の行動はここまでとせざるを得ませんでした。 -
オペラ公演当日。
早めにホテルをチェックアウトし、上野公演を散策することにしました。
東京で4年間も暮らしたことがあるのに、その間に上野公園を歩いたことは1度もありませんでした。
上野公園の正式名称は「上野恩賜公園」です。
恩賜とは天皇陛下から賜ることで、かつて皇室の財産であったこの地域が、東京都民のために下された歴史を物語っています。
しかし、皇室財産となったのは意外にも最近のことで、明治に入ってからです。
それ以前は、江戸城を鎮護する寛永寺の敷地でした。
慶応4年の上野戦争で彰義隊と薩長軍の主戦場となった寛永寺は、新政府軍の最新鋭兵器によってことごとく焼かれてしまい、彰義隊の兵士たちも多くが戦死しました。
新政府軍の勝利を決定づけたのは西郷隆盛による攻撃で、上野公園のシンボルともいえる西郷隆盛像がここに建てられたのは彼の功績を顕彰する意味があったからです。上野恩賜公園 公園・植物園
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西郷隆盛像から少し進んだ所には、彰義隊の墓もありますが、明るい西郷像に比べ木陰の薄暗い場所にあるのが対照的でした。
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寛永寺の開山は天海僧正。
徳川幕府を開いた家康公の側近で、江戸の町や日光東照宮をデザインした人物です。
寛永寺の山号が東叡山であることから分かるように、江戸に対する寛永寺は、京都に対する比叡山と同じ意味を持っています。
また、元号を寺の名前に冠するのも延暦寺と寛永寺のみとなっており、日本全体で最も格の高い寺院の一つと言えます。
そのような視点で見ると、例えば不忍池は琵琶湖のひな形であることや、寛永寺が江戸城から見て北東の位置にあることなど、全てがつながって来ます。
そして、家康公と天海僧正が偉大であることは、寛永寺に輪王寺宮として親王を仰いだことです。
京都に変事が勃発した時のために、いつでも新皇として即位できる親王を江戸に常住していただくことにしたのでした。
彰義隊の墓からすぐの所に、上野戦争で焼け残った貴重な清水観音堂があります。
京都の清水寺のような舞台があり、不忍池を見下ろします。寛永寺清水観音堂 寺・神社・教会
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不忍池では縁日があるのでしょうか、屋台の準備が進んでいました。
弁天堂は工事中でしたが、組まれている足場の隙間を通ってお参りしてきました。不忍池弁天堂 寺・神社・教会
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公園の方に戻ってゆるい坂道を上がると、五條天神社と花園稲荷神社が鎮座しています。
五條天神社の御創祀は第12代景行天皇の御代にさかのぼり、日本武尊の御東征の際に神の加護に感謝して建てられたと伝えられています。五條天神社 寺・神社・教会
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すぐ隣に位置する花園稲荷神社は、御創祀は詳らかではありませんが、天海僧正が寛永寺を建てる際、棲みかを追われる狐たちを憐れんで建てられた祠があります。
江戸時代までは、自然と人との共存の関係が成り立ち、人が自然を侵すことへの有り難さ、かたじけなさの精神があふれていました。
しかし、寛永寺を焼いた新政府には、そのような意識はほとんどなかったと言えます。
幕府側の人々の殺戮を経て政権簒奪を完成させ、新政府樹立後は多くの寺を破壊し、自然破壊による環境汚染で国民を苦しめ、勝てるはずのない戦争で無辜の国民を大量に死なせました。
醜く汚れた日本に対する家康公と天海僧正の嘆きの声が、今にも聞こえて来そうです。花園稲荷神社 寺・神社・教会
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寛永寺にはもともと大仏様がありました。
しかし、度重なる地震によって倒壊を繰り返し、さきの大戦では顔面を残して軍部に供出されてしまいました。
のこされた顔面だけが、奇妙な形で残されています。
噂には聞いていましたが、実物を目の前にすると、やはり異様な感覚に襲われてしまいます。
大仏様は、顔面だけになっても怒った表情は見せず、いつか全体が復元されることを信じているようにやすらかに微笑んでいます。 -
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最後に上野東照宮を参拝しました。
弁天堂同様、こちらも修復中でした。
どうやら上野公園全体が再生事業真っ最中のようです。
上野東照宮は、上野戦争・関東大震災・東京大空襲のいずれにも耐えた貴重な社殿なので、復元によって創建当時の姿を取り戻すことを期待しています。上野東照宮 寺・神社・教会
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そろそろ東京文化会館に入る時間が迫って来ました。
上野東照宮の参道を引き返すと、一段高い所に騎馬像が見えます。
それは小松宮彰仁親王殿下の銅像でした。
伏見宮邦家親王の第8王子であった彰仁親王は、仁和寺の法親王から還俗し、征夷大将軍として鳥羽伏見の戦いに参戦されました。
その弟宮は、最後の輪王寺宮であった公現法親王で、後の北白川宮能久親王殿下です。
兄弟で幕府側と新政府側に分かれてしまった悲劇の責任は、新政府側にあると言わざるを得ません。
家康公が最も怖れていた京都における変事が15代慶喜公の時に起きてしまい、その遺訓を守って輪王寺宮を奉ったのが彰義隊でした。
彰義隊は上野戦争に敗れ、輪王寺宮は一時仙台藩にかくまわれていたこともあります。
その際、真の天皇として即位されたという記録も残っていますが、結局は新政府側に帰順して、北白川家を相続することになったのでした。
あるいは輪王寺宮は孝明天皇弑逆の真相を知っていて、新政府軍と戦ったのかも知れません。
北白川宮能久親王殿下の銅像も都内にはあるとのことなので、次の機会にはそこにも行ってみたいと思います。 -
東京文化会館 名所・史跡
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