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さて、これから甲州街道歩きを出発します。<br />甲府まで37次、さらにその先7次を経て、長野県の下諏訪までを結び、中山道に合流する。<br />宿場は全部で44宿、全長約208kmの街道だ。<br /><br />初回は、日本橋から皇居周囲を巡り、半蔵門から四ツ谷に向かい、新宿に行く。さらに国道20号線沿いに甲州街道を郊外に向けて下高井戸まで歩く。<br /><br />この街道は、将軍家の江戸城からの「避難路」として整備された。<br />家康が江戸に入る前、甲府は既に徳川の支配下に置かれ、甲府城が建造されていた。<br />城がほぼ完成した1590年、家康は秀吉から国替えを命ぜられて、城郭から見渡す限りの葦の原が広がる江戸城に入る。捲土重来、江戸幕府を開いた家康は、幕府を盤石なものにするため、慎重を重ねた「仕組み」を随所に埋め込んだ。この甲州街道という避難路も、そのうちのひとつだったのだ。<br />265年間も平和な時代が続くわけだ。

甲州街道ウォーク No1. 日本橋から四ツ谷、内藤新宿(新宿)(1)を経て下高井戸へ。

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2011/04/22 - 2011/04/22

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ムッシュ

ムッシュさん

さて、これから甲州街道歩きを出発します。
甲府まで37次、さらにその先7次を経て、長野県の下諏訪までを結び、中山道に合流する。
宿場は全部で44宿、全長約208kmの街道だ。

初回は、日本橋から皇居周囲を巡り、半蔵門から四ツ谷に向かい、新宿に行く。さらに国道20号線沿いに甲州街道を郊外に向けて下高井戸まで歩く。

この街道は、将軍家の江戸城からの「避難路」として整備された。
家康が江戸に入る前、甲府は既に徳川の支配下に置かれ、甲府城が建造されていた。
城がほぼ完成した1590年、家康は秀吉から国替えを命ぜられて、城郭から見渡す限りの葦の原が広がる江戸城に入る。捲土重来、江戸幕府を開いた家康は、幕府を盤石なものにするため、慎重を重ねた「仕組み」を随所に埋め込んだ。この甲州街道という避難路も、そのうちのひとつだったのだ。
265年間も平和な時代が続くわけだ。

  • 日本橋の起源の説明板

    日本橋の起源の説明板

  • 日本橋から大手門を見て、日比谷交差点(日比谷見附)を右折して半蔵門方向へ。これを江戸古地図で見ると。<br />フォトの上部赤印の箇所が日本橋になる。

    日本橋から大手門を見て、日比谷交差点(日比谷見附)を右折して半蔵門方向へ。これを江戸古地図で見ると。
    フォトの上部赤印の箇所が日本橋になる。

  • 日本橋を出発し、直ぐの交差点を右折します。

    日本橋を出発し、直ぐの交差点を右折します。

  • すると、先に見えるて来るのが東京駅東側のガード。これを丸の内側へ抜けます。

    すると、先に見えるて来るのが東京駅東側のガード。これを丸の内側へ抜けます。

  • 【江戸城の大手門】<br />ガードを抜けて直進すると、正面は江戸城の大手門になります。<br />大名や役人が本丸に登城、下城する際の正門で、枡形門形式の門。元和6年(1620年)、外様大名の伊達政宗等の外様大名の御手伝普請で築造されたもの。明暦の大火(1657年)で消失し、再建されたが太平洋戦争の戦火で消失し、現在のものは昭和42年に復元された。<br />現在は、この門の中の、本丸、二のノ丸、三の丸跡が整備され、皇居東御苑として公開されている。左の堀は桔梗濠である。

    【江戸城の大手門】
    ガードを抜けて直進すると、正面は江戸城の大手門になります。
    大名や役人が本丸に登城、下城する際の正門で、枡形門形式の門。元和6年(1620年)、外様大名の伊達政宗等の外様大名の御手伝普請で築造されたもの。明暦の大火(1657年)で消失し、再建されたが太平洋戦争の戦火で消失し、現在のものは昭和42年に復元された。
    現在は、この門の中の、本丸、二のノ丸、三の丸跡が整備され、皇居東御苑として公開されている。左の堀は桔梗濠である。

  • 大手門から皇居に入ってみます。(2012/4撮影)

    大手門から皇居に入ってみます。(2012/4撮影)

  • 大手門を過ぎて、直ぐに【大手高麗門】となる。<br />枡形門の一ノ門と二ノ門の間の石垣で囲まれた枡形の平地部分より内側の二ノ門。<br />左右の石垣の上に渡した入母屋造りの渡櫓(わたりやぐら)を持つ大きな櫓門である。<br />枡形門は、敵の侵入を防ぎ、味方の出撃を容易にする構造である。一の門は狭くて多勢では入れず、入ると三方の石垣から弓、鉄砲の攻撃ができるよう。  

    大手門を過ぎて、直ぐに【大手高麗門】となる。
    枡形門の一ノ門と二ノ門の間の石垣で囲まれた枡形の平地部分より内側の二ノ門。
    左右の石垣の上に渡した入母屋造りの渡櫓(わたりやぐら)を持つ大きな櫓門である。
    枡形門は、敵の侵入を防ぎ、味方の出撃を容易にする構造である。一の門は狭くて多勢では入れず、入ると三方の石垣から弓、鉄砲の攻撃ができるよう。  

  • 皇居東御苑

    皇居東御苑

  • 皇居内の二の丸庭園に咲く桜

    皇居内の二の丸庭園に咲く桜

  • さらに一段高く、坂を登ると広い本丸跡の公園へ

    さらに一段高く、坂を登ると広い本丸跡の公園へ

  • 本丸の一角にある天守台跡の石垣の説明

    本丸の一角にある天守台跡の石垣の説明

  • 本丸の一角にある天守台跡の石垣

    本丸の一角にある天守台跡の石垣

  • 江戸城天守台の石垣

    江戸城天守台の石垣

  • 元に戻って歩きます。大手門には入らず、堀沿いに歩を進める。

    元に戻って歩きます。大手門には入らず、堀沿いに歩を進める。

  • 和田倉濠と和田倉橋が見える。この濠は日比谷方向に繋がっている。

    和田倉濠と和田倉橋が見える。この濠は日比谷方向に繋がっている。

  • 皇居外堀沿いを歩きます。

    皇居外堀沿いを歩きます。

  • 日比谷交差点(日比谷見附)から半蔵門方面へ。<br />フォトの右角部の赤印部が日比谷見附、下方に濠沿いに歩くと半蔵門に着く。<br />外堀周辺は、地方の松平家が集まっています。桜田門が近い、右下部の堀沿いには、井伊家も。

    日比谷交差点(日比谷見附)から半蔵門方面へ。
    フォトの右角部の赤印部が日比谷見附、下方に濠沿いに歩くと半蔵門に着く。
    外堀周辺は、地方の松平家が集まっています。桜田門が近い、右下部の堀沿いには、井伊家も。

  • 日比谷交差点の交番前。<br />【日比谷見附の石組】江戸時代からの遺構です。<br />見附自体は、現在の日比谷交差点に在った。前地図の右上辺り。<br />日比谷公園内には、江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の石垣を残しています。<br />ここは、日比谷見附跡です。日比谷御門の一部で、城の外側から順に高麗門、枡形、渡櫓、番所がありました。<br /><br />また、日比谷園内に仙台藩祖伊達政宗終焉の地がある。ここには仙台藩外桜田上屋敷があり、正宗は江戸参勤の折、寛永13年(1636)五月、ここで70歳の生涯を終えた。他に、園内には鍋島、毛利、南部の江戸藩邸があった。

    日比谷交差点の交番前。
    【日比谷見附の石組】江戸時代からの遺構です。
    見附自体は、現在の日比谷交差点に在った。前地図の右上辺り。
    日比谷公園内には、江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の石垣を残しています。
    ここは、日比谷見附跡です。日比谷御門の一部で、城の外側から順に高麗門、枡形、渡櫓、番所がありました。

    また、日比谷園内に仙台藩祖伊達政宗終焉の地がある。ここには仙台藩外桜田上屋敷があり、正宗は江戸参勤の折、寛永13年(1636)五月、ここで70歳の生涯を終えた。他に、園内には鍋島、毛利、南部の江戸藩邸があった。

  • 日比谷で右折し濠沿いに歩くと外桜田門に着く。桜田門の説明板。<br /><br />この付近で、井伊大老が襲われた「桜田門外の変」が歴史上有名です。<br /><br />昭和36年(1961年)に「旧江戸城外桜田門」として国の重要文化財に指定。

    日比谷で右折し濠沿いに歩くと外桜田門に着く。桜田門の説明板。

    この付近で、井伊大老が襲われた「桜田門外の変」が歴史上有名です。

    昭和36年(1961年)に「旧江戸城外桜田門」として国の重要文化財に指定。

  • 皇居内から【桜田門】を望む。<br />万延元年3月、この門外が、井伊大老を水戸浪士たちが襲撃した「桜田門外の変」の舞台となった。正式には外桜田門という。枡形遺構がよく残されている。<br />正式には外桜田門といいます、本丸に近い内桜田門(桔梗門)に対してこの名。この辺りを桜田郷と呼んでいたところに由来。現在の門は関東大震災後に復元されたもの。<br />万延元年(1860)3月3日の朝、安政の大獄を断行した大老井伊直弼が水戸浪士等に暗殺された。当日の朝は雪で、供の者達は柄袋を締めていた為、応戦が遅れたといいます。

    皇居内から【桜田門】を望む。
    万延元年3月、この門外が、井伊大老を水戸浪士たちが襲撃した「桜田門外の変」の舞台となった。正式には外桜田門という。枡形遺構がよく残されている。
    正式には外桜田門といいます、本丸に近い内桜田門(桔梗門)に対してこの名。この辺りを桜田郷と呼んでいたところに由来。現在の門は関東大震災後に復元されたもの。
    万延元年(1860)3月3日の朝、安政の大獄を断行した大老井伊直弼が水戸浪士等に暗殺された。当日の朝は雪で、供の者達は柄袋を締めていた為、応戦が遅れたといいます。

  • 桜田門古地図

    桜田門古地図

  • 桜田門から皇居外苑内に入り【二重橋】方面を眺める。本当の二重橋はこの奥。日頃、皇居にくることも無いので、この際、二重橋を真近に眺めた。<br /><br />これで、桜田門を戻り、外の街道へでます。<br /><br />

    桜田門から皇居外苑内に入り【二重橋】方面を眺める。本当の二重橋はこの奥。日頃、皇居にくることも無いので、この際、二重橋を真近に眺めた。

    これで、桜田門を戻り、外の街道へでます。

  • 【国会議事堂】

    【国会議事堂】

  • 【日本水準原点】<br /><br />明治24年(1891年)、全国の土地の標高の原点をここに定めた。<br />これは、ローマ風神殿建築様式を模した明治時期の貴重な近代洋風建築である。

    【日本水準原点】

    明治24年(1891年)、全国の土地の標高の原点をここに定めた。
    これは、ローマ風神殿建築様式を模した明治時期の貴重な近代洋風建築である。

  • 半蔵門の近くから日比谷方向を眺める。歩いてきた方向を振り返る。<br />ビル建物を除けば江戸時代とかわらないのかも。右の土手は三宅坂。<br />この濠は桜田濠です。

    半蔵門の近くから日比谷方向を眺める。歩いてきた方向を振り返る。
    ビル建物を除けば江戸時代とかわらないのかも。右の土手は三宅坂。
    この濠は桜田濠です。

  • 正面は、服部半蔵が警護にあたった、【半蔵門】<br />現在では、半蔵門前交番があるので近づけません。今でも鉄壁の守りを保っているのだ。麹町御門とも呼ばれ、門内に服部半蔵の伊賀者組屋敷があったことから呼ばれた。<br />門の前に旗本服部半蔵の伊賀組屋敷があったことから付いた名であるという。 <br />第二次世界大戦で焼失し、現在建っている高麗門は和田倉門から移築したもの。<br />この門内は、現在吹上御苑と呼ばれ、吹上御所や生物学御研究所、水田などがある。天皇や各皇族方の皇居への日常の出入りには、主にこの門が用いられている。<br /><br />半蔵門の名称については、徳川家の家来服部正成・正就父子の通称「半蔵」に由来するといい。服部家の与力、伊賀同心がこの門外に組屋敷を構えていました。<br /><br />家康は江戸城に危機が迫った場合、服部半蔵の手引きで半蔵門から城外に脱出し、甲州道中に逃れる江戸城の突破口としていた。そのため甲州街道は、宿場規模が小さく、少ない。

    正面は、服部半蔵が警護にあたった、【半蔵門】
    現在では、半蔵門前交番があるので近づけません。今でも鉄壁の守りを保っているのだ。麹町御門とも呼ばれ、門内に服部半蔵の伊賀者組屋敷があったことから呼ばれた。
    門の前に旗本服部半蔵の伊賀組屋敷があったことから付いた名であるという。 
    第二次世界大戦で焼失し、現在建っている高麗門は和田倉門から移築したもの。
    この門内は、現在吹上御苑と呼ばれ、吹上御所や生物学御研究所、水田などがある。天皇や各皇族方の皇居への日常の出入りには、主にこの門が用いられている。

    半蔵門の名称については、徳川家の家来服部正成・正就父子の通称「半蔵」に由来するといい。服部家の与力、伊賀同心がこの門外に組屋敷を構えていました。

    家康は江戸城に危機が迫った場合、服部半蔵の手引きで半蔵門から城外に脱出し、甲州道中に逃れる江戸城の突破口としていた。そのため甲州街道は、宿場規模が小さく、少ない。

  • 現代の千代田区麹町一丁目辺り<br />甲州街道江戸の【麹町1丁目の麹室】発掘フォト <br />麹町の名前の由来は、当時の麹室業からのようです。<br />麹室とは、酒や味噌を作る麹菌を培養する施設

    現代の千代田区麹町一丁目辺り
    甲州街道江戸の【麹町1丁目の麹室】発掘フォト 
    麹町の名前の由来は、当時の麹室業からのようです。
    麹室とは、酒や味噌を作る麹菌を培養する施設

  • 半蔵門から新宿通りを四谷に向う。新宿通りから上智大学をみる。

    半蔵門から新宿通りを四谷に向う。新宿通りから上智大学をみる。

  • 四谷駅前交差点から新宿通りを新宿駅方面へ。これを江戸古地図で見ると。<br />この辺り、上智大学は尾張徳川家中屋敷跡、ホテルニューオオタニは彦根藩井伊家中屋敷跡、旧赤坂プリンスホテルは紀伊家中屋敷跡です。この一帯は三家の頭文字をとり紀尾井町と呼ばれている。<br />四谷駅周辺も、以前は掘割があり玉川上水が流れ込んでいた。当時、日本橋の次の宿場は、高井戸宿であったが、長距離のために、新たに中間に宿場を設けた。そこを新宿(しんしゅく)と呼ぶ。新宿を管理したのが、内藤家であり内藤新宿と命名(左図の中央下部)。

    四谷駅前交差点から新宿通りを新宿駅方面へ。これを江戸古地図で見ると。
    この辺り、上智大学は尾張徳川家中屋敷跡、ホテルニューオオタニは彦根藩井伊家中屋敷跡、旧赤坂プリンスホテルは紀伊家中屋敷跡です。この一帯は三家の頭文字をとり紀尾井町と呼ばれている。
    四谷駅周辺も、以前は掘割があり玉川上水が流れ込んでいた。当時、日本橋の次の宿場は、高井戸宿であったが、長距離のために、新たに中間に宿場を設けた。そこを新宿(しんしゅく)と呼ぶ。新宿を管理したのが、内藤家であり内藤新宿と命名(左図の中央下部)。

  • 四ツ谷駅近く、麹町六番町に属する【四ツ谷見附の石組】<br />寛永16年(1639年)に築造された江戸城外郭の見附門。門は明治5年に撤廃され、石垣の一部のみ残る。四谷見附橋を渡る。<br /><br />このあたりには見附番所が置かれ、北側には尾張徳川家、南側には紀州徳川家があって、江戸城防衛の要となっていた。<br />もともと新宿方面から江戸城への道は、防衛上の理由から、ここでクランク状に曲がっていた。明治以降になって、それでは「交通の障害」になるということで、新宿通りをまっすぐ通すこの四谷見附橋が、1913(大正2)年に完成した。<br />巨大な石は、遠く伊豆地方で採石され、船で運ばれた

    四ツ谷駅近く、麹町六番町に属する【四ツ谷見附の石組】
    寛永16年(1639年)に築造された江戸城外郭の見附門。門は明治5年に撤廃され、石垣の一部のみ残る。四谷見附橋を渡る。

    このあたりには見附番所が置かれ、北側には尾張徳川家、南側には紀州徳川家があって、江戸城防衛の要となっていた。
    もともと新宿方面から江戸城への道は、防衛上の理由から、ここでクランク状に曲がっていた。明治以降になって、それでは「交通の障害」になるということで、新宿通りをまっすぐ通すこの四谷見附橋が、1913(大正2)年に完成した。
    巨大な石は、遠く伊豆地方で採石され、船で運ばれた

  • 【西念寺】(新宿区若葉町)<br />家康から拝領されたとする半蔵の槍が、この西念寺に保存されている。

    【西念寺】(新宿区若葉町)
    家康から拝領されたとする半蔵の槍が、この西念寺に保存されている。

  • 【西念寺。服部半蔵正成の墓】<br />服部半蔵正成が開いたお寺だ。<br />半蔵は、伊賀忍者の頭領で、家康の旧臣で、槍の名手として知られてル。慶長元年(1596年)55歳で死亡。<br />*このあたり、江戸時代は「伊賀町」と呼ばれ伊賀衆の組屋敷があったところだ。<br />この寺は、正成が、徳川家康の長男の松平信康の供養をするために建てたもので、信康の供養塔のわきに正成のお墓が静かにたたずんでいる。<br />信康は、家康がまだ浜松城にいた頃、武田勝頼と通じているという嫌疑をかけられ、織田信長に自刃させられた人物。正成は信康の守り役で、信康が自刃する際にその介錯をする役だが、情が深すぎて介錯できなかったという逸話がある。<br />この曰くつきの人物を、信長が生きているうちに弔うのは、憚られた。<br />家康に影のように従い、本能寺の変のあと、家康の「伊賀越え」の際に死線を切り開いた正成が、人生の最期に決めた仕事がこの信康の供養だった。

    【西念寺。服部半蔵正成の墓】
    服部半蔵正成が開いたお寺だ。
    半蔵は、伊賀忍者の頭領で、家康の旧臣で、槍の名手として知られてル。慶長元年(1596年)55歳で死亡。
    *このあたり、江戸時代は「伊賀町」と呼ばれ伊賀衆の組屋敷があったところだ。
    この寺は、正成が、徳川家康の長男の松平信康の供養をするために建てたもので、信康の供養塔のわきに正成のお墓が静かにたたずんでいる。
    信康は、家康がまだ浜松城にいた頃、武田勝頼と通じているという嫌疑をかけられ、織田信長に自刃させられた人物。正成は信康の守り役で、信康が自刃する際にその介錯をする役だが、情が深すぎて介錯できなかったという逸話がある。
    この曰くつきの人物を、信長が生きているうちに弔うのは、憚られた。
    家康に影のように従い、本能寺の変のあと、家康の「伊賀越え」の際に死線を切り開いた正成が、人生の最期に決めた仕事がこの信康の供養だった。

  • 四谷須賀神社への参道

    四谷須賀神社への参道

  • 【東京四谷の総鎮守 須賀神社】<br />須賀神社は往時四谷牛頭天王社と称し、四谷18ケ町の鎮守、毎年六月に行われる天王祭りは江戸五大祭りのひとつです。<br /><br />http://www.sugajinjya.org/

    【東京四谷の総鎮守 須賀神社】
    須賀神社は往時四谷牛頭天王社と称し、四谷18ケ町の鎮守、毎年六月に行われる天王祭りは江戸五大祭りのひとつです。

    http://www.sugajinjya.org/

  • 【陽雲寺】<br />於岩像を安置しています、今は悪縁を切り、良縁を結ぶお岩様といいます。山門の奥にお稲荷さんがあります。<br />於岩稲荷の陽運寺<br />http://www.oiwainari.or.jp/<br /><br />翻って陽運寺は、戦後にこの四谷に移転してきた日蓮宗の寺院である(陽運寺そのものが昭和になって創建された寺院である)<br /><br />【陽雲寺の由来】<br /> 江戸時代、文政八年七月歌舞伎戯作者四世鶴屋南北作「東海道四谷怪談」が世に喧伝され、於岩様庶民の畏敬を受け当山その由縁の所として現在に至ったが戦火に遭い協議の上本堂を栃木下野から薬師堂を移築再建した棟札には宝暦七?年とある。於岩様の戒名は得證院妙念日正大姉。墓は元鮫ヶ橋にあったが現在は移転し巣鴨新庚申塚にある。当堂内には於岩様御尊像奉祀され参拝者祈願の対象となり境内には由縁の井戸、再建記念碑等がある。<br />                         平成5年10月<br />【お岩様由縁(ゆかり)の井戸】 <br /> 現在も御霊水として使われています。

    【陽雲寺】
    於岩像を安置しています、今は悪縁を切り、良縁を結ぶお岩様といいます。山門の奥にお稲荷さんがあります。
    於岩稲荷の陽運寺
    http://www.oiwainari.or.jp/

    翻って陽運寺は、戦後にこの四谷に移転してきた日蓮宗の寺院である(陽運寺そのものが昭和になって創建された寺院である)

    【陽雲寺の由来】
     江戸時代、文政八年七月歌舞伎戯作者四世鶴屋南北作「東海道四谷怪談」が世に喧伝され、於岩様庶民の畏敬を受け当山その由縁の所として現在に至ったが戦火に遭い協議の上本堂を栃木下野から薬師堂を移築再建した棟札には宝暦七?年とある。於岩様の戒名は得證院妙念日正大姉。墓は元鮫ヶ橋にあったが現在は移転し巣鴨新庚申塚にある。当堂内には於岩様御尊像奉祀され参拝者祈願の対象となり境内には由縁の井戸、再建記念碑等がある。
                             平成5年10月
    【お岩様由縁(ゆかり)の井戸】 
     現在も御霊水として使われています。

  • 【お岩稲荷社】

    【お岩稲荷社】

  • こちらが通りはさんで東側にある【於岩稲荷】<br />お寺の門構えの奥にお稲荷さんがあります。 <br /><br />

    こちらが通りはさんで東側にある【於岩稲荷】
    お寺の門構えの奥にお稲荷さんがあります。

  • 【於岩稲荷田宮神社】<br />東海道四谷怪談の主人公田宮伊左衛門(南北の芝居では民谷伊右衛門)の妻お岩を祀っています。<br />「田宮稲荷神社は、於岩稲荷と呼ばれ四谷左門町の御先手組同心田宮家の邸内にあった社です。<br />初代田宮又左衛門の娘お岩(寛永13年没)が信仰し、養子伊右衛門とともに家勢を再興したことから「お岩さんの稲荷」として次第に人々の信仰を集めたようです。<br />鶴屋南北の戯曲「東海道四谷怪談」が文政8年(1825年)に初演されるとさらに多くの信仰を集めるようになります。<br />戯曲は実在の人物からは200年後の作品で、お岩夫婦も怪談話とは大きく異なり円満でした。(後略)」<br /><br />【田宮稲荷神社跡】 都旧跡(昭和6年12月指定)<br /> 文化文政期に江戸文化は爛熟期に達し、いわゆる化政時代を出現させた。歌舞伎は民衆娯楽の中心になった。「東海道四谷怪談」の作者として有名な四代目鶴屋南北(金井三笑の門人で幼名源蔵、のち伊之助、文政十二年(1829)十一月二十七日没)も化政時代の著名人である。「東海道四谷怪談」の主人公田宮伊左衛門(南北の芝居では民谷伊右衛門)の妻お岩を祭ったお岩稲荷神社の旧地である。物語は文政十年(1827)十月名主茂八郎が町の伝記を集録して、町奉行に提出した「文政町方書上」にある伝説を脚色したものである。明治五年ごろお岩神社を田宮神社と改称し、火災で一時移転したが、昭和二十七年再びここに移転したものである。<br />                    昭和43年3月 東京都教育委員会

    【於岩稲荷田宮神社】
    東海道四谷怪談の主人公田宮伊左衛門(南北の芝居では民谷伊右衛門)の妻お岩を祀っています。
    「田宮稲荷神社は、於岩稲荷と呼ばれ四谷左門町の御先手組同心田宮家の邸内にあった社です。
    初代田宮又左衛門の娘お岩(寛永13年没)が信仰し、養子伊右衛門とともに家勢を再興したことから「お岩さんの稲荷」として次第に人々の信仰を集めたようです。
    鶴屋南北の戯曲「東海道四谷怪談」が文政8年(1825年)に初演されるとさらに多くの信仰を集めるようになります。
    戯曲は実在の人物からは200年後の作品で、お岩夫婦も怪談話とは大きく異なり円満でした。(後略)」

    【田宮稲荷神社跡】 都旧跡(昭和6年12月指定)
     文化文政期に江戸文化は爛熟期に達し、いわゆる化政時代を出現させた。歌舞伎は民衆娯楽の中心になった。「東海道四谷怪談」の作者として有名な四代目鶴屋南北(金井三笑の門人で幼名源蔵、のち伊之助、文政十二年(1829)十一月二十七日没)も化政時代の著名人である。「東海道四谷怪談」の主人公田宮伊左衛門(南北の芝居では民谷伊右衛門)の妻お岩を祭ったお岩稲荷神社の旧地である。物語は文政十年(1827)十月名主茂八郎が町の伝記を集録して、町奉行に提出した「文政町方書上」にある伝説を脚色したものである。明治五年ごろお岩神社を田宮神社と改称し、火災で一時移転したが、昭和二十七年再びここに移転したものである。
                        昭和43年3月 東京都教育委員会

  • 【お岩水かけ観音】<br />四谷といえば、お岩さんなんです。<br />碑文の前半には、『お岩伝説』について書かれています。<br />神社・お寺では「夫婦円満で祟りなどなかった」とありましたが・・・<br /><br />「田宮又左衛門の一人娘お岩は迎えた聟養子 伊右衛門の放蕩が原因で哀しくも狂乱行方知れずになり それからと云うものは種々怪奇な事件が頻発したが 田宮家の菩提寺にてお岩の霊を供養したところ ようやく平穏になったと伝えられています。」と書かれていました。<br /><br />ここでは、四谷怪談のお岩さんとして紹介されていました。

    【お岩水かけ観音】
    四谷といえば、お岩さんなんです。
    碑文の前半には、『お岩伝説』について書かれています。
    神社・お寺では「夫婦円満で祟りなどなかった」とありましたが・・・

    「田宮又左衛門の一人娘お岩は迎えた聟養子 伊右衛門の放蕩が原因で哀しくも狂乱行方知れずになり それからと云うものは種々怪奇な事件が頻発したが 田宮家の菩提寺にてお岩の霊を供養したところ ようやく平穏になったと伝えられています。」と書かれていました。

    ここでは、四谷怪談のお岩さんとして紹介されていました。

  • 【四ツ谷大木戸跡】<br />江戸時代の四谷に設けられていた、甲州街道を通って江戸に出入りする通行人や荷物を取り締まるための関所。現在の新宿区四谷4丁目交差点にあたり、四谷区民センターの脇に四谷大木戸門跡の碑が立っている。<br />江戸城下町への西口であり、内藤新宿の東口。<br /><br />【四谷大木戸跡碑】<br /><br /> 四谷大木戸碑(この説明板の裏側にある)は、明治三十四年十一月地下鉄丸の内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して造られた記念碑である。<br /><br />実際の大木戸の位置は、ここより約80m東の四谷四丁目交差点のところで、東京都指定旧跡に指定されている。<br />     新宿区教育委員会<br /><br />

    【四ツ谷大木戸跡】
    江戸時代の四谷に設けられていた、甲州街道を通って江戸に出入りする通行人や荷物を取り締まるための関所。現在の新宿区四谷4丁目交差点にあたり、四谷区民センターの脇に四谷大木戸門跡の碑が立っている。
    江戸城下町への西口であり、内藤新宿の東口。

    【四谷大木戸跡碑】

     四谷大木戸碑(この説明板の裏側にある)は、明治三十四年十一月地下鉄丸の内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して造られた記念碑である。

    実際の大木戸の位置は、ここより約80m東の四谷四丁目交差点のところで、東京都指定旧跡に指定されている。
         新宿区教育委員会

  • 【玉川上水記念碑】<br />玉川庄右衛門・清右衛門兄弟が建設。新宿四谷まで約43キロの水路。終点の四谷大木戸に水番所が置かれた。<br /><br />玉川上水は、多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは開渠で、四谷大木戸から江戸市中へは石樋・木樋といった水道管を地下に埋設して通水した。<br />  水番所には、水番人が一名置かれ、水門を調節して水量を管理したほか、ごみの除去を行い水質を保持した。当時、水番所構内には次のような高札が立っていた。<br />一、 此上水道において魚を取水をあび ちり芥捨べからず 何にても物あらい中間敷<br />   竝両側三間通に在来候並木下草<br />   其外草刈取中間敷候事<br />  右之通相背輩あらば可為曲事者也<br />    元文四巳未年十二月   奉行<br /><br /><br />大木戸近くには、承応2(1653)年に完成した玉川上水の終点にあたる<br />四谷水番所が設けられ、ここから江戸市中へ配水していた。<br />元禄12(1699)年には大木戸の西に甲州街道最初の宿場となる内藤新宿が<br />開設されている。<br />現在の交差点上が「四谷大木戸跡」として東京都指定旧跡となっている。<br />四谷大木戸にはかって玉川上水水番所跡があり、交差点向い側に「水道碑記」の石碑が<br />建っています(東京都指定有形文化財)。<br />玉川上水は、かつて江戸市中へ飲料水を供溝渠給していて、江戸の六上水(神田上水、玉川上水、本所上水、青山上水、三田上水、千川上水)の一つです。羽村から四谷大木戸までの約43kmはすべて露天掘りの用水路でした。<br /> <br /><br />

    【玉川上水記念碑】
    玉川庄右衛門・清右衛門兄弟が建設。新宿四谷まで約43キロの水路。終点の四谷大木戸に水番所が置かれた。

    玉川上水は、多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは開渠で、四谷大木戸から江戸市中へは石樋・木樋といった水道管を地下に埋設して通水した。
      水番所には、水番人が一名置かれ、水門を調節して水量を管理したほか、ごみの除去を行い水質を保持した。当時、水番所構内には次のような高札が立っていた。
    一、 此上水道において魚を取水をあび ちり芥捨べからず 何にても物あらい中間敷
       竝両側三間通に在来候並木下草
       其外草刈取中間敷候事
      右之通相背輩あらば可為曲事者也
        元文四巳未年十二月   奉行


    大木戸近くには、承応2(1653)年に完成した玉川上水の終点にあたる
    四谷水番所が設けられ、ここから江戸市中へ配水していた。
    元禄12(1699)年には大木戸の西に甲州街道最初の宿場となる内藤新宿が
    開設されている。
    現在の交差点上が「四谷大木戸跡」として東京都指定旧跡となっている。
    四谷大木戸にはかって玉川上水水番所跡があり、交差点向い側に「水道碑記」の石碑が
    建っています(東京都指定有形文化財)。
    玉川上水は、かつて江戸市中へ飲料水を供溝渠給していて、江戸の六上水(神田上水、玉川上水、本所上水、青山上水、三田上水、千川上水)の一つです。羽村から四谷大木戸までの約43kmはすべて露天掘りの用水路でした。


  • 【内藤新宿(江戸名所絵)】<br />天保14年(1843)の甲州道中宿村大概帳によると、内藤新宿の宿内家数は698軒、うち本陣1、脇本陣0、問屋1、旅籠24軒で、宿内人口は約2300人。<br />青梅街道の追分を控えると共に、「江戸の四口に各娼家あり、品川を第一とし、内藤新宿を第二とす」といわれ、大いに賑わった。

    【内藤新宿(江戸名所絵)】
    天保14年(1843)の甲州道中宿村大概帳によると、内藤新宿の宿内家数は698軒、うち本陣1、脇本陣0、問屋1、旅籠24軒で、宿内人口は約2300人。
    青梅街道の追分を控えると共に、「江戸の四口に各娼家あり、品川を第一とし、内藤新宿を第二とす」といわれ、大いに賑わった。

  • 【名所江戸百景 内藤新宿】<br />*新宿御苑は内藤家下屋敷跡。<br />天正18年(1590)家康が、秀吉の命により関東に国替えとなり、江戸入り、譜代の家臣内藤清成は鉄砲隊を率いて江戸入りの先陣を勤め、防備と警戒にあった、これが百人組鉄砲隊の始まり。この功により広大な屋敷地を拝領し、後に内藤氏は信州高遠藩主となる。<br />*1697(元禄10)年、5人の浅草商人が、この辺りに新宿場を作りたいと幕府に願い出た。将軍綱吉、老中柳沢吉保の頃で、都市町人が台頭し、元禄文化が花開いた時代。幕府は5,600両の上納金を条件に許可を与え、宿場を開設した。新宿の幕開。甲州街道の最初の宿は、日本橋から約16km離れた高井戸宿で、「遠くで不便だから」というのが表向きの理由だった。この地を新たな繁華街として開発し、商売によって利益を上げようというのが、浅草商人の計画だったらしい。<br /><br />家康から拝領した土地は20万坪(東京ドーム14個分)ほどあったといわれ、<br />その屋敷の一部が幕府に返納されて新たに宿場町が設けられ「内藤の新しい宿」、<br />「内藤新宿」と呼ばれるようになり、現在は新宿としての地名になった。

    【名所江戸百景 内藤新宿】
    *新宿御苑は内藤家下屋敷跡。
    天正18年(1590)家康が、秀吉の命により関東に国替えとなり、江戸入り、譜代の家臣内藤清成は鉄砲隊を率いて江戸入りの先陣を勤め、防備と警戒にあった、これが百人組鉄砲隊の始まり。この功により広大な屋敷地を拝領し、後に内藤氏は信州高遠藩主となる。
    *1697(元禄10)年、5人の浅草商人が、この辺りに新宿場を作りたいと幕府に願い出た。将軍綱吉、老中柳沢吉保の頃で、都市町人が台頭し、元禄文化が花開いた時代。幕府は5,600両の上納金を条件に許可を与え、宿場を開設した。新宿の幕開。甲州街道の最初の宿は、日本橋から約16km離れた高井戸宿で、「遠くで不便だから」というのが表向きの理由だった。この地を新たな繁華街として開発し、商売によって利益を上げようというのが、浅草商人の計画だったらしい。

    家康から拝領した土地は20万坪(東京ドーム14個分)ほどあったといわれ、
    その屋敷の一部が幕府に返納されて新たに宿場町が設けられ「内藤の新しい宿」、
    「内藤新宿」と呼ばれるようになり、現在は新宿としての地名になった。

  • 一寸だけ甲州街道から外れますが、寄り道です。<br />【市ヶ谷亀岡八幡宮】<br />(防衛庁の隣、総武線市ヶ谷駅に近い処。掘割は四谷からの繋がりです)の参道、石段を上った高台に八幡宮があります。

    一寸だけ甲州街道から外れますが、寄り道です。
    【市ヶ谷亀岡八幡宮】
    (防衛庁の隣、総武線市ヶ谷駅に近い処。掘割は四谷からの繋がりです)の参道、石段を上った高台に八幡宮があります。

  • 【市ヶ谷亀岡八幡金毘羅宮】<br />当神社は太田道灌が文明11年(1479年)、江戸城築城の際に西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが始まりである。<br />「鶴岡」に対して「亀岡八幡宮」と称した。当時は市谷御門の中(現在の千代田区内)にあった。江戸時代に入り寛永13年頃(1636年頃)に江戸城の外堀が出来たのを機に現在地に移転。<br /> 市谷亀岡八幡宮は三代将軍・徳川家光や桂昌院などの信仰を得て、神社が再興された。江戸時代には市谷八幡宮と称した。境内には茶屋や芝居小屋なども並び人々が行き交い、例祭は江戸市中でも華やかなものとして知られ、大いに賑わった。(ウィキペディア)<br />

    【市ヶ谷亀岡八幡金毘羅宮】
    当神社は太田道灌が文明11年(1479年)、江戸城築城の際に西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが始まりである。
    「鶴岡」に対して「亀岡八幡宮」と称した。当時は市谷御門の中(現在の千代田区内)にあった。江戸時代に入り寛永13年頃(1636年頃)に江戸城の外堀が出来たのを機に現在地に移転。
    市谷亀岡八幡宮は三代将軍・徳川家光や桂昌院などの信仰を得て、神社が再興された。江戸時代には市谷八幡宮と称した。境内には茶屋や芝居小屋なども並び人々が行き交い、例祭は江戸市中でも華やかなものとして知られ、大いに賑わった。(ウィキペディア)

  • また、甲州街道に戻ります。<br />右は伊勢丹新宿店の建物。<br />ここを真っすぐ進むと青梅街道、左折し、新宿駅を横断すると甲州街道。このような街道の別れを、「追分(おいわき)」と呼ぶ。

    また、甲州街道に戻ります。
    右は伊勢丹新宿店の建物。
    ここを真っすぐ進むと青梅街道、左折し、新宿駅を横断すると甲州街道。このような街道の別れを、「追分(おいわき)」と呼ぶ。

  • 江戸内藤新宿=現新宿 【江戸6地蔵】<br />新宿二丁目の太宗寺には、街道の入口に置かれた大きな地蔵菩薩像が今も残っている。「江戸六地蔵」のひとつ<br /><br />【大宗寺の創建と内藤家】<br />大宗寺は、このあたりに大宗という名の僧侶が建てた草庵「大宗庵」がその前身で、慶長元年(1596)頃にさかのぼると伝えられています。<br />  大宗は、次第に近在の住民の信仰をあつめ、現在の新宿御苑一帯を下屋敷として拝領していた内藤家の信望も得、寛永6年(1628)内藤家第5代正勝逝去の際には、葬儀を一切とりしきり、墓所もこの地に置くこととなりました。<br />  これが縁で、寛文8年(1668)6代重頼から寺領7396坪の寄進をうけ起立したのが、現在の大宗寺です。<br />  内藤家は7代清枚以降は歴代当主や一族が大宗寺に葬られるようになり、現在も墓所が営まれています。<br />  大宗寺は、元禄15年((1702)・文化2年(1805)の火災や、関東大震災・第2次世界大戦でも大きな被害をうけましたが、歴代住職の尽力により、その都度復興してきました。<br />  また「内藤新宿のお閻魔さん」「しょうづかのばさん」として親しまれた閻魔大王と奪衣婆の像は、江戸庶民の信仰をあつめ、薮入りには縁日が出て賑わいました。<br />  現在も、寺号「大宗寺」は、創建時の庵主大宗の名をいただき、山号「霞関山(かかんざん)」は、当時四谷大木戸一帯が霞ヶ関と呼ばれたいたことに因み、院号「本覚院」は内藤正勝の法名「本覚院」を拝しています。<br />  浄土宗の寺院・霞関山太宗寺です。<br /><br />寺伝によれば、慶長元年(1596年)頃に僧の太宗が開いた草庵「太宗庵」が前身とされ、寛永6年(1629年)、2代目内藤清成の3男当時安房国勝山藩主であった内藤正勝の葬儀を行ったことを契機に内藤氏との縁が深まり寺地の寄進を受け創建され、以後内藤家の菩提寺となった

    江戸内藤新宿=現新宿 【江戸6地蔵】
    新宿二丁目の太宗寺には、街道の入口に置かれた大きな地蔵菩薩像が今も残っている。「江戸六地蔵」のひとつ

    【大宗寺の創建と内藤家】
    大宗寺は、このあたりに大宗という名の僧侶が建てた草庵「大宗庵」がその前身で、慶長元年(1596)頃にさかのぼると伝えられています。
      大宗は、次第に近在の住民の信仰をあつめ、現在の新宿御苑一帯を下屋敷として拝領していた内藤家の信望も得、寛永6年(1628)内藤家第5代正勝逝去の際には、葬儀を一切とりしきり、墓所もこの地に置くこととなりました。
      これが縁で、寛文8年(1668)6代重頼から寺領7396坪の寄進をうけ起立したのが、現在の大宗寺です。
      内藤家は7代清枚以降は歴代当主や一族が大宗寺に葬られるようになり、現在も墓所が営まれています。
      大宗寺は、元禄15年((1702)・文化2年(1805)の火災や、関東大震災・第2次世界大戦でも大きな被害をうけましたが、歴代住職の尽力により、その都度復興してきました。
      また「内藤新宿のお閻魔さん」「しょうづかのばさん」として親しまれた閻魔大王と奪衣婆の像は、江戸庶民の信仰をあつめ、薮入りには縁日が出て賑わいました。
      現在も、寺号「大宗寺」は、創建時の庵主大宗の名をいただき、山号「霞関山(かかんざん)」は、当時四谷大木戸一帯が霞ヶ関と呼ばれたいたことに因み、院号「本覚院」は内藤正勝の法名「本覚院」を拝しています。
      浄土宗の寺院・霞関山太宗寺です。

    寺伝によれば、慶長元年(1596年)頃に僧の太宗が開いた草庵「太宗庵」が前身とされ、寛永6年(1629年)、2代目内藤清成の3男当時安房国勝山藩主であった内藤正勝の葬儀を行ったことを契機に内藤氏との縁が深まり寺地の寄進を受け創建され、以後内藤家の菩提寺となった

  • 上の交差点にある追分交番

    上の交差点にある追分交番

  • 追分の標示。<br />ここで、左は甲州街道、正面は青梅街道に分かれる。その後、この二つの街道は、甲府市内で合流する。<br />現代でも、追分団子屋がある。

    追分の標示。
    ここで、左は甲州街道、正面は青梅街道に分かれる。その後、この二つの街道は、甲府市内で合流する。
    現代でも、追分団子屋がある。

  • 損保ジャパンビルから見降ろした追分(甲州街道と青梅街道の分岐点)。<br />追分から手前に伸びるのが青梅街道付近。<br /><br />青梅街道は「甲州裏街道」とも呼ばれ、中野、田無、小平、青梅と続き、その先は大菩薩峠を越えて、甲府に結ばれる。

    損保ジャパンビルから見降ろした追分(甲州街道と青梅街道の分岐点)。
    追分から手前に伸びるのが青梅街道付近。

    青梅街道は「甲州裏街道」とも呼ばれ、中野、田無、小平、青梅と続き、その先は大菩薩峠を越えて、甲府に結ばれる。

  • 追分道標から青梅街道を進み、新宿ガードを潜り抜け、西口に出ると、こんな標示があります。<br />*青梅街道は「甲州裏街道」とも呼ばれ、中野、田無、小平、青梅と続き、その先は大菩薩峠を越えて、甲府に結ばれる。

    追分道標から青梅街道を進み、新宿ガードを潜り抜け、西口に出ると、こんな標示があります。
    *青梅街道は「甲州裏街道」とも呼ばれ、中野、田無、小平、青梅と続き、その先は大菩薩峠を越えて、甲府に結ばれる。

  • 新宿駅南口方面<br /><br />『明治期の富国強兵を支えた輸出品、北関東産の生糸と絹織物は、従来、鉄道で上野に運ばれ、荷車に積み替えられて新橋に向かい、再び鉄道で貿易港の横浜に運ばれていた。<br />けれど輸送量が増加するにつれて、この鉄道と荷車の積み替えがネックになってきた。そこで浮上したのが、人口が希薄な武蔵野地域を経由して、赤羽から品川まで鉄道を結び、そこから横浜まで既に結ばれていた路線に連結する案だ。<br />工事は実施され、現在の埼京線と山手線の品川までの区間が完成し、板橋、新宿、渋谷の3駅が設けられた。<br />板橋は中山道との、新宿は甲州街道や青梅街道との、渋谷は大山道や矢倉沢往還との交点に当たる地だったためだ。こうして新宿駅が誕生する。<br />(参照:西森聡「そうだったのか、新宿駅」)』<br /><br />『新宿の発展<br />新宿駅には、その後、西武線、甲武鉄道(現在の中央線)、京王線、小田急線など、東京の西部地域を結ぶ鉄道が連結された。<br />1923年9月1日関東大震災だ。一面が崩壊・焼失した下町に対して、地盤が固く人口も希薄だった武蔵野台地の被害は少なかった。<br />東京の人々は、西の郊外に移住を始め、そこから鉄道で通勤する流れが生まれた。<br />ターミナルとなった新宿駅周辺には、百貨店やカフェ、映画館が次々に誕生し、1927(昭和2)年、新宿駅の乗降客数は5万7千人となり、日本一になる。』<br /><br />

    新宿駅南口方面

    『明治期の富国強兵を支えた輸出品、北関東産の生糸と絹織物は、従来、鉄道で上野に運ばれ、荷車に積み替えられて新橋に向かい、再び鉄道で貿易港の横浜に運ばれていた。
    けれど輸送量が増加するにつれて、この鉄道と荷車の積み替えがネックになってきた。そこで浮上したのが、人口が希薄な武蔵野地域を経由して、赤羽から品川まで鉄道を結び、そこから横浜まで既に結ばれていた路線に連結する案だ。
    工事は実施され、現在の埼京線と山手線の品川までの区間が完成し、板橋、新宿、渋谷の3駅が設けられた。
    板橋は中山道との、新宿は甲州街道や青梅街道との、渋谷は大山道や矢倉沢往還との交点に当たる地だったためだ。こうして新宿駅が誕生する。
    (参照:西森聡「そうだったのか、新宿駅」)』

    『新宿の発展
    新宿駅には、その後、西武線、甲武鉄道(現在の中央線)、京王線、小田急線など、東京の西部地域を結ぶ鉄道が連結された。
    1923年9月1日関東大震災だ。一面が崩壊・焼失した下町に対して、地盤が固く人口も希薄だった武蔵野台地の被害は少なかった。
    東京の人々は、西の郊外に移住を始め、そこから鉄道で通勤する流れが生まれた。
    ターミナルとなった新宿駅周辺には、百貨店やカフェ、映画館が次々に誕生し、1927(昭和2)年、新宿駅の乗降客数は5万7千人となり、日本一になる。』

  • 【tokyo opera city】<br />新宿のとなり初台にある、オフィス、コンサートホール、美術館、 レストラン、ショップからなる複合施設です。

    【tokyo opera city】
    新宿のとなり初台にある、オフィス、コンサートホール、美術館、 レストラン、ショップからなる複合施設です。

  • 子育て地蔵

    子育て地蔵

  • 【牛窪地蔵さん】<br />地形が窪地であったところから牛窪と呼ばれました。<br />右手前、地蔵堂の前には文化3年(1806)新町商人達が建立した道供養碑がある。往時は内藤新宿を出ると、辺りは一面の茅原でした。<br /><br />右から2つ目は全国でも珍しい江戸時代の道供養塔である。橋供養と同じように、道路自体を供養して、報恩感謝の念を捧げることにより、交通安全を祈るものだ。<br />この少し先が甲州道中と中野通りの追分となっている。<br />中野通りの延長は鎌倉街道の一部で、この供養碑は鎌倉街道に面して建てられた。<br />道供養塔の左は享保5年(1720年)と読める庚申塔で、左端奥は牛窪地蔵。<br /><br />牛窪地蔵は正徳元年(1711年)に建立されたものである。<br />ここが極悪人の刑場として、牛を使って最も厳しい牛裂きの刑という<br />両足から股を引き裂く刑場の地であり、また窪地であったことから牛窪となったようだ<br /><br />疫病が流行った時、これが罪人の祟りだと伝えられ、子供の安泰を守り、<br />苦難の時の身代わり地蔵として、この淋しい土地に地蔵尊を祀り<br />霊を慰める為に建てられた。<br /><br />牛窪地蔵尊は今を去る260年前(正徳元年拾月)に建立されたものである。庚申塔は享保九年拾壱月建てられた。<br /><br /> 以前この地は極悪人の刑場として牛を使って最も厳しい牛裂きの刑という両足から股を引き裂く酷刑場の地であった伝えられている。この牛と窪地であったことから牛窪の地名となり牛窪の地名と共に幡ヶ谷地方の雨乞行事の場所としても有名であった。<br />宝永より正徳年間にかけてこの地に悪疫病がはやりこれが罪人の霊のたたりだと伝えられ子供の安泰を守り苦難の時の身代わり地蔵としてこの淋しい土地に地蔵尊を祭り霊を慰めたのである。

    【牛窪地蔵さん】
    地形が窪地であったところから牛窪と呼ばれました。
    右手前、地蔵堂の前には文化3年(1806)新町商人達が建立した道供養碑がある。往時は内藤新宿を出ると、辺りは一面の茅原でした。

    右から2つ目は全国でも珍しい江戸時代の道供養塔である。橋供養と同じように、道路自体を供養して、報恩感謝の念を捧げることにより、交通安全を祈るものだ。
    この少し先が甲州道中と中野通りの追分となっている。
    中野通りの延長は鎌倉街道の一部で、この供養碑は鎌倉街道に面して建てられた。
    道供養塔の左は享保5年(1720年)と読める庚申塔で、左端奥は牛窪地蔵。

    牛窪地蔵は正徳元年(1711年)に建立されたものである。
    ここが極悪人の刑場として、牛を使って最も厳しい牛裂きの刑という
    両足から股を引き裂く刑場の地であり、また窪地であったことから牛窪となったようだ

    疫病が流行った時、これが罪人の祟りだと伝えられ、子供の安泰を守り、
    苦難の時の身代わり地蔵として、この淋しい土地に地蔵尊を祀り
    霊を慰める為に建てられた。

    牛窪地蔵尊は今を去る260年前(正徳元年拾月)に建立されたものである。庚申塔は享保九年拾壱月建てられた。

     以前この地は極悪人の刑場として牛を使って最も厳しい牛裂きの刑という両足から股を引き裂く酷刑場の地であった伝えられている。この牛と窪地であったことから牛窪の地名となり牛窪の地名と共に幡ヶ谷地方の雨乞行事の場所としても有名であった。
    宝永より正徳年間にかけてこの地に悪疫病がはやりこれが罪人の霊のたたりだと伝えられ子供の安泰を守り苦難の時の身代わり地蔵としてこの淋しい土地に地蔵尊を祭り霊を慰めたのである。

  • 現代版:沖縄タウン入口

    現代版:沖縄タウン入口

  • 井の頭線

    井の頭線

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