2011/06/11 - 2011/06/12
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ライオンベラーさん
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高速道路の土日祝日割引が、6月20日で終わってしまいます。
その直前の6月11日の土曜日に、突然思い立って、割引きを使っての最後のドライブに出ることにしました。
この土日の一泊で行ってこれるところで、割引きの恩恵を受けるためにそれなりの距離があるところを選ばなければなりません。
でもこれから出るとなると、そんなに遠くへは行けません。
そんなことを考えながら一つの街を選びました。
その街の名は福井です。
福井は以前に所用で一度だけ行ったことがあります。
でも、ずっと以前のことだったし、そのときはただ福井駅から市内の目的地までを徒歩で往復しただけでした。
そのためこの街がどんな街だったかというようなことはほとんど覚えていません。
だから今回はまるで初めての街を訪れるような気分です。
とても楽しみです。
パソコンのネットで手ごろな宿を見つけて予約しました。
さあ、出発です。
時刻はもう午後3時になっていました。
名神自動車道を北上して、米原ジャンクションから北陸自動車道に入りました。
この道はこの数年間に、東北地方への旅のときに何度も通ったところです。
そのとき福井インターチェンジも何度も通過しました。
調べてみると2007年のゴールデンウィークから去年(2010年)の夏までの3年間に合計8回も通っています。
そのときはいつも、いつか一度はここで降りて街を歩いてみたいと思いながら通過していました。
ようやくその福井インターチェンジに到着しました。
郊外の風景の中を走りながら、市街地へ向かいました。
予約していた宿は福井城の裏手にありました。
指定の駐車場があったので、そこに車を停めてからチェックインしました。
少し遅かったので、部屋に荷物を置いてすぐに食事に出ました。
駅の方へ歩いてみました。
何と福井駅周辺は再開発されていて、ぼんやりと覚えていた以前の街の面影はまったくありませんでした。
山形や秋田、盛岡などの東北地方の街の状況ととても似ていると思いました。
さすがに駅近辺はこの時間でも多くの店がまだ開いていました。
歩き回って駅周辺の地理を理解した後、居酒屋風の店に入りました。
この地特有のメニューを探しながら旅の風情を味わいました。
最後にハイボールにビールの泡を乗せた妙な飲み物を注文しました。
それは’おやじハイボール’と名づけてありました。
その後、いい気分で歩いて宿に帰って来ました。
部屋で風呂に入った後、街案内パンフレットなどを見ながら明日の予定を立てました。
明日の散策が楽しみです。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
朝になって、さっそく散策に出ました。
ホテルの裏側がこのような福井城跡でした。
何と城跡の中に県庁が建っていました。
この城跡の向こう側のやや左数百mぐらいのところにJR福井駅があります。
写真は南西向きです。 -
堀に沿って遊歩道があったので、そこを歩いてみました。
遊歩道を南に歩いています。 -
反対側にやってきました。
写真は西向きです。
JR福井駅は、この写真の左外の前方2〜3百mぐらいのところにあります。
この堀に沿って写真中央に見える橋まで歩い行って、その橋を渡って右側に見える城跡の中に入りました。 -
ここは前の写真の中ほどに見える石垣の上で、向きは前の写真と同じです。
この左下に前の写真の橋があって、そこを渡って右に回り込んで、この右後ろあたりにある階段を登って、ここにやってきました。
この先は行き止まりで、昔はそこに門があったようですが、今は道路です。
この右側には県庁の建物があります。 -
左後ろ(東)を振り返ってみました。
この堀に沿ってここまでやって来ました。
JR福井駅はこの写真の右外2〜300mぐらいのところです。
さあ、そろそろここを降りることにしましょう。 -
石垣の上の道を戻っています。
堀は右で、左に県庁の建物があります。
ここを進んで行って右に曲がった先に、先ほど登ってきた階段があります。
写真の向きは北東です。 -
県庁の裏側にやってきました。
正面が県庁の建物で、先ほどはあの建物の向こう側にいました。
ここは福井城跡の北西あたりで、ここに本丸がありました。
写真の向きは南東です。 -
この街は昭和20年(1945年)の空襲で大きな被害を受け、その年に終戦を迎えましたが、その3年後の昭和23年(1948年)に福井大地震が起こって、街は再び大きな被害を受けてしまいまいした。
写真の石垣もそのときの被害でこのように歪(ゆが)んでしまいました。 -
この福井市は江戸末期ごろは日本で20番ほどの人口を誇っていましたが、現在では全国で85番ほどになってしまいました。
北陸では金沢の加賀100万石が有名で、ここへ来るまでは福井藩は平凡(へいぼん)な諸藩のひとつに過ぎなかったのだろうと思っていました。
でもここへ来て初めて、この藩は江戸時代は徳川幕府の中でも重要な位置を占める親藩だったということを知りました。
また、先日、京都の霊山(りょうぜん)歴史館を訪れたときに、そこに江戸末期の藩主松平春獄(しゅんがく)についての展示があったことを思い出しました。(http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10555901/) -
春獄は幕末の有力者で、土佐の山内容堂などともに幕末の四賢侯(しけんこう)に数えられているようです。
この福井城は1601年から6年の歳月をかけてここに造られました。
それ以前の1600年の関ヶ原の戦いのときはここ越前は西軍やどっちつかずの大名たちが治めていました。
しかし西軍がその戦いに敗れたため、徳川家康の次男の結城秀康(ゆうきひでやす)がここに入封されて(土地を与えられてここに入って)、この大きな城を造りました。
この写真の右下は・・・ -
このような橋が復元されていました。
-
進んできた北西の向きを振り返っています。
先ほどの橋はこの左です。 -
再び本丸跡の石垣のところに戻って来ました。
ここから下へ降りて、先ほど上から見た屋根つきの橋を渡りました。 -
この右に今渡ってきた、屋根つきの橋があります。
先ほどは正面に見える石垣の上からこちらを見ていました。
この写真の左後ろに大きな公園(中央公園)があるので行ってみましょう。 -
その公園の中にこのような震災の碑(ひ)がありました。
-
そこから1km少し歩いて、市街の南西にある足羽(あすわ)山にやってきました。
足羽山山頂目指してあじさいロードを登っていきます。
(むむ、こんな道があるなら車で来たらよかった・・・)
アジサイは6月ごろに咲く花で、今は6月なので、道は花に包まれていてさぞきれいだろう・・・、と思ってやってきたら、このようにまだほとんど咲いていませんでした。 -
もうすぐこのあたりは、一面のアジサイに覆(おお)われるのでしょう。
-
あ、ここに少しだけ、ひっそりと咲いていました。
-
山頂付近にある福井市自然史博物館にやって来ました。
3階建ての建物です。
この足羽山の自然などが展示、解説してありました。 -
屋上に登って来ました。
こちらは南東でしょうか?
室町時代ごろまでは、このような福井の街はなくて、そのころの他の地方と同じように、このあたりも田畑や小さな集落が点在するようなところだったと思われます。
そして応仁の乱の頃に、写真正面あたりの山の向こう(ここから7〜8km先)の一乗谷というところに朝倉氏が住みつき、そこに人口1万人を超えるような城下町が形成されていきました。 -
1570年ごろの戦国大名の勢力地図などを見ると、織田、武田、上杉、徳川などの蒼々(そうそう)たる大名たちとならんで、この朝倉氏の領地も記してあります。
そのような地図によると、そのころの朝倉氏の支配地域は、現在の福井県一帯から若狭地方を除いたぐらいの範囲だったようです。
朝倉氏の領地の南にある北近江(おうみ)地方は浅井氏の領地でした。
浅井氏と朝倉氏は盟友の関係にありましたが、朝倉氏の当主の朝倉義景と尾張(おわり)(愛知県のあたり)の織田信長は不仲でした。 -
そんな状況の中で浅井氏の当主、浅井長政は信長の妹の市を妻に迎え、織田信長とも同盟関係を築いていました。
しかし1570年、信長が朝倉を攻めたため、浅井氏はかねてからの盟友の朝倉氏を支援して、織田氏と対立しました。
そうして北近江地方を境に、浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が向き合うという構図ができあがりました。
その後は浅井・朝倉連合軍は、京都の室町幕府や甲斐(かい)の武田氏などと連携しながら、信長包囲網を敷いて織田勢力に対抗しました。 -
しかし1573年に武田信玄が亡くなると、織田・徳川連合軍は主力をこちらにむけることが可能となって、本格的な浅井、朝倉攻めが始まりました。
そしてその結果、同年に一乗谷の朝倉氏は滅亡(めつぼう)してしまいました。
続いて信長軍は北近江にこもる浅井氏を攻め、同じく同年に浅井氏も滅亡してしまいました。
このとき、長政の妻であった市は、浅井氏の小谷城を離れ、三人の娘を連れて兄の信長の陣営へ帰還(きかん)しました。
そのときの三姉妹の名は上から順に茶々、初、江といいました。 -
写真は北東向きです。
朝倉氏が滅亡した後、この地を与えられたのは、当時の織田家の筆頭家老であった柴田勝家でした。
勝家は1575年に、ここに北の庄城の築城を開始しました。
北の庄城の天守は七層(または九層)構造で、信長の安土城に匹敵するほどの巨城だったようです。
この写真の中ほどの左右に伸びる緑の部分が足羽(あすわ)川ですが、北の庄城はちょうどその川の向こう側にありました。 -
当時はこのような建物(自然史博物館)はありませんでしたが、これらの樹木もなかったとすると、ここからその城がよく見えていたということになります。
1582年、本能寺の変によって信長は死去しましたが、その後、浅井長政の妻であった市は柴田勝家と再婚して、三人の娘と共にこの北の庄城にやって来ます。
そして、当時、彼女たちは実際にここから見えていたその大きな城に居住していました。
しかしその翌年、勝家は同じ織田家の家臣だった羽柴秀吉と対立して、秀吉がこの城を目指して攻め込んで来ました。 -
勝家も出兵して応戦しますが、北近江の賤(しず)ヶ岳での戦いに敗れ、この北の庄城に逃げ帰って来ました。
勝家を追う秀吉は、大軍でこの北の庄城を包囲しました。
そのときの秀吉の本陣は、自然史博物館の付近にあったということですから、それは何と、ちょうどこのあたりになります。
ということは、当時、羽柴秀吉が実際に、ちょうどここからこうして勝家の北の庄城を見ていたということになります。 -
秀吉は岡山の高松城を攻めたときも(http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10310772/)、小田原城を攻めたときも(http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10255814/)このようなところから、相手の城の様子をうかがっていました。
秀吉は、このようなところから実際に自分の目で戦況を確認しながら指揮をとるということをパターン化していたのでしょうか。
そしてそのようにして下された判断が、秀吉の数々の手柄と結びついていたのかも知れません。
この攻撃によって、勝家と市はここで自害しましたが、三姉妹は秀吉に保護されました。 -
北東です。
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北です。
-
自然史博物館を出た後、近くにあるという継体天皇の像を見に行きました。
階段を登って行きます。 -
あ・・・
-
ああ・・・
-
これが・・・
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継体天皇像です。
-
継体天皇は、5〜6世紀ごろ、この地を治めていましたが、わざわざ請(こ)われて畿内に行き、天皇を後継して畿内を治めたという偉い方のようです。
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足羽山を降りて行きました。
写真は愛宕(あたご)坂です。
時刻はまだ10時20分です。
でも、今日一日で福井をできるだけたくさん周りたいので、急ぐことにしましょう。 -
頑張って、福井城跡(県庁)まで戻って来ました。
10時40分です。
ホテルの駐車場は11時までなので、もう出庫しなければなりません。
これから車で城跡の北にある市立郷土歴史博物館に向かいます。 -
博物館の中は撮影禁止だったので、写真はありません。
でも、このコーナーだけは、無料でこのような衣装を着て、写真を撮ってもらえました。 -
このような籠(かご)の中にも入ることができました。
11時を回ってしまいました。 -
隣にある養浩館庭園です。
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ここは、江戸時代の福井藩主の別邸だったようです。
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餌(えさ)を求めて鯉(こい)が集まって来ました。
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建物の中から庭を見たところです。
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庭です。
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北の庄城跡にやってきました。
ここで車を停めてしばらくこの辺りを散策します。
ここは足羽山の自然史博物館から見ていたところです。
場所は江戸時代の福井城跡(県庁)の南西300mぐらいのところです。 -
現在はこのように発掘が行われています。
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西向きです。
この前方左の方に、先ほど登っていた足羽山があります。 -
柴田勝家の銅像です。
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柴田勝家です。
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こちらは後ろです。
この向こうに足羽山があって、そこに秀吉が陣取っていました。
秀吉の他の部隊はこの城を取り巻いていました。 -
勝家は武勇に優れていて、信長軍の中で、数々の手柄(てがら)を立ててきました。
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信長や秀吉よりも10〜15歳ほど年上です。
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隣接する柴田神社です。
-
そして、こんな神社もありました。
三姉妹神社です。 -
浅井三姉妹です。
三姉妹は母市の再婚によって、ここへやって来ました。
一番左の長女の茶々は、ここへ攻めてくる秀吉の側室(淀殿)となって、秀吉の子、秀頼を生みます。
秀吉亡き後は、大坂夏の陣で徳川家康に攻められ、大坂城で秀頼と共に自害することになります。(http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10184492/)
一番右の次女の初は、初代小浜藩主の正室となります。
真ん中の江は、徳川家康の子で2代将軍となる秀忠の正室となって、後に3代将軍家光を生みます。 -
母の市と三姉妹です。
一番左に写っているのが信長の妹の市で、秀吉に攻められて、この城で勝家と共に自害します。
その向こうの茶々がその秀吉の側室になります。
時刻は1時を回りました。
この後、駅に向かって歩いてみました。 -
駅前にはこんなところもありました。
中は土産物などがありました。 -
JR福井駅の東口です。
-
その横にえちぜん鉄道の駅もありました。
これに乗ると、あわら温泉や東尋坊(とうじんぼう)、永平寺や恐竜博物館へも行けます。
残念ながら、今日中にそれらを周る時間はないでしょう。 -
JR福井駅はこの左で、えちぜん鉄道福井駅はこの右です。
ここは・・・ -
北陸新幹線の工事現場です。
-
西口にあった風景です。
駅はこの右です。
これらは再開発前にあった建物でしょう。
以前、来たときもここに立っていたのでしょう。
当時を想いながら懐かしい気持ちで撮りました。 -
この辺も一昔前の建物のようです。
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ここは再開発された商店街です。
-
ここは古い飲み屋街。
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車を取りに柴田公園まで戻って来ました。
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1時40分です。
これから一乗谷遺跡(いせき)へ向かいます。 -
一乗谷朝倉氏遺跡資料館にやってきました。
一乗谷の手前にあります。
少し中を見て、一乗谷へ向かいました。
時刻は2時半です。 -
一乗谷遺跡にやってきました。
途中で食事をしたので3時20分になっています。
復元遺跡の建物の中にこのような当時の街並みの模型がありました。
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復元遺跡です。
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戦国時代の復元なのに、そんなに昔の街並みのようには思えません。
昭和の時代にもこのような風景はあちこちにあったような気がします。 -
このようなトイレも昭和の時代には、ごく普通の農家にもありました。
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ここは料理人の家のようです。
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ここは侍(さむらい)の家?
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これから復元されるエリアです。
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このような狭い谷の中でも、武家屋敷はかなり広い敷地だったようです。
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ここも職人さんの家の復元です。
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ボランティァかアルバイトの人たちです。
-
戦国時代の扇風機です。
・・・というようなことはないでしょう。 -
本当に広い敷地です。
ここに100年にわたって城下町が築かれていました。
城は山城で、この写真の右に川があって、その向こうの山の上にありました。
写真は川上から川下を見る向きです。
その川下からこの谷に入って来ました。
どこにでもあるような、ごく普通の谷といった感じでした。 -
職人の家の裏庭です。
武家屋敷に比べると狭いけど、現在の標準的な一戸建てと比べると、同じぐらいの広さかもしれません。 -
この中が当主の館跡(やかたあと)です。
その裏山の山頂に、一乗谷城がありました。 -
小川には鯉(こい)がいました。
-
館跡です。
1570年、織田・徳川連合軍に攻められましたが、同盟していた浅井長政が背後を攻めてくれたおかげで、撃退することができました。
1572年に信長が浅井氏を攻めたときは、朝倉氏がここから援軍を出して浅井氏を助けました。
しかし1573年、同盟していた武田信玄が死去し、信長は主力をこちらに向けることができるようになり、朝倉軍はその年の戦いで信長軍に壊滅的な打撃を受けてしまいました。 -
当主の朝倉義景は、この一乗谷に逃げ帰りましたが、そのときは、家臣の多くは朝倉軍が壊滅的な打撃を受けたという報を聞いて、ここを逃げ去ってしまっていました。
そのため仕方なく、義景もこの地を逃れました。
そして、追撃してきた信長軍によって、ここ一乗谷に火が放たれ、城下町は三日三晩焼け続けました。
義景は寺に逃れていましたが、裏切りによって襲撃されて自害し、ついに朝倉氏は滅亡(めつぼう)してしまいました。
そしてその後は、この城下町は草木の下に埋(う)もれてしまいました。 -
朝倉氏の館跡です。
写真正面が谷の下流で、川はこの左を下流に向かって流れています。
この右の山の山頂に一乗谷城がありました。 -
その山の山腹にある湯殿跡庭園です。
-
当時はここに水が張ってあったようです。
-
時刻は4時を回りました。
この後、福井インターから北陸道に入って、家に向かいました。
できれば、永平寺や恐竜博物館、東尋坊なんかも周りたいと思っていましたが、やはりそれは一日ではとても無理だということがわかりました。
是非またもう一度ここに来て、そのときは、今回行けなかったそれらの観光地を周りたいと思いました。
(完)
※ 次回の旅は横浜・横須賀・鎌倉です。(http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10599491/)
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