2011/11/16 - 2011/11/16
185位(同エリア894件中)
愛吉さん
シルバーカレッジOB会のメンバーで岩槻を訪ねました。
人形のまち、として有名です。
しかし見所は他にもあります、西遊記で有名な三蔵法師の遺骨を祀ったお寺や、二万二千石の城下町散策等です。
集合は9時20分、大宮駅中央改札口です。
全員揃ったところで出発、東武野田線に乗って東岩槻下車、バスに乗換 終点の慈恩寺に行きます。
慈恩寺は、知る人ぞ知る三蔵法師の遺骨を守っている古刹です。
又坂東三十三観音の十二番札所でもあります。
それでは、お参りに行きましょう。
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- JRローカル
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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慈恩寺の山門
慈恩寺は、天長元年(824)に慈覚大師が毘沙門天のお告げにより、千手観音を祀ったのが始まりです。
創建当時の仏像は焼失し、現在の本尊は寛永11年(1634)に天海僧正により納められたものです。
寺名は、開山の慈覚大師が、唐に渡り修行した、長安の大慈恩寺から命名されました。
又江戸時代は、徳川家の庇護も厚く、66の僧坊をも有していたそうです。
正式名称は、華林山慈恩教寺と称し、天台宗の古刹です。 -
山門の脇から眺めた本堂です。
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本堂の正面。
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正面に掛る扁額。
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天正17年に北条房実により寄進された、南蛮鉄灯籠。
本堂脇にあります。
天正とは、織田信長の時代、小田原の北条一族の寄進でしょう。 -
本堂の隣には、茅葺の家が有りました。
僧坊の一つでしょうか。 -
境内の一角では、菊の展示会です。
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見事な菊です。
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懸崖仕立て
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裏の墓地の入口には、六地蔵が立って居ます。
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古そうな墓石が並びます。
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寺の入口横には、こんな案内板が有りました。
案内に沿って歩いてみましょう。 -
新しい出入口(多分昭和)より見た本堂。
ここから歩き始めます。 -
道は舗装されていますが、両側はこのような畑が続きます。
柿がなって居ます。 -
道の所どころに、野菜の無人スタンドが有ります。
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又所どころに整地された空き地があり、この様な小さな祠や石仏等が立って居ます。
僧堂の跡なのでしょう。 -
15分も歩くと有りました、玄獎塔です。
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門の脇には、説明板が有ります。
これにより、玄獎三蔵は西遊記で有名な三蔵法師で、遠く天竺迄旅をして、多くの経典を中国にもたらし、帰国後は長安の大慈恩寺に籠って経典の翻訳に取り組んだ高僧だと判ります。
その遺骨に関しては、所在不明でしたが、たまたま昭和17年12月に日本軍が南京での工事中に一つの棺を掘り出し、その墓誌により三蔵法師と判明しました。
遺骨は当時の南京政府に引き渡されましたが、昭和19年南京に玄獎塔が建立されるにあたり、一部の骨が分骨され、日本に渡って来ました。
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塔の前には花が活けてあり、ろうそくの燈明も灯っていました。
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玄獎塔の全景です。
十三重の石塔です。 -
塔の前には、塔の建立に尽力した顕徳の碑が立って居ます。
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三蔵法師の旅姿の銅像です。
では次に、何故三蔵法師の分骨が、ここ慈恩寺にあるかです。
当初分骨は、日本仏教連合会が置かれていた芝増上寺に安置されました、しかし空襲による焼失を恐れ、何処か郊外に移すことに成り、最終検討の末ここが選ばれたのです。
理由は開祖の慈覚大師です、慈覚大師が唐で勉学に励んだ寺は大慈恩寺です、又三蔵法師が帰国後、経典の翻訳に取り組んだのも同じ大慈恩寺です。
しかもこの寺の名前が慈恩寺と云うのです。
寺格も高いです。 これで決まりです。
尚中国の大慈恩寺は、西安に現存し、大雁塔として有名です。
大雁塔は、三蔵法師が印度から持ち帰った経典を納める為に建てた塔で、多くの日本人も訪れています。
私も20年前に訪ねました。
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銅像の横には池が有り、そこから這い出したように大きな亀の石像が有りました。
亀には髭が生えています。
最後に戦後の経緯について述べてみます。
一時分骨返還の動きが有り、当時の国民政府に申し出をしましたが、蒋介石総統より、返還には及ばぬとの返事がありましたので、この地に霊骨塔を建設して奉安しました。
その後、昭和30年当時の台湾政府より分骨要請が有り、分骨しました。
尚台湾では、玄奨寺を建てて安置して居ります。
又昭和57年、災害による全滅を恐れ、奈良の薬師寺にも分骨されています。
分骨の経緯は、薬師寺の宗祖が慈恩大師と呼ばれる高僧で、遣唐使として唐に渡り、大慈恩寺で、直接玄奨三蔵法師より教えを受けた事に依るものです。
そう言えば薬師寺には、玄奨三蔵院が有り、平山郁夫画伯の西域壁画が有名ですね。 -
時計を見ると11時30分を指しています。
バスで街中に戻り昼食です。
岩槻はそばが名産なのでしょうか、そば屋が目に付きます。
城址近くのこのそばや、そば蔵に入ります。 水車が回って老舗の感じです。 -
お腹も膨れた処で、岩槻城址の見学です。
この城は、1457年に上杉持朝が、大田道真、道灌親子に命じて築城させたのが始まりで、別名白鶴城と呼ばれました。(別説もあるそうです)
その後小田原の北条氏の支配に入りましたが、1590年 秀吉の小田原攻めの時には、僅か2日で落城しました。
徳川の時代になると、江戸城の北側の守りとして、代々譜代大名が城主を務めました。 明治維新時には大岡氏 2万2千石です。
城としては、自然の川と沼を堀とする水城で、石垣や天守は初めから有りません。 -
岩槻城の城門
明治維新により城は廃城となり、建物は取り壊され、払い下げられました。
この門も城の門と云うだけで、何処にあったか不明だそうです。
長く県知事公舎の正門、岩槻市役所の通用門として使われていましたが、1970年この場所に移築されました。 -
門の案内です。
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城址に入ります。
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沼に赤い橋が掛って居ます、角が八つある八橋です、東日本大震災により壊れたので修理中で渡れません。
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近くで見ると、この様に角が付いています。
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時の鐘に来ました。
1671年に造られたもので、城下に時刻を知らせていました。 -
この鐘楼は、1853年に造られたものです。
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遷喬館 岩槻藩の藩校です。
当時は梅林を伴った広大な敷地を持ち、武芸稽古場、菅原道真を祀る社、観望台等が有ったそうです。
中を見学します。 -
街を歩くと、昔の武家屋敷の面影が残っています。
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岩槻駅に戻って来ました。
駅前には人形店が多く在ります。
岩槻が人形の町として栄えた始まりは、この地で産する桐の粉が胡粉に最適で、日光東照宮の造営に多く使われました、これが元で日光を終えた職人の幾人かが、ここ岩槻に留まり、人形制作を始めたのが興りだそうです。
そういえば日光御成り街道が街中を通り、宿場町に成って居ました。
街道を通る人達が、お土産に買っていったのでしょう。 -
人形店の一つに入ってみました。
雛人形が飾ってあります。 -
色々な種類の雛人形が、処狭しと並んでいます。
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市松人形もあります。 可愛いくて孫に買いたくなりますが、値段を見て退散です。
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これで岩槻を代表する箇所は回った事になります。
ぼつぼつ帰るとしましょう。 岩槻駅は目の前です。
最後に振返って、改めて目の保養です。
終
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