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◆西国街道の宿場町へ<br /><br /> この日の第一の目的はダリア観賞でした。このあと上下町からちょっと想い出ふかい場所へ寄って福山市へ向かいました。<br /> ※なお、表紙の絵は廉塾の講堂前にある丸形と角形の手水舎です。<br /><br />・廉塾<br /> 広島県神辺町、高屋川沿いにある廉塾は、儒学者、漢詩人として江戸時代後期に名を馳せた菅茶山(かんちゃざん)が創設した私塾である。<br /> 江戸時代には数多くの私塾が作られたが、多くの建造物が良好に残る廉塾はその中でも最も昔の姿を留めており、郷学としての旧観を今に伝える極めて貴重な遺構とされ特別史跡に指定された。<br /> 廉塾の講堂前にある手水鉢は御影石が丸と四角に彫られています。<br /> 「方円の手水鉢」とよばれるこの手洗いは、水は入れ物によってどんなにでも形が変わる、人も教育によってよくも悪くもなると教育の大切さを表したものといわれています。<br /><br />・神辺本陣跡<br /> 神辺は江戸時代、備中矢掛と備後今津(現福山市松永町)の中間に位置し、山陽道の宿駅として栄えた。<br /> それ以前には三日市・七日市・十日市などの地名があるように、市場町として賑わっていた。今でも軒の低い町家と古びた格子の商家が旧道の両側に残っている。<br /> 神辺の宿の本陣は、三日市の尾道屋菅波(すがなみ)家(西本陣)と七日市の本荘屋(ほんじょうや)菅波家(東本陣)が勤めた。<br /> 寛文年間(1661〜73)に尾道屋が筑前黒田家の本陣を勤めてからは、同家専用の本陣になったといわれ、一般には黒田家以外の本陣を本荘屋が勤めたとされる。<br /> 天保3年(1832)西本陣の規模は、敷地4反5畝余(約45アール)、棟数27、土蔵6、湯殿6、門3、間数21、畳数200余枚であった。当主の記録『信道一代(しんどういちだい)記』によると嘉永(かえい)7年(1854)4月26日には、黒田家の者1500人を町屋への分宿を含めて泊めている。<br /> 現在神辺本陣と呼ばれるものはその西本陣で、屋敷と主要建物を残し、往時を伝えている。<br /> 延享5年(1748)建立の本屋は、御成(おなり)の間、上段の間、三の間、札(ふだ)の間、玄関、敷台などからなり、札の間には、投宿時に門前に掲げた木札多数を残している。<br /> 天保2年(1831)の住居の背後には馬屋がある。安政2年(1855)の正門を中心に、木造瓦葺きの塀が屋敷を囲み、景観を整えている。<br /> 東本陣は、明治期にほとんど解体され、面影を失った。<br /><br />◆天別豊姫神社−あまわけとよひめじんじゃ−<br /> 古来、福山市の神辺町・駅家町・新市町辺りまで入江となっており、海であった。 この一帯に住んでいた漁民が豊漁を願って、海神である豊玉姫命を祭ったのではないかといわれている。<br /> 伝承によると、現在の鎮座地である吉野山の東麓、網付谷というところの荒磯岩上に磯神社として鎮座し、後にさらに奥の地の小中山という地に遷座、建武年中(1334〜1335)に朝山次郎佐衛門尉景連が黄葉山(吉野山)上に神辺城を築城した際、城郭の守護神として現在の地に遷座したと言われている。<br /> いつから天別豊姫神社と称するようになったのかは定かではない。<br /> 後に神辺大明神と呼ばれるようになり、明治2年に再び現在の社名に改称した。<br /><br />

Solitary Journey [947] 西国街道の宿場町へ<神辺本陣&廉塾菅・茶山旧宅&天別豊姫神社>広島県福山市神辺町

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2011/09/18 - 2011/09/18

52位(同エリア334件中)

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MechaGodzillaⅢ&703

MechaGodzillaⅢ&703さん

◆西国街道の宿場町へ

 この日の第一の目的はダリア観賞でした。このあと上下町からちょっと想い出ふかい場所へ寄って福山市へ向かいました。
 ※なお、表紙の絵は廉塾の講堂前にある丸形と角形の手水舎です。

・廉塾
 広島県神辺町、高屋川沿いにある廉塾は、儒学者、漢詩人として江戸時代後期に名を馳せた菅茶山(かんちゃざん)が創設した私塾である。
 江戸時代には数多くの私塾が作られたが、多くの建造物が良好に残る廉塾はその中でも最も昔の姿を留めており、郷学としての旧観を今に伝える極めて貴重な遺構とされ特別史跡に指定された。
 廉塾の講堂前にある手水鉢は御影石が丸と四角に彫られています。
 「方円の手水鉢」とよばれるこの手洗いは、水は入れ物によってどんなにでも形が変わる、人も教育によってよくも悪くもなると教育の大切さを表したものといわれています。

・神辺本陣跡
 神辺は江戸時代、備中矢掛と備後今津(現福山市松永町)の中間に位置し、山陽道の宿駅として栄えた。
 それ以前には三日市・七日市・十日市などの地名があるように、市場町として賑わっていた。今でも軒の低い町家と古びた格子の商家が旧道の両側に残っている。
 神辺の宿の本陣は、三日市の尾道屋菅波(すがなみ)家(西本陣)と七日市の本荘屋(ほんじょうや)菅波家(東本陣)が勤めた。
 寛文年間(1661〜73)に尾道屋が筑前黒田家の本陣を勤めてからは、同家専用の本陣になったといわれ、一般には黒田家以外の本陣を本荘屋が勤めたとされる。
 天保3年(1832)西本陣の規模は、敷地4反5畝余(約45アール)、棟数27、土蔵6、湯殿6、門3、間数21、畳数200余枚であった。当主の記録『信道一代(しんどういちだい)記』によると嘉永(かえい)7年(1854)4月26日には、黒田家の者1500人を町屋への分宿を含めて泊めている。
 現在神辺本陣と呼ばれるものはその西本陣で、屋敷と主要建物を残し、往時を伝えている。
 延享5年(1748)建立の本屋は、御成(おなり)の間、上段の間、三の間、札(ふだ)の間、玄関、敷台などからなり、札の間には、投宿時に門前に掲げた木札多数を残している。
 天保2年(1831)の住居の背後には馬屋がある。安政2年(1855)の正門を中心に、木造瓦葺きの塀が屋敷を囲み、景観を整えている。
 東本陣は、明治期にほとんど解体され、面影を失った。

◆天別豊姫神社−あまわけとよひめじんじゃ−
 古来、福山市の神辺町・駅家町・新市町辺りまで入江となっており、海であった。 この一帯に住んでいた漁民が豊漁を願って、海神である豊玉姫命を祭ったのではないかといわれている。
 伝承によると、現在の鎮座地である吉野山の東麓、網付谷というところの荒磯岩上に磯神社として鎮座し、後にさらに奥の地の小中山という地に遷座、建武年中(1334〜1335)に朝山次郎佐衛門尉景連が黄葉山(吉野山)上に神辺城を築城した際、城郭の守護神として現在の地に遷座したと言われている。
 いつから天別豊姫神社と称するようになったのかは定かではない。
 後に神辺大明神と呼ばれるようになり、明治2年に再び現在の社名に改称した。

同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車

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  • ◆世羅高原農場<br /><br /> この日の第一の目的はダリア観賞でした。このあと上下町からちょっと想い出ふかい場所へ寄って福山市へ向かいました。

    ◆世羅高原農場

     この日の第一の目的はダリア観賞でした。このあと上下町からちょっと想い出ふかい場所へ寄って福山市へ向かいました。

  • ◆途中の景色 甲奴町R51号線<br /><br />・憧れの里祇園茶屋

    ◆途中の景色 甲奴町R51号線

    ・憧れの里祇園茶屋

  • ◆上下キリスト教会 車内から写〜通過<br /><br />…広島県文化百選に選ばれた建物<br /> 上下町は県の東北部山間に位置し豊かな自然を持ち、山陰と山陽を結ぶ石州街道の宿場町として、また石見銀山からの銀を運ぶ銀山街道の中継地・宿場町として江戸時代に栄えました。<br />

    ◆上下キリスト教会 車内から写〜通過

    …広島県文化百選に選ばれた建物
     上下町は県の東北部山間に位置し豊かな自然を持ち、山陰と山陽を結ぶ石州街道の宿場町として、また石見銀山からの銀を運ぶ銀山街道の中継地・宿場町として江戸時代に栄えました。

  • ◆格子作りの商家灯篭型行燈 車内から写<br /><br />・春の訪れを告げるひなまつり <上下町‘でこ市’風景><br /> http://4travel.jp/traveler/godzilla/album/10551181/

    ◆格子作りの商家灯篭型行燈 車内から写

    ・春の訪れを告げるひなまつり <上下町‘でこ市’風景>
     http://4travel.jp/traveler/godzilla/album/10551181/

  • ◆上下町旧警察署と物見やぐら<br /><br />…明治時代の警察署<br /><br />・白壁の町並みを彩る‘雛人形’<上下ひなまつり><br /> http://4travel.jp/traveler/godzilla/album/10431986/

    ◆上下町旧警察署と物見やぐら

    …明治時代の警察署

    ・白壁の町並みを彩る‘雛人形’<上下ひなまつり>
     http://4travel.jp/traveler/godzilla/album/10431986/

  • ◆上下町翁座 車内から写<br /><br />…大正時代の建築物。<br />

    ◆上下町翁座 車内から写

    …大正時代の建築物。

  • ◆車内から写<br /><br /> 上下町?神石町?の広告塔かな。

    ◆車内から写

     上下町?神石町?の広告塔かな。

  • ◆R418号線三和町<br /><br />・元サンワライディングファーム入り口近辺<br /><br /> 遠い昔、妻と来たことがある場所です。ちょっと想い出がありましたので寄ってみました。サンワライディングファームはもう閉鎖されています。

    ◆R418号線三和町

    ・元サンワライディングファーム入り口近辺

     遠い昔、妻と来たことがある場所です。ちょっと想い出がありましたので寄ってみました。サンワライディングファームはもう閉鎖されています。

  • ◆福山市神辺町<br /><br /> 福山市神辺町へ到着しました。神経痛が痛いよお〜<br /> 正面の山は神邊城跡です。<br /><br />

    ◆福山市神辺町

     福山市神辺町へ到着しました。神経痛が痛いよお〜
     正面の山は神邊城跡です。

  • ◆神辺本陣<br /><br /> 神辺本陣は2度目の訪問になります。江戸時代に参勤交代の大名が休泊した施設です。<br /> 建物は当時の姿をそのまま約250年間伝えています。 <br /><br />

    ◆神辺本陣

     神辺本陣は2度目の訪問になります。江戸時代に参勤交代の大名が休泊した施設です。
     建物は当時の姿をそのまま約250年間伝えています。

  • ◆神辺本陣<br /><br /> 本陣は大名宿とも言われ,江戸時代(1603〜1867),街道の宿場に置かれた大名・公家・幕府役人などの宿泊所です。 <br /><br />

    ◆神辺本陣

     本陣は大名宿とも言われ,江戸時代(1603〜1867),街道の宿場に置かれた大名・公家・幕府役人などの宿泊所です。

  • ◆神辺本陣<br /><br /> 庭先

    ◆神辺本陣

     庭先

  • ◆神辺本陣<br /><br /> 建物は書院造で門・玄関・上段の間がある広大な規模ですが,この制度は,明治3年(1870)に廃止されました。<br /><br /><br />

    ◆神辺本陣

     建物は書院造で門・玄関・上段の間がある広大な規模ですが,この制度は,明治3年(1870)に廃止されました。


  • ◆神辺本陣<br /><br /> 神辺は江戸時代に備中(岡山県)矢掛(やかげ)と備後今津の中間に位置する西国街道の宿場町として栄え,その名残りはこの神辺本陣に偲ぶことができます。

    ◆神辺本陣

     神辺は江戸時代に備中(岡山県)矢掛(やかげ)と備後今津の中間に位置する西国街道の宿場町として栄え,その名残りはこの神辺本陣に偲ぶことができます。

  • ◆神辺本陣<br /><br /> 札の間には休泊した大名の関札が多数かけられています。 <br /><br />

    ◆神辺本陣

     札の間には休泊した大名の関札が多数かけられています。

  • ◆神辺本陣<br /><br /> 延享5年(1748)に建てられた本陣の本屋は,御成の間・上段の間・三の間・札の間・玄関に至るまで参勤交代の諸侯が宿泊した当時の面影をとどめています。<br /><br /><br />

    ◆神辺本陣

     延享5年(1748)に建てられた本陣の本屋は,御成の間・上段の間・三の間・札の間・玄関に至るまで参勤交代の諸侯が宿泊した当時の面影をとどめています。


  • ◆神辺本陣 旧山陽道<br /><br /> 神辺本陣はもと七日市の東本陣と三日市の西本陣の二軒ありましたが,西本陣のみが現存しています。  <br /><br />

    ◆神辺本陣 旧山陽道

     神辺本陣はもと七日市の東本陣と三日市の西本陣の二軒ありましたが,西本陣のみが現存しています。 

  • ◆神辺本陣辺りの町並み 旧山陽道<br /><br /> 明治以降も旧街道沿いは町の中心地としての役割が残り、また隣町の新市とならんで「備後絣」として知られていた織物業が盛んでした。 <br /> かつては賑わいを呈していた宿場街でした。

    ◆神辺本陣辺りの町並み 旧山陽道

     明治以降も旧街道沿いは町の中心地としての役割が残り、また隣町の新市とならんで「備後絣」として知られていた織物業が盛んでした。
     かつては賑わいを呈していた宿場街でした。

  • ◆神辺本陣辺りの町並み<br /><br /> 3階建てですね。神辺宿としての情緒が感じられます。 <br /><br />

    ◆神辺本陣辺りの町並み

     3階建てですね。神辺宿としての情緒が感じられます。

  • ◆神辺の町並み 旧山陽道<br /><br /> 神辺驛跡、太閤屋敷跡…とある。<br /> ここは、山陽道の宿場驛の跡、太閤秀吉が朝鮮役よりの帰途立ち寄った館の跡と言われています。

    ◆神辺の町並み 旧山陽道

     神辺驛跡、太閤屋敷跡…とある。
     ここは、山陽道の宿場驛の跡、太閤秀吉が朝鮮役よりの帰途立ち寄った館の跡と言われています。

  • ◆神辺の町並み 旧山陽道<br /><br /> 岩ノ戸七五三吉墓 なんでしょう?

    ◆神辺の町並み 旧山陽道

     岩ノ戸七五三吉墓 なんでしょう?

  • ◆神辺の町並み 旧山陽道<br /><br /> 菅茶山旧宅そばの饅頭屋さん。神辺名産‘茶山饅頭’とある。 <br /><br />

    ◆神辺の町並み 旧山陽道

     菅茶山旧宅そばの饅頭屋さん。神辺名産‘茶山饅頭’とある。

  • ◆廉塾ならびに菅茶山旧宅<br /><br /> 菅茶山という名は、名字の一文字と茶臼山からとったものということです。<br /> 茶山が生まれた1700年代は、平和で文化の時代といわれ、平賀源内・杉田玄白などもこの頃の人でした。<br /><br />

    ◆廉塾ならびに菅茶山旧宅

     菅茶山という名は、名字の一文字と茶臼山からとったものということです。
     茶山が生まれた1700年代は、平和で文化の時代といわれ、平賀源内・杉田玄白などもこの頃の人でした。

  • ◆廉塾ならびに菅茶山旧宅<br /><br /> 菅茶山(1748〜1827)は川北村に生まれ、19歳のとき京へ上り朱子学を学びました。郷里へ帰って塾を開き、これがのちに廉塾と呼ばれました。 <br /><br /><br /><br />

    ◆廉塾ならびに菅茶山旧宅

     菅茶山(1748〜1827)は川北村に生まれ、19歳のとき京へ上り朱子学を学びました。郷里へ帰って塾を開き、これがのちに廉塾と呼ばれました。



  • ◆廉塾ならびに菅茶山旧宅<br /><br /> 修復された養魚池跡だそうです。

    ◆廉塾ならびに菅茶山旧宅

     修復された養魚池跡だそうです。

  • ◆廉塾ならびに菅茶山旧宅<br /><br /> 門をくぐると中門までまっすぐな道がつづき、両側は畑になっています。

    ◆廉塾ならびに菅茶山旧宅

     門をくぐると中門までまっすぐな道がつづき、両側は畑になっています。

  • ◆廉塾ならびに菅茶山旧宅<br /><br /> 講堂と寮舎は、桟瓦葺、平屋建て、居宅は、桟瓦葺、二階建てです。<br /> 近世の地方における教育施設として数少ない遺例であり、国の特別史跡に指定されています。 <br /><br />

    ◆廉塾ならびに菅茶山旧宅

     講堂と寮舎は、桟瓦葺、平屋建て、居宅は、桟瓦葺、二階建てです。
     近世の地方における教育施設として数少ない遺例であり、国の特別史跡に指定されています。

  • ◆廉塾ならびに菅茶山旧宅<br /><br /> ここでは全国から常時20人くらいの塾生が学んでおり、頼山陽も塾頭をしていたこともありました。 <br /><br />

    ◆廉塾ならびに菅茶山旧宅

     ここでは全国から常時20人くらいの塾生が学んでおり、頼山陽も塾頭をしていたこともありました。

  • ◆廉塾ならびに菅茶山旧宅<br /><br />・講堂<br /> 当時の講堂・寮舎・居宅等が現存し、講堂の前には塾生が筆や硯を洗ったといわれる水路や、菜園・養魚池も往時の姿をとどめています。 <br /><br />

    ◆廉塾ならびに菅茶山旧宅

    ・講堂
     当時の講堂・寮舎・居宅等が現存し、講堂の前には塾生が筆や硯を洗ったといわれる水路や、菜園・養魚池も往時の姿をとどめています。

  • ◆廉塾ならびに菅茶山旧宅<br /><br />・丸形と角形の手水舎<br /> 廉塾の講堂前にある手水鉢です。御影石が丸と四角に彫られています。<br /> 「方円の手水鉢」とよばれるこの手洗いは、水は入れ物によってどんなにでも形が変わる、人も教育によってよくも悪くもなると教育の大切さを表したものといわれています。<br /><br />

    ◆廉塾ならびに菅茶山旧宅

    ・丸形と角形の手水舎
     廉塾の講堂前にある手水鉢です。御影石が丸と四角に彫られています。
     「方円の手水鉢」とよばれるこの手洗いは、水は入れ物によってどんなにでも形が変わる、人も教育によってよくも悪くもなると教育の大切さを表したものといわれています。

  • ◆廉塾ならびに菅茶山旧宅<br /><br /> 講堂の前に流れる水路です。塾生はここで筆を洗ったといわれています。<br /> この水は廉塾の裏手を流れる高屋川から引いたもので、ここを出発点として今も神辺の町の中をきれいな水が絶えることなく流れています。

    ◆廉塾ならびに菅茶山旧宅

     講堂の前に流れる水路です。塾生はここで筆を洗ったといわれています。
     この水は廉塾の裏手を流れる高屋川から引いたもので、ここを出発点として今も神辺の町の中をきれいな水が絶えることなく流れています。

  • ◆廉塾ならびに菅茶山旧宅<br /><br />・古い土塀とクスノキ<br /> 菅茶山の弟子にあの有名な頼山陽がいます。

    ◆廉塾ならびに菅茶山旧宅

    ・古い土塀とクスノキ
     菅茶山の弟子にあの有名な頼山陽がいます。

  • ◆天別豊姫神社<br /><br /> ーあまわけとよひめじんじゃーと読みます。

    ◆天別豊姫神社

     ーあまわけとよひめじんじゃーと読みます。

  • ◆天別豊姫神社<br /><br /> この神社はJR・神辺駅の東500m程の黄葉山中腹に鎮座しています。313号線の天別豊姫神社前交差点に境内入口の鳥居と脇には「縣社」の社号標が建っています。

    ◆天別豊姫神社

     この神社はJR・神辺駅の東500m程の黄葉山中腹に鎮座しています。313号線の天別豊姫神社前交差点に境内入口の鳥居と脇には「縣社」の社号標が建っています。

  • ◆天別豊姫神社<br /><br /> ここは初訪です。本陣跡の案内のおばさんが「行ってみるといいですよ」と言われたので来てみました。

    ◆天別豊姫神社

     ここは初訪です。本陣跡の案内のおばさんが「行ってみるといいですよ」と言われたので来てみました。

  • ◆天別豊姫神社<br /><br /> 鳥居を潜ると広い境内で、左手に神池があり、池の中の島には境内社が二社祀られています。

    ◆天別豊姫神社

     鳥居を潜ると広い境内で、左手に神池があり、池の中の島には境内社が二社祀られています。

  • ◆天別豊姫神社<br /><br /> 亀がたくさん住んでいます。

    ◆天別豊姫神社

     亀がたくさん住んでいます。

  • ◆天別豊姫神社<br /><br />・参道途中の三の鳥居と神門<br /> 参道途中の三の鳥居と神門を潜ると参道は石段となり、石段途中には絵馬堂が建ち、その絵馬堂を潜りさらに石段を上がると左手に鳥居が建ち、境内社の清瀧神社と淡島神社が祀られています。

    ◆天別豊姫神社

    ・参道途中の三の鳥居と神門
     参道途中の三の鳥居と神門を潜ると参道は石段となり、石段途中には絵馬堂が建ち、その絵馬堂を潜りさらに石段を上がると左手に鳥居が建ち、境内社の清瀧神社と淡島神社が祀られています。

  • ◆天別豊姫神社<br /><br /> デンデンムシちゃん

    ◆天別豊姫神社

     デンデンムシちゃん

  • ◆天別豊姫神社<br /><br /> 神門を潜ると参道は石段となります。しんどーっ。

    ◆天別豊姫神社

     神門を潜ると参道は石段となります。しんどーっ。

  • ◆天別豊姫神社<br /><br />・石段途中の絵馬堂<br /> 大きな絵馬が奉納されています。

    ◆天別豊姫神社

    ・石段途中の絵馬堂
     大きな絵馬が奉納されています。

  • ◆天別豊姫神社<br /><br /> 石段の突き当たりで、参道は左右に分かれ、右には大規模な境内社の稲荷神社があり、参道階段を左手に登るとやっと天別豊姫神社の拝殿と本殿が建立されていました。

    ◆天別豊姫神社

     石段の突き当たりで、参道は左右に分かれ、右には大規模な境内社の稲荷神社があり、参道階段を左手に登るとやっと天別豊姫神社の拝殿と本殿が建立されていました。

  • ◆天別豊姫神社<br /><br /> 石段踊り場右手は稲荷神社です。

    ◆天別豊姫神社

     石段踊り場右手は稲荷神社です。

  • ◆天別豊姫神社<br /><br />・拝殿

    ◆天別豊姫神社

    ・拝殿

  • ◆天別豊姫神社<br /><br /> 下段が先ほどの稲荷神社です。<br /> 久しぶりに神辺町の歴史ある町並みを歩いてきました。チカレタビー。

    ◆天別豊姫神社

     下段が先ほどの稲荷神社です。
     久しぶりに神辺町の歴史ある町並みを歩いてきました。チカレタビー。

  • ■ところ変わって、広島市佐伯区湯来町へ<br /><br /> しか〜し、これで終わりではありません。<br /> 福山市から広島市の反対側佐伯区の湯来町までの140kmをドビューンとUターンです。

    ■ところ変わって、広島市佐伯区湯来町へ

     しか〜し、これで終わりではありません。
     福山市から広島市の反対側佐伯区の湯来町までの140kmをドビューンとUターンです。

  • ■湯来町<br /><br /> 湯来町でお勤めがあり勤務を無事こなしてきた次第です。<br /> 

    ■湯来町

     湯来町でお勤めがあり勤務を無事こなしてきた次第です。
     

  • ■湯来町にて<br /><br /> 湯来町はかつて広島県佐伯郡の町でした。2005.04.25から広島市佐伯区になりました。

    イチオシ

    ■湯来町にて

     湯来町はかつて広島県佐伯郡の町でした。2005.04.25から広島市佐伯区になりました。

  • ■湯来町にて<br /><br /> ヒガンバナが咲いていました。ひと仕事終えたあと、田んぼの畦へ下りてしばらく観賞♪

    ■湯来町にて

     ヒガンバナが咲いていました。ひと仕事終えたあと、田んぼの畦へ下りてしばらく観賞♪

  • ■湯来町にて<br /><br /> 

    ■湯来町にて

     

  • ■湯来町にて<br /><br /> 

    ■湯来町にて

     

  • ■湯来町にて<br /><br /> 

    ■湯来町にて

     

  • ■湯来町にて<br /><br /> 

    ■湯来町にて

     

  • ■湯来町にて<br /><br /> 少ない時間の中、これだけ遊んできたので帰宅後即爆睡でした。これにて終了です。<br /><br />  THE END.

    ■湯来町にて

     少ない時間の中、これだけ遊んできたので帰宅後即爆睡でした。これにて終了です。

      THE END.

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  • 大目付さん 2011/09/25 21:07:42
    本陣と言えば
    実家が昔紀州の殿様の参勤交代時の本陣でした。

    家屋の建て直しのため取り壊したときに広い地下室の奥にある棚をどけると町外れまで通じる抜け穴が見つかったそうです。

    父もそのことは知らされていなかったようです。

    また、殿様が使う厠には畳が敷かれ、書院や違い棚もあったそうです。

    MechaGodzillaⅢ&703

    MechaGodzillaⅢ&703さん からの返信 2011/09/26 22:48:28
    RE: 本陣と言えば
    大目付さん こんばんは。

    > 実家が昔紀州の殿様の参勤交代時の本陣でした。
    > 家屋の建て直しのため取り壊したときに広い地下室の奥にある棚をどけると町外れまで通じる抜け穴が見つかったそうです。
    > 父もそのことは知らされていなかったようです。
    > また、殿様が使う厠には畳が敷かれ、書院や違い棚もあったそうです。

     へーっ、そうですか。すごいですねえ。由緒正しいお家柄だったんですね。抜け穴が・・・。今はどうなっているのでしょうか?その上に新しく家屋が建っているんですか。

     秋を探して・・・いいですね。懐かしく奈良の仏閣を拝見させていただきました。また、柳生の里も想い出ふかい地なので、グッときました。ありがとうございました。

     Mecha Godzilla?.T&N

    大目付

    大目付さん からの返信 2011/09/26 23:37:34
    RE: RE: 本陣と言えば
    >  へーっ、そうですか。すごいですねえ。由緒正しいお家柄だったんですね。抜け穴が・・・。今はどうなっているのでしょうか?その上に新しく家屋が建っているんですか。

    ★本陣だった家は明治になって旅館となりました。

    自分が子どもの頃、家を建て替えるとき、抜け穴はずっと隣の家から近所の家の地下を通って造られていたので、「プライバシーの侵害になる」とかで警察署の命で塞がれてしまったと父が言っていました。

    ★地下道が掘られていた地下室への降り口も凝った作りで、普段は分からないのですが、板間の一角の(煉瓦くらいの大きさ)板を取れば金具があり、それを持って力一杯押すと、ゴロゴロゴロという音とともに、8畳間ほどの大きさの板間が一段高くなって造られた茶室の床下に全部入ってしまい、広い階段が現れるというような造りになっていました。そんな家だったので籠や采配、陣笠、陣羽織というような物があり、それらは地元の小学校へ寄付しました。大小の刀もあったそうですが、第2次大戦末期に軍に取られてしまったそうです。

    今もその時の家が残っていれば市の博物館か何かになっていたかも知れません。

    その旅館も父が亡くなってから手放し、実家は山手の方に越しました。未だにお正月のお重は桜田門外の変があった万延元年製のものを普通に使っています。


                            〜大目付〜






    MechaGodzillaⅢ&703

    MechaGodzillaⅢ&703さん からの返信 2011/09/27 07:07:15
    RE: RE: RE: 本陣と言えば
    大目付さん おはようございます。

     さっそく詳細ありがとうございました。重い歴史がありますね。驚きでした。

MechaGodzillaⅢ&703さんのトラベラーページ

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