2011/05/01 - 2011/05/01
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akkiy363672さん
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美ヶ原からビーナスラインを降りてきて、和田峠から国道142号に乗り換えて北上し、上信越道に上がりました。長野市の「善光寺」を訪ねためです。
章くん、善光寺は初めて…。『身はここに、心は信濃の善光寺』とうたわれ、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに インドから中国を経て、百済より日本へ伝えられた日本最古の仏像がおわしますこの寺に、初めてお参りしました。
善光寺を中心とする、長野市の町作りにも感心させられるところが多くあり、有意義な旅でありました。
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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午前10時30分、山本小屋を出発し、美ヶ原からビーナスラインを下って、和田峠で国道142号へと左折しました。
今の国道142号は和田峠の下をトンネル(新和田トンネル、1978年完成)で抜けていますが、このトンネルが掘削されるまでは、上田・佐久から諏訪へ出るものはみんな、曲がりくねった峠道を行き来しなければなりませんでした。
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ビーナスラインから142号へ出ると、ちょうどトンネルの上の弓道に出ますから、カーブの続く峠道(旧道)を下ることになります。
この道は旧中仙道と多くの部分を共有しています。昔の人々も、この曲がりくねった山道を上り下りしていたのですね。
曲がり角には「第65カーブ」といった標識が取りつけられていました。
← 山桜が、花をつけていました。 -
国道142号から152号を北へ走り、上田を目指します。
← 遠藤の桜並木も、いっぱいの花をつけていました。 -
上信越道の上田ローマン橋が見えてきました。その姿がポン・デュ・ガールの様な古代ローマの水道橋を連想させることから、「ローマン橋」の名称が付けられました。
午後0時30分、「上田菅平IC」から上信越道へと上がって、長野へ向かいました。 -
上信越自動車道は、群馬県藤岡市の藤岡JCTから長野県長野市を経て新潟県上越市の上越JCTに至る高速道路(高速自動車国道)です。
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松代PAで休憩したとき、「ゴールデンウイークの善光寺参りは、パーク&ライドで」との案内がありました。
「市内で駐車場を探しているよりも、それのほうがいいか」と思い、長野ICで降りて、長野市の郊外に設けられた臨時駐車場に車を置いて、斜度バスで善光寺へと向かいました。
← 郊外の駐車場から善光寺との間を走るシャトルバスです。 -
← シャトルバスからの長野市内です。
このバス、往復で1人300円、15分間隔で運行されていて、駐車場と善光寺の間を10分ほどで結んでいます。 -
← 長野市内を流れる犀川です。
長野市にはもう1本、千曲川が流れています。 -
大門前でバスを降りて、10分ほど、参道を歩いていきました。
参道の両脇は白壁作りの町谷が並び、緑の多い通りとしてよく整備されていました。 -
大門交差点にある、枝垂れ桜です。
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参道沿いにあるレストランです。
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大きな歴史を感じさせる建造物もありました。
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歩道には、たくさんの花が飾られていました。
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参道から一歩踏み入れると、曽野坪ノ内の一角には白壁の家が並んでいて、それらの家々は食べ物屋さんなのです。
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花に飾られて、とてもよい雰囲気でした。
和食屋さん、要職レストラン、釜めし、お蕎麦屋さんなど、いろいろな店が集まっていました。 -
章くん、そのうちの1軒に入って、十割そばを食べました。
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仁王門が見えてきました。
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仁王門をくぐると仲見世通り。信州名物やみやげ物を売る店が、軒を並べています。
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山門(三門)は重要文化財です。
寛延三年(1750年)に建立された二層入母屋造りの門です。平成十四年から十九年にかけて行われた平成大修理が行われました。
楼上には輪王寺宮筆の「善光寺」と書かれた額が掲げられています。これは通称「鳩字の額」と呼ばれており、3文字の中に鳩が5羽隠されています。更に「善」の一字が牛の顔に見えると言われ、「牛に引かれて善光寺参り」の信仰を如実に物語っています。 善光寺ホームページより -
本堂前で線香をあげました。
みなさん、煙を頭や体にかぶっています。 -
本堂は創建以来十数回もの火災に遭いましたが、そのたびに善光寺を慕う全国の信徒によって復興されてきました。
現在の本堂は宝永四年(1707年)の再建で、江戸時代中期を代表する仏教建築として国宝に指定されています。(ホームページより) -
御本尊様は「一光三尊阿弥陀如来像」です。しかし、御本尊様は絶対秘仏で、今日そのお姿を拝むことはできません。
『善光寺縁起』によれば、善光寺如来様は、遠くお釈迦様在世の時にインドで出現なさったといわれております。その後、百済にお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、日本に仏教が伝来した時に百済より贈られた、日本最古の仏像と語られています。
御本尊様は古来より「生身の如来様」といわれております。人肌のぬくもりを持ち、人と語らい、その眉間の白毫から智恵の光明を発しているというのです。奈良の法隆寺には「善光寺如来御書箱」という、聖徳太子と善光寺如来様が取り交わした文書を入れた文箱が現存しています。このように、人々と触れあう如来様として信仰を集めて参りました。(HPより)
お堂の下の真っ暗な通路を行くと錠前に触れることが出来ます。ご本尊との縁が結ばれるのだとか。章くん、漆黒の闇の中で、しっかりと錠前をつかんできました。 -
本堂を出て右手…。ここは大勧進、その住職は貫主(かんす)と呼ばれ、大本願の上人(しょうにん)と共に善光寺住職を兼ねています。
貫主は代々比叡山延暦寺より推挙される慣習になっており、毎朝善光寺本堂で行われるお朝事(お勤め)に出仕されます。(HPより) -
大勧進の前の橋の上から、山門と本道を見たところです。
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山門から、仁王門を眺めたところです。
仲見世通りは、大勢の参拝客でにぎわっていました。 -
参道に並んでいる宿坊のひとつです。
善光寺の参道周辺には、天台宗、浄土宗合わせて39の宿坊が軒を連ねているとか。
それぞれが住職がいる独立した寺院で、参拝客を受け入れるともに、善光寺如来を守る役割を果たしています。 -
宿坊の一軒に、紅白の花が咲く梅の木がありました。
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仁王門からまっすぐ南へ伸びる中央通の街飾りです。
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街灯や公衆電話のボックスも、門前町の雰囲気を漂わせています。
中央通を南へ1Kmほど歩いて、昭和通のバス停からまたシャトルバスに乗りました。 -
帰り、「川中島古戦場」に寄りました。千曲川と際川の流れにはさまれているので川中島といいます。
古戦場は、春の花々に彩られていました。 -
5度にわたって繰り広げられた信玄と謙信の川中島の戦いの中で、永禄4年(1561)の戦いの舞台になったのが、ここ八幡原…。
ここでの戦いが最も激しく、武田方は副将・武田典厩信繁、山本勘助ら勇将が戦死しました。
← 史跡公園の松林の中には古くからの八幡社があります。 -
八幡社の境内には<信玄・謙信両雄一騎討ちの像や三太刀七太刀之跡の碑、首塚などがあります。
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一帯は、広い公園になっています。
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午後5時40分、長野道に乗りました。
中央道・東海環状・東名阪・伊勢道と乗り継いで帰ってきましたが、連休のさなかでも渋滞にあうこともなく、午後11時前に家に着きました。
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