2011/11/23 - 2011/11/23
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selalu-baliさん
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京都には太夫さんという最高級のおもてなしができる女性がいるんです。
その歴史は古く、太夫になるためのお稽古ごとは、歌舞音曲はもとよりお茶・お花・和歌・俳詣など多岐にわたり「女優なき時代の憧れのまと」だったとか!
そんな太夫さんがお客さまをおもてなしした「角屋」さんは昭和60年まで営業されていましたが、今はその歴史的にも重要な建物とともに、多くの所蔵品を一般に公開する美術館として門戸を解放されています。
嵐山もみじまつりで華麗なお姿で太夫道中を見せてくれた太夫さん。
どんな場所でお仕事をされていたのか・・・・興味深々で訪れたお気楽妻でございます(*^。^*)
太夫道中の模様はこちらの旅行記にて→http://4travel.jp/traveler/selalu/album/10621199/
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JR嵯峨野線「丹波口」駅から、高架の線路沿いに京都中央卸売市場の脇を歩いて10分くらいです。
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この大銀杏はかつては島原住吉神社の境内にありましたが、明治維新後廃社になり、神社は再興されるものの境内がこの大銀杏のある場所までは拡大されるに至らなかったため、このように所在なさげにポツンと取り残されるようになってしまいましたが、今もなお、御神木として親しまれております。
ちなみに樹齢三百年・・・・島原一の巨木です。 -
この標識が見えたら道なりに進んで行きます。
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標識のそばに「島原住吉神社」
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かつては良縁のご利益があると評判であったが、明治維新後に廃社となったものの、地元の崇敬心は高く、当時の境内敷地よりはかなり小さくなったものの再興されて今に至ります。
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ここに詳しいことが書いてありますゆえ(*^_^*)
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クランクしてる道の角に目印の看板があります。
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こちら角屋さんは、蛤御門の変に遭い、享年25歳にして壮絶な死を遂げた久坂玄端が暗殺の難を避け潜行密議した場所でございます。
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いわゆる昔の迎賓館・・・・?
平安時代、京の中央を南北に朱雀大路が貫き、七条以北の東西にふたつあったそうですが、当時この館を利用したのは唐ではなく渤海国使節に限られ、時の政府は渤海客を大いに歓待したそうな・・・・
渤海国=現ロシアの沿岸に存在した国 -
さすが島原!
町内の掲示板にもさりげなくこのようなポスターが貼られていました。 -
このあたりは時の流れが止まったかのような街並みです。
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こちらが「角屋もてなしの文化美術館」さん。
開館時期が決まっているのでご注意くださいね!
3月15日〜7月18日
9月15日〜12月15日 この期間しか開館されてません!
午前10時〜午後4時まで 月曜日は休館(祝日の場合は翌日)
入場料 一般1000円 中高生800円 小学生500円
(2階特別公開の座敷は事前予約制です。料金は別途) -
贅を尽くした建造物や襖絵など素晴らしい芸術品を間近に見ることができます。
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「角屋」さんは「揚屋」といわれる当時の宴会場とでも申しましょうか・・・。
主に2階にお客様をおもてなしする座敷があり、2階にお客様を上げたことから「揚屋」といわれるようになったそうです。
祇園などには「置屋」がありますが、その違いは「揚屋」は太夫を抱えず置屋から派遣してもらってお客様に遊宴をしてもらいお料理を作ってお出しするところ。
一方置屋ではお客様を迎えることはありません。
江戸後期の書物の中で、客を「饗すを業とする也」と定義されていることにより、現在の料理屋・料亭にあたるのですねぇ! -
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入ってすぐの展示は、太夫さんの打ち掛けやかんざしなどの装飾品でした。
この展示はテーマによって入れ替えされるそうです。 -
ほんとに見事な打ち掛けの数々・・・・
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おっと!!
ここで写真撮影NGとの注意を受けてしまいました(−−〆)
展示品は撮影禁止だそうです・・・・ごめんなさい・・・・<m(__)m> -
こちら1階のお台所。
ここは撮影OKです。 -
左に見える照明「八方」といいます。四方八方を明るく照らすということなのでしょうね。
ろうそくを置く台がありますが、それがなかったら現代の照明器具に劣らないモダンなデザインですねぇ! -
かなり広い台所、当時大勢の人たちが忙しく立ち働いていたことが想像されますねぇ!
おくどはん(かまど)もずらりと並んでいます。 -
ここには台所の他に、帳場(昔のレジですかね)もあります。
帳場のそばには「刀タンス」こちらで刀を預かっていたわけですね〜! -
西郷隆盛が使用したとされるタライです。
昔、戦争時代にきらびやかな建物を取り壊す・・・・という時代があったそうですが角屋を見にきたお役人が、このタライに目を留めこのような歴史的なものが残されている建物を取り壊すことはならん・・・ということで難を逃れた・・・・・とも言われているそうですが実際はどうなんでしょうか・・・・?
でも、贅を極めた造りで当時はかなりきらびやかであったことが想像できますが、実は部屋を明るく照らすためにかなりの数のろうそくが使われていたために、そのススで壁や襖はいぶされたように黒ずんでしまい、取り壊しの難を逃れた・・・・という説もあるようですよ。 -
1階のお客様用の玄関から大広間へ続く廊下にある中庭です。
なんともステキ(*^。^*) -
こちらは大広間の手前にある「網代の間」
建物全体が重要文化財に指定されています。 -
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ススで真っ黒になってますねぇ!
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こんな大きな網代組は珍しいんだそうですよ!
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網代の間から大広間へ続く廊下。
ここも風情があります! -
こちらが大座敷「松の間」
襖絵は岸連山筆「桐に鳳凰の図」 -
文久3年(1863年)新撰組初代筆頭局長の芹沢鴨がここ角屋で遊宴のあと、壬生の屯所八木邸に帰宅後、暗殺されたのでございます。
芹沢鴨、最後の遊宴の場所・・・・感慨深いものがこみ上げますねぇ〜! -
松の間では1日何度か、お庭の臥龍の松をながめながら、詳しい解説を聞くことができます。
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こちらが、竜が寝そべったような姿から「臥龍」と言われるようになった松でございます。
近くで見ますと、ほんとに竜の目玉まで見えるかのごとく、来年は辰年ですゆえ、一見の価値ありでございますよ! -
残念ながら初代の松は大正時代に枯れてしまいましたが、当初は1本の松だけでこの形が作られていたのでございます。
今は二代目の松でございますよ。 -
広縁にも出ることができますが、お庭には下りることはできません。
このお庭には「清隠斎」のお茶席(重要文化財)と「曲木亭」(重要文化財)もあります。
お庭は京都市指定名勝でございます。 -
お着物など着てお出かけいただけば、最高のロケーションで記念の写真が撮影できるのではないでしょうか(*^。^*)
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秋はもみじ、
春はしだれ桜が見事だそうです! -
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別途¥800で2階御座敷を学芸員さんの解説を聞きながら見学することができます。
事前予約制です。
2階は写真撮影禁止です。これはパンフレットを撮影した「扇の間」です。
この他にも、贅を極めた数々のお座敷はそれぞれに趣きが異なり、昔は二階から遠く嵐山も見えたそうで、景色を楽しむために「はねあげ屋根」といって、邪魔な柱がない窓際の作りになっているのでございます。
お気楽妻が特に心奪われましたのは、螺鈿細工が散りばめられた「青貝の間」でございます!
そこの床柱に刻まれた刀傷は、その昔新撰組が出入りしていたころ、あまりお行儀がよろしくなかった者もいたようで、困っていた角屋に新撰組から「今後は新撰組の者が来てもツケで飲み食いさせないように」との通達があり、それを知ってか知らずか、中には暴れだす者もいたようで、刀を振り回し・・・・・その時の傷跡が残っているのでございます。 -
与謝野蕪村「紅白梅図」屏風。
重要文化財です。
写真撮影禁止ですが知らなくて・・・・・
学芸員さんがすっ飛んできて注意されました・・・ごめんなさい・・・・<m(__)m> -
どんなに角屋さんが贅を尽くした造りになっていたかを物語るものをご紹介。
これは大座敷「松の間」の襖の取っ手ですが、なんと、七宝焼きになっています。
凝りに凝った造りですねぇ〜! -
ちょっとした場所にもさりげない贅沢がほどこされています。
螺鈿細工なんですが、ほんとに細かい細工です。
ガラスケースに入ってないのがもったいないくらい、間近に美術品を見ることができるのですから、ここはほんとに宝の山です!
まだまだもっと素晴らしいものが眠っていることでしょうねぇ! -
こちらがお客様の玄関です。
ここから、歴史に名を残した方々が入ってこられたのですねぇ! -
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この赤い色の壁は本来はお寺などに使われる最高級の壁だそうですが、ここ角屋に使われたのは、いかに角屋が他と一線を画した場所であるかをうかがえるところでございますねぇ!
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この玄関先にも刀傷がっ!!!!
何をする・・・新撰組さん・・・・(泣) -
見どころたっぷりで大満足!
こんな美術館が京都にあることを誇りに思いました(*^。^*) -
島原の街を少し歩いてみましょうか・・・。
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近くにこんな温泉施設もありましたよ。
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こちらは今でも営業されている「輪違屋」さんです。
ここで今も太夫さんを呼んで遊宴をなさってる方がおられるのでございますよ〜!!!
すごいすごい!!! -
見学御断りの張り紙がありました。
そりゃ営業なさってるんだから仕方ないですよね・・・見てみたいですが・・・・ガマンガマン・・・・(^^ゞ -
少し歩くと「島原大門」
ここ島原の呼び名の由来を少しご紹介いたしましょう。
当初、天正17年(1589年)に豊臣秀吉の許しを得て柳馬場二条に「柳町」ととして開設されたが、御所に近いなどの理由で慶長7年(1602年)に六条柳町(東本願寺の北側)に移転させられ通称「六条三筋町」と呼ばれ大いに繁盛したが、町中では風紀を乱すと、またも寛永18年(1641年)に辺鄙な朱雀野(現在の地)に移転を命じられ、その移転騒動が当時の九州島原の乱に似ているとして「島原」と通称されてきたのでございます。 -
島原と関東吉原とは大きな違いがございます。
吉原は遊郭、それに対し島原は歌舞練場も備えた歌舞音曲をお客様に楽しんでいただくところ。
吉原は塀をめぐらしその出入りは自由でなかったために、逃げ出すための放火に度々見舞われますが、島原には塀はなくその出入りは自由であったため、失火による火事が一度あっただけといわれております。 -
吉原の花魁と島原の太夫・・・その違いにも少しふれておきましょう。
太夫はさまざまなお稽古事で芸を磨くのに対し、花魁さんは芸事は一切なさいません。
帯の結び方も太夫の帯は前に「心」と結びますが、花魁は前にだらりと垂らして結びます。
外見でも違うわけですねぇ。 -
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何度も移転を余儀なくされ、ついにはこのようなヘンピな場所に移転させられたため、明治維新後は大型宴会の需要がなくなると共に、足場の悪さもあって島原の街全体が衰微し、それ以降は祇園が花街の主役にとって代わっていくのでございます。
歴史を肌で感じることのできる「島原」
角屋さんでは当時の賑わいを彷彿させる建造物や所蔵品に触れ、感動しきりのお気楽妻でございました(*^。^*)
角屋もてなしの文化美術館
京都市下京区西新屋敷揚屋町32番地
電話 075−351−0024
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この旅行記へのコメント (1)
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- 鴨川の夕立!さん 2011/12/11 19:09:16
- 上七軒!
- selalu-bali様
コメント有難うございました。
上七軒の近くはよく通るのですがいつかじっくり回りたい場所です。
写真も解りやすい順序でいいですね!
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