2010/08/31 - 2010/09/02
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ライオンベラーさん
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(1 http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10523773/ の続きです。)
今日はいよいよ本格的に龍馬に迫ります。
まだ、龍馬は犬猿(けんえん)の仲だった薩摩と長州に手を組ませることによって、徳川幕府の政治から、天皇中心の政治に変換させた・・・ということぐらいしか知りません。
いよいよこれから、こんなにも有名な人が、具体的にどのようにして、そのようなことを成し遂(と)げたかということに迫っていきます。
さあ、まずはその出生と生育の様子から探っていくことにしましょう。(と、いっても実は偶然その順序になったのですが・・・)
では、激動の幕末にたぁいむすりっぷ!(=時間移動!)
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
昨晩は遅くまで飲み歩いていたので、宿を出たのは最終チェックアウトタイムぎりぎりの10時でした。
龍馬の生家はそこから歩いて行けるほどの距離でしたが、時間の節約のために車で行きました。
そしてその近くには、”龍馬の生まれたまち記念館”がありました。
玄関では、写真のように龍馬像が出迎えてくれていました。 -
中に入りました。
ここで、同行の元同僚は、有料の解説ツアーに参加したいと言うので、時間を決めて別行動をとることにしました。
さらに中に入ると、まずは龍馬の生まれた街の雰囲気を再現したコーナーがありました。
人は誰でも人生の様々なステージの中で、自分が生まれ育った幼少時の風景を何度も何度も思い起こします。
ということは龍馬もその人生の中で、ここに展示してあるような風景を何度も何度も思い起こしたはずで、そのことが彼の行動の方向性を決めたり、そのエネルギーとなっていたはずだと考えられます。 -
ということは、この風景はその後の龍馬の行動を理解するための、大きなヒントになるだろうと思いました。
ここには写真のような狭い間口の店がならんでいて、まるで大坂や江戸の下町のような雰囲気でした。
そのときは、龍馬がこのような窮屈(きゅうくつ)な下町の町人文化の中で育ったために、藩や幕府による階級社会に対する反骨の気持ちを持ったのだろうと推測(すいそく)していました。
でも後の展示を見ていくと龍馬の生まれた街は、このような狭いところではなくて、実際は1軒1軒がもっと大きかったということがわかりました。 -
龍馬が生まれた坂本家は、本家が屈指の豪商だった才谷(さいたに)屋で、そのため龍馬の家も、そこそこに裕福だったようです。
この写真の右外にこれと同じような才谷屋の模型がありました。
そして龍馬の家も、間口はこの写真ぐらいの大きさだったようです。
この模型では人が異様に大きいのですが、おそらくこれは家を展示した後、思い付きで、ありあわせの人形を付け足したためだと思われます。
江戸時代の建物は、特に地方都市などは草葺(ぶ)きか板葺きのものばかりかと思っていましたが、今でもよく見か -
けるような立派な瓦(かわら)葺きの家だったので、へええと驚いてしまいました。
これは、龍馬が生まれた上町(かみまち)の模型です。
この写真は実際の街では東向きになり、写真の右の向こうから手前(東から西)に続いている水路は、今もこの展示館の前を通っています。
この展示館はこの模型では、水路に面した右(南)にあります。
龍馬の家は、この水路とそれと並行する写真の左の通りの両方に面した広い家です。
高知城はこの写真の外側の左上の、距離にして龍馬の家から600〜700mぐらいのところにあります。 -
これは上の写真の反対から撮ったもので、西向きになります。
水路は今度は写真の左になります。
龍馬の生家はこの写真のちょうど真ん中あたりで、水路と右の大通りに面しています。
高知城はこの写真の外の右手前になります。
城の周辺には上士(じょうし)という上位の身分の武士が、そしてこの上町の辺りには、郷士(ごうし)という下位の身分の武士や町人が暮らしていました。 -
これが龍馬の家の模型です。(奥が北)
手前の東西に流れる水路と奥の大通りの間のとても広い家です。
現在の都市部の一戸建て住宅十数件分の広さはありそうです。
当時の生活を貧富に分けるとしたら、当然”富”の方に分類されるでしょう。
しかしこのように経済的には不自由していない龍馬が当時の幕藩体制を終わらせるような活動をしたということは、やはり上士と郷士という身分の差に不条理を感じていたのでしょう。
龍馬はこの家で生まれ、そのとき兄は21歳で、3人の姉はそれぞれ19歳、11歳、4歳でした。
ということは、10歳の頃には上3人の兄姉はもう20歳以上の大人だったので、4つ上の14歳の姉乙女(おとめ)との関わりが強かったようです。
乙女はその頃から大柄で、その後成長して身長は175cm、体重は100kgを超えるほどだったようです。 -
これは前の写真のちょうど反対側から撮ったものです。
奥が南で、手前にあった水路が、今度はそちら側を流れています。
龍馬の実家、坂本家は地元の豪商、才谷屋から分家しました。
そして、その才谷屋は戦国時代の武将の明智光秀の子孫と縁戚(えんせき)関係があったといわれています。
その真偽(しんぎ)はどうあれ、祖先にそのような有名人物がいるかも知れないとなると、誰でもそれを意識してしまいます。
当時の龍馬も、当然そのことを意識していたと思われます。
どんな人物であれ、自分の祖先を否定することは自分を否定することになってしまうので、誰でも祖先の行動は肯定(こうてい)的にとらえていくことになるでしょう。
ということは、龍馬は明智光秀の人物像を肯定的にとらえ、それを自分の行動の指針としていたとも考えられます。
ではその光秀はどんな人だったのでしょうか? -
一般的には明智光秀は京都の本能寺で織田信長を討(う)ち取った人として知られています。
といっても彼は信長と敵対していたのではなくて、何とその討ち取った信長の家臣でした。
その直前まで、同じ家臣の豊臣秀吉らとともに信長を補佐して、天下統一の事業を推(お)し進めていました。
現在の会社に例えると、重役の一人として、社長の信長の元で厳しい企業間競争を勝ち抜いてきたような人でした。
そして、全国制覇(せいは)を成し遂(と)げようとした直前に、社長を倒して会社を乗っ取ろうとしましたが、他の重役に倒されてしまいました。
ということは、明智光秀はずる賢くて利己的で、最後に天罰(てんばつ)を受けてしまった人物ということになってしまいます。
でもどうやらそれは、後の人たちによって作り上げられたイメージで、現存する資料によると、彼は思慮(しりょ)深くてまじめで、領民思いの優しい人柄(ひとがら)だったようです。
ということは、ワンマンの信長が天下を取れば、その機嫌(きげん)によって、自分や周りの家臣や天下の人たちの身は危険にさらされてしまうことになってしまいます。 -
そんな危機感から、光秀はこのような思い切った行動に出たのであろうと考えられます。
そして当時の龍馬たちも、このまま今の身分制度が続く限り、自分たちは一生、周りの上士や幕府の役人に対して、理不尽(りふじん)な服従を強いられ、身の安全さえも保障されないという状況が続いていました。
そのように考えていくと、龍馬は多少なりとも祖先の光秀の行動に影響を受けて、現在の状況を打開しよう(日本を洗濯(せんたく)しよう)と考えたのではないでしょうか? -
少し行くと、龍馬の生家を再現した部屋があって、そこに龍馬とお龍さんの人形が座っていました。
そのまま出口まで行くと、同行の元同僚が解説ツアーを終えて戻ってきたので、一緒(いっしょ)にその部屋に戻って、写真を撮りました。
江戸時代の家はもっと古風な感じかと思っていましたが、驚(おどろ)いたことに、現代の家とほとんど変わりません。 -
よく考えてみると、江戸から明治になって、突然すべての家屋がモダンになったのかというと、そんなことはありえないことで、江戸時代末期の家屋は明治時代初期の家屋とまったく同じものだったはずです。
またこの展示は、現在の建材を使って当時の家を復元しているので、このように現在風の部屋になってしまったとも考えられます。 -
記念館を出た後、車で龍馬の生家に向かいました。
といっても距離にしてほんの100mほどのところです。
(8枚前の模型の写真を参考にすると位置関係がわかります。)
同行の元同僚はガイド付きツアーで先ほどそこを歩いて来たので、そのままそれを解説してくれました。
現在は、その生家の跡(あと)には写真のような病院が建っていました。
写真の向きは北東で、昔の模型にもあった水路は現在もこのように残っています。(その上に黒い乗用車が停車しています。)
先ほどいた記念館は写真の後方の100mほどのところにあります。(この水路の通りに面しています。)
高知城は写真の正面の病院の向こうに7〜800m、JR高知駅は同じ向きの2kmぐらいのところにあります。 -
今度はこの病院の正面に回り込んで来ました。
向きは南向きで、先ほどの水路はこのちょうど裏側になります。
記念館は斜め右100mほどのところで、高知城は左後方7〜800mほどのところです。 -
木製の案内板と、その上には案内表示が見えます。
このまままっすぐ西(写真右)に走って、その付近にある、坂本家の本家の才谷屋跡(あと)や後の海援隊士となる饅頭屋(まんじゅうや)長次郎の家の跡などを見てきました。
これらも先ほどのガイド付きツアーで一行(いっこう)が歩いてきたとこどだということでした。
饅頭屋長次郎(近藤長次郎)は後に海援隊士に切腹させられる悲劇の運命をたどる人物ですが、そのときは、元同僚がしてくれたそんな説明もよくわからないまま聞き流していました。 -
高知城にやって来ました。
車を停めて門のところまでやって来ました。
元同僚と離れてひとりでこの写真を撮りました。
西向きです。
時刻は1時半になろうとしています。 -
この写真は、少し風情(ふぜい)をもたせてみようかと、松の木の後ろに回って撮りました。
この写真を撮っているとき・・・
ジャッポ〜〜ン!
とこぶしの半分くらいの大きな石が堀に投げ入れられました。
驚いて、見ると、若い女性のグループの中の何人かがこちらに向かって中国語で何か叫(さけ)んでいました。
どうやら私がこの樹の陰(かげ)から彼女らを隠し撮りしていると思ったようです。 -
イチオシ
むかむかむか〜!!
でも、フンっ、という感じで睨(にら)み返した後、無視して城の写真を撮り続けました。
彼女らもそのままお互いに何やら話しながら行ってしまいました。
突然の出来事に驚きましたが、思い出すとおかしくて笑ってしまいます。 -
門から天守閣を望んでいます。
-
天守閣です。
いい天気です。 -
イチオシ
立派な天守閣です。
-
今度は門を潜(くぐ)ってから振り返って撮りました。
東向きです。 -
少し行くと板垣退助の銅像がありました。
いい感じの構図ですが、ああ、後ろの樹が邪魔(じゃま)です。
この樹を切ってほしい・・・
写真は西向きです。 -
今回の旅に出るまでは板垣退助は長州出身の人だと思っていましたが、実際はここ土佐出身の人だということがわかりました。
これからあの天守閣目指して登っていきます。 -
正面の階段を登って来ました。
-
立派な天守閣です。
-
イチオシ
右の方にはこのような立派な石垣がありました。
この上が二の丸(本丸(天守閣がある平地)に最も近く造られた平地)です。
ん?
ハトがいます。 -
ハトです。
-
立派な石垣です。
-
イチオシ
再び天守閣です。
-
天守閣です。
-
天守閣です。
-
イチオシ
天守閣です。
-
天守閣です。
-
詰(つめ)門と呼ばれる門です。
天守閣は写真の左外になります。
この写真の右下からここまで登って来ました。
この詰門は一階が門で、二階が渡り廊下(ろうか)で、その廊下に武士が滞在する詰所があります。
つまりこの建物は、門と渡り廊下と詰所という3つの役割りを担(にな)っていました。 -
イチオシ
天守閣です。
-
天守閣です。
右は詰門です。
この左を進んでいくと・・・ -
このように高知の街が見えます。
-
板垣退助の銅像があったところから、この高さまで登ってきたことになります。
-
振り返ると、先ほどの詰門があります。
-
詰門のところから天守閣を見ると、このような石を落す穴が見えます。
-
詰門の右の二の丸跡(あと)の上に登って来ました。
さらに高くなっています。 -
二の丸跡です。
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二の丸跡から天守閣を見ています。
-
天守閣です。
-
二の丸跡にはこのようなパネルで、修復工事の様子が説明してありました。
-
そのパネルのひとつです。
先ほどの天守閣の石垣を登っている絵です。
落された石に当たっている人もいます。 -
詰門の裏側から撮っています。
左下の屋根が詰門です。 -
天守閣を望んでいます。
-
高知の街です。
-
天守閣です。
-
天守閣です。
-
天守閣です。
-
さあ、いよいよ詰門の上の渡り廊下を渡ります。
(3 http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10554517/ に続く。)
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