鶴見旅行記(ブログ) 一覧に戻る
現在の、東日本旅客鉄道 鶴見(つるみ)線は、当初、鶴見臨港(つるみりんこう)鐵道と称した民営鉄道に依り開業した路線である。<br /><br /><br />鶴見線開設史は明治末期に遡る。<br /><br />淺野財閥創立者兼初代社長 淺野総一郎(あさの そういちろう)翁(嘉永元年(1848年)4月13日~昭和5年(1930年)11月9日)は、日露(にちろ)戦争(明治37年(1904年)2月8日~明治38年(1905年)9月5日)終結後に於ける我が国の主要産業国産化推進の為に、重化学工業実態調査を目的として明治40年(1907年)に欧米調査視察渡航したが、淺野翁は主訪問国たる米国に於いて重化学工業施設は例外無く内陸部に存在せず、大型船舶入港可能な港湾施設と一体化し、交通利便な大都市部近郊の海岸地帯に選定所在する事実を知る。<br />淺野翁は帰国後、当時の我が国に於いて当該地製鐡所設置可能地は、京濱間、若しくは、阪神間程度しか成立し得ない事を確信するに至った。<br /><br />当時の鶴見地区は橘樹郡鶴見町に属し、鶴見川河口に海苔ヒビ連なる遠浅な浜辺は当時の横濱市民には久良木郡杉田町(現 横浜市磯子区杉田)と共に近隣海水浴場として親しまれた存在だったが、それ故に該地域埋立に依る土地造成は可能と判断された。<br /><br />現在の京浜(けいひん)工業地帯中心部たる鶴見地区埋立工事は明治41年(1908年)に鶴見埋立組合が設立され、埋立浚渫工事を主業務として開始し、大正3年(1914年)に鶴見埋立組合は鶴見埋築株式會社に改組され淺野翁が初代社長に就任した。<br /><br />日本鋼管製鐡所は明治45年(1912年)6月8日附を以って創立し、大正3年(1914年)に日本鋼管川崎工場が操業開始した。<br /><br /><br />該工業地帯への鐵道敷設は、内閣鐵道院に依り大正7年(1918年)5月1日附で川崎-濱川崎間4.0Km設置が嚆矢だったが、該地域埋立が進行拡大し工場設置稼動に依る原材料完成製品輸送の為に、濱川崎驛を起点に埋立地各地連絡の為の培養鐵道設置要求が発生する。<br /><br />鶴見臨港鐵道會社起業は大正13年(1924年)2月12日附で神奈川縣庁より監督官庁たる内務省経由で 第23代内閣総理大臣 清浦圭吾(きようら けいご)(嘉永3年(1850年)3月27日~昭和17年(1942年)11月5日)内閣(大正13年(1924年)1月7日~同年6月11日組閣) 第4代鐵道大臣 小松謙次郎(こまつ けんじろう)(文久3年(1864年)1月2日~昭和7年(1942年)10月15日)(大正13年(1924年)1月7日~同年6月11日在任)宛に鐵道建設請願文書提出が発端である。<br /><br />該社創設発起人に、<br />淺野セメント社長<br />    淺野総一郎(あさの そういちろう)(嘉永元年(1848年)4月13日~昭和5年(1930年)11月9日)<br />安田銀行頭取<br />   安田善三郎Ⅱ(やすだ ぜんざぶろう)(明治3年(1870年)11月3日~昭和5年(1930年)1月9日)<br />王子製紙社長<br />   大川平三郎(おおかわ へいざぶろう)(萬延元年(1860年)12月7日~昭和11年(1936年)12月30日)<br />日本鋼管社長<br />   白石元治郎(しろいし もとじろう)(慶應3年(1867年)7月21日~昭和20年(1945年)12月24日)淺野総一郎次女娘婿<br />日清製粉社長<br />   正田貞一郎(しょうだ ていいちろう)(明治3年(1870年)3月29日~昭和36年(1961年)11月9日)美智子上皇后祖父<br />等々が名を連ねた。<br /><br />該社建設免許状は4月26日附で交付され7月22日附で 鶴見臨港鐵道 が設立された。<br />敷設工事は、翌大正14年(1925年)3月10日に認可取得した事から直ちに着工し、大正15年(1926年)3月10日に、濱川崎-辨天橋間3.5Km、石油支線安善町-石油(現 濱安善)間1.1Km、及び、大川支線安善町-大川間1.4Kmが開通する。<br />該区間途中停車場として、武蔵白石(むさししろいし)Ⅰ驛、安善町(あんぜんちょう)(現 安善)驛、淺野(あさの)驛が設置された。<br />元来、海浜埋立地故に地番地名等々存在する筈も無く、当該埋立地に対し新地番と共に該社主要株主名を以って適宣地名を付与し、当該驛名も地名に合せ命名された。<br />因みに、大川に至る支線建設先行理由として、当時、該線大川驛隣接の日清製粉鶴見工場が関税率改正後に於ける高率課税を忌避する為に、該課税前に米國より小麦粉を大量輸入した結果、該滞貨量が数万トンに達し該過剰滞貨払拭の為に該区間設置を促した。<br /><br />該社開業時に用意された機関車は、<br /> 300型Ⅰ<br />          301  <br />       302<br />独エーレンシュタイン・ウント・コッペル(ORENSTEIN UND KOPPEL GamH)社 大正13年(1924年)2月製造。<br />計2両である。<br />我が国の弱小中小私鉄路線対応用に設計製造された小型飽和式蒸気機関車で、単純構造故に横莊鐵道、五日市鐵道他全国各地に於いて使用された。<br />因みに、301号機は国有化後、昭和22年(1947年)廃車後は三井埠頭川崎倉庫線に払下使用され、紆余曲折を経て山梨県河口湖町に於いて現存する。<br /><br /><br />橘樹郡鶴見町は昭和2年(1927年)4月1日附で横濱市に編入され、合併後は横濱市鶴見町と称したが、同年10月1日附で該地域をして鶴見區が成立する。<br /><br /><br />該社は、昭和2年(1927年)8月4日附で濱川崎-大森間延長を申請し該申請は昭和4年(1929年)4月6日附で建設許可を得た。<br />更に該社は昭和3年(1928年)に鶴見-矢向間延長を申請した。<br /><br /><br />以下、該社旅客営業開始以前、<br /> 昭和 3年(1928年) <br />     8月18日 濱川崎-扇町間延長<br /> 昭和 4年(1929年)<br />     3月14日 武蔵白石Ⅰ-濱川崎間 渡田(わたりだ)驛開設<br /> 昭和 5年(1930年)<br />     1月28日 武蔵白石Ⅰ驛貨物取扱業務僅少を理由に営業廃止<br /><br />増加する貨物輸送に対応の為に、昭和4年(1929年)に小型蒸気機関車を増備した。<br /> 303型Ⅱ<br />          303 川崎車輌 昭和4年(1929年)製造<br /> 計1両である。<br /><br /><br />該社は開通当時こそ貨物専用鐵道として開設されたが、沿線工場が立地するに従い、通勤者用に旅客扱開始を希望する声が高くなった事から、昭和5年(1930年)10月28日附で鶴見Ⅰ-辨天橋間開通と同時に全線直流600V電化され電車に依る旅客営業扱を開始し辨天橋-濱川崎間は複線化された。<br />旅客営業開始と共に、安善町驛を除く既成驛に於いて旅客営業併用開始となり、新規旅客取扱専用驛として、鶴見(つるみ)Ⅰ驛、本山(ほんざん)驛、國道(こくどう)驛が開業した。<br />鶴見Ⅲ-辯天橋間2.4km内1.3kmは高架橋設置に決定し 阿部美樹志(あべ みきし)(明治18年(1883年)5月4日~昭和40年(1965年)2月20日)に設計依頼した。<br />旅客営業開始の為に、鶴見Ⅰ-辨天橋間一部分区間は連続高架コンクリート・ラーメン橋単版桁スラブ構造を採用し、鶴見第1~6高架橋は単版桁式で構成され、京浜電気鐵道(現 京急電鉄本線)、及び、鐵道省線跨線の為に 下路平行弦ワーレントラス構桁(64.9m) × 1連(横河橋梁製作)が架橋された。<br /><br />阿部は宮城縣一関町(現 一関市)出身で、札幌農學校土木科(現 北海道大学工学部)卒業後、内閣鐵道院に就職し明治44年(1911年)度農商務省実習生として政府派遣に依り米イリノイ大學(UNIVERSITY OF ILLIOIS)に留学しコンクリート土木研究で博士号を取得。<br />帰国後、中央本線呉服橋-萬世橋間高架橋設計に従事。<br />阿部は大正9年(1920年)に内閣鐵道院が鐵道省昇格時に退官独立し設計事務所を設立し、阪急ビルジング、東京宝塚劇場、中央大学図書館、等々設計を担当した。<br />他方、淺野財閥との関係から昭和5年(1930年)には南武鐵道(現 南武線)尻手高架ゲルバービームスラブ式構造橋設計を担当した。<br /><br />該社電化時に用意された電車は、<br />  モハ100型<br />  モハ101 ~ モハ108   新潟鐡工    昭和5年(1930年)8月竣工<br />  モハ109 ~ モハ110   淺野造船所   昭和5年(1930年)8月竣工<br />計10両である。<br /><br />但し、鐵道省は既存の總持寺-川崎大師間9.5Kmを経営する京濱電気鐵道(現 京浜急行電鉄)子会社 海岸電気軌道線と並行競合する事から、鶴見臨港鐵道線旅客営業開始に伴い経営圧迫の可能性在りとして、海岸電気軌道が合併買収に関する申出を受けた際は鶴見臨港鐵道は此れを拒否出来ずとの付帯條件を挿入した事から、海岸電気軌道は該免許交付条件を根拠に該社に対し買収を申出て、昭和5年(1930年)3月29日附で鶴見臨港鐵道軌道線となったが、利用者低迷が継続し昭和12年(1939年)12月1日で全線廃止され跡地は産業道路拡張用地に利用された。<br />該社軌道線車輌で木造車は全車廃車されたが、半鋼製車輌モハ20型2両、モハ30型は台車を狭軌用差替、扉ステップ撤去、簡易自動連結器取付工事を施工し鉄道線に転用された。<br />該社は、軌道線利用者救済を理由に鶴見-川崎大師間に旅客自動車線営業を申請し設定されたのが鶴見川崎臨港鐵道バス、即ち現在の川崎鶴見臨港バスである。<br />因みに、昭和19年(1944年)12月1日附で東京急行電鐵(現 京浜急行電鉄)大師線川崎大師-大師橋間延長区間は該社廃止線跡地を利用して建設された。<br /><br /><br />以下、該社旅客営業開始以降、<br /> 昭和 6年(1931年) <br />     2月 1日 濱川崎-扇町間 海川崎(うみかわさき)驛開設<br />     3月20日 海川崎-扇町間 昭和(しょうわ)驛開設<br />     5月30日 海川崎驛が 若尾(わかお)驛に驛名変更<br />     6月14日 鶴見Ⅰ-鶴見Ⅱ間0.1Km延長<br />     7月26日 武蔵白石Ⅱ驛が旅客驛として復活<br />     8月15日 武蔵白石Ⅱ-渡田間 海水浴前(かいすいよくまえ)臨時乗降場開設<br />   昭和 9年(1934年)<br />    12月 8日 淺野-安善町間 安善通(あんぜんどおり)驛開設<br />           安善通(現 安善)-石油(現 濱安善)間 安善橋(あんぜんばし)驛開設<br />       23日 鶴見Ⅱ-鶴見Ⅲ間0.1Km再延長<br />住宅密集地故に土地収用で難航した鶴見Ⅲ驛設置は、駅ビル建設を以て昭和9年(1934年)12月23日附に完成し、該社線起点が創業以来の濱川崎驛から鶴見Ⅲ驛に変更された。<br />  昭和10年(1935年)<br />    12月10日 -辯天橋-鶴見川口間1.2Km開通<br />該区間は開業から路線廃止まで一貫して貨物専用線だった。<br />  昭和11年(1936年)<br />    12月 8日 國道-辨天橋間 工業學校前(こうぎょうがっこうまえ)(現 鶴見小野)驛開設<br /> 昭和13年(1938年)<br />    12月25日 石油支線安善通(現 安善)-石油(現 濱安善)間旅客営業廃止 安善橋驛廃止<br /> 昭和15年(1940年)<br />    11月 1日 新芝浦-海芝浦間0.8Km延長<br /> 昭和16年(1941年)<br />     6月25日 海水浴前臨時停車場 正式廃止<br />該驛は該地域工場林立に依る排汚水増大に伴ふ海水汚濁に依り海水浴に不適と判断され、昭和12年(1937年)夏季以降は不開設。<br /> 昭和17年(1942年)<br />    12月11日 本山驛廃止<br /><br /><br />その後に於ける蒸気機関車増備は、<br /> 303型Ⅲ<br />   304 川崎車輌 昭和13年(1938年)製造<br /> 500型<br />  501 英キットソン(KITSON & Co.Ltd)社 明治29年(1896年)製造 旧鐵道省1800型蒸気機関車1811 北越鐵道発注機<br />  502 英デュープス(DUBS & Co.Ltd)社 明治14年(1881年)製造 旧鐵道省1850型蒸気機関車1855 日本鐵道発注機<br /> 700型<br />  704 英ヴァルカン・ファンドリー(VALCAN FANDRY & Co.Ltd)社 明治18年(1887年)製造 旧鐵道省700型蒸気機関車704 山陽鐵道発注機<br /> 計4両である。<br /><br />鐵道省側直通貨物列車には品川機関區濱川崎支區配置C12型蒸気機関車が乗務員ごと該社線に乗入れた。<br /><br /><br />淺野-新芝浦間0.9Kmは、鶴見臨港鐵道開設では無く芝浦製作所専用線として開設された区間である。<br />明治期に東京芝浦に於いて創業した芝浦製作所は土地狭隘余地無き事から、該社工場移転を決定し数箇所の候補地から鶴見末廣造成地区が選定され、該工場は大正14年(1925年)に第Ⅰ期工事が竣工し、翌大正15年(1926年)3月10日附で淺野-新芝浦間0.9Kmが開設された。<br />同時に該区間は独立送電に依り電化され直流600V/750V/1200V/1500V対応も可能で該社製造電気機関車試運転に活用された。<br />その後、昭和5年(1930年)10月28日附で該工場関係者輸送専用の為に、目黒蒲田電気鐵道(現 東急電鉄多摩川線・目黒線)所有 モハ35(明治44年(1911年)3月 内閣鐵道院新橋工場製)、及び、モハ41(大正3年(1914年)3月22日 内閣鐵道院新橋工場製)2両の譲渡を受け使用され、途中停車場として 末廣(すえひろ)驛が開設されたが該驛は乗降客僅少に依り昭和10年(1935年)3月4日附で廃止された。<br />該社専用線は、昭和7年(1932年)6月10日附で淺野-新芝浦間0.9Kmは、鶴見臨港鐵道に編入され電車2両は、モハ35→モハ201、モハ41→モハ202に改番された。<br /><br />その後、該社工場第Ⅲ期拡張工事竣工に依り、昭和15年(1940年)11月1日附を以って新芝浦-海芝浦間0.8Kmが延長された、<br /><br /><br />石油支線安善通(現 安善)-石油(現 濱安善)間1.1Kmは、旅客利用者が僅少だった事で、早くも昭和13年(1938年)12月25日附で旅客営業廃止と同時に電化諸設備は撤去され貨物専用線となり、更に昭和61年(1986年)11月1日附で路線廃止されたが線路自体は専用線として現存する。<br /><br /><br />中国北京郊外に存在する盧溝橋(ろこうきょう)に於いて、中国共産党員の謀略工作に依り、我が国との間に 日華(にっか)事変(昭和12年(1937年)7月7日~昭和16年(1941年)12月7日)が勃発し、我が国は平時体制から漸次戦時総動員体制へと移行したが、我が国に於ける主要重化学工業地帯である該地域に於いて、政府、及び、陸海軍部から鰻登り的生産向上要請を受け、該鐵道沿線に所在する諸工場は生産体制強化から、早くも工員輸送力慢性的不足が深刻現実となった。<br /><br />該鐵道では、始発鶴見驛では5時02分発辨天橋行始発電車から午前9時前後発まで3~5分間隔で運転していたが、輸送力不足の為に電車乗車行列に最低1時間30分以上並ばなければ乗車も叶わず、行列は該驛構外に拡張し、該社では鐵道省や南武鐵道(現 東日本旅客鉄道南武線)から次々とモハ1型電車の譲渡を受け購入投入した。<br /> モハ301 ← モハ1061(昭和8年(1933年)8月22日附廃車) ← デハ33535(大正15年(1926年)3月31日附 汽車會社製造東京支店)<br /> モハ302 ← モハ1062(昭和8年(1933年)8月22日附廃車) ← デハ33536(大正15年(1926年)3月31日附 汽車會社製造東京支店)<br /> モハ401 ← 南武鐵道401 ← モハ1060(昭和8年(1933年)8月22日附廃車) ← デハ33513(大正15年(1926年)3月31日附 汽車會社製造東京支店)<br /> モハ402 ← 南武鐵道402 ← モハ1064(昭和8年(1933年)8月22日附廃車) ← デハ33538(大正15年(1926年)3月31日附 汽車會社製造東京支店)<br /> モハ403 ← モハ1044(昭和11年(1936年)9月8日附廃車)  ← デハ33520(大正11年(1922年)3月31日附 汽車會社製造東京支店)<br /> モハ404 ← モハ1046(昭和11年(1936年)9月8日附廃車) ← デハ33522(大正11年(1922年)6月1日附 汽車會社製造東京支店)<br /> モハ405 ← モハ1045(昭和12年(1937年)12月11日附廃車)  ← デハ33521(大正11年(1922年)6月1日附 汽車會社製造東京支店)<br /> モハ406 ← モハ1051(昭和12年(1937年)12月11日附廃車)  ← デハ33527(大正11年(1922年)8月1日附 汽車會社製造東京支店)<br /> モハ407 ← モハ1053(昭和12年(1937年)12月11日附廃車) ← デハ33529(大正11年(1922年)8月5日附 汽車會社製造東京支店)<br /><br />昭和13年(1938年)11月に川崎車輌に於いて17m3扉車 モハ500型501~503計3両、クハ600型601~603計3両が製造された。<br />当時の関東所在の鐵道車輌製造企業に 汽車會社製造東京支店、日本車輌製造東京支店2大企業が実在するにも拘らず遠隔地たる神戸所在の川崎車輌に製造依頼した関係として、当時の淺野財閥と川崎車輌親会社たる古河財閥との親密関係が挙げられる。<br />該社は電車新製導入して対処したが、輸送需要から見れば既に焼石に水状態であり、昭和17年(1942年)10月には新潟鐵工所に於いて我が国初の4扉電車 モハ221型計2両、クハ261型計2両 を製造導入したが、該竣工車輌は両運転台式構造だったにも拘らず、戦時期故に無電装で運転設備も省略せざるを得ず、買収後も付随車 サハ 状態のまま使用を余儀無くさせられ、該路線昇圧時に広島鉄道局横川電車区に移動し、暫くしてモハ221、及び、クハ261は昭和27年(1952年)3月28日附、モハ222、及び、クハ262は同年2月16日附で幡生工場に於いて運転機器が設置され、昭和28年(1953年)6月1日附形式称号改定に拠り、モハ221型はクハ5510型、クハ261型はクハ5520型と付番され広島県内可部線に於いて使用されたが、田園地帯の沿線需要には程遠い状態だったにも拘らず丁寧にも4扉全部が自動開閉作動した。<br />既に、広島電気鐵道市内線に於いて601型車輌、及び、被爆電車として現在も活躍する651型車輌が存在する事から、広島市民にとって別段3扉車輌は目新しい存在でも無かったが、4扉車輌は寧ろ奇異なる存在であり、然も、地方路線に於いて17m4扉車の存在は逆に座席数と窓数減少に伴う着席可能率低下と扇風機未設置も重なり、夏季通風力低下の問題点が浮き彫りとなり、故に、広島に於ける該車に対する利用者の評判は甚だ芳しく無いものだったものと推定される。<br />その後、クハ5510型2両は昭和31年(1956年)3月1日附で廃車、クハ5520型クハ5520は昭和32年(1957年)12月21日附で大井工場に於いて救援車クエ9130型クエ9130に改造、クエ5521は同年12月3日附で吹田工場に於いて救援車クエ9131に改造され、昭和34年(1959年)6月1日附車輌称号改正に拠り クエ9130→クエ9420、クエ9131→クエ9400に改番された。<br />三鷹、及び、高槻に配置後、三鷹電車区配置 クエ9420 は昭和54年(1979年)2月5日附、高槻電車区配置 クエ9400 は昭和59年(1984年)5月25日附で廃車後解体され数奇な一生を終えた。<br /><br /><br />本山驛営業廃止に鑑み、鶴見臨港鐵道が鐵道省に対し営業許可申請書類を提出後、廃止許可を得るまで約8箇月間をも要した。<br />即ち、昭和17年(1942年)5月4日附廃止許可申請に於いて、<br />当社本山驛別紙理由ニ依リ旅客運輸営業ヲ廃止仕リ度候間御許可被成下度此段申請候也<br />と記載され、該別紙に、<br />本山驛利用客数ハ最近一ヶ年間(自15.121、至16.1130)352455人1日平均966人ニ過キス然ルニ其ノ驛隣接ノ鶴見、國道両驛ニ於イテハ16.285975人一日平均乗降44619人前者ニ対シ後者利用客ハ漸増ノ一途ヲ辿リ今後益々輻輳ノ趨勢ニ有之利用率尤モ少ナキ一停車場ノ停車ハ従冊通勤時ニ於ケル電車運転ヲ阻害シ産業戦士ノ通勤ニ支障ヲ与フル虞アルヲ以テ之カ円滑ナル運転ヲ期スル為メ廃止センムトスルモノナリ。右廃止後ニ於ケル現在利用客ハ鶴見驛又ハ國道驛ニ二分シ徒歩ニ依ルモ鶴見驛500米、國道驛400米ニシテ徒歩時分孰レモ僅カ6分ニシテ隣接驛ニ到達スル為メ之カ不便些少ナリ尚本山驛ハ貴省トノ旅客並手荷物ノ連絡運輸ノ取扱ハ致サス当社各驛発着旅客ノミニ有之候<br />と記載され、既に朝夕の京浜工業地帯所在工場工員輸送、即ち、当時の産業戦士輸送に支障する程の飽和殺人的ラッシュ状態では該驛乗車は勿論不可能に均しく、停車時間が無駄とされた事が廃止理由だったが、監督官庁たる鐵道省としては一定利用者を保持する該驛廃止に対し、廃止理由の明白理由開示を求め7月15日に該社に対し照会した。<br />該照会に対し、8月11日附で該社は鐵道省宛理由書を再提出した。<br />即ち、<br />鶴見扇町間ハ昭和五年開業当時表定速度時分十六分ヲ以テ開業シタリ。<br />当時中間驛ハ本山、國道、辨天橋、浅野、安善通、渡田、濱川崎ノ七ヶ所ニシテ驛間平均巨(ママ)離約1キロニシテ運転時間分ニ餘裕アリ早着スルヲ常トシタリ。<br />爾後沿線開発ノ必要上昭和、若尾、武蔵白石、工業高校ノ四驛増設セレレ現在ニ於テハ平均巨(ママ)離六四〇メートルトナレリ、右ノ如ク停車場増設セラルタルヲ以テ運転時分次第ニ窮屈トナリ現在ニテハ朝夕混雑時ノ如ク乗降客多キ場合ニハ遅着スル列車次第ニ多キヲ加ヘルニ至リタリ故ニ運転時分ノ確実ヲ期スルニハ表定運転時分ヲ延長スルカ又ハ利用率悪シキ停車場ヲ整理スルカノ必要アリ。<br />本山及若尾ノ両驛ハ利用率並増加率モ最モ低ク已ムヲ得サル場合ニハ此ノ二驛ヲ廃止ノ候補トナシ得ルモノナルカ若尾ノ通過列車ハ扇町行、武蔵白石行、芝浦急行ノ各列車カ各八分間隔ニテ通過スルヲ以テ運転間隔ハ益々二分乃至三分トナリ本山停車ノ有無カ運転ニ及ホス影響ハ甚大ナリ。<br />故ニ先ツ本山驛ヲ廃止スルコトハ運転ノ正確ヲ期スルニ相当ノ効果アルモノト期待セラルルモノナリ。<br />開業ノ際当驛ヲ設置シタルハ次ノ二ノ理由ニヨルモノナリ。<br />イ)東寺尾東台方面住宅ヨリ当社沿線工場ヘノ通勤客ノ便利<br />ロ)京濱電鉄トノ連絡<br />総持寺参拝客ノ当鐵道利用率ハ至ツテ僅少ナルヘキハ当初ヨリ予期シタル所ニシテ開業後成績ヨリ見ルモ総持寺参拝客ノ利用率ハ極メテ少シ<br />此処に鐵道省側も黙視せず現地実情調査が実施され、10月9日附で効率的運転上已む無きと判断する進達が東京鐵道局から鐵道省監督局に対し提出され審議の結果、12月11日附で廃止許可を得た。<br />因みに、一部文献に於いて該駅が本山前、總持寺に駅名改称されたが如き記述を散見するが事実無根である。<br /><br /><br />鐵道省は国策に伴ふ改正陸運統制令を根拠に、昭和17年(1942年)12月に政府に拠る鶴見臨港鐵道買収を指令し、翌昭和18年(1943年)3月6日公布 法律第24号に拠り買収決定、6月28日附 鐵道省告示第159号に拠り7月1日附実施 鐵道省鶴見線 となった。<br />該社は国有化に対し、貨車配車が日々困難な状態へと悪化していた事で、寧ろ国有化を歓迎する傾向が強かった。<br />政府買収価格は計16896808円と算出され、政府戦時公債17365500円が交付されたが、該公債は買収日より10年間売却禁止だった事から元所有者は期待された株式売買に依る利益取得はならず、大東亜戦争後に於ける我が国の超インフレーション現象の為に期待された売却可能期日到来時には該公債は唯の紙方化していた。<br /><br />政府買収時に、<br />安善町、渡田、及び、若尾各驛は廃止併合。<br />工業學校前 → 鶴見小野(つるみおの)驛<br />安善通   → 安善(あんぜん)驛<br />石油    → 濱安善(はまあんぜん)驛<br />に改名された。<br />川口支線起点は辯天橋から淺野に変更。<br />電車庫は淺野驛構内に存在したが政府買収時に辯天橋驛構内に新たに辯天橋電車區(東テシ)が開設された。<br /><br />政府買収直前たる昭和18年(1943年)3月に、淺野財閥系鐵道会社たる鶴見臨港鐵道、南武鐵道、青梅鐵道3社に依る対等合同合併に関する合意文書が作成調印され、該合併時期は翌昭和19年(1944年)2月に決定されたが現実には国有化が先行した。<br />若し、該当時に該鐵道が政府非買収対象時は東京急行電鐵(現 東急電鉄)に依る国策に基く企業統制合併が実施され、更に、大東亜戦争後に於ける該社分社化時に該線は京浜急行電鉄が継承し京浜急行電鉄鶴見線として現存したものと思われる。<br />然し、当該買収対象は鐵道線に限定、鐵道に無関係と判断された不動産事業や自動車線事業は買収対象外となる。<br /><br />戦時買収に於ける同様例として、岡山県内に於いて交通網を展開していた中國鐵道は鉄道線買収後は津山線、及び、吉備線となったが、自動車線事業は買収外とされた事から、改めて、中鉄バスとして存続するが、若し、該時点に於いて自動車事業をも買収対象としていれば、神奈川県内東北部は東日本旅客鉄道系列会社バス、岡山県南部は西日本旅客鉄道系列会社バスが、ツバメのロゴマークも誇らしげに、ほぼ地域独占事業となっていたものと思わされる。<br />但し、該社自動車線事業一部は昭和29年(1954年)に京浜急行電鉄に売却された。<br /><br />買収対象引継車輌は、蒸気機関車計6両、電車計42両、貨車計211両で、該社線は直流600V電化されていたにも拘らず各驛側線未電化の為に該社線開業当初から電気機関車を所有せず、他買収會社線数社とは状況が異っていたが、特に電車引継対象車輌数では、南海電気鐵道山手線(旧阪和電気鐵道)買収車計75両に次ぐ車輌数だった。<br /><br />政府買収に伴い一部車輌に同年5月1日附で政府買収された 宇部鐵道引継車輌と同一形式が存在した事から、此れを回避の為に形式変更が実施された。<br />蒸気機関車<br />   301 → 1190<br />   302 → 1191<br />   303 → 1765<br />   304 → 1770<br />   501 → 1811<br />   502 → 1855<br />蒸気機関車に就いては自社発注機関車に対し鐵道省正式形式番号が付与された以外は全車鐵道省時代の旧型式番号に復帰した。<br />電車<br /> モハ 21 → モハ 31<br /> モハ 22 → モハ 32<br /> モハ101 → モハ111<br /> モハ102 → モハ112<br /> モハ103 → モハ113<br /> モハ104 → モハ114<br /> モハ105 → モハ115<br /> モハ106 → モハ116<br /> モハ107 → モハ117<br /> モハ108 → モハ118<br /> モハ109 → モハ119<br /> モハ110 → モハ120<br /> モハ201 → モハ141<br /> モハ202 → モハ142<br /> モハ301 → モハ311<br /> モハ302 → モハ312<br /> モハ401 → モハ313<br /> モハ402 → モハ314<br /> モハ403 → モハ315<br /> モハ404 → モハ316<br /> モハ405 → モハ317<br /> モハ406 → モハ318<br /> モハ407 → モハ319<br /> モハ501 → モハ331<br /> モハ502 → モハ332<br /> モハ503 → モハ333<br /> クハ601 → クハ351<br /> クハ602 → クハ352<br /> クハ603 → クハ353<br />サハ19016 → サハ361<br /><br />該社線買収と同時に、<br /> モハ10151 + サハ19011 + モハ10166<br /> モハ10169 + サハ19009 + モハ10168<br /> モハ10176 + モハ10160<br />が転入。<br /><br />鶴見-矢向間延長は敷設工事免許失効に拠り実現を見なかったが、該社取得済所有地は政府買収を免れた。<br /><br /><br />大東亜戦争末期、米空軍は我が国の戦争遂行上、重化学工業地帯に於ける生産工場群を根絶破壊すべく空襲を実行し、鶴見川崎臨港地区に就いては、<br />昭和20年(1945年)<br />    2月19日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 第313航空隊 B29戦略爆撃機計119機<br />      14時35分 警戒警報発令<br />       14時41分 空襲警報発令<br />      14時46分 空襲開始<br />       15時48分 空襲警報解除<br />       15時52分 警戒警報解除<br />鶴見-安善間線路破壊計3箇所75m、枕木焼失計10本<br /> 復旧 20日0時00分<br /><br />     4月15日 第21爆撃機軍団 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計194機<br />      21時20分 警戒警報発令<br />       22時03分 空襲警報発令<br />      22時43分 空襲開始<br />                                1時10分 空襲警報解除<br />       1時30分 警戒警報解除<br />安善驛<br />      信号取扱所全焼<br />淺野-海芝浦間全区間壊滅<br /> 復旧<br /> 本線18日初電 <br /> 淺野-海芝浦間 昭和23年(1948年)2月9日附<br /><br />    7月25日 第20航空軍  第315航空隊 B29戦略爆撃機計75機<br />      21時40分 警戒警報発令<br />      22時00分 空襲警報発令<br />      22時23分 空襲開始<br />       0時56分 空襲警報解除<br />       1時20分 警戒警報解除<br />武蔵白石-濱川崎間、昭和、及び、扇町各驛構内、線路破壊計9箇所計790m 枕木計450本破損<br /> 復旧 27日初電<br />爆撃破壊に依り該線沿線の大多数工場が操業停止に追い込まれ工員動員解除が実施された事で通勤利用者が激減し、深刻な老朽化に依り使用困難だったモハ141 モハ142 計2両は26日附で使用停止となり、爆撃に依り使用不能と化した沿線驛本屋代用事務室使用となる。<br /><br />    8月 1日 第20航空軍 第315航空隊 B29戦略爆撃機計120機<br />      20時20分 警戒警報発令<br />      20時55分 空襲警報発令<br />      22時33分 空襲開始<br />       0時10分 空襲警報解除<br />       2時40分 警戒警報解除<br />辨天橋驛<br /> 驛本屋 全焼<br />安善驛<br /> 驛本屋 大破<br />淺野驛<br /> 驛本屋 大破<br />濱川崎驛<br /> 驛本屋以外該驛構内全施設全滅<br />扇町驛<br /> 驛本屋 大破<br />鶴見小野-扇町間線路破壊計22箇所計2342m、枕木損傷約計800本焼失<br />濱川崎-昭和間扇橋橋梁鈑桁1連、安善-濱安善間安善運河橋梁鈑桁12.19m×4連河中墜落<br /> 濱川崎-扇町間全区間壊滅<br />武蔵白石-大川間全区間壊滅<br /> 復旧<br /> 鶴見-濱川崎間 4日7時40分<br /> 濱川崎-扇町間   昭和20年(1945年)11月15日附<br /> 武蔵白石-大川間  昭和25年(1950年) 2月 9日附<br />鶴見線鶴見驛構内驛ビル大型爆弾直撃破壊被害に依り該駅4番線相当部分破壊の為に暫くの間、使用不能。<br />辨天橋電車區空襲被災車輌<br />   モハ 31  昭和 9年(1934年)12月 汽車會社製造東京支店 小破<br />   モハ111  昭和 5年(1930年) 8月 新潟鉄工所 小破  <br />   モハ120  昭和 5年(1930年) 8月 浅野造船所 爆弾直撃大破<br />    モハ131 昭和15年(1940年)12月 川崎車輌 小破        <br /> モハ311 大正15年(1926年) 3月31日 汽車會社製造東京支店 全焼<br />  鐵道省デハ33535→モハ1061(昭和8年(1933年)8月22日廃車)<br /> モハ317 大正11年(1922年) 6月 1日 汽車會社製造東京支店 全焼<br />  鐵道省デハ33521→モハ1045(昭和8年(1933年)8月22日廃車)<br />以上、鶴見臨港鐵道引継車<br />  モハ10160 大正13年(1924年)10月18日 汽車會社製造東京支店 全焼<br />  鐵道省デハユニ43856→デハ63260(昭和2年(1927年)7月下旬 大井工場 改造)→モハ10160 <br />  モハ10169 大正13年(1924年) 3月16日 日本車輌製造本店 全焼<br />  鐵道省デハ43239→デハ63269(昭和2年(1927年)9月中旬 大井工場 改造)→モハ10169<br />  である。<br /><br />旧鐵道省モハ1型出自とするモハ300型、及び、モハ400型は、戦災で焼失したモハ311、及び、モハ317を除く計7両内計5両は、終戦直後に原子爆弾で多数の電車が焼失し壊滅状態下に在った可部線横川-可部間用として広島鉄道局横川電車区に配置転換された。<br /><br /><br />該線内に於けるRTO設置駅は、<br /> 安善駅<br />  昭和21年(1946年) 4月15日~昭和23年(1948年) 3月24日      <br /> 浜川崎駅<br />  昭和20年(1945年)10月30日~昭和27年(1952年) 3月31日  <br /> 鶴見川口駅<br />  昭和26年(1951年) 3月 1日~昭和27年(1952年) 3月31日  <br />である。<br /><br /><br />東京鉄道局は昭和20年(1945年)11月15日附を以って該線全線を従来の直流600Vから750V昇圧を計画していたが、沿線復旧優先の為に該計画は中止された。<br /><br /><br />大東亜戦争終結と共に、該線沿線に存在する主要重化学工場は空襲に拠り壊滅打撃を被り、更に追い討ちを掛けるが如く、進駐軍GHQに依る生産禁止命令が実施されたが、軍事産業から平和産業に生産内容を転換させる事で辛うじて残存が認められ、終戦と共に朝のラッシュ時は閑古鳥が鳴いていた該線利用者が徐々にではあったが再び復調傾向が見られる様になった。<br /><br /><br />日本鋼管鶴見造船所は、淺野財閥が大正5年(1916年)4月創設した横濱造船所が嚆矢である。<br />然し、横濱市内に同名企業が存在していた事から、混同防止の為に同年12月1日附で淺野造船所鶴見製鋼所に名称変更され、その後、昭和15年(1940年)10月1日附で親会社たる日本鋼管に吸収合併され、日本鋼管鶴見造船所に改名された。<br />該造船所は帝國海軍受注が多く、我が国初の航空母艦 鳳翔(ほうしょう)を初め、大東亜戦争中は、多数の海防艦、駆潜艇、等々海軍艦艇を建造していたが、該戦争終結に依り帝國海軍発注が消滅した事で、該造船所は企業存続危機に直面する事態となった。<br />他方、運輸省鉄道総局に依る戦災復旧客車復興計画が発表されるや、該社は自社能力を以って当該車輌復興可能たるを上申請願するに至った。<br />該造船所に於ける鉄道車輌製造実績は、浅野造船所時代、昭和5年(1930年)8月に、該造船所兄弟會社だった鶴見臨港鐵道 モハ119、及び、モハ120電車、及び、横濱市営交通軌道線 500型単車、及び、1000型ボギー車の製造実績こそ存在したが、当時の昭和初期に於ける造船不況に加え、ワシントン軍縮條約発効に依る帝國海軍艦艇発注が激減し、半ば企業存立の為に専門外たる鉄道車輌製造に着手したものであり、それ以外に於いて、親会社たる日本鋼管原料輸送用貨車製造に限定され当時の鐵道省との関係は希薄だった。<br />その為、該社は運輸省鉄道総局に対し戦災被災車復旧を上申し、該結果、17m級電車計7両、20m級電車計1両、3軸ボギー式客車計4両復旧を受注した。<br /><br />該造船所に対する戦災復旧が決定に伴い、次々と当該被災車輌が該線浅野駅着で回送された。<br /><br />戦災復旧車群は2群に分類され、第Ⅰ次復旧車輌群は原車被災程度不良で、原則として、台車、台枠、床下機器再用に依り車体新製に依る完成復旧させる前提だったが、該造船所で当該発想は存在しなかったと見え、該社復旧車車輌群は、該社有り合せの鋼板を適宣切継し、且つ、資材不足を理由に表面砂噴も満足しせず半ば省略したのか、竣工時点で車体表面はデコボコで、漫画家 手塚治虫(てづか おさむ)(昭和3年(1928年)11月3日~平成元年(1989年)2月9日)に、ひょうたんツギ なるキャラクターが存在するが、該社第1次戦災復旧車群は、正に該キャラクターを想起させ、竣工時点で既に満身創痍状態だった。<br />一部造船所は船舶火災等々に依る焼損船舶復旧工事に対し、明治期より蓄積した技術を有しており、竣工造作は大雑把な印象が免れないにせよ、岡山玉島造船所に於いて復旧工事が施工された スハ32型 の如き、一見して戦災復旧車に見えない上出来映えを示した箇所も存在したが、当時の竣工写真を精査する限り、日本鋼管鶴見造船所に於いて復旧された戦災復旧車輌群は程度Cクラス被災車に対し、台枠、台車、床下機器を再用し車体新製完成させると云ふ発想は皆無だったと見え、該竣工車輌は復旧程度が低く使用現場に於ける評価も芳しく無く、狸の泥舟の如き状態で早くも復旧工事施工翌年には荷物車等々に改造車輌が発生した。<br /><br />【日本鋼管鶴見造船所】<br />オハ70 46<br />原車は、昭和20年(1945年)4月13日 池袋電車區構内で焼夷弾に依り被災全焼した 制御附電車 クハ65125(東イケ)、昭和21年(1946年)1月23日附で戦災廃車後、昭和23年(1948年)3月30日附で復旧した車輌である。<br />原車は、大正13年(1924年)7月7日附で日本車輌製造東京支店に於いて製造就役した 3等付随車 サハ33553 で、昭和3年(1928年)10月1日附車輌称号改正に拠り サハ26127 に改番され、昭和4年(1929年)4月中旬頃、大井工場に於いて運転台取付工事が施工され 制御附電車 クハ15013 に改造、昭和15年(1940年)10月上旬頃、大井工場に於いて鋼体化され 制御附電車 クハ65125 に再改造された。<br />その後、昭和25年(1950年)9月2日附で、西鹿児島工機部に於いて 荷物車 スニ73 27に改造。<br />更に、昭和39年(1964年)2月29日附で、名古屋工場に於いて 救援車 オエ70 49 に再改造。<br />廃車は、昭和48年(1973年)3月12日附。<br /><br />オハ70 47<br />原車は、昭和20年(1945年)5月29日 東海道本線新子安驛構内で焼夷弾に依り被災全焼した3等付随車 サハ39004(東カマ)、昭和21年(1946年)1月23日附で戦災廃車後、昭和23年(1948年)4月1日附で復旧した車輌である。<br />原車は、昭和7年(1932年)3月11日附で、汽車會社製造東京支店に於いて製造就役した。<br />その後、昭和25年(1950年)8月23日附で、西鹿児島工機部に於いて 郵便荷物車 スユニ73 28 に改造。<br />廃車は、昭和36年(1961年)2月15日附。<br /><br />オハ70 106<br />原車は、昭和20年(1945年)4月15日 蒲田電車區構内で焼夷弾に依り被災全焼した クハ65196(東カマ)、昭和21年(1946年)11月28日附で戦災廃車後、昭和24年(1949年)2月22日附で復旧した車輌である。<br />原車は、大正15年(1926年)1月26日附で日本車輌製造東京支店に於いて製造就役した 3等付随車 サハ33673 で、昭和3年(1928年)10月1日附車輌称号改正に拠り サハ26098 に改番され、昭和10年(1935年)2月中旬頃、大井工場に於いて運転台取付工事を施工され 制御附電車 クハ17097 に改造、昭和18年(1943年)7月6日附で、大井工機部に於いて鋼体化され 制御附電車 クハ65196 に再改造された。<br />その後、昭和25年(1950年)7月附で、松任工機部に於いて 荷物車 スニ73 7に改造。<br />更に、昭和39年(1964年)2月29日附で、名古屋工場に於いて 救援車 オエ70 40に再改造。<br />廃車は、昭和51年(1976年)6月28日附。<br /><br />オハ70 107<br />原車は、昭和20年(1945年)3月9日 東北本線秋葉原驛構内で焼夷弾に依り被災全焼した クハ65032(東モセ)、昭和21年(1946年)11月28日附で戦災廃車後、昭和24年(1949年)2月22日附で復旧した車輌である。<br />原車は、大正13年(1924年)9月30日附で日本車輌製造東京支店に於いて製造就役した 3等付随車 サハ33627 で、昭和3年(1928年)10月1日附車輌称号改正に拠り サハ26053 に改番され、昭和8年(1933年)3月下旬頃、大井工場に於いて運転台取付工事を施工され 制御附電車 クハ17052 に改造、昭和12年(1937年)8月21日附で、大井工場に於いて鋼体化され 制御附電車 クハ65032 に再改造された。<br />その後、昭和25年(1950年)3月30日附で、西鹿児島工機部に於いて 郵便荷物車 スユニ73 34に改造。<br />更に、昭和40年(1965年)3月30日附で、鹿児島工場に於いて 救援車 オエ70 59に再改造。<br />廃車は、昭和42年(1967年)6月28日附。<br /><br />オハ70 108<br />原車は、クハ65型戦災車と云う以外、車号、及び、被災地等々、全く不詳。<br />昭和24年(1949年)4月附で復旧した車輌である。<br />その後、昭和25年(1950年)8月附で、西鹿児島工機部に於いて 荷物車 スニ73 34 に改造。<br />更に、昭和40年(1965年)2月附で、鹿児島工場に於いて 救援車 オエ70 59 に再改造。<br />廃車は、昭和46年(1971年)11月24日附。<br /><br />オハ70 109<br />原車は、サハ39型戦災車と云う以外、車号、及び、被災地等々、全く不詳。<br />但し、原車使用台枠がUF112型たる事から、クハ65型戦災車輌公算大である。<br />該車輌原車は、クハ65型中~後期鋼体化改造車流用と推定される。<br />昭和24年(1949年)2月22日附で復旧した車輌である。<br />その後、昭和25年(1950年)7月附で、松任工機部に於いて 荷物車 スニ73 9 に改造。<br />更に、昭和37年(1962年)2月3日附で、松任工場に於いて 職用車 オヤ70 1 に再改造。<br />廃車は、昭和43年(1968年)6月3日附。<br /><br />オハ70 110<br />原車は、クハ65型戦災車と云う以外、車号、及び、被災地等々、全く不詳。<br />但し、原車使用台枠がUF25型たる事から、サハ39型戦災車輌公算大である。<br />昭和24年(1949年)4月附で復旧した車輌である、<br />その後、昭和25年(1950年)7月附で、松任工機部に於いて 荷物車 スニ73 10 に改造。<br />更に、昭和35年(1960年)附で、名古屋工場に於いて 救援車 オエ70 4 に再改造。<br />廃車は、昭和56年(1981年)8月3日附。<br /><br />オハ71 125<br />原車は、昭和20年(1945年)3月9日 東北本線秋葉原驛構内で焼夷弾に依り被災全焼した サハ78013(東カマ) である。<br />昭和21年(1946年)11月28日附で戦災廃車後、昭和24年(1949年)9月16日附で復旧した車輌である。<br />原車は、昭和6年(1931年)3月14日附で、川崎車輌に於いて製造就役した 23等附随車 サロハ46005、昭和12年(1937年)3月下旬に大井工場に於いて便所取付改造に依り サロハ66005 に改番され、昭和19年(1944年)11月24日附で、大井工機部に於いて3等4扉化改造され サハ78013 に再改番された。<br />その後、昭和25年(1950年)8月21日附で、西鹿児島工機部に於いて 荷物車 スニ74 12 に改造。<br />更に、昭和39年(1964年)3月31日附で、五稜郭工場に於いて 救援車 スエ71 56 に再改造。<br />廃車は、昭和45年(1970年)2月8日附。<br /><br />オハ77 9<br />原車は、昭和20年(1945年)8月6日 山陽本線廣島驛構内に於いて原子爆弾に依り被爆全焼した 荷物車 カニ37 1(東シナ)で、昭和21年(1946年)5月17日附で戦災廃車後、昭和22年(1947年)7月4日附で復旧した車輌である。<br />原車は、昭和2年(1927年)5月31日附で、川崎造船兵庫分工場に於いて製造された 荷物車 カニ49900 で、昭和3年(1928年)10月1日附車輌称号改正に拠り カニ39500 に改番、昭和16年(1941年)10月1日附車輌称号改正に拠り カニ37 1 に再改番された。<br />その後、昭和28年(1953年)6月1日附車輌称号改正に拠り オハ78 9に改番。<br />同年11月26日附で、長野工場に於いて 郵便荷物車 マユニ78 13に改造。<br />更に、昭和40年(1965年)1月31日附で、五稜郭工場に於いて 救援車 スエ78 9に再改造。<br />廃車は、昭和61年(1986年)6月14日附。<br /><br />オハ77 10<br />原車は、昭和20年(1945年)5月29日 東海道本線(高島線)高島驛構内に於いて焼夷弾に依り被災全焼した 食堂車 スシ38 5(東シナ)Ⅰで、昭和23年(1948年)5月17日附で戦災廃車後、昭和22年(1947年)12月3日附で復旧されたが、車体鋼体損傷程度大たる事から、車体腰部より上部は新製された。<br />原車は、昭和12年(1937年)12月28日附で、鐵道省大井工場で特別急行 富士 号専用として製造された 食堂車 スシ37854 で、昭和16年(1941年)10月1日附車輌称号改正に拠り スシ38 5 に改番された。<br />その後、昭和28年(1953年)6月1日附車輌称号改正に拠り オハ78 10 に改番。<br />更に、昭和29年(1954年)3月26日附で 長野工場に於いて 郵便荷物車 マユニ78 22 に改造。<br />廃車は、昭和41年(1966年)6月18日附。<br /><br />オハ77 25<br />原車は、昭和20年(1945年)7月31日 鹿児島本線鹿児島驛構内に於いて爆弾に依り大破した 3等車 マハ47 61(門カコ)で、昭和22年(1947年)3月26日附で戦災廃車後、同年12月27日附で復旧した車輌である。<br />原車は、昭和5年(1930年)6月28日附で、日本車両製造本店に於いて製造された 2等寝台車 マロネ37367 で、昭和16年(1941年)10月1日附車輌称号改正に拠り マロネ37 61 に改番、昭和19年(1944年)6月12日附で、西鹿児島工機部に於いて 3等車 マハ47 61 に改造された。<br />その後、昭和28年(1953年)10月1日附車輌称号改正に拠り オハ78 24 に改番。<br />昭和29年(1954年)1月25日附で、長野工場に於いて 郵便荷物車 マユニ78 28 に改造。<br />廃車は、昭和43年(1968年)1月25日附。<br /><br />オハ77 26<br />原車は、昭和20年(1945年)7月31日 鹿児島本線鹿児島驛構内に於いて爆弾に依り大破した 3等車 マハ47 193 (門カコ)で、昭和22年(1947年)3月26日附で戦災廃車後、同年12月27日附で復旧した車輌である。<br />原車は、、昭和2年(1927年)11月27日附で、川崎車輌に於いて製造された 食堂車 スシ37773 で、昭和16年(1941年)10月1日附車輌称号改正で マシ37 33 に改番、昭和19年(1944年)10月14日附で、西鹿児島工機部に於いて 3等車 マハ47 193 に改造された。<br />その後、昭和28年(1953年)10月1日附車輌称号改正に拠り オハ78 25 に改番。<br />同年12月附で、長野工場に於いて 郵便荷物車 マユニ78 27 に改造。<br />廃車は、昭和41年(1966年)8月2日附。<br /><br /><br />該線架線電圧は電化当時から直流600Vで750V昇圧計画中止後、東海道本線鶴見変電区から送電可能至近位置に存在する事から、該線電化区間全線が昭和23年(1948年)5月1日附で直流1500Vに昇圧された事で、該線使用車輌は昇圧を機に社型電車が一掃され全て国鉄型車輌に統一された。<br /><br />国有化後に於ける鶴見臨港鐵道引継電車は、<br /> モハ 31<br />  昭和23年(1948年)10月27日附 余剰廃車 茨城交通払下 モハ1<br /> モハ 32<br />  昭和23年(1948年)10月27日附 余剰廃車 茨城交通払下 モハ2<br /> モハ111<br />  昭和24年(1949年) 3月28日附 余剰廃車 上毛電鉄払下 クハ701<br /> モハ112<br />  昭和26年(1951年) 1月                    電装解除クハ化<br />  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5540(岡フチ) <br />  昭和29年(1954年) 3月31日附 老朽廃車 山形交通払下 モハ107<br /> モハ113<br />  昭和28年(1953年) 6月 1日附 モハ1500(広ヨワ)<br />  昭和30年(1955年) 1月 1日附 老朽廃車 静岡鉄道払下 モハ18<br /> モハ114<br />  昭和28年(1953年) 6月 1日附 モハ1501(広ヨワ)<br />  昭和30年(1955年) 6月 1日附 老朽廃車 上田丸子電鉄払下 モハ4255<br /> モハ115<br />  昭和24年(1949年) 3月28日附 余剰廃車 銚子電鉄払下 デハ301<br /> モハ116<br />  昭和28年(1953年) 6月 1日附 モハ1502(広ヨワ)<br />  昭和32年(1957年) 7月30日附 クエ9140救援車改造<br />  昭和34年(1959年)12月 1日附 クエ9400改番 <br />  昭和59年(1984年) 3月 4日附 老朽廃車解体(大アカ)<br /> モハ117<br />  昭和28年(1953年) 6月 1日附 モハ1503(広ヨワ)<br />  昭和30年(1955年) 6月 1日附 老朽廃車 静岡鉄道払下 モハ19<br /> モハ118<br />  昭和28年(1953年) 6月 1日附 モハ1504(広ヨワ)<br />  昭和32年(1957年) 7月10日附 老朽廃車 上田丸子電鉄払下 モハ4256<br /> モハ119<br />  昭和28年(1953年) 6月 1日附 モハ1505(広ヨワ)<br />  昭和30年(1955年) 3月 1日附 老朽廃車 静岡鉄道払下 モハ20<br /> モハ120<br />  昭和24年(1949年) 3月28日附 戦災廃車 北恵那電気鉄道払下 デ8<br /> モハ131<br />  昭和28年(1953年) 6月 1日附 モハ1510(広ヨワ)<br />  昭和35年(1960年) 5月31日附 クエ9423救援車改造<br />  昭和57年(1982年) 6月26日附 老朽廃車解体(天ヒネ)<br /> モハ141<br />  昭和23年(1948年)10月27日附 老朽廃車 日立電鉄払下 クハ141<br /> モハ142<br />  昭和23年(1948年)10月27日附 老朽廃車 日立電鉄払下 モハ101 昭和46年(1971年)日本国有鉄鉄道無償返還 ナデ6141復元保存<br /> モハ211(附随車代用)<br />  昭和27年(1952年) 6月 5日附 制御車化<br />  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5500(広ヨワ)<br />  昭和36年(1961年) 3月31日附 老朽廃車解体(東シナ)<br /> モハ212(附随車代用)<br />  昭和25年(1950年) 7月20日附 制御車化<br />  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5501(広ヨワ)<br />  昭和41年(1966年) 6月16日附 老朽廃車解体(金トヤ)<br /> モハ213(附随車代用)<br />  昭和25年(1950年)10月24日附 制御車化<br />  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5502(広ヨワ)<br />  昭和40年(1965年)11月 4日附 老朽廃車解体(金トヤ)<br /> モハ221(制御車代用)<br />  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5511(広ヨワ)<br />  昭和31年(1956年) 3月 1日附 老朽廃車解体<br /> モハ222(制御車代用)<br />  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5512(広ヨワ)<br />  昭和31年(1956年) 3月 1日附 老朽廃車解体<br /> クハ251<br />  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5550(広ヨワ)<br />  昭和34年(1959年)12月22日附 クハ5504(中ヨワ)改番<br />  昭和38年(1963年)10月21日附 老朽廃車解体<br /> クハ252<br />  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5551(広ヨワ)<br />  昭和34年(1959年)12月22日附 クハ5505(中ヨワ)改番<br />  昭和38年(1963年)10月21日附 老朽廃車解体<br /> クハ253<br />  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5552(広ヨワ)<br />  昭和34年(1959年)12月22日附 クハ5506(金トヤ)改番<br />  昭和41年(1966年) 6月16日附 老朽廃車解体<br /> クハ261<br />  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5520(広ヨワ)<br />  昭和32年(1957年) 7月30日附 クエ9130救援車改造<br />  昭和34年(1959年)12月21日附 クエ9420改番 <br />  昭和54年(1979年) 3月 5日附 老朽廃車解体(西ミツ)<br /> クハ262<br />  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5521(広ヨワ)<br />  昭和32年(1957年)12月 3日附 クエ9131救援車改造<br />  昭和34年(1959年)12月21日附 クエ9400改番 <br />  昭和59年(1984年) 5月25日附 老朽廃車解体(大タツ)<br /> モハ311<br />  昭和21年(1946年)11月28日附 戦災廃車 上信電気鉄道払下<br /> モハ312<br />  昭和25年(1950年) 2月附    老朽廃車 東京横浜製作所払下 モニ101<br /> モハ313<br />  昭和27年(1952年) 4月23日附 モハ70802改造(書類名義)<br /> モハ314<br />  昭和26年(1951年) 3月19日附 事故廃車解体(広ヨワ)<br /> モハ315<br />  昭和26年(1951年) 8月17日附 老朽廃車 西武鉄道払下 モハ503<br /> モハ316<br />  昭和26年(1951年) 8月17日附 老朽廃車 西日本鉄道払下 ク59<br /> モハ317<br />  昭和21年(1946年)11月28日附 戦災廃車解体 <br /> モハ318<br />  昭和26年(1951年) 8月17日附 老朽廃車 西日本鉄道払下 ク60<br /> モハ319<br />  昭和26年(1951年)10月19日附 老朽廃車 熊本電気鉄道払下 モハ202<br /> モハ331<br />  昭和28年(1953年) 6月 1日附 モハ1520(中ヨワ)<br />  昭和34年(1959年)11月27日附 老朽廃車解体<br /> モハ332<br />  昭和28年(1953年) 6月 1日附 モハ1521(岡フチ)<br />  昭和31年(1956年) 3月 1日附 老朽廃車解体<br /> モハ333<br />  昭和28年(1953年) 6月 1日附 モハ1522(岡フチ)<br />  昭和31年(1956年) 5月20日附 老朽廃車解体<br /> クハ351<br />  昭和24年(1949年) 3月28日附 事故廃車解体(東テシ)<br /> クハ352<br />  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5530(広ヨワ)<br />  昭和31年(1956年) 3月 1日附 老朽廃車解体<br /> クハ353<br />  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5531(広ヨワ)<br />  昭和34年(1959年)12月22日附 クハ5503(金トヤ)改番 <br />  昭和41年(1966年) 3月14日附 老朽廃車解体<br /> サハ361<br />  昭和27年(1952年) 5月 6日附 ナヤ16871客車化<br />  昭和28年(1953年) 6月 1日附 ナエ17121救援車 (金イト)<br /><br />以下、当該旅行記写真第1号に続く

鶴見線歴史的痕跡探訪記

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2023/02/06 - 2023/02/06

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

現在の、東日本旅客鉄道 鶴見(つるみ)線は、当初、鶴見臨港(つるみりんこう)鐵道と称した民営鉄道に依り開業した路線である。


鶴見線開設史は明治末期に遡る。

淺野財閥創立者兼初代社長 淺野総一郎(あさの そういちろう)翁(嘉永元年(1848年)4月13日~昭和5年(1930年)11月9日)は、日露(にちろ)戦争(明治37年(1904年)2月8日~明治38年(1905年)9月5日)終結後に於ける我が国の主要産業国産化推進の為に、重化学工業実態調査を目的として明治40年(1907年)に欧米調査視察渡航したが、淺野翁は主訪問国たる米国に於いて重化学工業施設は例外無く内陸部に存在せず、大型船舶入港可能な港湾施設と一体化し、交通利便な大都市部近郊の海岸地帯に選定所在する事実を知る。
淺野翁は帰国後、当時の我が国に於いて当該地製鐡所設置可能地は、京濱間、若しくは、阪神間程度しか成立し得ない事を確信するに至った。

当時の鶴見地区は橘樹郡鶴見町に属し、鶴見川河口に海苔ヒビ連なる遠浅な浜辺は当時の横濱市民には久良木郡杉田町(現 横浜市磯子区杉田)と共に近隣海水浴場として親しまれた存在だったが、それ故に該地域埋立に依る土地造成は可能と判断された。

現在の京浜(けいひん)工業地帯中心部たる鶴見地区埋立工事は明治41年(1908年)に鶴見埋立組合が設立され、埋立浚渫工事を主業務として開始し、大正3年(1914年)に鶴見埋立組合は鶴見埋築株式會社に改組され淺野翁が初代社長に就任した。

日本鋼管製鐡所は明治45年(1912年)6月8日附を以って創立し、大正3年(1914年)に日本鋼管川崎工場が操業開始した。


該工業地帯への鐵道敷設は、内閣鐵道院に依り大正7年(1918年)5月1日附で川崎-濱川崎間4.0Km設置が嚆矢だったが、該地域埋立が進行拡大し工場設置稼動に依る原材料完成製品輸送の為に、濱川崎驛を起点に埋立地各地連絡の為の培養鐵道設置要求が発生する。

鶴見臨港鐵道會社起業は大正13年(1924年)2月12日附で神奈川縣庁より監督官庁たる内務省経由で 第23代内閣総理大臣 清浦圭吾(きようら けいご)(嘉永3年(1850年)3月27日~昭和17年(1942年)11月5日)内閣(大正13年(1924年)1月7日~同年6月11日組閣) 第4代鐵道大臣 小松謙次郎(こまつ けんじろう)(文久3年(1864年)1月2日~昭和7年(1942年)10月15日)(大正13年(1924年)1月7日~同年6月11日在任)宛に鐵道建設請願文書提出が発端である。

該社創設発起人に、
淺野セメント社長
  淺野総一郎(あさの そういちろう)(嘉永元年(1848年)4月13日~昭和5年(1930年)11月9日)
安田銀行頭取
  安田善三郎Ⅱ(やすだ ぜんざぶろう)(明治3年(1870年)11月3日~昭和5年(1930年)1月9日)
王子製紙社長
  大川平三郎(おおかわ へいざぶろう)(萬延元年(1860年)12月7日~昭和11年(1936年)12月30日)
日本鋼管社長
  白石元治郎(しろいし もとじろう)(慶應3年(1867年)7月21日~昭和20年(1945年)12月24日)淺野総一郎次女娘婿
日清製粉社長
  正田貞一郎(しょうだ ていいちろう)(明治3年(1870年)3月29日~昭和36年(1961年)11月9日)美智子上皇后祖父
等々が名を連ねた。

該社建設免許状は4月26日附で交付され7月22日附で 鶴見臨港鐵道 が設立された。
敷設工事は、翌大正14年(1925年)3月10日に認可取得した事から直ちに着工し、大正15年(1926年)3月10日に、濱川崎-辨天橋間3.5Km、石油支線安善町-石油(現 濱安善)間1.1Km、及び、大川支線安善町-大川間1.4Kmが開通する。
該区間途中停車場として、武蔵白石(むさししろいし)Ⅰ驛、安善町(あんぜんちょう)(現 安善)驛、淺野(あさの)驛が設置された。
元来、海浜埋立地故に地番地名等々存在する筈も無く、当該埋立地に対し新地番と共に該社主要株主名を以って適宣地名を付与し、当該驛名も地名に合せ命名された。
因みに、大川に至る支線建設先行理由として、当時、該線大川驛隣接の日清製粉鶴見工場が関税率改正後に於ける高率課税を忌避する為に、該課税前に米國より小麦粉を大量輸入した結果、該滞貨量が数万トンに達し該過剰滞貨払拭の為に該区間設置を促した。

該社開業時に用意された機関車は、
 300型Ⅰ
   301  
   302
独エーレンシュタイン・ウント・コッペル(ORENSTEIN UND KOPPEL GamH)社 大正13年(1924年)2月製造。
計2両である。
我が国の弱小中小私鉄路線対応用に設計製造された小型飽和式蒸気機関車で、単純構造故に横莊鐵道、五日市鐵道他全国各地に於いて使用された。
因みに、301号機は国有化後、昭和22年(1947年)廃車後は三井埠頭川崎倉庫線に払下使用され、紆余曲折を経て山梨県河口湖町に於いて現存する。


橘樹郡鶴見町は昭和2年(1927年)4月1日附で横濱市に編入され、合併後は横濱市鶴見町と称したが、同年10月1日附で該地域をして鶴見區が成立する。


該社は、昭和2年(1927年)8月4日附で濱川崎-大森間延長を申請し該申請は昭和4年(1929年)4月6日附で建設許可を得た。
更に該社は昭和3年(1928年)に鶴見-矢向間延長を申請した。


以下、該社旅客営業開始以前、
 昭和 3年(1928年) 
     8月18日 濱川崎-扇町間延長
 昭和 4年(1929年)
     3月14日 武蔵白石Ⅰ-濱川崎間 渡田(わたりだ)驛開設
 昭和 5年(1930年)
     1月28日 武蔵白石Ⅰ驛貨物取扱業務僅少を理由に営業廃止

増加する貨物輸送に対応の為に、昭和4年(1929年)に小型蒸気機関車を増備した。
 303型Ⅱ
   303 川崎車輌 昭和4年(1929年)製造
計1両である。


該社は開通当時こそ貨物専用鐵道として開設されたが、沿線工場が立地するに従い、通勤者用に旅客扱開始を希望する声が高くなった事から、昭和5年(1930年)10月28日附で鶴見Ⅰ-辨天橋間開通と同時に全線直流600V電化され電車に依る旅客営業扱を開始し辨天橋-濱川崎間は複線化された。
旅客営業開始と共に、安善町驛を除く既成驛に於いて旅客営業併用開始となり、新規旅客取扱専用驛として、鶴見(つるみ)Ⅰ驛、本山(ほんざん)驛、國道(こくどう)驛が開業した。
鶴見Ⅲ-辯天橋間2.4km内1.3kmは高架橋設置に決定し 阿部美樹志(あべ みきし)(明治18年(1883年)5月4日~昭和40年(1965年)2月20日)に設計依頼した。
旅客営業開始の為に、鶴見Ⅰ-辨天橋間一部分区間は連続高架コンクリート・ラーメン橋単版桁スラブ構造を採用し、鶴見第1~6高架橋は単版桁式で構成され、京浜電気鐵道(現 京急電鉄本線)、及び、鐵道省線跨線の為に 下路平行弦ワーレントラス構桁(64.9m) × 1連(横河橋梁製作)が架橋された。

阿部は宮城縣一関町(現 一関市)出身で、札幌農學校土木科(現 北海道大学工学部)卒業後、内閣鐵道院に就職し明治44年(1911年)度農商務省実習生として政府派遣に依り米イリノイ大學(UNIVERSITY OF ILLIOIS)に留学しコンクリート土木研究で博士号を取得。
帰国後、中央本線呉服橋-萬世橋間高架橋設計に従事。
阿部は大正9年(1920年)に内閣鐵道院が鐵道省昇格時に退官独立し設計事務所を設立し、阪急ビルジング、東京宝塚劇場、中央大学図書館、等々設計を担当した。
他方、淺野財閥との関係から昭和5年(1930年)には南武鐵道(現 南武線)尻手高架ゲルバービームスラブ式構造橋設計を担当した。

該社電化時に用意された電車は、
  モハ100型
  モハ101 ~ モハ108 新潟鐡工  昭和5年(1930年)8月竣工
  モハ109 ~ モハ110 淺野造船所 昭和5年(1930年)8月竣工
計10両である。

但し、鐵道省は既存の總持寺-川崎大師間9.5Kmを経営する京濱電気鐵道(現 京浜急行電鉄)子会社 海岸電気軌道線と並行競合する事から、鶴見臨港鐵道線旅客営業開始に伴い経営圧迫の可能性在りとして、海岸電気軌道が合併買収に関する申出を受けた際は鶴見臨港鐵道は此れを拒否出来ずとの付帯條件を挿入した事から、海岸電気軌道は該免許交付条件を根拠に該社に対し買収を申出て、昭和5年(1930年)3月29日附で鶴見臨港鐵道軌道線となったが、利用者低迷が継続し昭和12年(1939年)12月1日で全線廃止され跡地は産業道路拡張用地に利用された。
該社軌道線車輌で木造車は全車廃車されたが、半鋼製車輌モハ20型2両、モハ30型は台車を狭軌用差替、扉ステップ撤去、簡易自動連結器取付工事を施工し鉄道線に転用された。
該社は、軌道線利用者救済を理由に鶴見-川崎大師間に旅客自動車線営業を申請し設定されたのが鶴見川崎臨港鐵道バス、即ち現在の川崎鶴見臨港バスである。
因みに、昭和19年(1944年)12月1日附で東京急行電鐵(現 京浜急行電鉄)大師線川崎大師-大師橋間延長区間は該社廃止線跡地を利用して建設された。


以下、該社旅客営業開始以降、
 昭和 6年(1931年) 
     2月 1日 濱川崎-扇町間 海川崎(うみかわさき)驛開設
     3月20日 海川崎-扇町間 昭和(しょうわ)驛開設
     5月30日 海川崎驛が 若尾(わかお)驛に驛名変更
     6月14日 鶴見Ⅰ-鶴見Ⅱ間0.1Km延長
     7月26日 武蔵白石Ⅱ驛が旅客驛として復活
     8月15日 武蔵白石Ⅱ-渡田間 海水浴前(かいすいよくまえ)臨時乗降場開設
  昭和 9年(1934年)
    12月 8日 淺野-安善町間 安善通(あんぜんどおり)驛開設
           安善通(現 安善)-石油(現 濱安善)間 安善橋(あんぜんばし)驛開設
       23日 鶴見Ⅱ-鶴見Ⅲ間0.1Km再延長
住宅密集地故に土地収用で難航した鶴見Ⅲ驛設置は、駅ビル建設を以て昭和9年(1934年)12月23日附に完成し、該社線起点が創業以来の濱川崎驛から鶴見Ⅲ驛に変更された。
 昭和10年(1935年)
    12月10日 -辯天橋-鶴見川口間1.2Km開通
該区間は開業から路線廃止まで一貫して貨物専用線だった。
  昭和11年(1936年)
    12月 8日 國道-辨天橋間 工業學校前(こうぎょうがっこうまえ)(現 鶴見小野)驛開設
 昭和13年(1938年)
    12月25日 石油支線安善通(現 安善)-石油(現 濱安善)間旅客営業廃止 安善橋驛廃止
 昭和15年(1940年)
    11月 1日 新芝浦-海芝浦間0.8Km延長
 昭和16年(1941年)
     6月25日 海水浴前臨時停車場 正式廃止
該驛は該地域工場林立に依る排汚水増大に伴ふ海水汚濁に依り海水浴に不適と判断され、昭和12年(1937年)夏季以降は不開設。
 昭和17年(1942年)
    12月11日 本山驛廃止


その後に於ける蒸気機関車増備は、
 303型Ⅲ
   304 川崎車輌 昭和13年(1938年)製造
 500型
  501 英キットソン(KITSON & Co.Ltd)社 明治29年(1896年)製造 旧鐵道省1800型蒸気機関車1811 北越鐵道発注機
  502 英デュープス(DUBS & Co.Ltd)社 明治14年(1881年)製造 旧鐵道省1850型蒸気機関車1855 日本鐵道発注機
 700型
  704 英ヴァルカン・ファンドリー(VALCAN FANDRY & Co.Ltd)社 明治18年(1887年)製造 旧鐵道省700型蒸気機関車704 山陽鐵道発注機
計4両である。

鐵道省側直通貨物列車には品川機関區濱川崎支區配置C12型蒸気機関車が乗務員ごと該社線に乗入れた。


淺野-新芝浦間0.9Kmは、鶴見臨港鐵道開設では無く芝浦製作所専用線として開設された区間である。
明治期に東京芝浦に於いて創業した芝浦製作所は土地狭隘余地無き事から、該社工場移転を決定し数箇所の候補地から鶴見末廣造成地区が選定され、該工場は大正14年(1925年)に第Ⅰ期工事が竣工し、翌大正15年(1926年)3月10日附で淺野-新芝浦間0.9Kmが開設された。
同時に該区間は独立送電に依り電化され直流600V/750V/1200V/1500V対応も可能で該社製造電気機関車試運転に活用された。
その後、昭和5年(1930年)10月28日附で該工場関係者輸送専用の為に、目黒蒲田電気鐵道(現 東急電鉄多摩川線・目黒線)所有 モハ35(明治44年(1911年)3月 内閣鐵道院新橋工場製)、及び、モハ41(大正3年(1914年)3月22日 内閣鐵道院新橋工場製)2両の譲渡を受け使用され、途中停車場として 末廣(すえひろ)驛が開設されたが該驛は乗降客僅少に依り昭和10年(1935年)3月4日附で廃止された。
該社専用線は、昭和7年(1932年)6月10日附で淺野-新芝浦間0.9Kmは、鶴見臨港鐵道に編入され電車2両は、モハ35→モハ201、モハ41→モハ202に改番された。

その後、該社工場第Ⅲ期拡張工事竣工に依り、昭和15年(1940年)11月1日附を以って新芝浦-海芝浦間0.8Kmが延長された、


石油支線安善通(現 安善)-石油(現 濱安善)間1.1Kmは、旅客利用者が僅少だった事で、早くも昭和13年(1938年)12月25日附で旅客営業廃止と同時に電化諸設備は撤去され貨物専用線となり、更に昭和61年(1986年)11月1日附で路線廃止されたが線路自体は専用線として現存する。


中国北京郊外に存在する盧溝橋(ろこうきょう)に於いて、中国共産党員の謀略工作に依り、我が国との間に 日華(にっか)事変(昭和12年(1937年)7月7日~昭和16年(1941年)12月7日)が勃発し、我が国は平時体制から漸次戦時総動員体制へと移行したが、我が国に於ける主要重化学工業地帯である該地域に於いて、政府、及び、陸海軍部から鰻登り的生産向上要請を受け、該鐵道沿線に所在する諸工場は生産体制強化から、早くも工員輸送力慢性的不足が深刻現実となった。

該鐵道では、始発鶴見驛では5時02分発辨天橋行始発電車から午前9時前後発まで3~5分間隔で運転していたが、輸送力不足の為に電車乗車行列に最低1時間30分以上並ばなければ乗車も叶わず、行列は該驛構外に拡張し、該社では鐵道省や南武鐵道(現 東日本旅客鉄道南武線)から次々とモハ1型電車の譲渡を受け購入投入した。
 モハ301 ← モハ1061(昭和8年(1933年)8月22日附廃車) ← デハ33535(大正15年(1926年)3月31日附 汽車會社製造東京支店)
 モハ302 ← モハ1062(昭和8年(1933年)8月22日附廃車) ← デハ33536(大正15年(1926年)3月31日附 汽車會社製造東京支店)
 モハ401 ← 南武鐵道401 ← モハ1060(昭和8年(1933年)8月22日附廃車) ← デハ33513(大正15年(1926年)3月31日附 汽車會社製造東京支店)
 モハ402 ← 南武鐵道402 ← モハ1064(昭和8年(1933年)8月22日附廃車) ← デハ33538(大正15年(1926年)3月31日附 汽車會社製造東京支店)
 モハ403 ← モハ1044(昭和11年(1936年)9月8日附廃車) ← デハ33520(大正11年(1922年)3月31日附 汽車會社製造東京支店)
 モハ404 ← モハ1046(昭和11年(1936年)9月8日附廃車) ← デハ33522(大正11年(1922年)6月1日附 汽車會社製造東京支店)
 モハ405 ← モハ1045(昭和12年(1937年)12月11日附廃車) ← デハ33521(大正11年(1922年)6月1日附 汽車會社製造東京支店)
 モハ406 ← モハ1051(昭和12年(1937年)12月11日附廃車) ← デハ33527(大正11年(1922年)8月1日附 汽車會社製造東京支店)
 モハ407 ← モハ1053(昭和12年(1937年)12月11日附廃車) ← デハ33529(大正11年(1922年)8月5日附 汽車會社製造東京支店)

昭和13年(1938年)11月に川崎車輌に於いて17m3扉車 モハ500型501~503計3両、クハ600型601~603計3両が製造された。
当時の関東所在の鐵道車輌製造企業に 汽車會社製造東京支店、日本車輌製造東京支店2大企業が実在するにも拘らず遠隔地たる神戸所在の川崎車輌に製造依頼した関係として、当時の淺野財閥と川崎車輌親会社たる古河財閥との親密関係が挙げられる。
該社は電車新製導入して対処したが、輸送需要から見れば既に焼石に水状態であり、昭和17年(1942年)10月には新潟鐵工所に於いて我が国初の4扉電車 モハ221型計2両、クハ261型計2両 を製造導入したが、該竣工車輌は両運転台式構造だったにも拘らず、戦時期故に無電装で運転設備も省略せざるを得ず、買収後も付随車 サハ 状態のまま使用を余儀無くさせられ、該路線昇圧時に広島鉄道局横川電車区に移動し、暫くしてモハ221、及び、クハ261は昭和27年(1952年)3月28日附、モハ222、及び、クハ262は同年2月16日附で幡生工場に於いて運転機器が設置され、昭和28年(1953年)6月1日附形式称号改定に拠り、モハ221型はクハ5510型、クハ261型はクハ5520型と付番され広島県内可部線に於いて使用されたが、田園地帯の沿線需要には程遠い状態だったにも拘らず丁寧にも4扉全部が自動開閉作動した。
既に、広島電気鐵道市内線に於いて601型車輌、及び、被爆電車として現在も活躍する651型車輌が存在する事から、広島市民にとって別段3扉車輌は目新しい存在でも無かったが、4扉車輌は寧ろ奇異なる存在であり、然も、地方路線に於いて17m4扉車の存在は逆に座席数と窓数減少に伴う着席可能率低下と扇風機未設置も重なり、夏季通風力低下の問題点が浮き彫りとなり、故に、広島に於ける該車に対する利用者の評判は甚だ芳しく無いものだったものと推定される。
その後、クハ5510型2両は昭和31年(1956年)3月1日附で廃車、クハ5520型クハ5520は昭和32年(1957年)12月21日附で大井工場に於いて救援車クエ9130型クエ9130に改造、クエ5521は同年12月3日附で吹田工場に於いて救援車クエ9131に改造され、昭和34年(1959年)6月1日附車輌称号改正に拠り クエ9130→クエ9420、クエ9131→クエ9400に改番された。
三鷹、及び、高槻に配置後、三鷹電車区配置 クエ9420 は昭和54年(1979年)2月5日附、高槻電車区配置 クエ9400 は昭和59年(1984年)5月25日附で廃車後解体され数奇な一生を終えた。


本山驛営業廃止に鑑み、鶴見臨港鐵道が鐵道省に対し営業許可申請書類を提出後、廃止許可を得るまで約8箇月間をも要した。
即ち、昭和17年(1942年)5月4日附廃止許可申請に於いて、
当社本山驛別紙理由ニ依リ旅客運輸営業ヲ廃止仕リ度候間御許可被成下度此段申請候也
と記載され、該別紙に、
本山驛利用客数ハ最近一ヶ年間(自15.121、至16.1130)352455人1日平均966人ニ過キス然ルニ其ノ驛隣接ノ鶴見、國道両驛ニ於イテハ16.285975人一日平均乗降44619人前者ニ対シ後者利用客ハ漸増ノ一途ヲ辿リ今後益々輻輳ノ趨勢ニ有之利用率尤モ少ナキ一停車場ノ停車ハ従冊通勤時ニ於ケル電車運転ヲ阻害シ産業戦士ノ通勤ニ支障ヲ与フル虞アルヲ以テ之カ円滑ナル運転ヲ期スル為メ廃止センムトスルモノナリ。右廃止後ニ於ケル現在利用客ハ鶴見驛又ハ國道驛ニ二分シ徒歩ニ依ルモ鶴見驛500米、國道驛400米ニシテ徒歩時分孰レモ僅カ6分ニシテ隣接驛ニ到達スル為メ之カ不便些少ナリ尚本山驛ハ貴省トノ旅客並手荷物ノ連絡運輸ノ取扱ハ致サス当社各驛発着旅客ノミニ有之候
と記載され、既に朝夕の京浜工業地帯所在工場工員輸送、即ち、当時の産業戦士輸送に支障する程の飽和殺人的ラッシュ状態では該驛乗車は勿論不可能に均しく、停車時間が無駄とされた事が廃止理由だったが、監督官庁たる鐵道省としては一定利用者を保持する該驛廃止に対し、廃止理由の明白理由開示を求め7月15日に該社に対し照会した。
該照会に対し、8月11日附で該社は鐵道省宛理由書を再提出した。
即ち、
鶴見扇町間ハ昭和五年開業当時表定速度時分十六分ヲ以テ開業シタリ。
当時中間驛ハ本山、國道、辨天橋、浅野、安善通、渡田、濱川崎ノ七ヶ所ニシテ驛間平均巨(ママ)離約1キロニシテ運転時間分ニ餘裕アリ早着スルヲ常トシタリ。
爾後沿線開発ノ必要上昭和、若尾、武蔵白石、工業高校ノ四驛増設セレレ現在ニ於テハ平均巨(ママ)離六四〇メートルトナレリ、右ノ如ク停車場増設セラルタルヲ以テ運転時分次第ニ窮屈トナリ現在ニテハ朝夕混雑時ノ如ク乗降客多キ場合ニハ遅着スル列車次第ニ多キヲ加ヘルニ至リタリ故ニ運転時分ノ確実ヲ期スルニハ表定運転時分ヲ延長スルカ又ハ利用率悪シキ停車場ヲ整理スルカノ必要アリ。
本山及若尾ノ両驛ハ利用率並増加率モ最モ低ク已ムヲ得サル場合ニハ此ノ二驛ヲ廃止ノ候補トナシ得ルモノナルカ若尾ノ通過列車ハ扇町行、武蔵白石行、芝浦急行ノ各列車カ各八分間隔ニテ通過スルヲ以テ運転間隔ハ益々二分乃至三分トナリ本山停車ノ有無カ運転ニ及ホス影響ハ甚大ナリ。
故ニ先ツ本山驛ヲ廃止スルコトハ運転ノ正確ヲ期スルニ相当ノ効果アルモノト期待セラルルモノナリ。
開業ノ際当驛ヲ設置シタルハ次ノ二ノ理由ニヨルモノナリ。
イ)東寺尾東台方面住宅ヨリ当社沿線工場ヘノ通勤客ノ便利
ロ)京濱電鉄トノ連絡
総持寺参拝客ノ当鐵道利用率ハ至ツテ僅少ナルヘキハ当初ヨリ予期シタル所ニシテ開業後成績ヨリ見ルモ総持寺参拝客ノ利用率ハ極メテ少シ
此処に鐵道省側も黙視せず現地実情調査が実施され、10月9日附で効率的運転上已む無きと判断する進達が東京鐵道局から鐵道省監督局に対し提出され審議の結果、12月11日附で廃止許可を得た。
因みに、一部文献に於いて該駅が本山前、總持寺に駅名改称されたが如き記述を散見するが事実無根である。


鐵道省は国策に伴ふ改正陸運統制令を根拠に、昭和17年(1942年)12月に政府に拠る鶴見臨港鐵道買収を指令し、翌昭和18年(1943年)3月6日公布 法律第24号に拠り買収決定、6月28日附 鐵道省告示第159号に拠り7月1日附実施 鐵道省鶴見線 となった。
該社は国有化に対し、貨車配車が日々困難な状態へと悪化していた事で、寧ろ国有化を歓迎する傾向が強かった。
政府買収価格は計16896808円と算出され、政府戦時公債17365500円が交付されたが、該公債は買収日より10年間売却禁止だった事から元所有者は期待された株式売買に依る利益取得はならず、大東亜戦争後に於ける我が国の超インフレーション現象の為に期待された売却可能期日到来時には該公債は唯の紙方化していた。

政府買収時に、
安善町、渡田、及び、若尾各驛は廃止併合。
工業學校前 → 鶴見小野(つるみおの)驛
安善通   → 安善(あんぜん)驛
石油    → 濱安善(はまあんぜん)驛
に改名された。
川口支線起点は辯天橋から淺野に変更。
電車庫は淺野驛構内に存在したが政府買収時に辯天橋驛構内に新たに辯天橋電車區(東テシ)が開設された。

政府買収直前たる昭和18年(1943年)3月に、淺野財閥系鐵道会社たる鶴見臨港鐵道、南武鐵道、青梅鐵道3社に依る対等合同合併に関する合意文書が作成調印され、該合併時期は翌昭和19年(1944年)2月に決定されたが現実には国有化が先行した。
若し、該当時に該鐵道が政府非買収対象時は東京急行電鐵(現 東急電鉄)に依る国策に基く企業統制合併が実施され、更に、大東亜戦争後に於ける該社分社化時に該線は京浜急行電鉄が継承し京浜急行電鉄鶴見線として現存したものと思われる。
然し、当該買収対象は鐵道線に限定、鐵道に無関係と判断された不動産事業や自動車線事業は買収対象外となる。

戦時買収に於ける同様例として、岡山県内に於いて交通網を展開していた中國鐵道は鉄道線買収後は津山線、及び、吉備線となったが、自動車線事業は買収外とされた事から、改めて、中鉄バスとして存続するが、若し、該時点に於いて自動車事業をも買収対象としていれば、神奈川県内東北部は東日本旅客鉄道系列会社バス、岡山県南部は西日本旅客鉄道系列会社バスが、ツバメのロゴマークも誇らしげに、ほぼ地域独占事業となっていたものと思わされる。
但し、該社自動車線事業一部は昭和29年(1954年)に京浜急行電鉄に売却された。

買収対象引継車輌は、蒸気機関車計6両、電車計42両、貨車計211両で、該社線は直流600V電化されていたにも拘らず各驛側線未電化の為に該社線開業当初から電気機関車を所有せず、他買収會社線数社とは状況が異っていたが、特に電車引継対象車輌数では、南海電気鐵道山手線(旧阪和電気鐵道)買収車計75両に次ぐ車輌数だった。

政府買収に伴い一部車輌に同年5月1日附で政府買収された 宇部鐵道引継車輌と同一形式が存在した事から、此れを回避の為に形式変更が実施された。
蒸気機関車
   301 → 1190
   302 → 1191
   303 → 1765
   304 → 1770
   501 → 1811
   502 → 1855
蒸気機関車に就いては自社発注機関車に対し鐵道省正式形式番号が付与された以外は全車鐵道省時代の旧型式番号に復帰した。
電車
 モハ 21 → モハ 31
 モハ 22 → モハ 32
 モハ101 → モハ111
 モハ102 → モハ112
 モハ103 → モハ113
 モハ104 → モハ114
 モハ105 → モハ115
 モハ106 → モハ116
 モハ107 → モハ117
 モハ108 → モハ118
 モハ109 → モハ119
 モハ110 → モハ120
 モハ201 → モハ141
 モハ202 → モハ142
 モハ301 → モハ311
 モハ302 → モハ312
 モハ401 → モハ313
 モハ402 → モハ314
 モハ403 → モハ315
 モハ404 → モハ316
 モハ405 → モハ317
 モハ406 → モハ318
 モハ407 → モハ319
 モハ501 → モハ331
 モハ502 → モハ332
 モハ503 → モハ333
 クハ601 → クハ351
 クハ602 → クハ352
 クハ603 → クハ353
サハ19016 → サハ361

該社線買収と同時に、
 モハ10151 + サハ19011 + モハ10166
 モハ10169 + サハ19009 + モハ10168
 モハ10176 + モハ10160
が転入。

鶴見-矢向間延長は敷設工事免許失効に拠り実現を見なかったが、該社取得済所有地は政府買収を免れた。


大東亜戦争末期、米空軍は我が国の戦争遂行上、重化学工業地帯に於ける生産工場群を根絶破壊すべく空襲を実行し、鶴見川崎臨港地区に就いては、
昭和20年(1945年)
    2月19日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 第313航空隊 B29戦略爆撃機計119機
      14時35分 警戒警報発令
      14時41分 空襲警報発令
      14時46分 空襲開始
      15時48分 空襲警報解除
      15時52分 警戒警報解除
鶴見-安善間線路破壊計3箇所75m、枕木焼失計10本
復旧 20日0時00分

    4月15日 第21爆撃機軍団 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計194機
      21時20分 警戒警報発令
      22時03分 空襲警報発令
      22時43分 空襲開始
       1時10分 空襲警報解除
       1時30分 警戒警報解除
安善驛
  信号取扱所全焼
淺野-海芝浦間全区間壊滅
復旧
 本線18日初電
 淺野-海芝浦間 昭和23年(1948年)2月9日附

    7月25日 第20航空軍 第315航空隊 B29戦略爆撃機計75機
      21時40分 警戒警報発令
      22時00分 空襲警報発令
      22時23分 空襲開始
       0時56分 空襲警報解除
       1時20分 警戒警報解除
武蔵白石-濱川崎間、昭和、及び、扇町各驛構内、線路破壊計9箇所計790m 枕木計450本破損
復旧 27日初電
爆撃破壊に依り該線沿線の大多数工場が操業停止に追い込まれ工員動員解除が実施された事で通勤利用者が激減し、深刻な老朽化に依り使用困難だったモハ141 モハ142 計2両は26日附で使用停止となり、爆撃に依り使用不能と化した沿線驛本屋代用事務室使用となる。

    8月 1日 第20航空軍 第315航空隊 B29戦略爆撃機計120機
      20時20分 警戒警報発令
      20時55分 空襲警報発令
      22時33分 空襲開始
       0時10分 空襲警報解除
       2時40分 警戒警報解除
辨天橋驛
 驛本屋 全焼
安善驛
 驛本屋 大破
淺野驛
 驛本屋 大破
濱川崎驛
 驛本屋以外該驛構内全施設全滅
扇町驛
 驛本屋 大破
鶴見小野-扇町間線路破壊計22箇所計2342m、枕木損傷約計800本焼失
濱川崎-昭和間扇橋橋梁鈑桁1連、安善-濱安善間安善運河橋梁鈑桁12.19m×4連河中墜落
 濱川崎-扇町間全区間壊滅
武蔵白石-大川間全区間壊滅
復旧
 鶴見-濱川崎間 4日7時40分
 濱川崎-扇町間  昭和20年(1945年)11月15日附
 武蔵白石-大川間 昭和25年(1950年) 2月 9日附
鶴見線鶴見驛構内驛ビル大型爆弾直撃破壊被害に依り該駅4番線相当部分破壊の為に暫くの間、使用不能。
辨天橋電車區空襲被災車輌
 モハ 31 昭和 9年(1934年)12月 汽車會社製造東京支店 小破
 モハ111 昭和 5年(1930年) 8月 新潟鉄工所 小破  
 モハ120 昭和 5年(1930年) 8月 浅野造船所 爆弾直撃大破
 モハ131 昭和15年(1940年)12月 川崎車輌 小破        
 モハ311 大正15年(1926年) 3月31日 汽車會社製造東京支店 全焼
  鐵道省デハ33535→モハ1061(昭和8年(1933年)8月22日廃車)
 モハ317 大正11年(1922年) 6月 1日 汽車會社製造東京支店 全焼
  鐵道省デハ33521→モハ1045(昭和8年(1933年)8月22日廃車)
以上、鶴見臨港鐵道引継車
 モハ10160 大正13年(1924年)10月18日 汽車會社製造東京支店 全焼
  鐵道省デハユニ43856→デハ63260(昭和2年(1927年)7月下旬 大井工場 改造)→モハ10160
 モハ10169 大正13年(1924年) 3月16日 日本車輌製造本店 全焼
  鐵道省デハ43239→デハ63269(昭和2年(1927年)9月中旬 大井工場 改造)→モハ10169
  である。

旧鐵道省モハ1型出自とするモハ300型、及び、モハ400型は、戦災で焼失したモハ311、及び、モハ317を除く計7両内計5両は、終戦直後に原子爆弾で多数の電車が焼失し壊滅状態下に在った可部線横川-可部間用として広島鉄道局横川電車区に配置転換された。


該線内に於けるRTO設置駅は、
 安善駅
  昭和21年(1946年) 4月15日~昭和23年(1948年) 3月24日      
 浜川崎駅
  昭和20年(1945年)10月30日~昭和27年(1952年) 3月31日  
 鶴見川口駅
  昭和26年(1951年) 3月 1日~昭和27年(1952年) 3月31日  
である。


東京鉄道局は昭和20年(1945年)11月15日附を以って該線全線を従来の直流600Vから750V昇圧を計画していたが、沿線復旧優先の為に該計画は中止された。


大東亜戦争終結と共に、該線沿線に存在する主要重化学工場は空襲に拠り壊滅打撃を被り、更に追い討ちを掛けるが如く、進駐軍GHQに依る生産禁止命令が実施されたが、軍事産業から平和産業に生産内容を転換させる事で辛うじて残存が認められ、終戦と共に朝のラッシュ時は閑古鳥が鳴いていた該線利用者が徐々にではあったが再び復調傾向が見られる様になった。


日本鋼管鶴見造船所は、淺野財閥が大正5年(1916年)4月創設した横濱造船所が嚆矢である。
然し、横濱市内に同名企業が存在していた事から、混同防止の為に同年12月1日附で淺野造船所鶴見製鋼所に名称変更され、その後、昭和15年(1940年)10月1日附で親会社たる日本鋼管に吸収合併され、日本鋼管鶴見造船所に改名された。
該造船所は帝國海軍受注が多く、我が国初の航空母艦 鳳翔(ほうしょう)を初め、大東亜戦争中は、多数の海防艦、駆潜艇、等々海軍艦艇を建造していたが、該戦争終結に依り帝國海軍発注が消滅した事で、該造船所は企業存続危機に直面する事態となった。
他方、運輸省鉄道総局に依る戦災復旧客車復興計画が発表されるや、該社は自社能力を以って当該車輌復興可能たるを上申請願するに至った。
該造船所に於ける鉄道車輌製造実績は、浅野造船所時代、昭和5年(1930年)8月に、該造船所兄弟會社だった鶴見臨港鐵道 モハ119、及び、モハ120電車、及び、横濱市営交通軌道線 500型単車、及び、1000型ボギー車の製造実績こそ存在したが、当時の昭和初期に於ける造船不況に加え、ワシントン軍縮條約発効に依る帝國海軍艦艇発注が激減し、半ば企業存立の為に専門外たる鉄道車輌製造に着手したものであり、それ以外に於いて、親会社たる日本鋼管原料輸送用貨車製造に限定され当時の鐵道省との関係は希薄だった。
その為、該社は運輸省鉄道総局に対し戦災被災車復旧を上申し、該結果、17m級電車計7両、20m級電車計1両、3軸ボギー式客車計4両復旧を受注した。

該造船所に対する戦災復旧が決定に伴い、次々と当該被災車輌が該線浅野駅着で回送された。

戦災復旧車群は2群に分類され、第Ⅰ次復旧車輌群は原車被災程度不良で、原則として、台車、台枠、床下機器再用に依り車体新製に依る完成復旧させる前提だったが、該造船所で当該発想は存在しなかったと見え、該社復旧車車輌群は、該社有り合せの鋼板を適宣切継し、且つ、資材不足を理由に表面砂噴も満足しせず半ば省略したのか、竣工時点で車体表面はデコボコで、漫画家 手塚治虫(てづか おさむ)(昭和3年(1928年)11月3日~平成元年(1989年)2月9日)に、ひょうたんツギ なるキャラクターが存在するが、該社第1次戦災復旧車群は、正に該キャラクターを想起させ、竣工時点で既に満身創痍状態だった。
一部造船所は船舶火災等々に依る焼損船舶復旧工事に対し、明治期より蓄積した技術を有しており、竣工造作は大雑把な印象が免れないにせよ、岡山玉島造船所に於いて復旧工事が施工された スハ32型 の如き、一見して戦災復旧車に見えない上出来映えを示した箇所も存在したが、当時の竣工写真を精査する限り、日本鋼管鶴見造船所に於いて復旧された戦災復旧車輌群は程度Cクラス被災車に対し、台枠、台車、床下機器を再用し車体新製完成させると云ふ発想は皆無だったと見え、該竣工車輌は復旧程度が低く使用現場に於ける評価も芳しく無く、狸の泥舟の如き状態で早くも復旧工事施工翌年には荷物車等々に改造車輌が発生した。

【日本鋼管鶴見造船所】
オハ70 46
原車は、昭和20年(1945年)4月13日 池袋電車區構内で焼夷弾に依り被災全焼した 制御附電車 クハ65125(東イケ)、昭和21年(1946年)1月23日附で戦災廃車後、昭和23年(1948年)3月30日附で復旧した車輌である。
原車は、大正13年(1924年)7月7日附で日本車輌製造東京支店に於いて製造就役した 3等付随車 サハ33553 で、昭和3年(1928年)10月1日附車輌称号改正に拠り サハ26127 に改番され、昭和4年(1929年)4月中旬頃、大井工場に於いて運転台取付工事が施工され 制御附電車 クハ15013 に改造、昭和15年(1940年)10月上旬頃、大井工場に於いて鋼体化され 制御附電車 クハ65125 に再改造された。
その後、昭和25年(1950年)9月2日附で、西鹿児島工機部に於いて 荷物車 スニ73 27に改造。
更に、昭和39年(1964年)2月29日附で、名古屋工場に於いて 救援車 オエ70 49 に再改造。
廃車は、昭和48年(1973年)3月12日附。

オハ70 47
原車は、昭和20年(1945年)5月29日 東海道本線新子安驛構内で焼夷弾に依り被災全焼した3等付随車 サハ39004(東カマ)、昭和21年(1946年)1月23日附で戦災廃車後、昭和23年(1948年)4月1日附で復旧した車輌である。
原車は、昭和7年(1932年)3月11日附で、汽車會社製造東京支店に於いて製造就役した。
その後、昭和25年(1950年)8月23日附で、西鹿児島工機部に於いて 郵便荷物車 スユニ73 28 に改造。
廃車は、昭和36年(1961年)2月15日附。

オハ70 106
原車は、昭和20年(1945年)4月15日 蒲田電車區構内で焼夷弾に依り被災全焼した クハ65196(東カマ)、昭和21年(1946年)11月28日附で戦災廃車後、昭和24年(1949年)2月22日附で復旧した車輌である。
原車は、大正15年(1926年)1月26日附で日本車輌製造東京支店に於いて製造就役した 3等付随車 サハ33673 で、昭和3年(1928年)10月1日附車輌称号改正に拠り サハ26098 に改番され、昭和10年(1935年)2月中旬頃、大井工場に於いて運転台取付工事を施工され 制御附電車 クハ17097 に改造、昭和18年(1943年)7月6日附で、大井工機部に於いて鋼体化され 制御附電車 クハ65196 に再改造された。
その後、昭和25年(1950年)7月附で、松任工機部に於いて 荷物車 スニ73 7に改造。
更に、昭和39年(1964年)2月29日附で、名古屋工場に於いて 救援車 オエ70 40に再改造。
廃車は、昭和51年(1976年)6月28日附。

オハ70 107
原車は、昭和20年(1945年)3月9日 東北本線秋葉原驛構内で焼夷弾に依り被災全焼した クハ65032(東モセ)、昭和21年(1946年)11月28日附で戦災廃車後、昭和24年(1949年)2月22日附で復旧した車輌である。
原車は、大正13年(1924年)9月30日附で日本車輌製造東京支店に於いて製造就役した 3等付随車 サハ33627 で、昭和3年(1928年)10月1日附車輌称号改正に拠り サハ26053 に改番され、昭和8年(1933年)3月下旬頃、大井工場に於いて運転台取付工事を施工され 制御附電車 クハ17052 に改造、昭和12年(1937年)8月21日附で、大井工場に於いて鋼体化され 制御附電車 クハ65032 に再改造された。
その後、昭和25年(1950年)3月30日附で、西鹿児島工機部に於いて 郵便荷物車 スユニ73 34に改造。
更に、昭和40年(1965年)3月30日附で、鹿児島工場に於いて 救援車 オエ70 59に再改造。
廃車は、昭和42年(1967年)6月28日附。

オハ70 108
原車は、クハ65型戦災車と云う以外、車号、及び、被災地等々、全く不詳。
昭和24年(1949年)4月附で復旧した車輌である。
その後、昭和25年(1950年)8月附で、西鹿児島工機部に於いて 荷物車 スニ73 34 に改造。
更に、昭和40年(1965年)2月附で、鹿児島工場に於いて 救援車 オエ70 59 に再改造。
廃車は、昭和46年(1971年)11月24日附。

オハ70 109
原車は、サハ39型戦災車と云う以外、車号、及び、被災地等々、全く不詳。
但し、原車使用台枠がUF112型たる事から、クハ65型戦災車輌公算大である。
該車輌原車は、クハ65型中~後期鋼体化改造車流用と推定される。
昭和24年(1949年)2月22日附で復旧した車輌である。
その後、昭和25年(1950年)7月附で、松任工機部に於いて 荷物車 スニ73 9 に改造。
更に、昭和37年(1962年)2月3日附で、松任工場に於いて 職用車 オヤ70 1 に再改造。
廃車は、昭和43年(1968年)6月3日附。

オハ70 110
原車は、クハ65型戦災車と云う以外、車号、及び、被災地等々、全く不詳。
但し、原車使用台枠がUF25型たる事から、サハ39型戦災車輌公算大である。
昭和24年(1949年)4月附で復旧した車輌である、
その後、昭和25年(1950年)7月附で、松任工機部に於いて 荷物車 スニ73 10 に改造。
更に、昭和35年(1960年)附で、名古屋工場に於いて 救援車 オエ70 4 に再改造。
廃車は、昭和56年(1981年)8月3日附。

オハ71 125
原車は、昭和20年(1945年)3月9日 東北本線秋葉原驛構内で焼夷弾に依り被災全焼した サハ78013(東カマ) である。
昭和21年(1946年)11月28日附で戦災廃車後、昭和24年(1949年)9月16日附で復旧した車輌である。
原車は、昭和6年(1931年)3月14日附で、川崎車輌に於いて製造就役した 23等附随車 サロハ46005、昭和12年(1937年)3月下旬に大井工場に於いて便所取付改造に依り サロハ66005 に改番され、昭和19年(1944年)11月24日附で、大井工機部に於いて3等4扉化改造され サハ78013 に再改番された。
その後、昭和25年(1950年)8月21日附で、西鹿児島工機部に於いて 荷物車 スニ74 12 に改造。
更に、昭和39年(1964年)3月31日附で、五稜郭工場に於いて 救援車 スエ71 56 に再改造。
廃車は、昭和45年(1970年)2月8日附。

オハ77 9
原車は、昭和20年(1945年)8月6日 山陽本線廣島驛構内に於いて原子爆弾に依り被爆全焼した 荷物車 カニ37 1(東シナ)で、昭和21年(1946年)5月17日附で戦災廃車後、昭和22年(1947年)7月4日附で復旧した車輌である。
原車は、昭和2年(1927年)5月31日附で、川崎造船兵庫分工場に於いて製造された 荷物車 カニ49900 で、昭和3年(1928年)10月1日附車輌称号改正に拠り カニ39500 に改番、昭和16年(1941年)10月1日附車輌称号改正に拠り カニ37 1 に再改番された。
その後、昭和28年(1953年)6月1日附車輌称号改正に拠り オハ78 9に改番。
同年11月26日附で、長野工場に於いて 郵便荷物車 マユニ78 13に改造。
更に、昭和40年(1965年)1月31日附で、五稜郭工場に於いて 救援車 スエ78 9に再改造。
廃車は、昭和61年(1986年)6月14日附。

オハ77 10
原車は、昭和20年(1945年)5月29日 東海道本線(高島線)高島驛構内に於いて焼夷弾に依り被災全焼した 食堂車 スシ38 5(東シナ)Ⅰで、昭和23年(1948年)5月17日附で戦災廃車後、昭和22年(1947年)12月3日附で復旧されたが、車体鋼体損傷程度大たる事から、車体腰部より上部は新製された。
原車は、昭和12年(1937年)12月28日附で、鐵道省大井工場で特別急行 富士 号専用として製造された 食堂車 スシ37854 で、昭和16年(1941年)10月1日附車輌称号改正に拠り スシ38 5 に改番された。
その後、昭和28年(1953年)6月1日附車輌称号改正に拠り オハ78 10 に改番。
更に、昭和29年(1954年)3月26日附で 長野工場に於いて 郵便荷物車 マユニ78 22 に改造。
廃車は、昭和41年(1966年)6月18日附。

オハ77 25
原車は、昭和20年(1945年)7月31日 鹿児島本線鹿児島驛構内に於いて爆弾に依り大破した 3等車 マハ47 61(門カコ)で、昭和22年(1947年)3月26日附で戦災廃車後、同年12月27日附で復旧した車輌である。
原車は、昭和5年(1930年)6月28日附で、日本車両製造本店に於いて製造された 2等寝台車 マロネ37367 で、昭和16年(1941年)10月1日附車輌称号改正に拠り マロネ37 61 に改番、昭和19年(1944年)6月12日附で、西鹿児島工機部に於いて 3等車 マハ47 61 に改造された。
その後、昭和28年(1953年)10月1日附車輌称号改正に拠り オハ78 24 に改番。
昭和29年(1954年)1月25日附で、長野工場に於いて 郵便荷物車 マユニ78 28 に改造。
廃車は、昭和43年(1968年)1月25日附。

オハ77 26
原車は、昭和20年(1945年)7月31日 鹿児島本線鹿児島驛構内に於いて爆弾に依り大破した 3等車 マハ47 193 (門カコ)で、昭和22年(1947年)3月26日附で戦災廃車後、同年12月27日附で復旧した車輌である。
原車は、、昭和2年(1927年)11月27日附で、川崎車輌に於いて製造された 食堂車 スシ37773 で、昭和16年(1941年)10月1日附車輌称号改正で マシ37 33 に改番、昭和19年(1944年)10月14日附で、西鹿児島工機部に於いて 3等車 マハ47 193 に改造された。
その後、昭和28年(1953年)10月1日附車輌称号改正に拠り オハ78 25 に改番。
同年12月附で、長野工場に於いて 郵便荷物車 マユニ78 27 に改造。
廃車は、昭和41年(1966年)8月2日附。


該線架線電圧は電化当時から直流600Vで750V昇圧計画中止後、東海道本線鶴見変電区から送電可能至近位置に存在する事から、該線電化区間全線が昭和23年(1948年)5月1日附で直流1500Vに昇圧された事で、該線使用車輌は昇圧を機に社型電車が一掃され全て国鉄型車輌に統一された。

国有化後に於ける鶴見臨港鐵道引継電車は、
 モハ 31
  昭和23年(1948年)10月27日附 余剰廃車 茨城交通払下 モハ1
 モハ 32
  昭和23年(1948年)10月27日附 余剰廃車 茨城交通払下 モハ2
 モハ111
  昭和24年(1949年) 3月28日附 余剰廃車 上毛電鉄払下 クハ701
 モハ112
  昭和26年(1951年) 1月     電装解除クハ化
  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5540(岡フチ)
  昭和29年(1954年) 3月31日附 老朽廃車 山形交通払下 モハ107
 モハ113
  昭和28年(1953年) 6月 1日附 モハ1500(広ヨワ)
  昭和30年(1955年) 1月 1日附 老朽廃車 静岡鉄道払下 モハ18
 モハ114
  昭和28年(1953年) 6月 1日附 モハ1501(広ヨワ)
  昭和30年(1955年) 6月 1日附 老朽廃車 上田丸子電鉄払下 モハ4255
 モハ115
  昭和24年(1949年) 3月28日附 余剰廃車 銚子電鉄払下 デハ301
 モハ116
  昭和28年(1953年) 6月 1日附 モハ1502(広ヨワ)
  昭和32年(1957年) 7月30日附 クエ9140救援車改造
  昭和34年(1959年)12月 1日附 クエ9400改番 
  昭和59年(1984年) 3月 4日附 老朽廃車解体(大アカ)
 モハ117
  昭和28年(1953年) 6月 1日附 モハ1503(広ヨワ)
  昭和30年(1955年) 6月 1日附 老朽廃車 静岡鉄道払下 モハ19
 モハ118
  昭和28年(1953年) 6月 1日附 モハ1504(広ヨワ)
  昭和32年(1957年) 7月10日附 老朽廃車 上田丸子電鉄払下 モハ4256
 モハ119
  昭和28年(1953年) 6月 1日附 モハ1505(広ヨワ)
  昭和30年(1955年) 3月 1日附 老朽廃車 静岡鉄道払下 モハ20
 モハ120
  昭和24年(1949年) 3月28日附 戦災廃車 北恵那電気鉄道払下 デ8
 モハ131
  昭和28年(1953年) 6月 1日附 モハ1510(広ヨワ)
  昭和35年(1960年) 5月31日附 クエ9423救援車改造
  昭和57年(1982年) 6月26日附 老朽廃車解体(天ヒネ)
 モハ141
  昭和23年(1948年)10月27日附 老朽廃車 日立電鉄払下 クハ141
 モハ142
  昭和23年(1948年)10月27日附 老朽廃車 日立電鉄払下 モハ101 昭和46年(1971年)日本国有鉄鉄道無償返還 ナデ6141復元保存
 モハ211(附随車代用)
  昭和27年(1952年) 6月 5日附 制御車化
  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5500(広ヨワ)
  昭和36年(1961年) 3月31日附 老朽廃車解体(東シナ)
 モハ212(附随車代用)
  昭和25年(1950年) 7月20日附 制御車化
  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5501(広ヨワ)
  昭和41年(1966年) 6月16日附 老朽廃車解体(金トヤ)
 モハ213(附随車代用)
  昭和25年(1950年)10月24日附 制御車化
  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5502(広ヨワ)
  昭和40年(1965年)11月 4日附 老朽廃車解体(金トヤ)
 モハ221(制御車代用)
  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5511(広ヨワ)
  昭和31年(1956年) 3月 1日附 老朽廃車解体
 モハ222(制御車代用)
  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5512(広ヨワ)
  昭和31年(1956年) 3月 1日附 老朽廃車解体
 クハ251
  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5550(広ヨワ)
  昭和34年(1959年)12月22日附 クハ5504(中ヨワ)改番
  昭和38年(1963年)10月21日附 老朽廃車解体
 クハ252
  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5551(広ヨワ)
  昭和34年(1959年)12月22日附 クハ5505(中ヨワ)改番
  昭和38年(1963年)10月21日附 老朽廃車解体
 クハ253
  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5552(広ヨワ)
  昭和34年(1959年)12月22日附 クハ5506(金トヤ)改番
  昭和41年(1966年) 6月16日附 老朽廃車解体
 クハ261
  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5520(広ヨワ)
  昭和32年(1957年) 7月30日附 クエ9130救援車改造
  昭和34年(1959年)12月21日附 クエ9420改番 
  昭和54年(1979年) 3月 5日附 老朽廃車解体(西ミツ)
 クハ262
  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5521(広ヨワ)
  昭和32年(1957年)12月 3日附 クエ9131救援車改造
  昭和34年(1959年)12月21日附 クエ9400改番 
  昭和59年(1984年) 5月25日附 老朽廃車解体(大タツ)
 モハ311
  昭和21年(1946年)11月28日附 戦災廃車 上信電気鉄道払下
 モハ312
  昭和25年(1950年) 2月附    老朽廃車 東京横浜製作所払下 モニ101
 モハ313
  昭和27年(1952年) 4月23日附 モハ70802改造(書類名義)
 モハ314
  昭和26年(1951年) 3月19日附 事故廃車解体(広ヨワ)
 モハ315
  昭和26年(1951年) 8月17日附 老朽廃車 西武鉄道払下 モハ503
 モハ316
  昭和26年(1951年) 8月17日附 老朽廃車 西日本鉄道払下 ク59
 モハ317
  昭和21年(1946年)11月28日附 戦災廃車解体
 モハ318
  昭和26年(1951年) 8月17日附 老朽廃車 西日本鉄道払下 ク60
 モハ319
  昭和26年(1951年)10月19日附 老朽廃車 熊本電気鉄道払下 モハ202
 モハ331
  昭和28年(1953年) 6月 1日附 モハ1520(中ヨワ)
  昭和34年(1959年)11月27日附 老朽廃車解体
 モハ332
  昭和28年(1953年) 6月 1日附 モハ1521(岡フチ)
  昭和31年(1956年) 3月 1日附 老朽廃車解体
 モハ333
  昭和28年(1953年) 6月 1日附 モハ1522(岡フチ)
  昭和31年(1956年) 5月20日附 老朽廃車解体
 クハ351
  昭和24年(1949年) 3月28日附 事故廃車解体(東テシ)
 クハ352
  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5530(広ヨワ)
  昭和31年(1956年) 3月 1日附 老朽廃車解体
 クハ353
  昭和28年(1953年) 6月 1日附 クハ5531(広ヨワ)
  昭和34年(1959年)12月22日附 クハ5503(金トヤ)改番 
  昭和41年(1966年) 3月14日附 老朽廃車解体
 サハ361
  昭和27年(1952年) 5月 6日附 ナヤ16871客車化
  昭和28年(1953年) 6月 1日附 ナエ17121救援車 (金イト)

以下、当該旅行記写真第1号に続く

旅行の満足度
3.5
観光
3.5
交通
3.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 戦時買収に依るり国有化された、鶴見臨港鉄道、南武鉄道、青梅電気鉄道、奥多摩電鉄旧私鉄4社は被買収鉄道還元期成同盟を結成し、昭和24年(1949年)に政府に対し国有解除を求め請願し、衆議院に於いて該請願に拠る鉄道還元法案は可決されたが、参議院に於いて審議未了廃案となった事から国有解除運動は挫折した。<br /><br /><br />該線昼間閑散時間帯旅客輸送に鑑み17m車輌2両すら輸送過剰な為に17m車両1両運転決定を受け不足分車輌両運転台取付改造を実施した。<br /> クモハ12050(昭和34年(1959年)11月 5日附 大井工場改造)<br />  クモハ11200 → モハ31002(昭和4年(1929年)10月23日附 川崎車輌)<br />     昭和46年(1971年) 8月10日附老朽廃車(西トタ)<br /> クモハ12051(昭和34年(1959年)10月30日附 大井工場改造)<br />  クモハ11201 → モハ31001(昭和4年(1929年) 9月20日附 川崎車輌)<br />     昭和61年(1986年) 2月25日附老朽廃車(南テシ)<br /> クモハ12052(昭和34年(1959年)11月 5日附 大井工場改造)<br />  クモハ11210 → モハ31018(昭和4年(1929年)12月11日附 川崎車輌)    <br /> クモハ12053(昭和34年(1959年)10月28日附 大井工場改造)<br />  クモハ11256 → モハ31088(昭和7年(1932年) 1月28日附 川崎車輌)<br />     平成20年(2008年)12月 1日附老朽廃車(東ナハ)<br /> クモハ12054(昭和34年(1959年)10月21日附 大井工場改造)<br />  クモハ11246 → モハ31074(昭和6年(1931年)12月27日附 日本車輌製造本店)<br />     昭和61年(1986年) 2月10日附老朽廃車(南テシ)<br /> クモハ12055(昭和34年(1959年)10月19日附 大井工場改造)<br />  クモハ11260 → モハ31092(昭和7年(1932年) 2月13日附 日本車輌製造支店)<br />     昭和51年(1976年)12月24日附老朽廃車(広ヒロ)<br />但し、従来の改造車と異なり運転台増設側妻面上部は33型式曲線状改造されず直線状のままだった。<br /><br /><br />昭和40年代に入り、日本国有鉄道他線区では特に戦時買収線に存在した吉備線、勝田線を代表格とする大型車輌入線不可能な簡易線以下低路線規格向上工事施工に依り、殆どの路線で20m車輌が入線可能となったが、該当時、該線を初め、仙石線、福塩線、及び、可部線に於いて使用中の電車は全部17m級国電だった。<br />然るに、該線を除き他線では気動車20m車輌が入線し何ら問題を発生させなかったが、該線に限り旅客車輌投入は17m車輌に限定された。<br />即ち、該線に於いて半径160m未満急曲線区間が散在し、国道駅構内、及び、大川支線武蔵白石駅構内通過に関し本線部分が急曲線故に20m車輌運行にホーム建築限界に抵触し、現状に於ける車輌入線は不可能だった。<br /><br />昭和43年(1968年)9月に、当時の東京鉄道管理局は日本国有鉄道本社に対し鶴見線用17m級新型車輌設計新製を上申した。<br />該上申を受け国鉄本社では、建築限界測定車オヤ31型を使用し該線全線測定を実施した処、事前に予測計算通り、国道駅、及び、武蔵白石駅ホームは20m車輌通過支障が判明した。<br />国道駅に関してはホームを若干開削修正する事で通過可能と判定されたが、武蔵白石駅大川支線旅客ホームに関しては通過不能と判定された為に、昭和47年(1972年)4月1日附時刻改正より、それ迄はクモハ11型+クハ16型ラッシュ時4両編成、閑散時間帯2両運転を終日4両編成運転とし、クモハ73型+モハ72型+クハ79型3両編成運転が開始され、17m級釣掛式電車はクモハ12型2両を残し12月19日附を以って運用から離脱したが、大川支線用クモハ12型2両は平成8年(1996年)3月15日附時刻改正まで残存し、該線に釣掛式主電動機特有の豪快な電動機音を響かせながら運転されたが、使用扉開閉が常に片方面だった事から弁天橋電車区はドアエンジン保守調整に苦労させられた。<br /><br /><br />該線は朝以外の旅客輸送が閑散たる事から人件費削減を理由に、昭和46年(1971年)3月1日附で浜川崎駅以外の各駅一般旅客出改札業務を廃止し全駅無人化した。<br /><br /><br />昭和47年(1972年)7月1日附で弁天橋電車区にモハ72970が配置運用され該線利用者を唖然とさせた。<br />即ち、該車輌は郡山工場に於いてモハ72587更新工事施工としたもので、台枠以下台車床下機器を再用し車体は当時の103系Ⅱをモデルに製作されたもので、4扉両開扉ユニット窓で中央本線101系電車のオレンジパーミリオン色に塗装され、冷房こそ搭載されなかったが該線にとって正に掃き溜めに鶴の印象だった。<br />その後、他車輌同様ブドウ色2号に塗装され昭和54年(1979年)まで他線に移動する事無く鶴見線に於いて使用後、昭和55年(1980年)7月16日附で廃車決済され解体された。<br /><br />73型電車は経年経過に依る老朽化の為に昭和54年(1979年)12月10日附を以って該線から引退し該日より全列車101系電車で運転され、最終日に クモハ73029+モハ72957+クハ79392 の編成で幕を閉じたが、73型使用末期に弁天橋電車区に於いて深夜帯に該電車部品窃盗事件が頻発し、該電車運行に支障を来す事態となったのは誠に遺憾な事だった。<br />101系電車は出発時に於ける加速が劣る為に運転側からは歓迎されなかった。<br /><br /><br />川口支線は建設省土木局に依る鶴見川河川改修工事に支障する事から、浅野-鶴見小野-鶴見川口間は昭和57年(1982年)11月15日附で廃止されたが、廃止後も浅野駅専用線として存続するも昭和61年(1986年)11月1日附で完全廃止された。<br /><br /><br />昭和60年(1985年)以降に於ける該線貨車取扱<br /> 浜川崎駅<br />  第1セメント石灰石    発 セメント  <br />               着 石灰石<br />             平成10年(1998年)廃止<br /> 昭和駅<br />  東洋埠頭         発 セメント  <br />               着 石灰<br />             昭和60年(1985年)廃止<br /> 扇町駅<br />  三菱石油製油所      発 石油類   <br />               着 空車<br />             平成11年(1999年)廃止(製油所閉鎖)<br />  昭和電工扇町工場     発 肥料(硫安)化学薬品  <br />               着 鉱石 空車<br />             平成20年(2008年)廃止<br />  秩父太平洋セメント    発 石炭    <br />               着 空車<br />             令和 2年(2020年)廃止<br /> 大川駅<br />  日清製粉         発 麦 飼料  <br />               着 食品工業品<br />             平成 9年(1997年)廃止<br />  昭和電工川崎大川工場   発 化学薬品  <br />               着 空車<br />             平成20年(2008年)廃止<br /> <br /><br />101系電車老朽化が深刻な状態だった事から、該線に103系電車配置が決定し該車輌は平成2年(1990年)に導入され平成18年(2006年)まで使用されたが、該車輌は高加速高減速運転を特長とする車輌だった事から運転側からは歓迎された。<br /><br /><br />安善駅構内、及び、浜安善駅構内には米海軍鶴見貯油施設が存在し厚木基地宛航空ジェット燃料貨車輸送が行われていたが、自動車輸送切替に変更された為に該貨車輸送は平成10年(1998年)10月1日附で廃止された。<br />但し、横田基地への該輸送は現在も継続中である。<br /><br /><br />平成16年(2004年)より運行開始した205系電車は、運転台付電動車クモハが存在せずクハも不足していた事から、当該中間車輌に対し運転台取付工事を施工して投入された。<br />但し、205系電車と特徴たる添加均磁制御は時速50Km以上走行時に於いて性能発揮するシステム故に、該線最高速度時速45Km程度では使用効果は無い。<br /><br /><br /><br />扇町駅構内に三井埠頭扇町専用線が存在し秩父鉄道武州原谷駅宛の我が国最後の石炭貨車輸送取扱が行われていたが、該輸送は令和2年(2020年)3月14日附で廃止された。<br /><br /><br />現在、東日本旅客鉄道が次世代旅客車輌として研究開発中の水素発電新型車輌 HYBARIを開発した。<br />令和4年(2022年)3月に試験車輌が導入されたが、該車輌本導入となれば昭和17年(1942年)10月に投入されたモハ221型クハ261型以来80年振りの新車配置である。<br /><br /><br />鶴見臨港鉄道は平成30年(2018年)4月1日附を以って旧鶴見埋立組合後継組織たる東亜地所を吸収合併し同時に社名を東亜リアルエステートに商号変更した。<br />令和5年(2023年)1月1日現在、土地不動産売買管理会社として継続盛業中である。<br /><br /><br />該線は、本来貨物輸送の為に開設され後に旅客輸送を開始した路線だったが、現在該線に於ける貨物輸送は、安善駅、及び、新芝浦駅2駅に過ぎず、新芝浦駅貨車取扱は、東芝エネルギーシステム京浜鶴見工場主要製品たる、発電機、変圧器、変流器等々重電機器だが、該社工場製品発送の貨車輸送実績は此の20年間無い。<br />安善駅に於ける貨車輸送は米空軍横田基地宛航空燃料輸送に限定され、且つ、不定期扱である。<br />故に、該貨車輸送代替が実行に依る該線貨物取扱は全廃の可能性を有し、該線存続に拘る是非を問われる事態に発展する可能性を有する。

    戦時買収に依るり国有化された、鶴見臨港鉄道、南武鉄道、青梅電気鉄道、奥多摩電鉄旧私鉄4社は被買収鉄道還元期成同盟を結成し、昭和24年(1949年)に政府に対し国有解除を求め請願し、衆議院に於いて該請願に拠る鉄道還元法案は可決されたが、参議院に於いて審議未了廃案となった事から国有解除運動は挫折した。


    該線昼間閑散時間帯旅客輸送に鑑み17m車輌2両すら輸送過剰な為に17m車両1両運転決定を受け不足分車輌両運転台取付改造を実施した。
     クモハ12050(昭和34年(1959年)11月 5日附 大井工場改造)
      クモハ11200 → モハ31002(昭和4年(1929年)10月23日附 川崎車輌)
         昭和46年(1971年) 8月10日附老朽廃車(西トタ)
     クモハ12051(昭和34年(1959年)10月30日附 大井工場改造)
      クモハ11201 → モハ31001(昭和4年(1929年) 9月20日附 川崎車輌)
         昭和61年(1986年) 2月25日附老朽廃車(南テシ)
     クモハ12052(昭和34年(1959年)11月 5日附 大井工場改造)
      クモハ11210 → モハ31018(昭和4年(1929年)12月11日附 川崎車輌)    
     クモハ12053(昭和34年(1959年)10月28日附 大井工場改造)
      クモハ11256 → モハ31088(昭和7年(1932年) 1月28日附 川崎車輌)
         平成20年(2008年)12月 1日附老朽廃車(東ナハ)
     クモハ12054(昭和34年(1959年)10月21日附 大井工場改造)
      クモハ11246 → モハ31074(昭和6年(1931年)12月27日附 日本車輌製造本店)
         昭和61年(1986年) 2月10日附老朽廃車(南テシ)
     クモハ12055(昭和34年(1959年)10月19日附 大井工場改造)
      クモハ11260 → モハ31092(昭和7年(1932年) 2月13日附 日本車輌製造支店)
         昭和51年(1976年)12月24日附老朽廃車(広ヒロ)
    但し、従来の改造車と異なり運転台増設側妻面上部は33型式曲線状改造されず直線状のままだった。


    昭和40年代に入り、日本国有鉄道他線区では特に戦時買収線に存在した吉備線、勝田線を代表格とする大型車輌入線不可能な簡易線以下低路線規格向上工事施工に依り、殆どの路線で20m車輌が入線可能となったが、該当時、該線を初め、仙石線、福塩線、及び、可部線に於いて使用中の電車は全部17m級国電だった。
    然るに、該線を除き他線では気動車20m車輌が入線し何ら問題を発生させなかったが、該線に限り旅客車輌投入は17m車輌に限定された。
    即ち、該線に於いて半径160m未満急曲線区間が散在し、国道駅構内、及び、大川支線武蔵白石駅構内通過に関し本線部分が急曲線故に20m車輌運行にホーム建築限界に抵触し、現状に於ける車輌入線は不可能だった。

    昭和43年(1968年)9月に、当時の東京鉄道管理局は日本国有鉄道本社に対し鶴見線用17m級新型車輌設計新製を上申した。
    該上申を受け国鉄本社では、建築限界測定車オヤ31型を使用し該線全線測定を実施した処、事前に予測計算通り、国道駅、及び、武蔵白石駅ホームは20m車輌通過支障が判明した。
    国道駅に関してはホームを若干開削修正する事で通過可能と判定されたが、武蔵白石駅大川支線旅客ホームに関しては通過不能と判定された為に、昭和47年(1972年)4月1日附時刻改正より、それ迄はクモハ11型+クハ16型ラッシュ時4両編成、閑散時間帯2両運転を終日4両編成運転とし、クモハ73型+モハ72型+クハ79型3両編成運転が開始され、17m級釣掛式電車はクモハ12型2両を残し12月19日附を以って運用から離脱したが、大川支線用クモハ12型2両は平成8年(1996年)3月15日附時刻改正まで残存し、該線に釣掛式主電動機特有の豪快な電動機音を響かせながら運転されたが、使用扉開閉が常に片方面だった事から弁天橋電車区はドアエンジン保守調整に苦労させられた。


    該線は朝以外の旅客輸送が閑散たる事から人件費削減を理由に、昭和46年(1971年)3月1日附で浜川崎駅以外の各駅一般旅客出改札業務を廃止し全駅無人化した。


    昭和47年(1972年)7月1日附で弁天橋電車区にモハ72970が配置運用され該線利用者を唖然とさせた。
    即ち、該車輌は郡山工場に於いてモハ72587更新工事施工としたもので、台枠以下台車床下機器を再用し車体は当時の103系Ⅱをモデルに製作されたもので、4扉両開扉ユニット窓で中央本線101系電車のオレンジパーミリオン色に塗装され、冷房こそ搭載されなかったが該線にとって正に掃き溜めに鶴の印象だった。
    その後、他車輌同様ブドウ色2号に塗装され昭和54年(1979年)まで他線に移動する事無く鶴見線に於いて使用後、昭和55年(1980年)7月16日附で廃車決済され解体された。

    73型電車は経年経過に依る老朽化の為に昭和54年(1979年)12月10日附を以って該線から引退し該日より全列車101系電車で運転され、最終日に クモハ73029+モハ72957+クハ79392 の編成で幕を閉じたが、73型使用末期に弁天橋電車区に於いて深夜帯に該電車部品窃盗事件が頻発し、該電車運行に支障を来す事態となったのは誠に遺憾な事だった。
    101系電車は出発時に於ける加速が劣る為に運転側からは歓迎されなかった。


    川口支線は建設省土木局に依る鶴見川河川改修工事に支障する事から、浅野-鶴見小野-鶴見川口間は昭和57年(1982年)11月15日附で廃止されたが、廃止後も浅野駅専用線として存続するも昭和61年(1986年)11月1日附で完全廃止された。


    昭和60年(1985年)以降に於ける該線貨車取扱
     浜川崎駅
      第1セメント石灰石    発 セメント  
                   着 石灰石
                 平成10年(1998年)廃止
     昭和駅
      東洋埠頭         発 セメント 
                   着 石灰
                 昭和60年(1985年)廃止
     扇町駅
      三菱石油製油所      発 石油類  
                   着 空車
                 平成11年(1999年)廃止(製油所閉鎖)
      昭和電工扇町工場     発 肥料(硫安)化学薬品  
                   着 鉱石 空車
                 平成20年(2008年)廃止
      秩父太平洋セメント    発 石炭   
                   着 空車
                 令和 2年(2020年)廃止
     大川駅
      日清製粉         発 麦 飼料  
                   着 食品工業品
                 平成 9年(1997年)廃止
      昭和電工川崎大川工場   発 化学薬品 
                   着 空車
                 平成20年(2008年)廃止
     

    101系電車老朽化が深刻な状態だった事から、該線に103系電車配置が決定し該車輌は平成2年(1990年)に導入され平成18年(2006年)まで使用されたが、該車輌は高加速高減速運転を特長とする車輌だった事から運転側からは歓迎された。


    安善駅構内、及び、浜安善駅構内には米海軍鶴見貯油施設が存在し厚木基地宛航空ジェット燃料貨車輸送が行われていたが、自動車輸送切替に変更された為に該貨車輸送は平成10年(1998年)10月1日附で廃止された。
    但し、横田基地への該輸送は現在も継続中である。


    平成16年(2004年)より運行開始した205系電車は、運転台付電動車クモハが存在せずクハも不足していた事から、当該中間車輌に対し運転台取付工事を施工して投入された。
    但し、205系電車と特徴たる添加均磁制御は時速50Km以上走行時に於いて性能発揮するシステム故に、該線最高速度時速45Km程度では使用効果は無い。



    扇町駅構内に三井埠頭扇町専用線が存在し秩父鉄道武州原谷駅宛の我が国最後の石炭貨車輸送取扱が行われていたが、該輸送は令和2年(2020年)3月14日附で廃止された。


    現在、東日本旅客鉄道が次世代旅客車輌として研究開発中の水素発電新型車輌 HYBARIを開発した。
    令和4年(2022年)3月に試験車輌が導入されたが、該車輌本導入となれば昭和17年(1942年)10月に投入されたモハ221型クハ261型以来80年振りの新車配置である。


    鶴見臨港鉄道は平成30年(2018年)4月1日附を以って旧鶴見埋立組合後継組織たる東亜地所を吸収合併し同時に社名を東亜リアルエステートに商号変更した。
    令和5年(2023年)1月1日現在、土地不動産売買管理会社として継続盛業中である。


    該線は、本来貨物輸送の為に開設され後に旅客輸送を開始した路線だったが、現在該線に於ける貨物輸送は、安善駅、及び、新芝浦駅2駅に過ぎず、新芝浦駅貨車取扱は、東芝エネルギーシステム京浜鶴見工場主要製品たる、発電機、変圧器、変流器等々重電機器だが、該社工場製品発送の貨車輸送実績は此の20年間無い。
    安善駅に於ける貨車輸送は米空軍横田基地宛航空燃料輸送に限定され、且つ、不定期扱である。
    故に、該貨車輸送代替が実行に依る該線貨物取扱は全廃の可能性を有し、該線存続に拘る是非を問われる事態に発展する可能性を有する。

  • 鶴見(つるみ)Ⅲ駅<br /><br /><br /><br />西口<br />西口出改札自体は大正6年(1917年)開設だが、昭和9年(1934年)鶴見臨港鐵道鶴見Ⅲ驛開業時に現鉄骨鉄筋剛建築改築。

    鶴見(つるみ)Ⅲ駅



    西口
    西口出改札自体は大正6年(1917年)開設だが、昭和9年(1934年)鶴見臨港鐵道鶴見Ⅲ驛開業時に現鉄骨鉄筋剛建築改築。

  • 鶴見Ⅲ駅<br /><br /><br /><br />鶴見乗降場<br />該駅は、昭和9年(1934年)12月23日開業である。<br />鶴見臨港鉄道本社兼乗降場として建設。

    鶴見Ⅲ駅



    鶴見乗降場
    該駅は、昭和9年(1934年)12月23日開業である。
    鶴見臨港鉄道本社兼乗降場として建設。

  • 鶴見Ⅲ駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />前方建築物中央部は開口状態<br />矢向延長計画の為に開口建築。

    鶴見Ⅲ駅



    駅本屋
    前方建築物中央部は開口状態
    矢向延長計画の為に開口建築。

    鶴見駅

  • 鶴見Ⅲ駅<br /><br /><br /><br />旧鶴見線乗換改札口跡<br />令和4年(2022年)2月28日附乗換改札口廃止。

    鶴見Ⅲ駅



    旧鶴見線乗換改札口跡
    令和4年(2022年)2月28日附乗換改札口廃止。

    鶴見駅

  • 鶴見Ⅲ駅<br /><br /><br /><br />鶴見線起点部<br />頭端式<br />現在は封鎖されたが、該社鶴見-矢向延長計画を想定して建築された為に新築当時、奥は開口構造。

    鶴見Ⅲ駅



    鶴見線起点部
    頭端式
    現在は封鎖されたが、該社鶴見-矢向延長計画を想定して建築された為に新築当時、奥は開口構造。

    鶴見駅

  • 鶴見Ⅲ駅<br /><br /><br /><br />鶴見線旅客ホーム

    鶴見Ⅲ駅



    鶴見線旅客ホーム

    鶴見駅

  • 鶴見Ⅲ駅<br /><br /><br /><br />鶴見線旅客ホーム

    鶴見Ⅲ駅



    鶴見線旅客ホーム

    鶴見駅

  • 鶴見駅<br /><br /><br /><br />京急ストア鶴見西口店<br />現在の京急ストア鶴見店は、元来、鶴見臨港鐵道鶴見Ⅲ驛開業後、該駅構内に翌昭和10年(1935年)3月15日開業の京濱デパート鶴見分店が嚆矢である。<br />即ち、京濱電気鐵道が物販販売店として該駅構内に開店したもので、利用者から好評を以って迎えられた為に、更に昭和13年(1938年)4月に130坪増床した。<br />該鉄道は国策に依り昭和18年(1943年)7月1日に政府買収時に、該鉄道不動産部門、及び、バス部門と共に政府買収対象外とされた。

    鶴見駅



    京急ストア鶴見西口店
    現在の京急ストア鶴見店は、元来、鶴見臨港鐵道鶴見Ⅲ驛開業後、該駅構内に翌昭和10年(1935年)3月15日開業の京濱デパート鶴見分店が嚆矢である。
    即ち、京濱電気鐵道が物販販売店として該駅構内に開店したもので、利用者から好評を以って迎えられた為に、更に昭和13年(1938年)4月に130坪増床した。
    該鉄道は国策に依り昭和18年(1943年)7月1日に政府買収時に、該鉄道不動産部門、及び、バス部門と共に政府買収対象外とされた。

  • 鶴見駅<br /><br /><br /><br />京急ストア鶴見西口店<br />当該建築物外周は緩曲線状構築だったが、昭和20年(1945年)8月1日空襲時に1t爆弾直撃を受け構造物一部が破壊。<br />大東亜戦争後に被災部分は直線状に復旧構築された為に当該建築物前後構造様式が異なる。

    鶴見駅



    京急ストア鶴見西口店
    当該建築物外周は緩曲線状構築だったが、昭和20年(1945年)8月1日空襲時に1t爆弾直撃を受け構造物一部が破壊。
    大東亜戦争後に被災部分は直線状に復旧構築された為に当該建築物前後構造様式が異なる。

  • 鶴見駅<br /><br /><br /><br />京急ストア鶴見西口店<br />川崎鶴見臨港バス

    鶴見駅



    京急ストア鶴見西口店
    川崎鶴見臨港バス

  • 鶴見Ⅲ駅<br /><br /><br /><br />鶴見線旅客ホーム

    鶴見Ⅲ駅



    鶴見線旅客ホーム

    鶴見駅

  • 鶴見Ⅲ-国道間<br /><br /><br /><br />鶴見第1(つるみだいいち)高架橋<br />鶴見駅-総持寺架道橋間

    鶴見Ⅲ-国道間



    鶴見第1(つるみだいいち)高架橋
    鶴見駅-総持寺架道橋間

  • 鶴見Ⅲ-国道間<br /><br /><br /><br />鶴見第1高架橋<br />鶴見駅-総持寺架道橋間

    鶴見Ⅲ-国道間



    鶴見第1高架橋
    鶴見駅-総持寺架道橋間

  • 鶴見Ⅲ-国道間<br /><br /><br /><br />鶴見第1高架橋<br />鶴見駅-総持寺架道橋間

    鶴見Ⅲ-国道間



    鶴見第1高架橋
    鶴見駅-総持寺架道橋間

  • 鶴見Ⅲ-国道間<br /><br /><br /><br />鶴見第1高架橋<br />鶴見駅-総持寺架道橋間<br />鶴見Ⅱ仮停留所跡<br />鶴見Ⅲ起点0.1km<br />和泉屋本店<br />昭和6年(1931年) 6月14日開業<br />昭和9年(1934年)12月23日廃止

    鶴見Ⅲ-国道間



    鶴見第1高架橋
    鶴見駅-総持寺架道橋間
    鶴見Ⅱ仮停留所跡
    鶴見Ⅲ起点0.1km
    和泉屋本店
    昭和6年(1931年) 6月14日開業
    昭和9年(1934年)12月23日廃止

  • 鶴見Ⅲ-国道間<br /><br /><br /><br />鶴見第1高架橋<br />鶴見駅-総持寺架道橋間<br />鶴見Ⅰ仮停留所跡<br />鶴見Ⅲ起点0.2km<br />花七生花店<br />昭和5年(1930年)10月28日開業<br />昭和6年(1931年) 6月13日廃止

    鶴見Ⅲ-国道間



    鶴見第1高架橋
    鶴見駅-総持寺架道橋間
    鶴見Ⅰ仮停留所跡
    鶴見Ⅲ起点0.2km
    花七生花店
    昭和5年(1930年)10月28日開業
    昭和6年(1931年) 6月13日廃止

  • 鶴見Ⅲ-国道間<br /><br /><br /><br />鶴見第1高架橋<br />鶴見駅-総持寺架道橋間<br />扇町方

    鶴見Ⅲ-国道間



    鶴見第1高架橋
    鶴見駅-総持寺架道橋間
    扇町方

  • 鶴見Ⅲ-国道間<br /><br /><br /><br />総持寺(そうじじ)架道橋<br />平成24年(2012年)4月1日まで東海道本線総持寺踏切と連携。

    鶴見Ⅲ-国道間



    総持寺(そうじじ)架道橋
    平成24年(2012年)4月1日まで東海道本線総持寺踏切と連携。

  • 鶴見Ⅲ-国道間<br /><br /><br /><br />鶴見第2(つるみだいに)高架橋<br />総持寺架道橋-東海道線乗越橋間<br />鶴見方

    鶴見Ⅲ-国道間



    鶴見第2(つるみだいに)高架橋
    総持寺架道橋-東海道線乗越橋間
    鶴見方

  • 鶴見Ⅲ-国道間<br /><br /><br /><br />鶴見第2高架橋<br />本山(ほんざん)駅正面出入口跡

    鶴見Ⅲ-国道間



    鶴見第2高架橋
    本山(ほんざん)駅正面出入口跡

  • 鶴見Ⅲ-国道間<br /><br /><br /><br />鶴見第2高架橋<br />本山駅事務室跡<br />現 川崎鶴見臨港バス事務室

    鶴見Ⅲ-国道間



    鶴見第2高架橋
    本山駅事務室跡
    現 川崎鶴見臨港バス事務室

  • 鶴見Ⅲ-国道間<br /><br /><br /><br />鶴見第2高架橋<br />本山駅跡<br />ホーム連絡階段跡<br />写真中央左手斜構築は該駅階段跡。

    鶴見Ⅲ-国道間



    鶴見第2高架橋
    本山駅跡
    ホーム連絡階段跡
    写真中央左手斜構築は該駅階段跡。

  • 鶴見Ⅰ-国道間<br /><br /><br /><br />鶴見第2高架橋<br />本山駅旅客ホーム跡

    鶴見Ⅰ-国道間



    鶴見第2高架橋
    本山駅旅客ホーム跡

  • 鶴見Ⅲ-国道間<br /><br /><br /><br />鶴見第2高架橋<br />本山駅旅客ホーム跡

    鶴見Ⅲ-国道間



    鶴見第2高架橋
    本山駅旅客ホーム跡

  • 鶴見Ⅲ-国道間<br /><br /><br /><br />東海道線乗越橋<br />平行弦ワーレントラス構桁<br />64.9m<br />昭和4年(1929年)横河橋梁製作

    鶴見Ⅲ-国道間



    東海道線乗越橋
    平行弦ワーレントラス構桁
    64.9m
    昭和4年(1929年)横河橋梁製作

  • 鶴見Ⅲ-国道間<br /><br /><br /><br />東海道線乗越橋

    鶴見Ⅲ-国道間



    東海道線乗越橋

  • 鶴見Ⅲ-国道間<br /><br /><br /><br />東海道線乗越橋<br />鈑桁×2連<br />右手 東海道(高島貨物線)<br />左手 京浜急行電鉄本線

    鶴見Ⅲ-国道間



    東海道線乗越橋
    鈑桁×2連
    右手 東海道(高島貨物線)
    左手 京浜急行電鉄本線

  • 鶴見-国道間<br /><br /><br /><br />鶴見第3(つるみだいさん)高架橋<br />東海道線乗越橋-京浜国道間<br />鶴見方

    鶴見-国道間



    鶴見第3(つるみだいさん)高架橋
    東海道線乗越橋-京浜国道間
    鶴見方

  • 鶴見-国道間<br /><br /><br /><br />鶴見第3高架橋<br />東海道線乗越橋-京浜国道間<br />子育観音架道橋<br />至近に存在の花月地蔵尊に因み命名。

    鶴見-国道間



    鶴見第3高架橋
    東海道線乗越橋-京浜国道間
    子育観音架道橋
    至近に存在の花月地蔵尊に因み命名。

  • 鶴見-国道間<br /><br /><br /><br />鶴見第3高架橋<br />東海道線乗越橋-京浜国道間<br />扇町方

    鶴見-国道間



    鶴見第3高架橋
    東海道線乗越橋-京浜国道間
    扇町方

  • 鶴見Ⅲ-国道間<br /><br /><br /><br />鶴見第3高架橋<br />鋼鉄製架線柱群

    鶴見Ⅲ-国道間



    鶴見第3高架橋
    鋼鉄製架線柱群

  • 鶴見-国道間<br /><br /><br /><br />新国道(しんこくどう)架道橋<br />全長24.0m<br />鋼鉄製上路式鈑桁22.5m×1<br />新国道とは現在の第1京浜国道。<br />該架道橋下を昭和19年(1944年)8月10日附で横浜市営交通鶴見線生麦-鶴見間単線開業、12月26日附で複線化されたが、元町-麦田町間麦田隧道内を地下工場化も兼ね単線化して該区間建設資材供給。<br />該市電鶴見線は昭和20年(1945年)5月29日の横浜大空襲で壊滅し、進駐軍命令に依り11月30日附で強制廃止、軌条撤去する事無く命令執行と同時にアスファルトで埋没させられた。

    鶴見-国道間



    新国道(しんこくどう)架道橋
    全長24.0m
    鋼鉄製上路式鈑桁22.5m×1
    新国道とは現在の第1京浜国道。
    該架道橋下を昭和19年(1944年)8月10日附で横浜市営交通鶴見線生麦-鶴見間単線開業、12月26日附で複線化されたが、元町-麦田町間麦田隧道内を地下工場化も兼ね単線化して該区間建設資材供給。
    該市電鶴見線は昭和20年(1945年)5月29日の横浜大空襲で壊滅し、進駐軍命令に依り11月30日附で強制廃止、軌条撤去する事無く命令執行と同時にアスファルトで埋没させられた。

  • 国道駅<br /><br /><br /><br />鶴見第4高架橋<br />国道駅構内<br />下り線側<br />鶴見方

    国道駅



    鶴見第4高架橋
    国道駅構内
    下り線側
    鶴見方

  • 国道駅<br /><br /><br /><br />第1京浜国道橋梁<br />橋桁・橋台<br />空襲機銃掃射痕<br />改装前。<br />橋台は整備時にモルタル吹付施工を実施した為に原口径より埋没感が薄存。

    国道駅



    第1京浜国道橋梁
    橋桁・橋台
    空襲機銃掃射痕
    改装前。
    橋台は整備時にモルタル吹付施工を実施した為に原口径より埋没感が薄存。

    国道駅

  • 国道駅<br /><br /><br /><br />第1京浜国道橋梁<br />橋桁・橋台<br />空襲機銃掃射痕<br />昭和20年(1945年)4月15日の横浜鶴見地区空襲の際に、P51型米グラマン艦載機から銃撃されたものと推定される機銃掃射痕が付近一帯に残存。<br />但し、該痕跡が発見されたのは大東亜戦争終了後で、該日に攻撃を受けたか否か吝かでは無く、当時の米艦載機が別地域攻撃時、縦横に機銃掃射の可能性も無きにして非ず実行日確定に就いては今後の研究課題。

    国道駅



    第1京浜国道橋梁
    橋桁・橋台
    空襲機銃掃射痕
    昭和20年(1945年)4月15日の横浜鶴見地区空襲の際に、P51型米グラマン艦載機から銃撃されたものと推定される機銃掃射痕が付近一帯に残存。
    但し、該痕跡が発見されたのは大東亜戦争終了後で、該日に攻撃を受けたか否か吝かでは無く、当時の米艦載機が別地域攻撃時、縦横に機銃掃射の可能性も無きにして非ず実行日確定に就いては今後の研究課題。

    国道駅

  • 国道駅<br /><br /><br /><br />2階旧商店跡<br />2階空間部分に浮浪者が不法侵入し放火未遂騒動事件発生に依り、東日本旅客鉄道は開口部をコンクリートで封鎖。

    国道駅



    2階旧商店跡
    2階空間部分に浮浪者が不法侵入し放火未遂騒動事件発生に依り、東日本旅客鉄道は開口部をコンクリートで封鎖。

  • 国道駅<br /><br /><br /><br />機銃掃射痕

    国道駅



    機銃掃射痕

  • 国道駅<br /><br /><br /><br />機銃掃射痕

    国道駅



    機銃掃射痕

  • 国道駅<br /><br /><br /><br />鋼鉄製架線柱<br />鶴見臨港鐵道植柱<br />当時の鐵道省標準様式と明らかに異なる。

    国道駅



    鋼鉄製架線柱
    鶴見臨港鐵道植柱
    当時の鐵道省標準様式と明らかに異なる。

    国道駅

  • 国道駅<br /><br /><br /><br />上り線側<br />旅客ホーム<br />20m級車輌が辛うじてスレスレ通過。

    国道駅



    上り線側
    旅客ホーム
    20m級車輌が辛うじてスレスレ通過。

    国道駅

  • 国道駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />鶴見方俯瞰

    国道駅



    駅構内
    鶴見方俯瞰

    国道駅

  • 国道(こくどう)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和5年(1930年)10月28日開業。<br />駅名は当時新國道と称した京濱國道(現 第1京浜)から採用。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=681

    国道(こくどう)駅



    該駅は、昭和5年(1930年)10月28日開業。
    駅名は当時新國道と称した京濱國道(現 第1京浜)から採用。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=681

    国道駅

  • 国道駅<br /><br /><br /><br />鶴見第4高架橋<br />駅構内<br />東日本旅客鉄道資料に拠れば該駅構築は昭和4年(1929年)と記載されているが、該駅開設は昭和5年(1930年)であり明らかに誤り。

    国道駅



    鶴見第4高架橋
    駅構内
    東日本旅客鉄道資料に拠れば該駅構築は昭和4年(1929年)と記載されているが、該駅開設は昭和5年(1930年)であり明らかに誤り。

    国道駅

  • 国道駅<br /><br /><br /><br />改札口<br />以前は自動券売機も設置されていたが現金盗難窃盗防止の為に令和4年(2022年)2月28日附廃止撤去。

    国道駅



    改札口
    以前は自動券売機も設置されていたが現金盗難窃盗防止の為に令和4年(2022年)2月28日附廃止撤去。

    国道駅

  • 国道駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム連絡階段<br />煉瓦タイル装飾

    国道駅



    旅客ホーム連絡階段
    煉瓦タイル装飾

    国道駅

  • 国道駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />ホーム連絡通路<br />該駅開業当時、該連絡橋は存在せず該線合理化に伴う該駅無人化に依り追設置。

    国道駅



    駅構内
    ホーム連絡通路
    該駅開業当時、該連絡橋は存在せず該線合理化に伴う該駅無人化に依り追設置。

    国道駅

  • 国道駅<br /><br /><br /><br />国道デパート<br />扇町方

    国道駅



    国道デパート
    扇町方

    国道駅

  • 国道駅<br /><br /><br /><br />国道デパート<br />扇町方

    国道駅



    国道デパート
    扇町方

    国道駅

  • 鶴見-国道間<br /><br /><br /><br />新国道(しんこくどう)架道橋<br />全長8.0m<br />上路式鋼鉄製鈑桁8.0m×1

    鶴見-国道間



    新国道(しんこくどう)架道橋
    全長8.0m
    上路式鋼鉄製鈑桁8.0m×1

  • 国道駅<br /><br /><br /><br />旧国道架道橋

    国道駅



    旧国道架道橋

  • 国道-鶴見小野間<br /><br /><br /><br />鶴見第5(つるみだいご)高架橋<br />扇町方俯瞰<br />鶴見臨港鐵道辯天橋-鶴見Ⅰ間開業時に於ける鶴見川橋梁付近は該河川河口部だった。<br />現在では河口は埋立に依り約1Km下流側。

    国道-鶴見小野間



    鶴見第5(つるみだいご)高架橋
    扇町方俯瞰
    鶴見臨港鐵道辯天橋-鶴見Ⅰ間開業時に於ける鶴見川橋梁付近は該河川河口部だった。
    現在では河口は埋立に依り約1Km下流側。

  • 国道-鶴見小野間<br /><br /><br /><br />鶴見第5高架橋<br />国道駅-鶴見川橋梁間<br />鶴見方

    国道-鶴見小野間



    鶴見第5高架橋
    国道駅-鶴見川橋梁間
    鶴見方

  • 国道-鶴見小野間<br /><br /><br /><br />鶴見川(つるみがわ)橋梁<br />該橋梁は、昭和5年(1930年910月28日開通である。<br />全景

    国道-鶴見小野間



    鶴見川(つるみがわ)橋梁
    該橋梁は、昭和5年(1930年910月28日開通である。
    全景

  • 国道-鶴見小野間<br /><br /><br /><br />鶴見川橋梁<br />開業時は鉄骨鉄筋コンクリート連続アーチ橋梁だったが、建設省土木局に依る鶴見川河川改修工事実施に伴い、昭和56年(1981年)に現橋梁に架替実施。

    国道-鶴見小野間



    鶴見川橋梁
    開業時は鉄骨鉄筋コンクリート連続アーチ橋梁だったが、建設省土木局に依る鶴見川河川改修工事実施に伴い、昭和56年(1981年)に現橋梁に架替実施。

  • 国道-鶴見小野間<br /><br /><br /><br />鶴見第6(つるみだいろく)高架橋<br />鶴見川橋梁-下野谷架道橋区間

    国道-鶴見小野間



    鶴見第6(つるみだいろく)高架橋
    鶴見川橋梁-下野谷架道橋区間

  • 国道-鶴見小野間<br /><br /><br /><br />下野谷(しものや)架道橋

    国道-鶴見小野間



    下野谷(しものや)架道橋

  • 鶴見小野(つるみ おの)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和11年(1936年)12月8日附で開設された 工業学校前(こうぎょうがっこうまえ)停留所が嚆矢。<br />昭和18年(1943年)7月1日附で運輸通信省買収時に現駅名に変更。<br />駅名の工業学校は、昭和11年(1936年)4月開校の横浜市立鶴見工業実習学校で、大東亜戦争後、横浜市立鶴見工業高校として存続したが、平成23年(2011年)3月31日附を以って廃止閉校。<br />該高校生徒利用者が無くなり該駅着発通学定期利用者は激減。<br />因みに、東日本旅客鉄道資料に、該駅本屋建築を昭和4年(1929年)と記載しているが該駅開設は昭和11年(1936年)であり明らかに誤り。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1026

    鶴見小野(つるみ おの)駅



    該駅は、昭和11年(1936年)12月8日附で開設された 工業学校前(こうぎょうがっこうまえ)停留所が嚆矢。
    昭和18年(1943年)7月1日附で運輸通信省買収時に現駅名に変更。
    駅名の工業学校は、昭和11年(1936年)4月開校の横浜市立鶴見工業実習学校で、大東亜戦争後、横浜市立鶴見工業高校として存続したが、平成23年(2011年)3月31日附を以って廃止閉校。
    該高校生徒利用者が無くなり該駅着発通学定期利用者は激減。
    因みに、東日本旅客鉄道資料に、該駅本屋建築を昭和4年(1929年)と記載しているが該駅開設は昭和11年(1936年)であり明らかに誤り。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1026

    鶴見小野駅

  • 鶴見小野駅<br /><br /><br /><br />下り線改札跡<br />以前は右手に自動券売機も設置されていたが、現金盗難窃盗事件防止の為に令和4年(2022年)2月28日附で自動券売機廃止撤去。

    鶴見小野駅



    下り線改札跡
    以前は右手に自動券売機も設置されていたが、現金盗難窃盗事件防止の為に令和4年(2022年)2月28日附で自動券売機廃止撤去。

    鶴見小野駅

  • 国道-鶴見小野間<br /><br /><br /><br />駅構内<br />全景

    国道-鶴見小野間



    駅構内
    全景

    鶴見小野駅

  • 鶴見小野駅<br /><br /><br /><br />旧構内踏切跡<br />構内踏切が存在したが直前横断轢死事件が発生し廃止撤去。

    鶴見小野駅



    旧構内踏切跡
    構内踏切が存在したが直前横断轢死事件が発生し廃止撤去。

    鶴見小野駅

  • 鶴見小野駅<br /><br /><br /><br />構内通路跡

    鶴見小野駅



    構内通路跡

    鶴見小野駅

  • 鶴見小野駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム<br />誘導路

    鶴見小野駅



    旅客第2番ホーム
    誘導路

    鶴見小野駅

  • 鶴見小野-鶴見川口間<br /><br /><br /><br />川口支線跡

    鶴見小野-鶴見川口間



    川口支線跡

  • 鶴見小野-鶴見川口間<br /><br /><br /><br />川口支線跡<br />写真手前で日本鋼管倉庫専用線と十字線状だった。

    鶴見小野-鶴見川口間



    川口支線跡
    写真手前で日本鋼管倉庫専用線と十字線状だった。

  • 鶴見小野-鶴見川口間<br /><br /><br /><br />川口支線跡<br />跡地は遊歩道化。

    鶴見小野-鶴見川口間



    川口支線跡
    跡地は遊歩道化。

  • 鶴見小野-鶴見川口間<br /><br /><br /><br />川口支線跡<br />境界柱

    鶴見小野-鶴見川口間



    川口支線跡
    境界柱

  • 鶴見川口(つるみかわぐち)駅跡<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和10年(1935年)12月1日開業である。<br />昭和57年(1982年)11月15日附で廃止後は浅野駅専用線として存続したが昭和61年(1986年)11月1日附で完全廃止された。<br />跡地は日本国有鉄道清算事業団を経て横浜市に払下げられ、横浜市立大学大学院総合理化学研究所。

    鶴見川口(つるみかわぐち)駅跡



    該駅は、昭和10年(1935年)12月1日開業である。
    昭和57年(1982年)11月15日附で廃止後は浅野駅専用線として存続したが昭和61年(1986年)11月1日附で完全廃止された。
    跡地は日本国有鉄道清算事業団を経て横浜市に払下げられ、横浜市立大学大学院総合理化学研究所。

  • 鶴見小野-弁天橋間<br /><br /><br /><br />旭ガラス(あさひがらす)踏切<br />企業専用踏切<br />該線内には一般利用不可な企業専用踏切が数箇所存在する。<br />何れも全国的に見て稀な存在。

    鶴見小野-弁天橋間



    旭ガラス(あさひがらす)踏切
    企業専用踏切
    該線内には一般利用不可な企業専用踏切が数箇所存在する。
    何れも全国的に見て稀な存在。

  • 弁天橋駅<br /><br /><br /><br />弁天橋電車区<br />鶴見臨港鐵道時代に於ける電車車庫整備は浅野駅に隣接して存在していたが、国有化と同時に現在地に移転開設。

    弁天橋駅



    弁天橋電車区
    鶴見臨港鐵道時代に於ける電車車庫整備は浅野駅に隣接して存在していたが、国有化と同時に現在地に移転開設。

  • 弁天橋(べんてんばし)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅は、大正15年(1926年)3月10日開業である。<br />昭和20年(1945年)8月1日空襲時に初代駅本屋は直撃弾を受け大破。<br />第2代駅本屋は戦後復旧。<br />因みに、東日本旅客鉄道資料に該駅本屋建築を昭和4年(1929年)と記載しているが明らかに誤り。<br />該駅本屋は平成29年(2017年)10月まで使用された。<br />現金盗難窃盗事件防止の為に令和4年(2022年)2月28日附で自動券売機撤去。

    弁天橋(べんてんばし)駅



    駅本屋
    該駅は、大正15年(1926年)3月10日開業である。
    昭和20年(1945年)8月1日空襲時に初代駅本屋は直撃弾を受け大破。
    第2代駅本屋は戦後復旧。
    因みに、東日本旅客鉄道資料に該駅本屋建築を昭和4年(1929年)と記載しているが明らかに誤り。
    該駅本屋は平成29年(2017年)10月まで使用された。
    現金盗難窃盗事件防止の為に令和4年(2022年)2月28日附で自動券売機撤去。

    弁天橋駅

  • 弁天橋駅<br /><br /><br /><br />駅本屋

    弁天橋駅



    駅本屋

    弁天橋駅

  • 弁天橋駅<br /><br /><br /><br />旧駅本屋<br />改築前第2代駅本屋。

    弁天橋駅



    旧駅本屋
    改築前第2代駅本屋。

    弁天橋駅

  • 弁天橋駅<br /><br /><br /><br />駅前広場

    弁天橋駅



    駅前広場

    弁天橋駅

  • 弁天橋駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム

    弁天橋駅



    旅客ホーム

    弁天橋駅

  • 弁天橋駅<br /><br /><br /><br />旧貨物取扱所跡<br />政府買収時に貨物取扱廃止。

    弁天橋駅



    旧貨物取扱所跡
    政府買収時に貨物取扱廃止。

  • 弁天橋-浅野間<br /><br /><br /><br />旭運河(あさひうんが)橋梁

    弁天橋-浅野間



    旭運河(あさひうんが)橋梁

  • 弁天橋-浅野間<br /><br /><br /><br />本線芝浦支線分岐点<br />左手は鶴見臨港鉄道浅野電車庫跡<br />国有化と同時に弁天橋に移転。<br />現在は東日本旅客鉄道横浜支社ベイサイドトレーニングセンター所在。

    弁天橋-浅野間



    本線芝浦支線分岐点
    左手は鶴見臨港鉄道浅野電車庫跡
    国有化と同時に弁天橋に移転。
    現在は東日本旅客鉄道横浜支社ベイサイドトレーニングセンター所在。

  • 浅野(あさの)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅は、大正15年(1926年)3月10日開業である。<br />当初は貨物専用駅だったが、昭和5年(1930年)10月28日附で旅客取扱開始。<br />駅名は、鶴見臨港鐵道創立者 浅野総一郎(あさの そういちろう)翁(元治元年(1848年)4月13日~昭和5年(1930年)11月9日)に因み命名。

    浅野(あさの)駅



    駅本屋
    該駅は、大正15年(1926年)3月10日開業である。
    当初は貨物専用駅だったが、昭和5年(1930年)10月28日附で旅客取扱開始。
    駅名は、鶴見臨港鐵道創立者 浅野総一郎(あさの そういちろう)翁(元治元年(1848年)4月13日~昭和5年(1930年)11月9日)に因み命名。

    浅野駅

  • 浅野駅<br /><br /><br /><br />本線側<br />全景

    浅野駅



    本線側
    全景

    浅野駅

  • 浅野駅<br /><br /><br /><br />本線旅客ホーム

    浅野駅



    本線旅客ホーム

    浅野駅

  • 浅野駅<br /><br /><br /><br />新芝浦支線<br />下り方旅客ホーム

    浅野駅



    新芝浦支線
    下り方旅客ホーム

    浅野駅

  • 浅野駅<br /><br /><br /><br />新芝浦支線<br />上り方旅客ホーム

    浅野駅



    新芝浦支線
    上り方旅客ホーム

    浅野駅

  • 浅野-新芝浦間<br /><br /><br /><br />新芝浦支線起点<br />該線は、大正15年(1926年)3月10日附で芝浦製作所鶴見工場専用線として開設。

    浅野-新芝浦間



    新芝浦支線起点
    該線は、大正15年(1926年)3月10日附で芝浦製作所鶴見工場専用線として開設。

  • 浅野-海芝浦間<br /><br /><br /><br />新芝浦支線

    浅野-海芝浦間



    新芝浦支線

  • 浅野-海芝浦間<br /><br /><br /><br />淺野造船所<br />現 JEFエンジニアリング&ジャパン・マリニュナイテド本社<br />該社は、淺野財閥が大正5年(1916年)4月創設した横濱造船所が嚆矢である。<br />然し、横濱市内に同名企業が存在していた事から、混同防止の為に同年12月1日附で淺野造船所鶴見製鋼所に名称変更され、その後、昭和15年(1940年)10月1日附で親会社たる日本鋼管に吸収合併され、日本鋼管鶴見造船所に改名された。<br />該造船所は帝國海軍受注が多く、我が国初の航空母艦 鳳翔(ほうしょう)を初め、大東亜戦争中は、多数の海防艦、駆潜艇、等々海軍艦艇を建造していた。<br />大東亜戦争後に戦災復旧車製作を施工した。

    浅野-海芝浦間



    淺野造船所
    現 JEFエンジニアリング&ジャパン・マリニュナイテド本社
    該社は、淺野財閥が大正5年(1916年)4月創設した横濱造船所が嚆矢である。
    然し、横濱市内に同名企業が存在していた事から、混同防止の為に同年12月1日附で淺野造船所鶴見製鋼所に名称変更され、その後、昭和15年(1940年)10月1日附で親会社たる日本鋼管に吸収合併され、日本鋼管鶴見造船所に改名された。
    該造船所は帝國海軍受注が多く、我が国初の航空母艦 鳳翔(ほうしょう)を初め、大東亜戦争中は、多数の海防艦、駆潜艇、等々海軍艦艇を建造していた。
    大東亜戦争後に戦災復旧車製作を施工した。

  • 新芝浦駅<br /><br /><br /><br />旅客第1番ホーム<br />該駅開設時は分岐機設置線路1本だった痕跡。

    新芝浦駅



    旅客第1番ホーム
    該駅開設時は分岐機設置線路1本だった痕跡。

  • 新芝浦(しんしばうら)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和7年(1932年)6月10日開業である。<br />現駅本屋は第2代目で昭和15年(1940年)11月建築とされる。

    新芝浦(しんしばうら)駅



    該駅は、昭和7年(1932年)6月10日開業である。
    現駅本屋は第2代目で昭和15年(1940年)11月建築とされる。

    新芝浦駅

  • 新芝浦駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />内部<br />廃墟寸前状態。

    新芝浦駅



    駅本屋
    内部
    廃墟寸前状態。

    新芝浦駅

  • 新芝浦駅<br /><br /><br /><br />旅客構内踏切

    新芝浦駅



    旅客構内踏切

    新芝浦駅

  • 新芝浦駅<br /><br /><br /><br />駅構内

    新芝浦駅



    駅構内

    新芝浦駅

  • 新芝浦駅<br /><br /><br /><br />旅客第1番ホーム<br />開設時原ホーム

    新芝浦駅



    旅客第1番ホーム
    開設時原ホーム

    新芝浦駅

  • 新芝浦駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム<br />新芝浦延長時設置

    新芝浦駅



    旅客第2番ホーム
    新芝浦延長時設置

    新芝浦駅

  • 新芝浦駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム<br />古軌条支柱上屋

    新芝浦駅



    旅客第2番ホーム
    古軌条支柱上屋

    新芝浦駅

  • 新芝浦駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム<br />鶴見臨港鐵道施工鋼鐡架線柱

    新芝浦駅



    旅客第2番ホーム
    鶴見臨港鐵道施工鋼鐡架線柱

    新芝浦駅

  • 新芝浦駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム<br />鶴見臨港鐵道施工鋼鐡架線柱<br />浅野-新芝浦間は大東亜戦争中に於ける空襲で壊滅的被害を生じたが奇跡的に残存した鶴見臨港鐵道時代の残滓。

    新芝浦駅



    旅客第2番ホーム
    鶴見臨港鐵道施工鋼鐡架線柱
    浅野-新芝浦間は大東亜戦争中に於ける空襲で壊滅的被害を生じたが奇跡的に残存した鶴見臨港鐵道時代の残滓。

    新芝浦駅

  • 新芝浦-海芝浦間<br /><br /><br /><br />右線路<br />東芝エネルギーシステム京浜事業所専用線<br />写真奥に交通標記と社内踏切

    新芝浦-海芝浦間



    右線路
    東芝エネルギーシステム京浜事業所専用線
    写真奥に交通標記と社内踏切

  • 海芝浦(うみしばうら)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和15年(1940年)11月1日開業である。<br />芝浦製作所鶴見工場拡張第3期工事竣工に伴い開設。

    海芝浦(うみしばうら)駅



    該駅は、昭和15年(1940年)11月1日開業である。
    芝浦製作所鶴見工場拡張第3期工事竣工に伴い開設。

    海芝浦駅

  • 海芝浦駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />

    海芝浦駅



    旅客ホーム

    海芝浦駅

  • 海芝浦駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム

    海芝浦駅



    旅客ホーム

    海芝浦駅

  • 海芝浦駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />該駅改札外は東芝エネルギーシステム京浜事業所私有地の為に社員外業務関係者他下車は不能。

    海芝浦駅



    旅客ホーム
    該駅改札外は東芝エネルギーシステム京浜事業所私有地の為に社員外業務関係者他下車は不能。

    海芝浦駅

  • 海芝(うみしば)公園<br /><br /><br /><br />海芝浦来駅者の為に東芝が設置した小公園。<br />9:00~20:30

    海芝(うみしば)公園



    海芝浦来駅者の為に東芝が設置した小公園。
    9:00~20:30

    海芝公園 公園・植物園

  • 浅野-安善間<br /><br /><br /><br />川口支線連絡線跡<br />昭和57年(1982年)廃止後も線路は撤去されず残存。

    浅野-安善間



    川口支線連絡線跡
    昭和57年(1982年)廃止後も線路は撤去されず残存。

  • 浅野-安善間<br /><br /><br /><br />旭(あさひ)運河橋梁<br />該橋梁は、大正15年(1926年)3月10日開通である。

    浅野-安善間



    旭(あさひ)運河橋梁
    該橋梁は、大正15年(1926年)3月10日開通である。

  • 安善(あんぜん)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和5年(1930年)10月28日開業で開業当初は 安善通(あんぜんどおり)と称したが、昭和18年(1943年)7月1日附国有化時に現駅名に変更。<br />駅名は、鶴見臨港鐵道創立発起人 安田善次郎(やすだ ぜんじろう)(天保9年(1838年)11月25日~大正10年(1921年)9月28日)に因み命名。<br />初代駅本屋は昭和20年(1945年)8月1日空襲時に爆弾直撃に依り大破。<br />現駅本屋は大東亜戦争後、昭和24年(1949年)5月に再建された第2代建築。<br />因みに、東日本旅客鉄道資料に、該駅本屋建築を昭和4年(1929年)2月建築と記載しているのは明らかに誤り。

    安善(あんぜん)駅



    該駅は、昭和5年(1930年)10月28日開業で開業当初は 安善通(あんぜんどおり)と称したが、昭和18年(1943年)7月1日附国有化時に現駅名に変更。
    駅名は、鶴見臨港鐵道創立発起人 安田善次郎(やすだ ぜんじろう)(天保9年(1838年)11月25日~大正10年(1921年)9月28日)に因み命名。
    初代駅本屋は昭和20年(1945年)8月1日空襲時に爆弾直撃に依り大破。
    現駅本屋は大東亜戦争後、昭和24年(1949年)5月に再建された第2代建築。
    因みに、東日本旅客鉄道資料に、該駅本屋建築を昭和4年(1929年)2月建築と記載しているのは明らかに誤り。

    安善駅

  • 安善駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />減築前<br />平成17年(2005年)該驛本屋改装時に右手開口部は閉鎖、左手増築部を解体撤去。<br />減築前は自動券売機も設置されていた。

    安善駅



    駅本屋
    減築前
    平成17年(2005年)該驛本屋改装時に右手開口部は閉鎖、左手増築部を解体撤去。
    減築前は自動券売機も設置されていた。

    浅野駅

  • 安善駅<br /><br /><br /><br />駅事務室<br />日本貨物鉄道貨物業務取扱事務所<br />昭和50年(1975年)建築。

    安善駅



    駅事務室
    日本貨物鉄道貨物業務取扱事務所
    昭和50年(1975年)建築。

  • 安善駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />連絡通路

    安善駅



    旅客ホーム
    連絡通路

    安善駅

  • 安善駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />全景

    安善駅



    駅構内
    全景

    安善駅

  • 安善駅<br /><br /><br /><br />貨物取扱所

    安善駅



    貨物取扱所

  • 安善駅<br /><br /><br /><br />貨物取扱所<br />タンク車は安善-米空軍横田基地間航空燃料輸送専用貨車。

    安善駅



    貨物取扱所
    タンク車は安善-米空軍横田基地間航空燃料輸送専用貨車。

    安善駅

  • 安善駅<br /><br /><br /><br />貨物取扱所<br />ベトナム戦争に於いて特にトンキン湾事件(1964年(昭和39年)8月2日)以降、米空軍に依る北爆開始に依り該駅発航空燃料発送が激増したが、現在では貨車の姿薄く、かつての面影は無い。

    安善駅



    貨物取扱所
    ベトナム戦争に於いて特にトンキン湾事件(1964年(昭和39年)8月2日)以降、米空軍に依る北爆開始に依り該駅発航空燃料発送が激増したが、現在では貨車の姿薄く、かつての面影は無い。

    安善駅

  • 安善駅<br /><br /><br /><br />貨物取扱所<br />JR東日本・JR貨物分界点

    安善駅



    貨物取扱所
    JR東日本・JR貨物分界点

  • 安善-浜安善間<br /><br /><br /><br />米海軍鶴見貯油施設<br />遠景

    安善-浜安善間



    米海軍鶴見貯油施設
    遠景

  • 安善-浜安善間<br /><br /><br /><br />米海軍鶴見貯油施設<br />一般人立入は不可能。

    安善-浜安善間



    米海軍鶴見貯油施設
    一般人立入は不可能。

  • 安善-浜安善間<br /><br /><br /><br />安善通驛跡<br />昭和 9年(1934年)12月 8日開設。<br />昭和13年(1938年)12月25日廃止。<br />右手空地が駅ホーム跡

    安善-浜安善間



    安善通驛跡
    昭和 9年(1934年)12月 8日開設。
    昭和13年(1938年)12月25日廃止。
    右手空地が駅ホーム跡

  • 安善-浜安善間<br /><br /><br /><br />安善運河(あんぜんうんが)橋梁<br />該橋梁は、大正15年(1926年)3月10日開通である。<br />12.9m × 4連<br />大東亜戦争中の昭和20年(1945年)8月1日空襲に依り鈑桁4連全部運河内墜落。

    安善-浜安善間



    安善運河(あんぜんうんが)橋梁
    該橋梁は、大正15年(1926年)3月10日開通である。
    12.9m × 4連
    大東亜戦争中の昭和20年(1945年)8月1日空襲に依り鈑桁4連全部運河内墜落。

  • 安善-浜安善間<br /><br /><br /><br />旧浜安善駅構内

    安善-浜安善間



    旧浜安善駅構内

  • 浜安善(はまあんぜん)駅<br /><br /><br /><br />全景<br />該駅は、大正15年(1926年)4月10日開業である。<br />但し、該駅開設当初は石油(せきゆ)驛と称した。<br />昭和5年(1930年)10月28日附で安善通(現 安善)-石油(現 浜安善)間電化と同時に旅客営業を開始したが、利用者僅少を理由に昭和13年(1938年)12月25日附で旅客営業を廃止し電化施設も撤去された。<br />防諜上の理由に依り、昭和18年(1943年)7月1日附政府買収時に濱安善驛に改名。<br />昭和61年(1986年)11月1日附で廃止されたが安善駅専用線として存続。

    浜安善(はまあんぜん)駅



    全景
    該駅は、大正15年(1926年)4月10日開業である。
    但し、該駅開設当初は石油(せきゆ)驛と称した。
    昭和5年(1930年)10月28日附で安善通(現 安善)-石油(現 浜安善)間電化と同時に旅客営業を開始したが、利用者僅少を理由に昭和13年(1938年)12月25日附で旅客営業を廃止し電化施設も撤去された。
    防諜上の理由に依り、昭和18年(1943年)7月1日附政府買収時に濱安善驛に改名。
    昭和61年(1986年)11月1日附で廃止されたが安善駅専用線として存続。

  • 安善-武蔵白石Ⅱ間<br /><br /><br /><br />安善町(あんぜんまち)驛跡<br />大正15年(1926年)3月10日に開業したが、昭和18年(1943年)7月1日附政府買収時に安善通(現 安善)驛に吸収廃止。

    安善-武蔵白石Ⅱ間



    安善町(あんぜんまち)驛跡
    大正15年(1926年)3月10日に開業したが、昭和18年(1943年)7月1日附政府買収時に安善通(現 安善)驛に吸収廃止。

  • 安善-武蔵白石Ⅱ間<br /><br /><br /><br />境運河(さかいうんが)橋梁

    安善-武蔵白石Ⅱ間



    境運河(さかいうんが)橋梁

  • 安善-武蔵白石Ⅱ間<br /><br /><br /><br />武蔵白石から鶴見方俯瞰。<br />武蔵白石駅構内から次駅たる安善駅が見える。<br />東京電力高圧送電線鉄柱は、東京電力前身の関東配電時代たる昭和17年(1942年)4月建植。

    安善-武蔵白石Ⅱ間



    武蔵白石から鶴見方俯瞰。
    武蔵白石駅構内から次駅たる安善駅が見える。
    東京電力高圧送電線鉄柱は、東京電力前身の関東配電時代たる昭和17年(1942年)4月建植。

  • 安善-武蔵白石Ⅱ間<br /><br /><br /><br />日本鋳造(にほん いぞう)本社川崎工場社員専用踏切<br />全国各地に企業学校用専用改札口は存在するが、企業通勤者人道専用踏切は極めて稀な存在。<br />一般人利用不可。

    安善-武蔵白石Ⅱ間



    日本鋳造(にほん いぞう)本社川崎工場社員専用踏切
    全国各地に企業学校用専用改札口は存在するが、企業通勤者人道専用踏切は極めて稀な存在。
    一般人利用不可。

  • 武蔵白石Ⅱ駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和6年(1931年)7月26日開業である。<br />初代無才白石Ⅰ驛は、大正15年(1926年)3月10日開業で貨物専用だったが、貨物取扱量僅少を理由に昭和5年(1930年)1月28日附で廃止された。<br />駅名は、鶴見臨港鐵道創立者 白石元治郎(しらいし もとじろう)(慶應3年(1867年)7月21日~昭和20年(1945年)12月24日)に因み命名。<br />現駅本屋は令和2年(2020年)4月12日供用。

    武蔵白石Ⅱ駅



    該駅は、昭和6年(1931年)7月26日開業である。
    初代無才白石Ⅰ驛は、大正15年(1926年)3月10日開業で貨物専用だったが、貨物取扱量僅少を理由に昭和5年(1930年)1月28日附で廃止された。
    駅名は、鶴見臨港鐵道創立者 白石元治郎(しらいし もとじろう)(慶應3年(1867年)7月21日~昭和20年(1945年)12月24日)に因み命名。
    現駅本屋は令和2年(2020年)4月12日供用。

    武蔵白石駅

  • 武蔵白石Ⅱ駅<br /><br /><br /><br />旧駅本屋<br />昭和6年(1931年)に当時の鶴見臨港鐵道建築で大東亜戦争中に於ける空襲非被災不動産で貴重な存在だったが、老朽化の為に令和元年(2019年)11月に解体された。<br />因みに、東日本旅客鉄道資料に該駅本屋建築を昭和5年(1930年)と記載しているが、該Ⅱ駅開業は昭和6年(1931年)7月26日附で明らかに誤りである。

    武蔵白石Ⅱ駅



    旧駅本屋
    昭和6年(1931年)に当時の鶴見臨港鐵道建築で大東亜戦争中に於ける空襲非被災不動産で貴重な存在だったが、老朽化の為に令和元年(2019年)11月に解体された。
    因みに、東日本旅客鉄道資料に該駅本屋建築を昭和5年(1930年)と記載しているが、該Ⅱ駅開業は昭和6年(1931年)7月26日附で明らかに誤りである。

    武蔵白石駅

  • 武蔵白石Ⅱ駅<br /><br /><br /><br />本線下り旅客ホーム

    武蔵白石Ⅱ駅



    本線下り旅客ホーム

    武蔵白石駅

  • 安善-大川間<br /><br /><br /><br />旧武蔵白石Ⅱ駅<br />旧大川支線専用ホーム跡<br />写真中央部曲線上に存在した。<br />20m車両入線に伴い建築限界通過支障を理由に撤去。

    安善-大川間



    旧武蔵白石Ⅱ駅
    旧大川支線専用ホーム跡
    写真中央部曲線上に存在した。
    20m車両入線に伴い建築限界通過支障を理由に撤去。

    武蔵白石駅

  • 武蔵白石Ⅱ駅<br /><br /><br /><br />旧大川支線旅客ホーム跡

    武蔵白石Ⅱ駅



    旧大川支線旅客ホーム跡

  • 武蔵白石Ⅱ-大川間<br /><br /><br /><br />日本鋳造(にほんいぞう)踏切<br />企業専用踏切

    武蔵白石Ⅱ-大川間



    日本鋳造(にほんいぞう)踏切
    企業専用踏切

  • 武蔵白石Ⅱ-大川間<br /><br /><br /><br />日本鋳造踏切<br />旧滑車形遮断器柱跡

    武蔵白石Ⅱ-大川間



    日本鋳造踏切
    旧滑車形遮断器柱跡

  • 武蔵白石Ⅱ-大川間<br /><br /><br /><br />白石運河(しろいし うんが)橋梁<br />該橋梁は、大正15年(1926年)3月10日開通である。<br />16.00m × 4連

    武蔵白石Ⅱ-大川間



    白石運河(しろいし うんが)橋梁
    該橋梁は、大正15年(1926年)3月10日開通である。
    16.00m × 4連

  • 武蔵白石Ⅱ-大川間<br /><br /><br /><br />白石運河橋梁<br />昭和5年(1930年)10月28日電化時の鶴見臨港鐵道建植鋼鉄製架線柱。

    武蔵白石Ⅱ-大川間



    白石運河橋梁
    昭和5年(1930年)10月28日電化時の鶴見臨港鐵道建植鋼鉄製架線柱。

  • 武蔵白石Ⅱ-大川間<br /><br /><br /><br />白石運河橋梁<br />第4号鈑桁<br />機銃掃射痕

    武蔵白石Ⅱ-大川間



    白石運河橋梁
    第4号鈑桁
    機銃掃射痕

  • 武蔵白石Ⅱ-大川間<br /><br /><br /><br />白石運河橋梁<br />第4号鈑桁<br />機銃掃射痕<br />大東亜戦争中の被災ながら被害発生時は不明。

    武蔵白石Ⅱ-大川間



    白石運河橋梁
    第4号鈑桁
    機銃掃射痕
    大東亜戦争中の被災ながら被害発生時は不明。

  • 武蔵白石Ⅱ-大川間<br /><br /><br /><br />大川駅<br />出発信号機群<br />右手 日本貨物鉄道用<br />左手 東日本旅客鉄道用<br />貨物用信号機は使用停止の為に×印状態。

    武蔵白石Ⅱ-大川間



    大川駅
    出発信号機群
    右手 日本貨物鉄道用
    左手 東日本旅客鉄道用
    貨物用信号機は使用停止の為に×印状態。

  • 武蔵白石Ⅱ-大川間<br /><br /><br /><br />大川駅<br />構内<br />貨物廃止後の軌条撤去は未施工。

    武蔵白石Ⅱ-大川間



    大川駅
    構内
    貨物廃止後の軌条撤去は未施工。

  • 大川(おおかわ)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅は、大正15年(1926年)3月10日開業である。<br />駅名は、鶴見臨港鐵道大手株主 大川平三郎(おおかわ へいざぶろう)(萬延元年(1860年)12月7日~昭和11年(1936年)12月30日)に因み命名。<br />該駅本屋は、昭和26年(1951年)再建。

    大川(おおかわ)駅



    駅本屋
    該駅は、大正15年(1926年)3月10日開業である。
    駅名は、鶴見臨港鐵道大手株主 大川平三郎(おおかわ へいざぶろう)(萬延元年(1860年)12月7日~昭和11年(1936年)12月30日)に因み命名。
    該駅本屋は、昭和26年(1951年)再建。

    大川駅

  • 大川駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />陋屋化が進行。

    大川駅



    駅本屋
    陋屋化が進行。

    大川駅

  • 大川駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム

    大川駅



    旅客ホーム

    大川駅

  • 大川駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />上屋古軌条支柱<br />60 A 1926 ⅠⅠ<br />八幡製鐡所 1926年(大正15年)2月製造

    大川駅



    旅客ホーム
    上屋古軌条支柱
    60 A 1926 ⅠⅠ
    八幡製鐡所 1926年(大正15年)2月製造

    大川駅

  • 大川駅<br /><br /><br /><br />駅構内

    大川駅



    駅構内

  • 大川駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />貨物取扱跡

    大川駅



    駅構内
    貨物取扱跡

    大川駅

  • 大川駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />貨物取扱跡<br />日清製粉 平成9年(1997年)貨車取扱廃止<br />昭和電工川崎工場 平成20年(2008年)貨車取扱廃止

    大川駅



    駅構内
    貨物取扱跡
    日清製粉 平成9年(1997年)貨車取扱廃止
    昭和電工川崎工場 平成20年(2008年)貨車取扱廃止

    大川駅

  • 大川駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />昭和電工大川工場踏切跡<br />珍しい日本貨物鉄道管理踏切だった。

    大川駅



    駅構内
    昭和電工大川工場踏切跡
    珍しい日本貨物鉄道管理踏切だった。

  • 武蔵白石Ⅱ-浜川崎間<br /><br /><br /><br />武蔵白石(むさししろいし)踏切

    武蔵白石Ⅱ-浜川崎間



    武蔵白石(むさししろいし)踏切

  • 武蔵白石Ⅱ-浜川崎間<br /><br /><br /><br />武蔵白石踏切<br />旧滑車形遮断器柱跡

    武蔵白石Ⅱ-浜川崎間



    武蔵白石踏切
    旧滑車形遮断器柱跡

  • 武蔵白石Ⅱ-浜川崎間<br /><br /><br /><br />田辺新田(たなべしんでん)可動橋<br />昇開式可動橋<br />昭和47年(1972年)設置<br />全長16.46m <br />幅  5.50m

    武蔵白石Ⅱ-浜川崎間



    田辺新田(たなべしんでん)可動橋
    昇開式可動橋
    昭和47年(1972年)設置
    全長16.46m
    幅  5.50m

  • 武蔵白石Ⅱ-浜川崎間<br /><br /><br /><br />田辺新田可動橋<br />全国に鉄道用昇降橋梁は、男鹿線八郎川橋梁、桜島線北運河橋梁の3箇所存在するが、田辺新田橋梁以外は固定化され稼働不可能であり、実際に稼働可能なのは当該橋梁のみである。<br />富士電機川崎工場製造重機搬送の為に設置されたが、該社は昭和37年(1962年)に重機製造を千葉工場開設移転した為に該橋梁設置以降、使用実績が無い。

    武蔵白石Ⅱ-浜川崎間



    田辺新田可動橋
    全国に鉄道用昇降橋梁は、男鹿線八郎川橋梁、桜島線北運河橋梁の3箇所存在するが、田辺新田橋梁以外は固定化され稼働不可能であり、実際に稼働可能なのは当該橋梁のみである。
    富士電機川崎工場製造重機搬送の為に設置されたが、該社は昭和37年(1962年)に重機製造を千葉工場開設移転した為に該橋梁設置以降、使用実績が無い。

  • 武蔵白石Ⅱ-浜川崎間<br /><br /><br /><br />海水浴前(かいすいよくまえ)臨時停留所跡<br />昭和6年(1931年)8月15日開設<br />夏季のみ臨時営業。<br />但し、工場林立に依る排水の為に水質汚濁し昭和12年(1937年)以降は非開業。<br />昭和16年(1941年)6月25日附廃止。<br />現在の該駅跡周辺に海水浴場が存在したとは想像困難。

    武蔵白石Ⅱ-浜川崎間



    海水浴前(かいすいよくまえ)臨時停留所跡
    昭和6年(1931年)8月15日開設
    夏季のみ臨時営業。
    但し、工場林立に依る排水の為に水質汚濁し昭和12年(1937年)以降は非開業。
    昭和16年(1941年)6月25日附廃止。
    現在の該駅跡周辺に海水浴場が存在したとは想像困難。

  • 武蔵白石Ⅱ-浜川崎間<br /><br /><br /><br />田辺運河(たなべうんが)橋梁

    武蔵白石Ⅱ-浜川崎間



    田辺運河(たなべうんが)橋梁

  • 武蔵白石Ⅱ-浜川崎間<br /><br /><br /><br />田辺運河橋梁<br />日本鋼管専用線橋台跡<br />昭和57年(1982年)11月15日附廃止。

    武蔵白石Ⅱ-浜川崎間



    田辺運河橋梁
    日本鋼管専用線橋台跡
    昭和57年(1982年)11月15日附廃止。

  • 浜川崎駅<br /><br /><br /><br />右 鶴見線浜川崎駅<br />左 南武線浜川崎支線浜川崎駅<br />該駅は内閣鐵道院に依り大正7年(1918年)5月1日附で開設された貨物駅が起源である。<br />その後、大正15年(1926年)5月1日附で鶴見臨港鐵道が駅開設を行い双方共に濱川崎驛を称したが、昭和5年(1930年)3月25日附で南武鐵道尻手-濱川崎間が開業し、次いで4月10日附で旅客営業開始時に新濱川崎(しんはまかわさき)驛と命名された事が原因。<br />奥 東海道本線東京貨物線田島踏切<br />登記上所在住所は道路を隔て、<br />鶴見線側は川崎区南渡田町1-2<br />南武浜川崎支線側は川崎区鋼管通5-9-1<br />

    浜川崎駅



    右 鶴見線浜川崎駅
    左 南武線浜川崎支線浜川崎駅
    該駅は内閣鐵道院に依り大正7年(1918年)5月1日附で開設された貨物駅が起源である。
    その後、大正15年(1926年)5月1日附で鶴見臨港鐵道が駅開設を行い双方共に濱川崎驛を称したが、昭和5年(1930年)3月25日附で南武鐵道尻手-濱川崎間が開業し、次いで4月10日附で旅客営業開始時に新濱川崎(しんはまかわさき)驛と命名された事が原因。
    奥 東海道本線東京貨物線田島踏切
    登記上所在住所は道路を隔て、
    鶴見線側は川崎区南渡田町1-2
    南武浜川崎支線側は川崎区鋼管通5-9-1

  • 浜川崎駅<br /><br /><br /><br />鶴見線口<br />該駅は、大正15年(1926年)3月10日に開業だが、実際には、内閣鐵道院が大正7年(1918年)5月1日に川崎-濱川崎間貨物線開通時に驛開設しており鶴見臨港鐵道が後発乗入。<br />但し、該駅旅客扱は渡田(わたりだ)驛として設置されたが、昭和18年(1943年)7月1日 鐵道省買収時に浜川崎驛統合に依り廃止。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1246

    浜川崎駅



    鶴見線口
    該駅は、大正15年(1926年)3月10日に開業だが、実際には、内閣鐵道院が大正7年(1918年)5月1日に川崎-濱川崎間貨物線開通時に驛開設しており鶴見臨港鐵道が後発乗入。
    但し、該駅旅客扱は渡田(わたりだ)驛として設置されたが、昭和18年(1943年)7月1日 鐵道省買収時に浜川崎驛統合に依り廃止。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1246

  • 浜川崎駅<br /><br /><br /><br />鶴見線改札<br />現金盗難窃盗事件防止の為に令和4年(2022年)2月28日附で自動券売機撤去。

    浜川崎駅



    鶴見線改札
    現金盗難窃盗事件防止の為に令和4年(2022年)2月28日附で自動券売機撤去。

  • 浜川崎駅<br /><br /><br /><br />鶴見線旅客ホーム<br />本来は渡田驛旅客ホームとして設置。<br />朝のラッシュ時はホームは通勤客で三社祭状態。

    浜川崎駅



    鶴見線旅客ホーム
    本来は渡田驛旅客ホームとして設置。
    朝のラッシュ時はホームは通勤客で三社祭状態。

  • 浜川崎駅<br /><br /><br /><br />日本貨物鉄道会社<br />大正7年(1918年)5月1日附開業。<br />嘗ての浜川崎機関区跡

    浜川崎駅



    日本貨物鉄道会社
    大正7年(1918年)5月1日附開業。
    嘗ての浜川崎機関区跡

  • 浜川崎駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />貨物取扱所跡<br />現在は完全に遊休施設化。<br />該駅貨物取扱量は日本国有鉄道時代常に全国1位を維持。

    浜川崎駅



    駅構内
    貨物取扱所跡
    現在は完全に遊休施設化。
    該駅貨物取扱量は日本国有鉄道時代常に全国1位を維持。

  • 浜川崎駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />手前車止は日本鋼管大島工場専用線 第1セメント専用線跡。<br />平成10年(1998年)廃止。

    浜川崎駅



    駅構内
    手前車止は日本鋼管大島工場専用線 第1セメント専用線跡。
    平成10年(1998年)廃止。

  • 浜川崎-昭和間<br /><br /><br /><br />若尾駅跡<br />昭和6年81931年)2月1日附で海川崎駅として開業し同年5月30日附で若尾駅に改名。<br />昭和18年(1943年)6月30日附で廃止。<br />左手 東日本旅客鉄道鶴見線<br />右手 日本貨物鉄道鶴見線<br />単線並列式。

    浜川崎-昭和間



    若尾駅跡
    昭和6年81931年)2月1日附で海川崎駅として開業し同年5月30日附で若尾駅に改名。
    昭和18年(1943年)6月30日附で廃止。
    左手 東日本旅客鉄道鶴見線
    右手 日本貨物鉄道鶴見線
    単線並列式。

  • 浜川崎-昭和間<br /><br /><br /><br />扇橋(おうぎばし)橋梁<br />該橋梁は、昭和3年(1928年)8月18日開通である。<br />昭和20年(1945年)8月1日空襲に依り鈑桁1連が河川内墜落被害が発生した。

    浜川崎-昭和間



    扇橋(おうぎばし)橋梁
    該橋梁は、昭和3年(1928年)8月18日開通である。
    昭和20年(1945年)8月1日空襲に依り鈑桁1連が河川内墜落被害が発生した。

  • 浜川崎-昭和間<br /><br /><br /><br />日本鋼管扇町工場・昭和石油川崎製油所・東洋埠頭川崎支店共同専用線跡<br />平成18年(2002年)3月1日附で該専用線使用中止。<br />10年以上軌条枕木未撤去状態。

    浜川崎-昭和間



    日本鋼管扇町工場・昭和石油川崎製油所・東洋埠頭川崎支店共同専用線跡
    平成18年(2002年)3月1日附で該専用線使用中止。
    10年以上軌条枕木未撤去状態。

  • 昭和(しょうわ)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和6年(1931年)3月26日開業である。<br />該駅隣接の昭和肥料通勤客の為に設置。<br />昭和肥料は国策に依る企業合併に依り昭和14年(1939年)6月1日附で日本電気工業と対等合併し昭和電工が成立した。<br />因みに、東日本旅客鉄道資料に、初代駅本屋建築を昭和4年(1929年)と記載しているが明らかに誤りである。

    昭和(しょうわ)駅



    該駅は、昭和6年(1931年)3月26日開業である。
    該駅隣接の昭和肥料通勤客の為に設置。
    昭和肥料は国策に依る企業合併に依り昭和14年(1939年)6月1日附で日本電気工業と対等合併し昭和電工が成立した。
    因みに、東日本旅客鉄道資料に、初代駅本屋建築を昭和4年(1929年)と記載しているが明らかに誤りである。

    昭和駅

  • 昭和駅<br /><br /><br /><br />駅本屋は老朽化の為に解体撤去。<br />同時に現金盗難窃盗事件防止の為に令和4年(2022年)2月28日附で自動券売機撤去。

    昭和駅



    駅本屋は老朽化の為に解体撤去。
    同時に現金盗難窃盗事件防止の為に令和4年(2022年)2月28日附で自動券売機撤去。

    昭和駅

  • 昭和駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />片持屋根上屋。

    昭和駅



    旅客ホーム
    片持屋根上屋。

    昭和駅

  • 昭和-扇町間<br /><br /><br /><br />単線並列<br />右手 東日本旅客鉄道鶴見線<br />左手 日本貨物鉄道鶴見線

    昭和-扇町間



    単線並列
    右手 東日本旅客鉄道鶴見線
    左手 日本貨物鉄道鶴見線

  • 扇町(おうぎまち)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和3年(1928年)8月18日開業である。<br />即ち、該駅隣接の南満州鐵道川崎埠頭倉庫(現 三井埠頭川崎倉庫)、及び、昭和肥料(現 昭和電工)川崎工場貨車取扱の為に開設。<br />旅客営業は昭和5年(1930年)1月28日附で開始され片1面式ホームが設置された。<br />初代駅本屋施設は、昭和20年(1945年)8月1日空襲で被災全焼。<br />現駅本屋は3代目で昭和48年(1973年)建築。<br />駅出改札業務廃止後建築故に当該設備跡は存在しない。

    扇町(おうぎまち)駅



    該駅は、昭和3年(1928年)8月18日開業である。
    即ち、該駅隣接の南満州鐵道川崎埠頭倉庫(現 三井埠頭川崎倉庫)、及び、昭和肥料(現 昭和電工)川崎工場貨車取扱の為に開設。
    旅客営業は昭和5年(1930年)1月28日附で開始され片1面式ホームが設置された。
    初代駅本屋施設は、昭和20年(1945年)8月1日空襲で被災全焼。
    現駅本屋は3代目で昭和48年(1973年)建築。
    駅出改札業務廃止後建築故に当該設備跡は存在しない。

    扇町駅

  • 扇町駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />下車客は3人のみ。<br />閑散。

    扇町駅



    旅客ホーム
    下車客は3人のみ。
    閑散。

    扇町駅

  • 扇町駅<br /><br /><br /><br />該線終端部

    扇町駅



    該線終端部

    扇町駅

  • 扇町駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />昭和電工扇町事業所専用線跡<br />平成20年(2008年)液化アンモニア液化塩素貨車輸送廃止に依り連絡線も廃止撤去。

    扇町駅



    駅構内
    昭和電工扇町事業所専用線跡
    平成20年(2008年)液化アンモニア液化塩素貨車輸送廃止に依り連絡線も廃止撤去。

    扇町駅

  • 扇町駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />貨車留置線跡<br />後方2本煙突は東日本旅客鉄道川崎火力発電所。

    扇町駅



    駅構内
    貨車留置線跡
    後方2本煙突は東日本旅客鉄道川崎火力発電所。

    扇町駅

  • 扇町駅<br /><br /><br /><br />日本貨物鉄道駅本屋<br />令和2年以降、貨車取扱実績無く開店休業状態。

    扇町駅



    日本貨物鉄道駅本屋
    令和2年以降、貨車取扱実績無く開店休業状態。

    扇町駅

  • 扇町駅<br /><br /><br /><br />三井埠頭専用線<br />令和2年(2020年)3月14日附で該埠頭専用線発着貨車取扱廃止に依り使用中止。

    扇町駅



    三井埠頭専用線
    令和2年(2020年)3月14日附で該埠頭専用線発着貨車取扱廃止に依り使用中止。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • masamimさん 2023/04/20 12:35:28
    ここに鶴見線のすべてが詰まっていますね。懐かしく拝見しました!
    横浜臨海公園さん、こんにちは! masamimです。

    歴史的痕跡探訪記の鶴見線編を拝見しました。
    ここに鶴見線のすべてが詰まっている壮大な歴史書で、完全保存版でしょう。
    本当に驚きながら興味深く読み進みましたよ!

    京浜工業地帯は、横浜では子安・生麦・鶴見あたりに企業が集積してましたね。
    私は学校は新子安でしたし、若い頃に鶴見の事務所で働いていたことがあって思い入れはけっこう強い方だと思います。

    もちろん鶴見線にも乗ったことがあります。
    JRのくすんだあずき色のの電車・・
    何処かからお古の電車を持ってきたのかと思ってましたね^^

    もう30年くらい前ですが、鶴見川の花火や花月園や安善の公園であった区民フェスティバルにボランティアで手伝いに行ったな・・
    市政100周年で区の花にサルビアが選定されたり、ボラ機運が高まってましたね。

    横浜臨海公園さんが紹介された駅や場所のそれぞれにに懐かしさを覚えましたが、
    やっぱり国道駅ですね・・

    映画の舞台になってたから駅構内に写真が飾られてましたもんね^^
    近くの老舗の天ぷら屋にも食べに行きました。
    生麦の魚河岸通りにも、早起きして買い物に行ってましたね・・
    思い出が詰まっていますから、往時のいろいろな思いが浮かんできました。

    でも、やっぱり思い出したくないことがありますね・・

    部活の後の夕方に坂の上から線路側を見ると、いつも日石の工場あたりを列車が黒煙を上げながら通っていました。
    臭いもひどいし、空の色も変わってしまいます。

    公害まき散らしですからね。
    その当時は、健康被害、環境汚染などお構いなし。
    pollutionなんて意識もされていなかったですね・・

    久しぶりに、おきなわ物産センターにでも行って来ようと思います。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2023/04/21 10:28:08
    拝復
    masamimさま、こんにちは。


    拙稿に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    当該旅行記構想は10年以上前から有りましたが、近場で何時でも訪れる事が可能であり、且つ、余り沿線にも魅力が乏しいが為に着手が延び延びになってしまいました。

    それにしても、鶴見線沿線、40年前と殆ど変わっておらず、歴史から取り残された感じが無きにしもあらずと感じられました。
    国道駅は浮浪者対策でコンクリートで封鎖されたのは残念に思います。

    それから子安公園に在る淺野翁の等身大銅像の写真を掲載するか否かを悩みましたが、淺野翁を掲載すると他の関係者の銅像も掲載しなければならず断念しました。


    新子安の高校に通学されておられた由。
    横浜市内は元国会議員も含め某高校出身者が多いですね。
    因みに、小生は根岸線沿線の公立高校に通いました。

    今後とも何卒宜敷くお願い申します。




    横浜臨海公園

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