2011/10/23 - 2011/10/23
2027位(同エリア3023件中)
キヌちちさん
念願だった広島市平和記念公園と原爆ドームに行ってきました。長崎と共に核兵器の被害に遭遇した悲惨な史実に触れ、改めて平和の尊さを実感しました。
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原爆ドームの前に佇立し、ただただ感慨に浸りました。「人類史上最初の原子爆弾による被爆の惨禍を伝える歴史の証人として、また、核兵器廃絶と恒久平和を求める誓いのシンボル」として、1996年12月にユネスコの世界遺産登録された。
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原爆ドームは広島県産業奨励館だった建物。1945年8月6日午前8時15分、米軍の原爆投下に伴い建物は瞬時に大破し、天井から火を吹いて全焼、中にいた約30人は全員死亡したという。真上からの爆風により建物の鉄枠と壁の一部が倒壊を免れた。米軍の占領の終了後に「原爆ドーム」と呼ばれるようになった。1966年に永久保存が決定され、幅広い募金によりこれまで3度の保存工事が実施された。
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原爆ドーム
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相生橋。全国でも珍しいT字形をしており、原爆投下はこの橋を目標にしたといわれている。原爆は目標をそれて300?離れた上空で炸裂。衝撃波で橋桁は変形し、北側の欄干は川に落ち、歩道の一部が持ち上がった。被爆当時の橋は1932年に建設されが、老朽化のため1983年に新しく架け替えられた。爆風で変形した橋桁の一部は広島平和記念資料館に展示されている。
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相生橋
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相生橋の説明看板
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相生橋横の像
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元安川の対岸から見た原爆ドーム。
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元安川の対岸から見た原爆ドームと広島県産業奨励館(原爆ドーム)の説明看板。
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原爆ドーム前の元安川を航行する平和公園と宮島を結ぶフェリー。
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平和の時計塔。3本の鉄柱がそれぞれ60度ずつひとひねりした塔上に、球体の3方を向いた時計が載っている。高さ20?で1967にチャーター伝達10周年を記念して広島鯉城ライオンズクラブが設けた。
碑文に「核原子力の出現により、人類はいま生か死か、破滅か、繁栄かの岐路に立っている。ひろい世界を同じ心で一つに結ぶ、全世界のライオンズ会員が平和実現のために果たす役割りは大きい。原爆ドームの永久保存に呼応し、人類が初の原爆の洗礼を受けた時刻、8時15分に、毎日全世界に向けこの時計塔のチャイムが「ノーモアヒロシマ」を強く訴え、人類の恒久平和実現の一日も早からんことを祈り、この時計塔を建設し、市に贈るものである」とある。 -
平和の池。幅17?、長さ70?で原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)を囲み、碑が浮かび上がるように設計されている。
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平和の灯。水を求めてやまなかった犠牲者を慰め、核兵器廃絶と世界恒久平和を希求する願いを込めている。全国12宗派から寄せられた“宗教の火”、溶鉱炉などの全国の工場地帯から届けられた“産業の火”が1945年8月6日生まれの7人の広島の乙女により点火された。燃え続ける火は、1964年8月1日に点火されて以来ずっと燃え続けており、「核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴となっている。
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原爆供養塔。爆心地に近い原爆供養塔の付近には遺体が散乱し、川から引き上げられたものなど、無数の遺体が運ばれ、荼毘にふされた。1946年に市民からの寄付により仮供養塔、仮納骨堂・礼拝堂が建立され、1955年に広島市が中心となり、老朽化した遺骨堂を改築し、各所に散在していた引き取り手のない遺骨も集めて納めた。土盛りの内部には納骨堂があり、一家全滅で身内の見つからない遺骨や氏名の判明しない遺骨約7万柱が納められている。
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1946年以後、毎年8月6日に原爆供養塔の前で、さまざまな宗教・宗派合同の供養慰霊祭が営まれている。
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原爆供養塔前にはたくさんの千羽鶴が置かれていた。
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中島勧商場跡。中島勧商場は広島城下の商業の中心地だった。1882年に各種商品を取り扱う集団的な小売店舗商業として中島集散場が開設され、1892年に中島勧商場と改称された。付近には映画館、玉突場、射的場などの遊技場が軒を連ね、昭和初期まで市内第一の歓楽地として繁栄を続けた。
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高校生の集団だろうか?ガイドさんの説明に熱心に耳を傾けていた。
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平和の鐘。宇宙を表現したドーム型の屋根を4本の柱が支えており、すべての核兵器と戦争のない、平和共存の世界を達成することを目指して建立された。
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原爆の子の像。高さ9?、3脚のドーム型の台座の頂上に金色の折鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立ち、左右に少年少女の像が設けられ、平和な未来への夢と明るい未来と希望を託している。
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原爆の子の像は2歳で被爆し小学6年生で亡くなった佐々木禎子さんをはじめ、原爆で亡くなった大勢の子供らの霊を慰め、世界に平和を呼び掛ける。碑文に「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」と刻まれている。
2歳の時に被爆した佐々木禎子さんは10年後の小学6年生の時に突然白血病と診断され、8カ月間の闘病生活の後、1955年10月25日に亡くなった。禎子さんは「鶴を千羽折ると病気が治る」と信じ、薬の包み紙や包装紙などで1300羽以上の鶴を折り続け、ヒロシマの悲劇の象徴として、日本だけでなく海外でも広く語り継がれているという。
像は子供らによる募金活動と国外からの支援により建立された。塔の内部にはノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹博士の筆による「千羽鶴」、「地に空に平和」の文字が彫られた銅鐸を模した鐘が吊られ、その下に金色の鶴が吊るされ、風鈴式に音が出るようになっている。 -
原爆の子の像に捧げられる数多くの折り鶴を雨露から守るため、2002年に像の周囲に新たに屋根付きの折り鶴ブースが整備された。
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「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」と刻まれた原爆の子の像の碑文。
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原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)。犠牲者の霊を雨露から守りたいという願いから屋根の部分を埴輪の家型にし、世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を平和都市として再建することを念願して設けられた。
碑文に「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻み込まれている。中央の石室には国内外を問わず、原子爆弾に被爆して死亡した人の名前を記帳した原爆死没者名簿が納められている。 -
平和記念公園、面積約12万2100平方?。
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平和の像「若葉」。高さ1.8?のブロンズ像で円鍔勝三氏(広島県生まれの彫刻家。「若葉」のほか「動員学徒慰霊塔」など、多くの平和モニュメントを制作)の制作。少女を見上げている小鹿に少女が左手を差し伸べ、今にも駆け出しそうな姿で立っている。歌碑「まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは」は湯川秀樹博士による。
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嵐の中の母子像。高さ1.5?、幅1.6?、奥行き65?のブロンズ像で本郷新氏の制作。右手で乳飲み子を抱え、左手で幼児を背負おうとしながら、前かがみ姿勢で生き抜こうとする母の姿を表し、核兵器廃絶への限りない努力を呼び掛ける。
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像が上に載っている郵便ポスト
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広島平和記念資料館にある広島市平和記念公園の案内図。
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