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現在の福島県中央部は通称「中通り」(なかどおり)と称され、郡山は意外にも江戸初期まで場末扱いされ、二本松(にほんまつ)藩が中心地として栄えていた。<br />然るに、岩代國二本松藩の基礎を構築した 藩主 丹羽光重(にわ みつしげ)(元和7年(1622年)2月8日〜元禄7年(1701年)5月18日)は藩下に於ける大槻、及び、片平両代官所を郡山の地に統合し、更に、江戸幕府に拠り全国各街道が整備された結果、郡山は奥州街道(おうしゅう かいどう)主要門前町としての性格が整備され此れで江戸期中期には発展の基礎を成立させたが、文政7年(1824年)に幕府から郡山は晴れて宿場町として認定された。<br /><br />明治期に至り、幕藩体制は崩壊後は暫く幕末時期と同様の状態が継続されたが、日本鐵道は東京対東北蝦夷地連絡の為の鉄道建設を進めていたが、明治20年(1887年)7月16日に黒磯-郡山間開通を果たし、更に、同年12月15日には郡山-塩竃間が一気に開通した。<br />平まで磐越東線、新津まで磐越西線、水戸まで水郡線が全通すると郡山は太平洋側と日本海側双方への中継点としての交通の要になると同時に、上越線全通前の当時としては東京対新潟地区への最短コースになり国産石油輸送ルートとして重視された。<br /><br />昭和期に入り、郡山は重化学工業の進出が目立って来たが、反面、工場進出は大東亜戦争中に於いて米軍の格好の攻撃目標地とされ、昭和20年(1945年)4月12日から7月28日にかけて空襲の洗礼を受ける羽目になった。<br />特に、4月12日の空襲では、東北軍管区南地区情報として、<br />11時18分 警戒警報発令<br />11時20分 空襲警報発令<br />12時50分 警報解除<br />で見て取れる様に、警戒警報から空襲警報に至る時間が2分しか余裕無く云わば抜打ち的攻撃の為に防空壕に退避する間も無く、空襲開始と相俟って駅裏に所在する保土ヶ谷化学は郡山駅と抱き合わせで攻撃され、退避時間すら無い状況下で、一般市民160名死亡、180名が重軽傷を受けたのに対し、保土ヶ谷化学では従業員や学徒動員者204名、日東紡富久山工場92名、東北振興アルミ47名、郡山駅職員11名もの犠牲者を出す大惨事だった。<br />郡山駅構内留置中の客車19両全焼、同11両中破、貨車37両全焼、タンク車7両、小型蒸気機関車7両に被害が生じ、該駅本屋は爆撃で半壊する。<br />更に、同年7月28日の深夜の空襲では駅本屋、跨線橋、駅倉庫に大型爆弾が命中し残り部分が崩壊し職員13名殉職、旅客に死者こそ生じなかったが重軽傷者50名の被害が出た。<br /><br />たまたま、太宰 治(だざい おさむ)は三鷹の自宅が空襲で焼け妻の実家が在った山梨県甲府市に疎開したが、甲府も空襲を受け疎開先が全焼した為に、太宰の実家が在る青森県金木に再疎開する途中で該空襲直後に乗車した列車が郡山駅に到着した経緯は、戦後、宮城県の代表的地方新聞 河北新報に掲載された短編『たづねびと』に該情景が登場する。<br />太宰は家族で乗車するには戦争末期の決戦ダイヤのあおりを受け旅客列車削減で1本しか存在しなくなった超混雑状態の青森行直通列車を避け、早朝の上野発白河行で白河始発に乗換え小牛田行列車に乗車したが、翌日の空襲後の情景に就いて、<br />『汽車が郡山驛に着きました。驛は、たったいま爆撃せられたらしく、火薬の匂ひみたいなものさへ感ぜられたくらゐで、倒壊した驛の建物から黄色い砂ほこりが濛々と舞ひたってゐました。』<br />該短編の主題は作品内に於いて、<br />『お嬢さん。あの時はたすかりました。あの時の乞食は、私です。』と云ふ主題が3度反復される。<br /><br />因みに、7月28日の空襲では、広島長崎に原子爆弾を投下した、あのエノラゲイ号が広島型リトルボーイ、及び、長崎型ファットマンと同型同重量の模擬爆弾を郡山と神戸に投下し攻撃演習訓練を兼ね郡山空襲に参加していた史実は意外と知られていない。<br /><br />然るに、米軍に依り徹底的な空襲の洗礼を浴びた郡山市に於いて奇跡的に焼残った一角が存在した。<br /><br />然し、平成23年(2011年)3月11日に襲った東日本大震災と此れに続く震度5以上の大群発余震は、古い伝統的な街並を残した貴重な一角を次々と損壊させてしまった。<br /><br /><br />表紙の写真は 旭町通り商店街

中世は門前町、近世は奥州街道主要宿場町、近代以降は鉄道の要として栄した街 岩代國郡山

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2011/07/30 - 2011/07/30

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49

横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

現在の福島県中央部は通称「中通り」(なかどおり)と称され、郡山は意外にも江戸初期まで場末扱いされ、二本松(にほんまつ)藩が中心地として栄えていた。
然るに、岩代國二本松藩の基礎を構築した 藩主 丹羽光重(にわ みつしげ)(元和7年(1622年)2月8日〜元禄7年(1701年)5月18日)は藩下に於ける大槻、及び、片平両代官所を郡山の地に統合し、更に、江戸幕府に拠り全国各街道が整備された結果、郡山は奥州街道(おうしゅう かいどう)主要門前町としての性格が整備され此れで江戸期中期には発展の基礎を成立させたが、文政7年(1824年)に幕府から郡山は晴れて宿場町として認定された。

明治期に至り、幕藩体制は崩壊後は暫く幕末時期と同様の状態が継続されたが、日本鐵道は東京対東北蝦夷地連絡の為の鉄道建設を進めていたが、明治20年(1887年)7月16日に黒磯-郡山間開通を果たし、更に、同年12月15日には郡山-塩竃間が一気に開通した。
平まで磐越東線、新津まで磐越西線、水戸まで水郡線が全通すると郡山は太平洋側と日本海側双方への中継点としての交通の要になると同時に、上越線全通前の当時としては東京対新潟地区への最短コースになり国産石油輸送ルートとして重視された。

昭和期に入り、郡山は重化学工業の進出が目立って来たが、反面、工場進出は大東亜戦争中に於いて米軍の格好の攻撃目標地とされ、昭和20年(1945年)4月12日から7月28日にかけて空襲の洗礼を受ける羽目になった。
特に、4月12日の空襲では、東北軍管区南地区情報として、
11時18分 警戒警報発令
11時20分 空襲警報発令
12時50分 警報解除
で見て取れる様に、警戒警報から空襲警報に至る時間が2分しか余裕無く云わば抜打ち的攻撃の為に防空壕に退避する間も無く、空襲開始と相俟って駅裏に所在する保土ヶ谷化学は郡山駅と抱き合わせで攻撃され、退避時間すら無い状況下で、一般市民160名死亡、180名が重軽傷を受けたのに対し、保土ヶ谷化学では従業員や学徒動員者204名、日東紡富久山工場92名、東北振興アルミ47名、郡山駅職員11名もの犠牲者を出す大惨事だった。
郡山駅構内留置中の客車19両全焼、同11両中破、貨車37両全焼、タンク車7両、小型蒸気機関車7両に被害が生じ、該駅本屋は爆撃で半壊する。
更に、同年7月28日の深夜の空襲では駅本屋、跨線橋、駅倉庫に大型爆弾が命中し残り部分が崩壊し職員13名殉職、旅客に死者こそ生じなかったが重軽傷者50名の被害が出た。

たまたま、太宰 治(だざい おさむ)は三鷹の自宅が空襲で焼け妻の実家が在った山梨県甲府市に疎開したが、甲府も空襲を受け疎開先が全焼した為に、太宰の実家が在る青森県金木に再疎開する途中で該空襲直後に乗車した列車が郡山駅に到着した経緯は、戦後、宮城県の代表的地方新聞 河北新報に掲載された短編『たづねびと』に該情景が登場する。
太宰は家族で乗車するには戦争末期の決戦ダイヤのあおりを受け旅客列車削減で1本しか存在しなくなった超混雑状態の青森行直通列車を避け、早朝の上野発白河行で白河始発に乗換え小牛田行列車に乗車したが、翌日の空襲後の情景に就いて、
『汽車が郡山驛に着きました。驛は、たったいま爆撃せられたらしく、火薬の匂ひみたいなものさへ感ぜられたくらゐで、倒壊した驛の建物から黄色い砂ほこりが濛々と舞ひたってゐました。』
該短編の主題は作品内に於いて、
『お嬢さん。あの時はたすかりました。あの時の乞食は、私です。』と云ふ主題が3度反復される。

因みに、7月28日の空襲では、広島長崎に原子爆弾を投下した、あのエノラゲイ号が広島型リトルボーイ、及び、長崎型ファットマンと同型同重量の模擬爆弾を郡山と神戸に投下し攻撃演習訓練を兼ね郡山空襲に参加していた史実は意外と知られていない。

然るに、米軍に依り徹底的な空襲の洗礼を浴びた郡山市に於いて奇跡的に焼残った一角が存在した。

然し、平成23年(2011年)3月11日に襲った東日本大震災と此れに続く震度5以上の大群発余震は、古い伝統的な街並を残した貴重な一角を次々と損壊させてしまった。


表紙の写真は 旭町通り商店街

同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
JRローカル 徒歩
  • 郡山駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />明治20年(1887年)7月16日開業<br />昭和57年(1982年)東北新幹線開業時に駅ビル化。<br />今年、開業124周年<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=675

    郡山駅



    駅本屋
    明治20年(1887年)7月16日開業
    昭和57年(1982年)東北新幹線開業時に駅ビル化。
    今年、開業124周年
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=675

    郡山駅

  • 郡山駅<br /><br /><br /><br />転車台<br />主に冬期のラッセル車転向に使用。

    郡山駅



    転車台
    主に冬期のラッセル車転向に使用。

    郡山駅

  • 郡山駅<br /><br /><br /><br />保土ヶ谷化学郡山工場<br />http://www.hodogaya.co.jp/

    郡山駅



    保土ヶ谷化学郡山工場
    http://www.hodogaya.co.jp/

    郡山駅

  • 郡山駅<br /><br /><br /><br />保土ヶ谷化学郡山工場<br />俯瞰

    郡山駅



    保土ヶ谷化学郡山工場
    俯瞰

    郡山駅

  • 道路元標(どうろ げんひょう)<br /><br /><br /><br />道路元標は江戸期に徳川幕府に拠り分岐点等々に設置され、該石柱は安積國造神社表参道正面設置物を復元。<br /><br />郡山市中町<br />東北本線郡山駅西口 徒歩5分

    道路元標(どうろ げんひょう)



    道路元標は江戸期に徳川幕府に拠り分岐点等々に設置され、該石柱は安積國造神社表参道正面設置物を復元。

    郡山市中町
    東北本線郡山駅西口 徒歩5分

    郡山駅

  • 皿沼水道(さらぬますいどう)・山水道(やますいどう)<br /><br /><br /><br />江戸期に人口増加を見た郡山に於いて現在の郡山商工会議所付近に存在した水田灌漑用皿沼用水を飲用、雑用、及び、防火の為に利用すべく皿沼南東土手下に水箱を用意させ受口から竹を接し地下に埋設して各屋に給水した。<br />然るに、江戸中期ともなると郡山の人口増加は歯止めを掛けられず、皿沼用水だけでは需要に応じられぬ状況となり、明和年間(1760年代)に、上町、下町所在の書く商家衆が個人や共同で安積國造神社所在地の清水台付近の湧水を採水すべく井戸を穿ち山水道を引水し余り水は町民に分水利用させた、<br />因みに、郡山市内では山水道は昭和47年(1972年)まで現役であった。<br />該写真は山水道復元物。

    皿沼水道(さらぬますいどう)・山水道(やますいどう)



    江戸期に人口増加を見た郡山に於いて現在の郡山商工会議所付近に存在した水田灌漑用皿沼用水を飲用、雑用、及び、防火の為に利用すべく皿沼南東土手下に水箱を用意させ受口から竹を接し地下に埋設して各屋に給水した。
    然るに、江戸中期ともなると郡山の人口増加は歯止めを掛けられず、皿沼用水だけでは需要に応じられぬ状況となり、明和年間(1760年代)に、上町、下町所在の書く商家衆が個人や共同で安積國造神社所在地の清水台付近の湧水を採水すべく井戸を穿ち山水道を引水し余り水は町民に分水利用させた、
    因みに、郡山市内では山水道は昭和47年(1972年)まで現役であった。
    該写真は山水道復元物。

  • 郡山町道標(こおりやままち みちしるべ)<br /><br /><br /><br />郡山に町制が施行された明治22年(1889年)〜大正13年(1924年)9月1日に市制施行まで町内主要地に設置された境界柱。<br /><br />郡山市中町14−8<br />東北本線郡山駅西口 徒歩6分

    郡山町道標(こおりやままち みちしるべ)



    郡山に町制が施行された明治22年(1889年)〜大正13年(1924年)9月1日に市制施行まで町内主要地に設置された境界柱。

    郡山市中町14−8
    東北本線郡山駅西口 徒歩6分

    郡山駅

  • 旭町通(あさひまち どおり)<br /><br /><br /><br />数次に亘る郡山空襲で奇跡的に焼け残り昭和初期の面影を濃厚に残存させた一角だったが、今回の東日本大震災、及び、大規模余震被害でほぼ壊滅状態。<br /><br />郡山市中町16−11<br />東北本線郡山駅西口 徒歩7分

    旭町通(あさひまち どおり)



    数次に亘る郡山空襲で奇跡的に焼け残り昭和初期の面影を濃厚に残存させた一角だったが、今回の東日本大震災、及び、大規模余震被害でほぼ壊滅状態。

    郡山市中町16−11
    東北本線郡山駅西口 徒歩7分

    郡山駅

  • 斉藤傳兵衛邸<br /><br /><br /><br />斉藤家は江戸期から続く郡山屈指の大地主。<br />日本鐵道延長時の大手出資者の1人。

    斉藤傳兵衛邸



    斉藤家は江戸期から続く郡山屈指の大地主。
    日本鐵道延長時の大手出資者の1人。

  • 斉藤傳兵衛邸<br /><br /><br /><br />平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災で被災、それに続く大規模余震で損壊崩落が続き存続を断念し解体が決定。

    斉藤傳兵衛邸



    平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災で被災、それに続く大規模余震で損壊崩落が続き存続を断念し解体が決定。

  • 斉藤傳兵衛邸<br /><br /><br /><br />白壁が剥離脱落した蔵。<br />漆喰の元塗が解る。

    斉藤傳兵衛邸



    白壁が剥離脱落した蔵。
    漆喰の元塗が解る。

  • 斉藤傳兵衛邸<br /><br /><br /><br />邸宅側面<br />震災余震の都度、剥落崩壊が続く。

    斉藤傳兵衛邸



    邸宅側面
    震災余震の都度、剥落崩壊が続く。

  • 斉藤傳兵衛家<br /><br /><br /><br />大正初期〜末期建築の特徴を有する窓構造。

    斉藤傳兵衛家



    大正初期〜末期建築の特徴を有する窓構造。

  • 東邦銀行(とうほう ぎんこう)郡山中町支店<br /><br /><br /><br />旧郡山商業銀行本店建築物<br />郡山市中町2−10<br />?: 024−922−4550<br />東北本線郡山駅西口 徒歩7分<br />http://www.hodogaya.co.jp/

    東邦銀行(とうほう ぎんこう)郡山中町支店



    旧郡山商業銀行本店建築物
    郡山市中町2−10
    ?: 024−922−4550
    東北本線郡山駅西口 徒歩7分
    http://www.hodogaya.co.jp/

    郡山駅

  • 東邦銀行郡山中町支店<br /><br /><br /><br />左側面<br /><br />郡山市中町2−10<br />?: 024−922−4550<br />東北本線郡山駅西口 徒歩7分

    東邦銀行郡山中町支店



    左側面

    郡山市中町2−10
    ?: 024−922−4550
    東北本線郡山駅西口 徒歩7分

    郡山駅

  • 東邦銀行郡山中町支店<br /><br /><br /><br />正面玄関<br /><br />郡山市中町2−10<br />?: 024−922−4550<br />東北本線郡山駅西口 徒歩7分

    東邦銀行郡山中町支店



    正面玄関

    郡山市中町2−10
    ?: 024−922−4550
    東北本線郡山駅西口 徒歩7分

    郡山駅

  • 東邦銀行郡山中町支店<br /><br /><br /><br />正面玄関<br />拡大<br /><br />郡山市中町2−10<br />?: 024−922−4550<br />東北本線郡山駅西口 徒歩7分

    東邦銀行郡山中町支店



    正面玄関
    拡大

    郡山市中町2−10
    ?: 024−922−4550
    東北本線郡山駅西口 徒歩7分

    郡山駅

  • 東邦銀行郡山中町支店<br /><br /><br /><br />右側面<br />今回の一連の震災で町内に於いて唯一被害無き建造物。<br /><br />郡山市中町2−10<br />?: 024−922−4550<br />東北本線郡山駅西口 徒歩7分

    東邦銀行郡山中町支店



    右側面
    今回の一連の震災で町内に於いて唯一被害無き建造物。

    郡山市中町2−10
    ?: 024−922−4550
    東北本線郡山駅西口 徒歩7分

    郡山駅

  • 西いせや質店(にし いせや しちてん)<br /><br /><br /><br />全景<br />明治期に建築された土蔵造りの質店。<br />創業200年以上と伝わる。<br /><br />西いせや質店<br />郡山市中町7−2<br />?: 024−932−0319<br />9:00〜1:00<br />日祭日、及び、年始定休<br />http://www.nisiiseya.sakura.ne.jp/game.html<br />東北本線郡山駅西口 徒歩9分<br />

    西いせや質店(にし いせや しちてん)



    全景
    明治期に建築された土蔵造りの質店。
    創業200年以上と伝わる。

    西いせや質店
    郡山市中町7−2
    ?: 024−932−0319
    9:00〜1:00
    日祭日、及び、年始定休
    http://www.nisiiseya.sakura.ne.jp/game.html
    東北本線郡山駅西口 徒歩9分

    郡山駅

  • 西いせや質店<br /><br /><br /><br />入口<br />芭蕉小路と称し飲食店街。<br /><br />西いせや質店<br />郡山市中町7−2<br />?: 024−932−0319<br />9:00〜1:00<br />日祭日、及び、年始定休<br />東北本線郡山駅西口 徒歩9分<br />

    西いせや質店



    入口
    芭蕉小路と称し飲食店街。

    西いせや質店
    郡山市中町7−2
    ?: 024−932−0319
    9:00〜1:00
    日祭日、及び、年始定休
    東北本線郡山駅西口 徒歩9分

    郡山駅

  • 西いせや質店<br /><br /><br /><br />蔵造り家屋に生活する人々。<br />蔵内の生活とは如何なものなのだろか。<br />想像がつかない。<br /><br />西いせや質店<br />郡山市中町7−2<br />?: 024−932−0319<br />9:00〜1:00<br />日祭日、及び、年始定休<br />東北本線郡山駅西口 徒歩9分<br />

    西いせや質店



    蔵造り家屋に生活する人々。
    蔵内の生活とは如何なものなのだろか。
    想像がつかない。

    西いせや質店
    郡山市中町7−2
    ?: 024−932−0319
    9:00〜1:00
    日祭日、及び、年始定休
    東北本線郡山駅西口 徒歩9分

    郡山駅

  • 西いせや質店<br /><br /><br /><br />質店入口<br /><br />西いせや質店<br />郡山市中町7−2<br />?: 024−932−0319<br />9:00〜1:00<br />日祭日、及び、年始定休<br />東北本線郡山駅西口 徒歩9分<br />

    西いせや質店



    質店入口

    西いせや質店
    郡山市中町7−2
    ?: 024−932−0319
    9:00〜1:00
    日祭日、及び、年始定休
    東北本線郡山駅西口 徒歩9分

    郡山駅

  • 安積國造神社<br /><br /><br /><br />表参道<br />一之鳥居<br />大東亜戦争後、表参道は戦災復旧で道路が設置された為に途中で断ち切られた。

    安積國造神社



    表参道
    一之鳥居
    大東亜戦争後、表参道は戦災復旧で道路が設置された為に途中で断ち切られた。

  • 安積國造神社<br /><br /><br /><br />表参道<br />標柱<br />縣社と記載されている「社」に別石が填め込まれている。

    安積國造神社



    表参道
    標柱
    縣社と記載されている「社」に別石が填め込まれている。

  • 安積國造神社<br /><br /><br /><br />表参道<br />弐之鳥居<br />手前は国道2号線<br />何故か国道で断ち切られた参道に横断歩道が無い。

    安積國造神社



    表参道
    弐之鳥居
    手前は国道2号線
    何故か国道で断ち切られた参道に横断歩道が無い。

  • 安積國造神社<br /><br /><br /><br />表参道<br />横断歩道橋で迂回しなければならなくなった。<br />神社の祭礼時、神輿は参道を直進させる、させないと、地元氏子と警察間で毎年もめる。

    安積國造神社



    表参道
    横断歩道橋で迂回しなければならなくなった。
    神社の祭礼時、神輿は参道を直進させる、させないと、地元氏子と警察間で毎年もめる。

  • 安積國造神社<br /><br /><br /><br />正面大鳥居<br />弐之鳥居<br />大震災の震動で石柱根元にヒビが入り余震で倒壊危険の指摘を受け、切断の上、保管。<br />復元予定は未定。

    安積國造神社



    正面大鳥居
    弐之鳥居
    大震災の震動で石柱根元にヒビが入り余震で倒壊危険の指摘を受け、切断の上、保管。
    復元予定は未定。

  • 安積國造神社<br /><br /><br /><br />石柱

    安積國造神社



    石柱

  • 安積國造神社<br /><br /><br /><br />一品熾仁親王書<br />有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひと しんのう)の書。<br />有栖川宮熾仁親王は皇族で幕末から明治期に活躍した皇族。<br />幕末「宮さん宮さんお馬の前にヒラヒラするのはなんじゃいな、トコトンヤレ、トンヤレナ♪」の歌に出て来る錦旗の宮さまとは、即ち、有栖川宮熾仁親王である。<br />明治期以降陸軍に属し最終階級は陸軍大将。<br />因みに、「○○は品がよい」、「上品」、「下品」の品とは一般人が正一位や従八位で身分を表したのに対し、皇族は一品から三品で身分を表した。<br />因みに、「○○は品が良い」、「上品」、「下品」とは元来は該皇族位から来た語源である。

    安積國造神社



    一品熾仁親王書
    有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひと しんのう)の書。
    有栖川宮熾仁親王は皇族で幕末から明治期に活躍した皇族。
    幕末「宮さん宮さんお馬の前にヒラヒラするのはなんじゃいな、トコトンヤレ、トンヤレナ♪」の歌に出て来る錦旗の宮さまとは、即ち、有栖川宮熾仁親王である。
    明治期以降陸軍に属し最終階級は陸軍大将。
    因みに、「○○は品がよい」、「上品」、「下品」の品とは一般人が正一位や従八位で身分を表したのに対し、皇族は一品から三品で身分を表した。
    因みに、「○○は品が良い」、「上品」、「下品」とは元来は該皇族位から来た語源である。

  • 安積國造神社<br /><br /><br /><br />参之鳥居

    安積國造神社



    参之鳥居

  • 安積國造神社<br /><br /><br /><br />狛犬 左

    安積國造神社



    狛犬 左

  • 安積國造神社<br /><br /><br /><br />狛犬 右

    安積國造神社



    狛犬 右

  • 安積國造神社<br /><br /><br /><br />安積発祥の碑(あさか はっしょうのひ)<br /><br />安積國造神社<br />郡山市清水台1−6−23<br />?: 024−931−1145<br />東北本線郡山駅西口 徒歩10分

    安積國造神社



    安積発祥の碑(あさか はっしょうのひ)

    安積國造神社
    郡山市清水台1−6−23
    ?: 024−931−1145
    東北本線郡山駅西口 徒歩10分

    郡山駅

  • 安積國造神社(あさか くにつこ じんじゃ)<br /><br /><br /><br />本殿<br />安積國開祖の宗廟<br /><br />第13代成務帝(せいむ てんのう)(成務元年(131年)2月19日〜成務60年(190年)7月30日)5年(135年)に比止禰命(ひとめのみこと)は勅命に依り阿尺國造(あさかのくにのみやつこ)に任命され、赴任し赤木山に安積國神に和久産巣日神(穀神)(わくのむすびのかみ)、及び、天湯津彦命(祖神)(あめのゆつひこのみこと)を祭祀としたものが安積國造神社の起源とされる。<br />比止禰命は以後、第20代安康帝(あんこう てんのう)(安康元年(454年)1月28日〜安康3年(456年)9月21日)2年(455年)に赤木山に合祀され國造神社と称された。<br />坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)(天平宝子2年(758年)〜弘仁2年(811年)6月17日)は東征時に宇佐八幡大神(うさ はちまん おおかみ)を合祀し、軍旗、及び、弓矢を奉納した。<br />下って、天和3年(1683年)、八幡大神、及び、稲荷大神を、現在地たる清水の地に鎮座さられ、更に、明治5年(1872年)に至り、赤木山に鎮座せられていた國造神社が清水の地に奉遷せられ、3社を総称して安積國造神社と号される様になった。<br /><br />御祭祀は、<br />和久産巣日神(わくむすびのかみ)<br />天湯津彦命(あめのひこのみこと)<br />比止禰命(ひとねのみこと)<br />誉田別命(ほむだわけのみこと)(応神帝)<br />倉稲魂命(うかのみたまのみこと)(稲荷大神)<br />である。<br /><br />旧縣社格<br /><br />安積國造神社(あさか くにつこ じんじゃ)<br />郡山市清水台1−6−23<br />?: 024−931−1145<br />東北本線郡山駅西口 徒歩10分<br />http://www.asakakunituko.jp/

    安積國造神社(あさか くにつこ じんじゃ)



    本殿
    安積國開祖の宗廟

    第13代成務帝(せいむ てんのう)(成務元年(131年)2月19日〜成務60年(190年)7月30日)5年(135年)に比止禰命(ひとめのみこと)は勅命に依り阿尺國造(あさかのくにのみやつこ)に任命され、赴任し赤木山に安積國神に和久産巣日神(穀神)(わくのむすびのかみ)、及び、天湯津彦命(祖神)(あめのゆつひこのみこと)を祭祀としたものが安積國造神社の起源とされる。
    比止禰命は以後、第20代安康帝(あんこう てんのう)(安康元年(454年)1月28日〜安康3年(456年)9月21日)2年(455年)に赤木山に合祀され國造神社と称された。
    坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)(天平宝子2年(758年)〜弘仁2年(811年)6月17日)は東征時に宇佐八幡大神(うさ はちまん おおかみ)を合祀し、軍旗、及び、弓矢を奉納した。
    下って、天和3年(1683年)、八幡大神、及び、稲荷大神を、現在地たる清水の地に鎮座さられ、更に、明治5年(1872年)に至り、赤木山に鎮座せられていた國造神社が清水の地に奉遷せられ、3社を総称して安積國造神社と号される様になった。

    御祭祀は、
    和久産巣日神(わくむすびのかみ)
    天湯津彦命(あめのひこのみこと)
    比止禰命(ひとねのみこと)
    誉田別命(ほむだわけのみこと)(応神帝)
    倉稲魂命(うかのみたまのみこと)(稲荷大神)
    である。

    旧縣社格

    安積國造神社(あさか くにつこ じんじゃ)
    郡山市清水台1−6−23
    ?: 024−931−1145
    東北本線郡山駅西口 徒歩10分
    http://www.asakakunituko.jp/

    郡山駅

  • 安積國造神社<br /><br /><br /><br />安積艮斉(あさか こんさい)像<br />安積艮斉は江戸中期から後期にかけて政治思想家。<br />本名 安藤重信(あんどう しげのぶ)で安積國造神社第55代宮司安藤親重第3子として生れる。<br />幕藩体制鎖国下に於いて長崎経由で輸入された清国の漢書に拠り国際情勢を分析し西欧諸国家に依る亜細亜侵略に対し強い危機感を抱き尚歯会(しょうしかい)を通じ、渡辺崋山(わたなべ かざん)(寛成5年(1793年)10月20日〜天保12年(1841年)11月23日)や高野長英(たかの ちょうえい)(文化元年(1804年)6月12日〜嘉永3年(1850年)12月3日)等とも親交を結ぶ。<br />二本松藩校儒学者を経て、嘉永3年(1850年)に昌平坂学問所教授に任ぜられる一方、第12代将軍 徳川家慶(とくがわ いえよし)(寛政5年(1793年)6月22日〜嘉永6年(1852年)7月27日)に国際情勢を進講した。<br />世論は排外攘夷思想に満ち満ちていたが、逸早く開国論を説きペリー来航の際に持参した米国書翻訳に携わり当時の官学の頂点に存在した。<br />弟子筋には、小栗忠順(おぐり ただまさ)(文政10年(1827年)7月16日〜慶應4年(1868年)5月27日)、栗本鋤雲(くりもと じょううん)(文政5年(1822年)5月1日〜明治30年(1897年)3月6日)、阪谷朗盧(さかたに ろうろ)(文政5年(1822年)11月17日〜明治14年(1881年)1月15日)、福地源一郎(ふくち げんいちろう)(天保12年(1841年)5月13日〜明治39年(1906年)1月4日)等々を輩出した。<br /><br />昭和28年(1953年)建立。<br />選字撰文 徳富蘇峰(とくとみ そほう)(文久3年(1863年)3月14日〜昭和32年(1957年)11月2日)<br /><br />安積國造神社<br />郡山市清水台1−6−23<br />?: 024−931−1145<br />東北本線郡山駅西口 徒歩10分

    安積國造神社



    安積艮斉(あさか こんさい)像
    安積艮斉は江戸中期から後期にかけて政治思想家。
    本名 安藤重信(あんどう しげのぶ)で安積國造神社第55代宮司安藤親重第3子として生れる。
    幕藩体制鎖国下に於いて長崎経由で輸入された清国の漢書に拠り国際情勢を分析し西欧諸国家に依る亜細亜侵略に対し強い危機感を抱き尚歯会(しょうしかい)を通じ、渡辺崋山(わたなべ かざん)(寛成5年(1793年)10月20日〜天保12年(1841年)11月23日)や高野長英(たかの ちょうえい)(文化元年(1804年)6月12日〜嘉永3年(1850年)12月3日)等とも親交を結ぶ。
    二本松藩校儒学者を経て、嘉永3年(1850年)に昌平坂学問所教授に任ぜられる一方、第12代将軍 徳川家慶(とくがわ いえよし)(寛政5年(1793年)6月22日〜嘉永6年(1852年)7月27日)に国際情勢を進講した。
    世論は排外攘夷思想に満ち満ちていたが、逸早く開国論を説きペリー来航の際に持参した米国書翻訳に携わり当時の官学の頂点に存在した。
    弟子筋には、小栗忠順(おぐり ただまさ)(文政10年(1827年)7月16日〜慶應4年(1868年)5月27日)、栗本鋤雲(くりもと じょううん)(文政5年(1822年)5月1日〜明治30年(1897年)3月6日)、阪谷朗盧(さかたに ろうろ)(文政5年(1822年)11月17日〜明治14年(1881年)1月15日)、福地源一郎(ふくち げんいちろう)(天保12年(1841年)5月13日〜明治39年(1906年)1月4日)等々を輩出した。

    昭和28年(1953年)建立。
    選字撰文 徳富蘇峰(とくとみ そほう)(文久3年(1863年)3月14日〜昭和32年(1957年)11月2日)

    安積國造神社
    郡山市清水台1−6−23
    ?: 024−931−1145
    東北本線郡山駅西口 徒歩10分

    郡山駅

  • 安積國造神社<br /><br /><br /><br />石灯篭<br />上部は震動で落下損壊。

    安積國造神社



    石灯篭
    上部は震動で落下損壊。

  • 愛宕神社<br /><br /><br /><br />壱之鳥居正面<br />鳥居上部が落下崩壊状態。

    愛宕神社



    壱之鳥居正面
    鳥居上部が落下崩壊状態。

  • 愛宕神社<br /><br /><br /><br />鳥居<br />有馬良橘(ありま りょうきつ)(文久元年(1861年)12月16日〜昭和19年(1944年)5月1日)は和歌山県出身の海軍軍人で最終階級は海軍大将。<br />日露戦争勃発時は連合艦隊参謀。<br />明治天皇の信任が厚かったとされ在位中に海軍侍従武官に任じられていた経緯から、予備役編入後、明治神宮宮司を務める。

    愛宕神社



    鳥居
    有馬良橘(ありま りょうきつ)(文久元年(1861年)12月16日〜昭和19年(1944年)5月1日)は和歌山県出身の海軍軍人で最終階級は海軍大将。
    日露戦争勃発時は連合艦隊参謀。
    明治天皇の信任が厚かったとされ在位中に海軍侍従武官に任じられていた経緯から、予備役編入後、明治神宮宮司を務める。

  • 愛宕神社<br /><br /><br /><br />壱之鳥居背後<br />震災発生時に頭頂部が落下。

    愛宕神社



    壱之鳥居背後
    震災発生時に頭頂部が落下。

  • 愛宕神社<br /><br /><br /><br />御神木<br />震災動で枝が落下。

    愛宕神社



    御神木
    震災動で枝が落下。

  • 愛宕神社<br /><br /><br /><br />弐之鳥居<br />壱之鳥居同様、上部が落下。

    愛宕神社



    弐之鳥居
    壱之鳥居同様、上部が落下。

  • 愛宕神社<br /><br /><br /><br />鳥居<br />郡山と云ふ地は元来自然災害が多く発生する事を物語る。

    愛宕神社



    鳥居
    郡山と云ふ地は元来自然災害が多く発生する事を物語る。

  • 愛宕神社<br /><br /><br /><br />本殿<br />表面上は損傷が見られず無事。

    愛宕神社



    本殿
    表面上は損傷が見られず無事。

  • 阿邪訶根神社(あさかね じんじゃ)<br /><br /><br />該神社創建は資料焼失に依り不明とされているが、康平年間(1060年頃)に伊勢國阿邪訶より分霊を招祀したものが起源とされ、俗に、總産土大神(そううぶすな おおがみ)とも称される。<br />源 義家(みなもとの よしいえ)(長暦3年(1039年)〜嘉承元年(1106年)8月4日)の副将として、前九年ノ役(ぜんくねんのえき)(永承6年(1051年)〜康平5年(1062年))、及び、後三年ノ役(ごさんねんのえき)(永保3年(1083年)〜寛治元年(1087年)を戦った 平 忠道(たいらのただみち)(?〜寛治3年(1089年)9月19日)が東征中に戦没したが、後に、寛治6年(1092年)に御霊を道祖神に合祀した。<br />江戸期たる寛延2年(1749年)に社殿が全焼し今日残存すれば平安期東北地方の研究に欠かせない重要宝物を含め焼失したが、翌寛延3年(1750年)に本殿初め境内社殿が復興された。<br />昭和9年(1934年)5月郷社指定。<br /><br /><br />阿邪訶根神社(あさかね じんじゃ)<br />郡山市大町2−14−1<br />?: 024−922−1879<br />東北本線郡山駅西口 徒歩8分<br /><br />阿邪訶根神社<br />郡山市大町2−14−1<br />?: 024−922−1879<br />東北本線郡山駅西口 徒歩12分

    阿邪訶根神社(あさかね じんじゃ)


    該神社創建は資料焼失に依り不明とされているが、康平年間(1060年頃)に伊勢國阿邪訶より分霊を招祀したものが起源とされ、俗に、總産土大神(そううぶすな おおがみ)とも称される。
    源 義家(みなもとの よしいえ)(長暦3年(1039年)〜嘉承元年(1106年)8月4日)の副将として、前九年ノ役(ぜんくねんのえき)(永承6年(1051年)〜康平5年(1062年))、及び、後三年ノ役(ごさんねんのえき)(永保3年(1083年)〜寛治元年(1087年)を戦った 平 忠道(たいらのただみち)(?〜寛治3年(1089年)9月19日)が東征中に戦没したが、後に、寛治6年(1092年)に御霊を道祖神に合祀した。
    江戸期たる寛延2年(1749年)に社殿が全焼し今日残存すれば平安期東北地方の研究に欠かせない重要宝物を含め焼失したが、翌寛延3年(1750年)に本殿初め境内社殿が復興された。
    昭和9年(1934年)5月郷社指定。


    阿邪訶根神社(あさかね じんじゃ)
    郡山市大町2−14−1
    ?: 024−922−1879
    東北本線郡山駅西口 徒歩8分

    阿邪訶根神社
    郡山市大町2−14−1
    ?: 024−922−1879
    東北本線郡山駅西口 徒歩12分

    郡山駅

  • 阿邪訶根神社<br /><br /><br /><br />阿邪訶根神社<br />郡山市大町2−14−1<br />?: 024−922−1879<br />東北本線郡山駅西口 徒歩8分<br />

    阿邪訶根神社



    阿邪訶根神社
    郡山市大町2−14−1
    ?: 024−922−1879
    東北本線郡山駅西口 徒歩8分

    郡山駅

  • 阿邪訶根神社<br /><br /><br /><br />阿邪訶根神社<br />郡山市大町2−14−1<br />?: 024−922−1879<br />東北本線郡山駅西口 徒歩8分<br />

    阿邪訶根神社



    阿邪訶根神社
    郡山市大町2−14−1
    ?: 024−922−1879
    東北本線郡山駅西口 徒歩8分

    郡山駅

  • 阿邪訶根神社<br /><br /><br /><br />阿邪訶根神社<br />郡山市大町2−14−1<br />?: 024−922−1879<br />東北本線郡山駅西口 徒歩8分<br />

    阿邪訶根神社



    阿邪訶根神社
    郡山市大町2−14−1
    ?: 024−922−1879
    東北本線郡山駅西口 徒歩8分

    郡山駅

  • 丸兼ふとん(まるかね ふとん)<br /><br /><br /><br />創業 大正8年(1919年)1月1日<br />大正5年(1916年)建築<br /><br />丸兼ふとん<br />郡山市大町1−12−2<br />?: 024−

    丸兼ふとん(まるかね ふとん)



    創業 大正8年(1919年)1月1日
    大正5年(1916年)建築

    丸兼ふとん
    郡山市大町1−12−2
    ?: 024−

  • 丸兼ふとん<br /><br /><br /><br />屋根上部は震災で損壊している。<br /><br />丸兼ふとん<br />郡山市大町2−15−6<br /><br />

    丸兼ふとん



    屋根上部は震災で損壊している。

    丸兼ふとん
    郡山市大町2−15−6

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この旅行記へのコメント (2)

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  • わんぱく大将さん 2011/09/07 00:08:33
    質屋?
    横浜臨海公園さん

    いまだに質屋さんがあるんですね。  びっくりです。

    ここの神社は、女性の神さんが多いのでしょうかね。鳥居に、なんというのか? 金隠し?がありませんね。

     大将

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2011/09/07 06:47:41
    拝復
    大将さま、おはようございます。


    郡山の旅行記にお立寄りと投票を賜りまして誠に有難うございました。

    横浜市内でも質店は数こそ減らしたものの現在でも数多く存在しております。
    小生の中学時代の同級生も3代続く質店を経営しており、現在でもブランド品などを持ち込み客が多く存在しているそうです。


    > ここの神社は、女性の神さんが多いのでしょうかね。鳥居に、なんというのか? 金隠し?がありませんね。
    →旅行記には記述しておりませんが、実は、先般の震災で扁額が落下の危険ありと判断され、全部下ろされ撤去しております。



    横浜臨海公園

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