2011/04/02 - 2011/04/04
8位(同エリア36件中)
極楽人さん
4月上旬に連続して訪れた、次の三つの場所を順序どおりにまとめました。
4月2日 ネボ山と死海はホテル主催のツアーで、
4月3日 ボスラはアンマンからダマスカスに向かう途中に立ち寄り、
4月4日 マアルーラはダマスカスから遠足に行きました。
いずれも記載できる写真が多くありません。
理由は、規制されていたためだったり、同じ被写体をたくさん撮ったり、ときには写真を撮るのを忘れて遊んだり等々、さまざまです。
決して、これらの場所に魅力が少なかったという訳ではありません。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- 高速・路線バス タクシー
- 航空会社
- アエロフロート・ロシア航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
●ネボ山と死海 ●●●●
ペトラからアンマンに戻った翌日、ファラホテルの『死海ツアー』に参加しました。前夜、食堂の「ツアー募集票」を見ていたら声をかけられ、「このままでは不成立なのでぜひ一緒に」と誘われました。死海ツアーに申し込んでいた二人です。その時点で参加者は彼らのみ、他のツアーも最高が二人でどれも成立の見込みはありません。(ツアーは原則4人以上で催行)
「ジェラシュに行こうか」などと思っていましたが、興味半分、気の毒半分で参加を決めました。 -
このツアーは、4人参加の場合でひとり17JD(1,900yen)。3人だと欠員分を負担して23JDになります。施設などへの入場料は、別途個人払いになっています。メンバーは、昨夜声をかけてきたハンガリーの青年二人と私です。
私にとって幸運なことは、彼らが英語のほかにドイツ語が話せることです。会話は英語7割、ドイツ語3割で案外スムーズでした。
8:50 ホテルが用意した車に乗り込むと1時間ほどでマダバの教会へ着いて、著名なモザイクなどを見学しました。
先に入った二人が、教会内を歩き回っています。
入場料1JD。 -
つづいて旧約聖書ゆかりの『ネボ山』に向かいます。
『十戒』のモーゼがユダヤの民を連れエジプトを脱出し、『約束の地』をめざすものの、この不毛の岩山で力尽き倒れたということです。その場所に、教会が建っていました。
モーゼはイスラムではムーサ。
キリスト教もイスラム教も、もともと地域の民族宗教だったユダヤ教を起源としています。聖地はいづれもエルサレム。ここからほんの数キロ先の土地を巡って、対立は今も続いています。
無宗教の素人目には、一神教ゆえの排他性が災いしているように思われますが・・・ 宗教施設の見学は難しいですね。 -
トタン屋根で覆った施設には古い教会の床や壁の淡い色のモザイクが、展示室には出土した器や装飾品などが並んでいました。
同行の二人は「一応、キリスト教徒」と言っていましたが、ガイドの説明にはまるで関心を示さず、死海で浮くことばかり考えている様子です。まあ、ハンガリーは長らく共産圏でしたからね。
ここの入場料1JD。 -
そうは言っても、ネボ山から死海に至る景観の凄まじさには眼を見張りました。
世界中の"不毛"を集めたような、荒涼とした丘。
その背中を、黒々とした舗装道路が蛇のようにくねくねと這い回っています。 -
砂か霞か、晴れているのに視界がききません。
高台からは、死海に注ぐヨルダン川や遠くエリコの町が見渡せたようです。見知らぬ人が指をさして教えてくれましたが、♪遥かにかすみ見えるだけ・・・でした。写真にも、それは写っていません。
エリコは旧約聖書に何度も出てくる“オリエント最古の町”です。
現在は『ヨルダン川西岸地区』と呼ばれる一帯に属し、イスラエルの主権下にあります。 -
イスラエルの民が神から与えられたという『約束の土地』。
石で追われる流浪の民には桃源郷にも思えたのでしょうが、一本の木さえ生えない荒れ果てた山は、広大な墓場のようにも見えます。
都合のいい「奇跡」と「予言」に振り回されて、悲運の人々は21世紀になっても流され続けているようです。 -
ネボ山はおよそ標高800m、死海はマイナス400m。
標高差1200mを、車は右に左に身をきしませて駆け降ります。 -
死海の前にもう一ヶ所、『バプティズム・サイト』という施設に立ち寄りました。
“新約聖書でヨハネが活動した場所”が公園のように整備されていて、専門のガイドについて廻ります。じりじりと陽が照るつける暑い場所です。
あたりを見回すと、記念に建てられた教会、その向こうにモスクと思しき金色の屋根、どの宗派に属するとも分からない十字架など、なんとも奇妙で殺風景な光景です。 -
中央を左右に流れる、茶色く濁っているのがヨルダン川。
わずか3メートルほどの川幅の、向こう側(西岸)がイスラエルです。
ひと通りの見学に、1.5時間を要しました。
施設への入場時に、パスポートの提示と“説明が聞ける機器”のデポジットを取られした。もちろん、デポジット分50JDは退出時に返されます。
ここの入場料も最近上がったようで、12JD。 -
車に戻って、海岸沿いに5分も走ると待望のビーチです。
沿道の店には浜辺グッズも並んで、“お預け”時間が長かったぶん余計に気分が盛り上がります。 -
着いたのは『アンマン・ビーチ』というリゾート施設の浜辺。
ロッカーでそそくさと水着に着替え、なにはともあれ水の中へ入ります。(他人の裸を出す訳にもゆかず、さりとてナマでは近所が歩けなくなります)
首まで浸かる深みで両足をそっと前に投げ出すと、これが浮くんです!反対に、腹ばいになろうとするとしこたま水を飲みます。3人で代わる代わる写真を撮りあい、またキャッキャッと浮きに行きます。彼らは33歳と30歳の立派な大人、私は2人を合計した年齢のやはり立派な老人です。
来る前は「浮いてどうするんだ!」とバカにしていましが・・・ -
プライベートビーチでは泥パックの人、寝そべる人、プールで泳ぐ人。死海の水は粘っこく重ったるく、身体中がヌルヌルになります。当然、手もヌルヌルなのでカメラは持てません。見ていると、誰もが味見をしています。死海の水は“塩辛さ"を通りこして“苦み”に似た感覚でした。
楽しんだ後にナンですが・・・
ビーチの入場料が15JD、ツアー料金23JDに全入場料29JDを加えた総額は52JD(5,800yen)になります。ペトラと変わらない高値に、"JORDAN”を"ジョーダン"と読み違えそうです。可愛そうに、同行の二人は予想外の出費で昼食を控えていました。
やってくれますね、ヨルダン観光局! -
●ボスラ ●●●●
4月3日、ヨルダンを後にしてシリアへ再入国します。
アンマンからダマスカスに行く途中でボスラに立ち寄りますが、それにはダラアを通ることになります。ダラアは、シリアの民主化運動(現在は反政府運動)に火をつけた町。金曜日ごとのデモは次第に激しくなり、既に数人の死者を出していました。
ただ、バスターミナルは町の中心から離れた郊外にあります。荒れる金曜日を避けて移動するのも、自分なりの安全策でした。
行き方は左表のとおり、アンマンの長距離バスターミナル『ムジャンマ・シャマーリー』からセルビスでシリア国境に近い『ラムサ』まで、そこから国境越えのタクシーでシリアのダラアに入り、ダラアからミニバスでボスラに行く。見学後は長距離バスでダマスカスへ、という道のりです。日本で調べていて、いちばん確実で安い方法だと思いました。
ホテルを去る間際、スタッフが「アブダリ広場からも行けるよ」と助言をくれました。経路に大きな違いはなく、アブダリ広場なら郊外のムジャンマ・シャマーリよりずっと近くて便利です。 -
それで、アブダリ広場からダマスカス行きのセルビスに乗り込みました。
8:50 出発します。乗客は2人で、ひとり15JD(1,700yen)。国境で途中下車しても、料金はダマスカスまでを支払います。原案よりは高くつきそうです。
10:05 ヨルダン出国 →10:40 シリア入国。
日本でシリアのマルチビザを取得していたし、国境も空いているので簡単に通過できました。国境エリア一帯は撮影禁止、撮りたい風景でもありません。
*報道では、この国境は現在閉鎖されているようです。 -
シリア側の国境付近には、黄色いタクシーが数台たむろしています。
「ボスラまで直行」というのもありましたが、高値を吹っかけてきます。ああだこうだと言い寄るのを無視して、タバコを一服。そのあと、いちばん大人しそうな運転手をつかまえてダラア郊外のターミナル(ムジャンマ・シャーマン)まで行ってもらいました。タクシーは200SP(400yen)。ここでボスラ行きのミニバスに乗り換えます。
ミニバスは25SP(50yen)。タクシーの運転手がケータイで待たせておいてくれたので、乗るとすぐ出発しました。
ダラア郊外には兵隊がいっぱい。「普段はない」(運転手)軍の検問に止められました。 -
11:15分にダラアを出て、12:00 ボスラに到着。
街中ではなく、遺跡の前で「ここが便利」と降ろされました。
目の前にめざす円形劇場があります。
逸る気持ちを抑えて、先ずダマスカス行きのバスの時間を確認しようとすると、自称ガイドの若者が「あそこの店で切符が手に入る」と教えてくれます。 -
劇場の横に、食堂らしき店が数件ありました。
近づくと中から「何を飲む?」「何か食べる?」と男。こっちは「先ず切符だ。飲み食いはそのあと。」と譲りません。男は「わかった」というが早いかバイクに飛び乗り、なんと希望した4時発のバスチケットを買ってきてくれました。これで安心。
大きな荷物はダマスカスのホテルに置いてあるのでもともと軽装なんですが、そのディバッグも食堂に預け、カメラと肩掛けバックだけ持って出かけます。帰ってきたら、ここで食事をすると約束してあります。 -
ボスラは、ペトラを造ったナバテア人が起こした商業都市です。ナバテアがローマの属州になった時、ボスラもローマの傘下に入ります。その頃建てた円形劇場が、今もほぼ完全な形で残っています。
玄武岩の堅牢な造りは、イスラム軍が十字軍の侵攻に備える要塞としても利用したといいます。 -
周囲は堀が切ってありますが、今では水はありません。
草の上に、牛が寝転んだりしていました。 -
入場料は4ドル。外人旅行者には米国紙幣でOKでした。
部厚い壁に囲まれたトンネルをくぐって、中に入ります。 -
舞台の横に出ました。
正面は階段状の観客席です。
黒く粗っぽい玄武岩の質感が独得の落ち着きと深みを与えて、2000年の歴史を感じさせます。 -
柱は大理石で、造りはどこかローマ風。
コロッセオにも通じる雰囲気があります。 -
最上階から見た全景です。
収容人員15,000人は世界でも最大級の規模。
この日も客席には数人の観光客がいました。
静かに資料を読みふける姿が、ここがとても知的な場所であるという雰囲気を作り上げていました。 -
音響効果も確かで、今でもコンサートなどに使われているそうです。
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舞台周辺①
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舞台周辺②
同じような写真をたくさん撮りました。 -
この間も、修復員が手作業で仕事をしています。
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ローマ劇場の外は遺跡の街。
ここは柵で囲われてもおらず、もちろん入場も無料です。
ここは凱旋門のあるメインストリートでしょう。 -
列柱が残る街角。
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ここは50mほど列柱が続きます。
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住居が並ぶ一角。
遺跡の中には今も住んでいる人たちがいて、決して"死んだ町"ではありません。 -
ここは、何だかわかりません。
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近くの学校が終わって、子供たちが「自宅」に戻ってきました。静かな遺跡が、とたんに賑やかな生活の場所に変貌します。
劇場に45分、遺跡に1時間費やして、ボスラはこのくらいでいいでしょう。
食堂で約束のケバブサンド(150SP)を食べて、荷物を受け取ってもまだ2時前です。
4時のバスまで、何をしようかと思っていたら・・・ -
「50SP(100yen)で早い便に変更してあげる」と食堂男。
チケットの発車時間の部分を手書きで書き換えて、「これでOK」の仕草です。
半信半疑で2時過ぎのバスに乗り込みましたが、とくに問題はありませんでした。それにしても、あんな変更手続きが必要だったのかどうか・・・
冷房付き大型バスは快適で、よく整備された道を一路ダマスカスへと向かいます。運賃は150SP(300yen)。
2時間半の道のりは、隣の席になったポーランドの青年と話が弾みました。「英語が苦手」と言いつつも「練習だから」と積極的です。私より上手いので、練習になったかどうか自信がありません。
最近観た映画『カティンの森』の話をすると、「あれは我々の経験そのものだ。」と答えていました。より正確には、彼のおじいさん世代の経験でしょう。
青年はアダムという名で26歳の学生。後部座席の仲間と中東一帯を旅行中だそうです。 -
ヨルダンではずっと快晴でしたが、シリアの空には厚い雲が垂れ込めていました。汚れた窓の向こうには、遠い山に雪が見られます。北へ向かっている実感が湧きます。
アダムにはリーダーの資質があるようで、当初の仲間以外に何人か引き連れているようです。そのうちの1人で世界放浪中というオーストラリアの男性が、「お城は姫路城が世界で一番!」と唐突に言い出してビックリ。別府も「まあまあ」だったそうです。 -
16:30 ダマスカスのターミナル『ガラージュ・ソーマーリエ』に到着しました。
部厚いガイドブックを拾い読みしていたアダム(赤いシャツ)から、さっそくメンバーに的確な指示が飛びます。「次はあの市バスに乗って!」 私もちゃっかり従って、迷うことなく街中にたどり着きます。
私のホテルがヒジャーズ駅の近くだというと、「あっちの方向だね」。その通りに歩いて、見事10分後にスルタンホテルへ到着しました。 -
●マアルーラ ●●●●
ヨルダンから戻った次の日、近郊の村『マアルーラ』に遠足を試みました。
ミニバスが出る『ガラージュ・マアルーラ』は旧市街の先にあり、歩いても行けますが、タクシーを使いました。ホテルで「相場は150SP」と聞いて、流しのタクシーに「100SPで」と言うと、初老の運転手はちょっと渋りましたが「乗りな」と合図してくれました。
走りながらタバコを取り出して薦めてくれます。最後の一本だったようで、自分の分がありません。いい人なので、タバコと150SPを渡して降りました。 -
そしてミニバスへ。距離は約60km、1時間と少しの道のりで40SP(80yen)です。
バスはシリア西部を南北に走る衝立のような『アンチ・レバノン山脈』の東側を走ります。この道路は、中部の大都市ホムス〜北部の大都市アレッポへと続く幹線道路です。 -
その道を左に外れてしばらく行くと、崖に張り付くマアルーラの町が見えてきました。
-
標高1600mの高台。
鋭い岩山に囲まれた陸の孤島には、現在5000人*ほどの人が住んでいるそうです。大半がキリスト教徒だそうです。
*2000人とする資料もあり、はっきりしません。 -
バスの終点まで行かず、観光案内所のあるロータリーで降りました。
行きたい所にはここの方が近い、と思ったからです。
特にどこに行きたい、ということではありません。
崖とか坂道とかがある町並みを歩くのが好きで、この町も何かの写真を見て来る気になりました。 -
観光案内所では地図はもらえず、元気な若い女性が壁に掛かった大きな地図で説明してくれました。
ひと周りで、「どんなに時間をかけても2時間はかからない」コースを歩くことにします。
道はやはり、案内所の横からスタートしているようです。崖に張り付く家や教会の間を、コースを探しながらゆっくり登ってゆきます。
坂道を登ったところに、『聖テクラ教会』。
異教徒から改宗を迫られたテクラが祈ると岩が割れて「入口」ができたという伝説の場所に建つ修道院です。マアルーラという村の名はもともと「入口」という意味だそうです。
内部は撮影禁止です。 -
所々、岩が両側に迫るペトラ遺跡の入口ような場所もあります。
同じような「隠れ里」。嶮しい地形が外部の進入を防いだことで、アラム語という古語が残り、古代キリスト教が信仰され続けている村だそうです。 -
20分ほど歩くと、頂上が近くなります。
途中の山肌のあちこちに、十字架やマリア像が貼り付けられていました。 -
山頂の『聖セルギウス教会』。
これも建てかえられたのか、比較的新しい建物に見えます。
オリジナルは4世紀以前、現存する最も古い教会のひとつだそうです。 -
中庭で祈りを捧げる人。
礼拝堂には美しいイコンが飾られているとのことですが、入場しませんでした。内部撮影禁止でもあります。 -
山を下る途中に「村を一望できる場所がある」と教えられましたが、どうしても見つかりません。聞く人もおらず、しばらく探した後にあきらめて降りてしまいました。
-
ここは振り出しの「観光案内所」前です。
今さら戻る気にはなれず、崖を見たからもういいか、という気分でした。
観光案内所でトイレを聞くと、「そこのモスクの中」と返事が。
通りの反対側のモスクです。庭にきれいな無料トイレがありました。 -
村では、ロバ君が現役の働き手のようです。
ガイドブックに「店がないので水と食料を持参する方がいい。」と書いてあった気がして、朝出かける前にサンドイッチを買って来ています。でも、食堂も売店も揃っていました。(あとで読み返したら、"山の頂上には・・・"ということでした。) -
ダマスカス行きのバスが出る間、道端で寛ぐ老人たちと歓談。老人といっても、同い歳か年下か・・・
ヨルダンもシリアも、とにかく写真を撮られるのが好きな人たちが多くて被写体に困ることはありません。撮りたいと思わないことも多くて、夜になってからメモリーをゴッソリ消してしまうこともしばしばでした。
そうこうする内に、ダマスカス行きのミニバスがやって来ました。 -
帰路は別な道でしたが、往路と同じく1時間とちょっとでダマスカスへ到着しました。終点のガラージュまで行かず、見慣れた風景の場所でバスを降りました。ここは旧市街の外れで、ウマイヤド・モスクの裏手です。
4時間ちょっとの遠足が終わりました。
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