2011/01/02 - 2011/01/03
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近鉄バッファローズさん
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2011年のお正月の帰省で実家に帰ったときにも、地元の「歴史まちめぐり」をしてみようと訪ねてみました。
2010年のお盆には一部しか訪ねられなかったので、今回は二日をかけて環濠内(旧市街)を完全制覇しました(前後編に分かれています)。こちらは、後編です。
旧市街には狭い地域にたくさんの寺院があります。そのため、今回の旅行記では多くの部分が寺院になります。
堺が隆盛を極めていた頃は京都が戦乱で荒廃していたため多くの寺院が自治都市で比較的安全だった堺へ避難していたためとも言われているそうです。また、裕福な商人が多く、その財産を寄進して寺院を建造したこともあるのではないかと思います。寄進はその信心の深さを示すことになりますから。
小学校の社会科で習ったときにも「色々歴史的なところがあるんだな」と思っていましたが、
今はより多くのところが紹介され、また、より見やすいように地図や看板、案内板がたくさん配置されるようになりました。
堺市は、仁徳天皇陵の世界遺産登録を始めとする様々な観光産業活性化を進めていて、「歴史まちめぐり」などもその一環のようです。
堺市は政令指定都市になりましたが、経済的には停滞気味の状況が長く続いています。液晶テレビの工場誘致なども進めていますが、観光都市としての振興も歴史的資産の豊かな堺復活の一助になると信じています。
何かの御参考になれば幸甚です。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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龍興山南宗寺です。
三好長慶が父元長の菩提を弔うために、普通国師(大林宗套)を招いて開山とした臨済宗大徳寺派の寺で、宿院の南方に寺地を構えていたそうです。大坂夏の陣(1615年)によって堺市街とともに全焼したが、当時の住職であった沢庵和尚によって元和三年(1617年)に現在地に再建されたそうです。承応二年(1653年)建立の仏殿・正保四年(1647年)建立の山門(甘露門)・江戸時代初期建立の唐門は国の重要文化財に指定されているそうです。仏殿本尊に釈迦牟尼仏、左右に文殊・普賢両菩薩をまつっているそうです。また、境内には茶道を大成し名人と呼ばれた武野紹鴎と千利休の供養塔や堺の豪商津田宗達・宗及父子の墓碑、堺伝授でよく知られている牡丹花肖柏の墓碑、さらに国の名勝である江戸時代の枯山水の庭園、第二次世界大戦で焼失したものの昭和三十五(1960)年七月に再建された利休好みの二畳台目の茶室「実相庵」、利休遺愛の向泉寺伝来袈裟形の手水鉢などがあるそうです。 -
南宗寺の地図です。
画面左上の「現在地」が前の写真の門がある位置になります。
ちなみに、ここは北門で、正門は南側にあります。
ここから中へ入っていくと、しばらく両側に墓石が立ち並ぶ道を歩きます。
その向こうには、甘露門が見えてきます。
そこを左へ行くと、次の徳泉寺が見えてきます。 -
徳泉寺です。
南宗寺の塔頭で臨済宗大徳寺塔頭高桐院に属するそうです。慶安元年(1648年)松江宗安(銭屋の屋号を持つ堺の豪商で長崎より中国人を招いて紗の金襴織りや白粉製造の伝習を得て堺で製造販売を始めた人)が母徳泉追福のために創建、清厳宗渭(のち大徳寺第170世となる)を請して開祖としたそうです。宝永元年(1704年)の記録には塔頭に圓成庵の名が記録されています。本尊は観世音菩薩像で本堂・庫裏・勅使門の外に稲荷社と地蔵堂があります。明治41(1908)年6月には禅楽寺を併合したそうです。寺宝に開祖清厳上人木像一躯・同自画頂相一幅・禅楽寺重興開山天倫上人木像一躯・大心上人木像一躯があるそうです。墓地には宗安はじめ、父宗訥・母徳泉・徳泉の父誉田屋徳隣及び宗安の子遠貞の墓碑があるそうです。 -
弁天さんです。
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弁天さんからしばらく行くと、鐘楼があります。
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本来の正門である南門から中に入り、すぐそばにある社務所で拝観料を払ったあと、この門から有料地域を拝観します。
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夢界堂です。門扉が閉じられて中は見られませんでしたが。
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坐雲亭です。
山内最古の建物で、下層は茶席だそうです。元和九年(1623年)七月徳川秀忠、同八月家光の両将軍の御成の旨を記した板額が架かっているそうです。この将軍の御成や東照宮が祀られていることなどによって、家康が後藤又兵衛の槍によって刺され南宗寺開山堂下に埋葬されていたという伝説が残ったそうです。墓は今も開山堂下に安置されているそうです。 -
三好一族の墓です。
南宗寺開基となった三好長慶の一族です。 -
千利休居士の供養塔と三千家家元の供養塔です。
新しい墓石も有り、いまも新たに墓石が増えているようでした。 -
武野紹鴎の墓です。
堺の茶道を代表する人物の墓が続きます。 -
津田一門(半井家)の墓です。
茶道でも有名ですが、豪商としても有名です。 -
伝説の家康の墓です。
この墓は以前にテレビや雑誌でも紹介されたそうです。本当に小さな墓なのでそんな感じはしませんが‥‥。 -
仏殿です。順不同ですいません。
国指定重要文化財で、承応元年(1653年)建立だそうです。大阪府下唯一の純粋な禅宗様式の仏殿だそうです。正面に清厳筆「大雄寶殿」の扁額が架かっています。内部天井には狩野外記信政筆の「八方睨龍」の絵が描かれているそうです。中央に釈迦如来、左右に文殊、普賢の両菩薩の三体の座像が安置されているそうです。
堂内には手書きの張り紙が有り、 -
仏殿の外観です。
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本堂前の枯山水です。
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庭園にある水琴窟です。
耳を澄ませてしばらく音を聞いていました。 -
利休ゆかりの実相庵です。
間口も狭く、利休っぽいですね。 -
徳川家康の墓と伝えられる石碑です。
新調されて、社も綺麗です。元々東照宮があったそうです。 -
唐門です。
仏殿と並ぶ国の重要文化財です。元来は東照宮本殿、拝殿に通じる門であったが、先の大戦で焼失し、門のみ残ったそうです。跡には水戸徳川家家老の子孫により石碑が建てられたそうです。徳川時代、堺奉行の赴任の際には常に南宗寺に参詣していたと言われているそうです。 -
本源院の紹介看板です。
龍興山本源院は、南宗寺の塔頭で京都大徳寺第228世及び南宗寺第31世となった密玄宗要が貞享四年(1687年)八月薩摩藩主の祈願所として建立した臨済宗大徳寺派大仙院末に属する禅寺だそうです。当初は本源庵と言っていましたが、享保三年(1718年)八月院号に改称したそうです。本堂は、切妻造りで門廊も備え、その内陣には本尊の釈迦如来や毘沙門天・密玄和尚の像などが安置され、その外に寺宝に涅槃像一幅・釈迦八相図二幅・開祖密玄和尚頂相・同遺偈・同倫旨各一幅などがあるそうです。墓地には織田信長・信忠両公の供養塔や堺奉行駒井相模守信義・衣笠一閑著の「堺鑑」に加筆「全堺詳志」を完成した高志芝巌・書家趙陶斎息心居士・同橋本桂園などの墓誌があるそうです。明治に入って現在南宗寺にある鐘楼は明治元年(1868年)牧宗和尚によって当院より移されたものだそうです。 -
こちらは信長公と信忠公の墓碑です。
信長等有名武将の墓は各地にありますね。 -
天慶院です。
龍興山天慶院は、もと海眼庵と称し、臨済宗大徳寺派の寺院だそうです。天正年間(信長、秀吉時代)町衆の尊敬を受けた笑嶺宗訴(大徳寺107世、南宗寺2世住持)が一僧尼(南宗寺開山大林和尚の弟子、武野紹鴎の門人)より献上を受け、開祖として住したのち、弟子の仙獄和尚(大徳寺122世、南宗寺6世)に付与したものだそうです。本院は、千利休との関係が深く、堺の歴史文化を著した江戸時代の本『全堺詳志(高志芝巌著)』によれば「千利休住居ノ時、此庵ノ檀家ナリ」と明記されているそうです。大坂夏の陣後(沢庵和尚時代)、当庵も現在地に復興されましたが、元禄十年(1697年)大拙義戒和尚(本源院三世)が高木重三郎の喜捨を受け、歿後百年となる千利休供養塔を海眼庵内に再興されたそうです(昭和31(1956)年本坊内庭園に移置)。その後、享保三年(1718年)高志芝巌が別野を寄進して改築し、名を天慶院と改めたそうです。方丈に付属する茶室「大黒庵」は、もと京都四条の夷堂に武野紹鴎が営んだものを基とし、圍式三畳台目、四畳半の内一畳分を床とし、前板を入れて仏壇を設け、円窓を切っているそうです。これは祖堂形式の先駆的造作で、非常に重要なものだそうです。現在の建物は平成14(2002)年(雲峰和尚時代)に解体し、当時の古材を各所に用いて復元されたそうです。 -
海会寺です。
宿松山海会寺は臨済宗東福寺派で、堺でも古くから建てられた寺院の一つだそうです。正平6年(1351年)、乾峯士曇が開山で、当時この寺院は、開口神社の正門前にあったそうです。非常に大きな寺院で、塔頭も六院をもち、寺領300石であったと伝えられているそうです。今もこの旧地には金竜水と呼ばれる井戸が残っています(自治都市・堺の歴史まちめぐり(環濠内全制覇編・前編)参照)。当寺第五世と思われる季弘大叔が文明16年(1484年)から同18年にわたる「庶軒日録」と言う日記を残しており、遣明貿易で栄えつつあった当時の堺の姿がわかる唯一の資料となっているそうです。その後、荒廃したので古溪宗陳が天正13年(1585年)に、現在の祥雲寺のところに再興したそうです。大坂夏の陣(1615年)で焼失したが、その復興には至らなかったので、南宗寺の住職であった沢庵宗彭の助力によって、南宗寺の寺域に再興されたそうです。本堂・庫裏及び門は重要文化財に指定されているそうです。 -
臨江寺です。
当初臨江庵と称し、承応元年(1652年)今井宗久の曾孫今井兼続が開基となり、清巌宗渭禅師が入山して開山となった。臨済宗大徳寺派南宗寺のもと塔頭の一つで公儀堀に臨んでいたのでこの名があるそうです。かつて境内に多くの萩があり、「萩の寺」とも呼ばれたそうです。今井家累代の菩提所で千利休の師である茶聖武野紹鴎の墓碑の他、堺魚市に重税を課した織田信長に逆らい処罰を受けた十人の町衆の霊を弔った十王堂址や、日本三大仇討ちのひとつである曽我十郎・五郎を偲ぶ供養塔と、兄弟を祀った曽我稲荷社、十郎の恋人だった遊女虎御前が石に化したと伝えられる「とらご石」、昭和二(1927)年に発掘された「口切にさかいの庭の懐かしき」と刻した芭蕉の句碑、また地元乳守遊郭に因んだ霊験あらたかな乳の守り神様「乳女郎さん」や、乳守之旧蹟の碑の裏面にある上賀茂神社神官加茂季鷹の歌碑などは、中世の堺を知る上で興味深いものだそうです。 -
土居川です。
「町は甚だ堅固にして、西方は海を以て、また他の側は深き堀を以て囲まれ、常に水充満せり」と宣教師ガスパル ビレラが伝えた環濠は自治都市堺の象徴でもあった。しかし、豊臣秀吉は天正11年(1583年)に大阪城を築造し、城下町を発展させるため、またこの城の近くに環濠を備えた武装都市を置くことは危険であったため、天正14年(1586年)にこの濠の埋没を命じ、自ら出馬してその工事を催促し、遂にその面影もなくなったそうです。元和元年(1615年)大坂夏の陣に際して、堺の市街は全焼したそうです。徳川幕府は早速堺の復興に尽力、この時、再び環濠が作られたそうです。しかしこの元和の町割は、中世の市街よりも東・北・南ともに相当拡張せられたようで、堺周辺の村々から約19万坪(約63万平米)が市内に入れられているそうです。中世環濠の跡は定かでなく、近世の環濠も戦後は殆ど埋められ、高速道路となってしまったそうです。僅かに南部にその面影を残して居るのみだそうです。
写真の濠はその濠の一部です。現在は土居川と呼ばれています。 -
熊野街道の紹介文です。
山之口橋の欄干に取り付けられています。平安時代に「蟻の熊野詣」とも呼ばれるほど流行した貴族の熊野参詣。熊野街道をこの橋を通ってさらに世界遺産にも登録された熊野古道まで続いています。 -
山之口橋から熊野方面へ続く道を眺めた写真です。
今は、ただの道にしか見えませんが。 -
開口神社の芦原御旅所です。
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お蔭山跡の案内板です。
江戸時代には飢餓が多く発生し民衆を苦しめましたが、天保の飢饉(1833〜1836年)は特に深刻だったそうです。近畿地方でも生活に困り、餓死をする人が多く出たそうです。堺奉行曲淵(まがりふち)甲斐守は、新川住吉橋通西(現在の住吉橋町二丁付近)から古川中之町掘留(現在の大浜北町一丁付近)までの間に運河を開削し、生活に苦しむ民衆に土木作業の仕事を与えることで、その困窮を救おうとしたそうです。天保八年(1837年)六月頃から開削をはじめ、作業に従事したものに土砂一荷いくらと決めて手間賃を与えたそうです。この時の土砂により中之町掘留の西手に南側高さ九間四尺(約17.6m)、北側高さ九間二尺(約17.0m)、周囲百七十四間(約316.3m)の小丘が出来たそうです。人々はこの丘のことを「お蔭に依りて凶歳の苦を凌ぎたる」の意味で「お蔭山」(御影山)、天保年間に出来たことで「天保山」、困窮者の手によることから「困窮山」、労働の際に茶粥が配給されたことから「茶粥山」などと様々な名称で呼ばれたそうです。お蔭山は海浜に近く、眺望にも適していたことから幕末には、観光名所になっていたそうです。幕末の堺の旅館の観光リーフレット「泉州堺湊新地繁栄之図」には、お蔭山の姿が描かれています(案内板右上の写真)。明治に入ってからお蔭山は周辺の開発に伴って徐々に取り壊されたそうです。現在ではその姿を見ることは出来ません。南海本線の高架下にこの案内板は位置しています。 -
大浜公園の入り口です。
明治12年、海浜公園として誕生した大浜公園は、海浜レジャー地でしたが、海眼が工業用地として埋め立てられ、その面影をなくしてしまったそうです。現在は、野球場、プール、体育館、市民広場、防災広場、そして相撲場の整備が行われ気軽に利用できるレクリエーション・スペースになっているそうです。特に、猿島は人気の的で近くには在りし日の堺港を偲ばせる洋式木製灯台もあり、スポーツのみならず散策にも好適な公園だそうです。 -
大浜公園の中には、日本一低い一等三角点のある山として有名な蘇鉄山があります。ここが登山口です。
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山頂に登りました。と言っても標高はわずか6.78mですから、ちょっとした階段を上った程度です。そうするとそこに写真のような三角点が設置されていました。堺駅南口すぐにある神明神社で「蘇鉄山登山認定証」がもらえるそうです。
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大浜相撲場です。
アマチュア相撲界では有名な相撲場です。実家に居た頃に、ここで行われた大会の模様をテレビで見た覚えがあります。 -
樺太犬慰霊像です。
昭和三十三(1958)年七月に南極地域観測隊の第一次越冬隊(昭和三十二年二月五日から昭和三十三年二月十一日)に協力した十五頭の樺太犬の霊を慰めるため堺市在住の獣医で彫刻家岩田千虎氏が別れを惜しみながら立ち去っていく越冬隊に向かって遠吠えを続けている姿をコンクリートの像に仕上げ、市に寄贈し、当時水族館の南側遊園地に設置されたものですが、像の風化が著しくなったので、原型像に忠実にブロンズの像に昭和六十二年に復元制作されたそうです。いわゆる映画「南極物語」ですね。 -
猿の檻です。ここではアカゲザルが飼われています。
堺水族館は明治三十六(1903)年第五回内国勧業博覧会閉幕後、水族館の払い下げを受けてオープンしたそうです。当時最高水準の施設内容を誇っていたそうですが、昭和九(1934)年の室戸台風の高潮で水族館は大破、修繕中に火災となり全焼、その後昭和十二(1937)年に再建されましたが臨海工業地帯造成により集客数は減少し昭和三十六(1961)年九月に閉鎖されたそうです。猿島は堺水族館からの施設で昭和二十八年の改修から平成二十一年まで市民の方に親しまれてきましたが老朽化に伴い、平成二十一年六月に現在の飼育舎が整備されたそうです。
確かに私が子供の頃は、いわゆる猿山でした。 -
猿のアップです。
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堺魚市場です。小さな魚市場ですが、四百年以上の歴史を持つそうです。
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店は開いていませんが、市場の中です。
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天誅組上陸の地の碑です。
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天誅組の事績を記す碑です。字が小さい上に漢文で、イマイチよく読めませんでしたが‥‥。
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同じ敷地にある土佐十一烈士の石碑です。
この石碑にも土佐十一烈士の事績が記されています。
手続の不備や言葉の問題もあって無通告でこの付近に上陸してきたフランス軍艦の兵士11名を当時堺の警固にあたっていた土佐藩士が殺傷すると言う事件が起きました。フランス政府の要求により、二月二十三日に、隊長箕浦猪吉以下11名が妙國寺で切腹したそうです。彼らは妙國寺の北隣にある宝珠院に葬られ、昭和十三(1938)年、土佐十一烈士墓として国の史跡に指定されたそうです。 -
石銭場跡です。
石銭場は、江戸時代に船舶及び諸問屋の取扱貨物の石数に応じて入津料を徴収したところで、石銭は港の浚渫や石堤の築造費に使われていたそうです。始まりは延宝八年(1680年)といわれ、場所は幾度も移りましたが、北湾戸完成後はこの地にあったそうです。記録によって廻船、川行渡船、沖船との連絡をした茶船等の増減や、諸問屋(俵物・薪炭・鹽・干鰯・魚油・唐物・縑毛綿・青物・魚・酒樽・瓦・石炭・薬酒・煙草・莚・荒物)の当時を偲ぶことが出来るそうです。 -
標柱石です。
この標柱石は、北波止の突堤近くから出土したものです。石の上部が失われていますが、残っている銘文から推測すると、港に出入りする船に対し、運行上の注意を促すため、新地方(港の管理にあたる役所)が慶応元年(1865年)に建立したと考えられるそうです。建てられた当初の位置は分かりませんが、幕末の堺港の様子を示す資料として興味深いものだそうです。 -
天満宮の御旅所です。
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龍女神像です。
龍女神像は、明治三十六(1903)年に開催された第五回内国勧業博覧会の堺会場となった大浜公園の水族館前に設置されたものだそうです。博覧会終了後は「乙姫さん」の愛称で広く市民に愛され親しまれてきたが、水族館も廃館となり、昭和四十九(1974)年にの像も撤去されたそうです。堺市は、平成11(1999)年市制110周年を迎えるにあたり、二十一世紀における本市の更なる発展と平和への貢献を願い、再び、平和と繁栄の象徴として愛され親しまれることを期待し、この地に「龍女神像」を復元設置したそうです。 -
吉川俵右衛門の碑です。
吉川俵右衛門は、宝永元年(1704年)の大和川の付け替え以来、土砂がたまり、船の出入りに支障をきたしていた堺港の修築に功績のあった人物だそうです。俵右衛門は、江戸浅草の商人でしたが、商用で訪れた港の様子に一念発起し、堺商人の協力も取り付けて、寛政初年(1790年)頃に修築を開始したそうです。その後多くの困難を乗り越え、文化七年(1810年)までのおよそ20年がかりで工事は完成し、現在の堺旧港の原形がこのときつくられたそうです。明治33(1900)年俵右衛門の功績をたたえ、堺港を見下ろすこの地に顕彰碑が建てられたそうです。 -
旧堺港を湾口から湾奥を眺めたところです。
上空から撮影すると、キノコみたいな綺麗な形をしてるのがよく分かるのですが、地上からでは分からないですね。 -
燈籠堂跡の案内板です。
江戸時代に入り商品の流通が盛んになり、港への船の出入りが頻繁になると海上交通の安全を図るために、全国各地の岬や港の入り口近くに燈籠堂が設けられたそうです。これらの建物は燈明台とも呼ばれ、現在の灯台と同じ役割を果たしていたそうです。堺においても江戸時代の中頃からの戎島整備に伴い、燈籠堂が設置されたそうです。元禄二年(1689年)の『堺大絵図』には、石垣の土台の上に季で組み立てた寺社の燈籠に似た建物が描かれているそうです。建物の高さは石垣部分も含め約10m前後で、当時は他の照明による障害もなく船の速度も遅かったので、植物油を燃料とする燈明のような僅かな光でも効果を発揮したそうです。その後の戎島付近を描いた他の絵図にも同じような建物が描かれているそうです。江戸時代の後半に行われた数度の堺港の整備に伴い、燈籠堂は作り直され場所も移転しましたが、幕末の頃にはほぼ案内板の位置に建てられていたことが、明治16(1883)年の『堺港燈台起源沿革書』などに記されているそうです。燈籠堂は江戸時代を通じて堺港の安全を見守ってきましたが、明治10(1877)年洋式燈台の旧堺燈台が設置されるに伴い、燈籠堂はその役割を終えたそうです。 -
堺北台場跡の案内板です。
嘉永六年(1853年)、アメリカの使節ペリーが浦賀に来航し幕府に開国を迫り、翌年九月、今度はロシアの使節プチャーチンを乗せたディアナ号が紀伊水道を経て大阪天保山沖に現れたそうです。これらの事件をきっかけに、幕府・諸藩は海岸防衛の強化を迫られ、品川台場・鳥取藩由良台場など全国各所の海岸沿いの用地に土塁を築き、大砲を備えた「台場」(砲台)と言われる海防施設の設置、整備を盛んに行ったそうです。大阪湾の警備は京都の守りという立場から重視され、まず加太(紀州藩)、由良・岩屋(徳島藩)、明石(明石藩)へ、少し遅れて大坂安治川・木津川両河口への台場の築造が命じられたそうです。堺でもこれらの政策の一環として、安政二年(1855年)までにまず堺港の小波止に台場(北台場)が建設され、それに少し遅れて大波止に南台場が建設されたそうです。北台場は南北約九十メートル、東西最大約七十メートルの規模を持ったコの字型の土塁(高さ約3m)をもち、彦根藩が堺台場の担当となった文久三年(1863年)以降の記録に依れば、三十六貫目の臼砲(モルチール砲)を主砲に大砲八門を備えた本格的なものだったそうです。明治以降北台場の敷地は公園地となり、当初は陸軍省の所轄に属していましたが、後に堺市の所有となり現在は大浜北公園の敷地の一部として市民の憩いの場となっているそうです。 -
旧堺燈台です。
堺旧港の突端に位置する旧堺燈台は、明治十(1877)年に建築された建物だそうです。所在を変えずに現存する木像洋式燈台としては、我が国で最も古いものの一つとして、昭和四十七(1972)年に国の史跡に指定されたそうです。建築にあたっては、土台の石積みは旧堺港の港湾整備と併せて備前国(現在の岡山県)出身の石工・継国真吉が携わり、建築工事については、堺在住の大工・大眉佐太郎が行ったそうです。また、燈部の点灯機械は、横浜の燈台寮よりバーピエール社(フランス)の機器を購入し、英国人技師ビグルストーンが行ったそうです。建築費は二千百二十五円、点灯機械購入には約三百六十円を要したそうです。これらの建築資金は、堺市民(当時の堺県)の寄付と堺県からの補助金によりまかなわれたことが知られているそうです。その後百年、大阪湾を照らし続けましたが、沖に向かって拡がる埋め立て地のためその役割を果たさなくなり、昭和43(1968)年にはその灯りを消すことになったそうです。平成十九年の完了した保存修理工事では、内国勧業博覧会後リゾート地として、大浜一帯が賑わっていた明治時代の末から戦前の燈台の姿へ、復元整備を行ったそうです。 -
堺紡績所跡の碑です。
堺(戎島)紡績所は、明治三年(1870年)日本で二番目に設立された洋式紡績工場だそうです。幕末の開国後、綿製品の輸入増大に伴い、手紡ぎで生産されてきた従来の綿糸業が打撃を受ける一方で、早くから工業の近代化政策を打ち出していた薩摩藩は、慶応三年(1867年)に藩内磯ノ浜に日本初の洋式紡績工場を設立したそうです。続いて、藩士石河正龍に命じて交通の要所であった堺戎島に土地を求め、明治三年から堺紡績所の操業を開始したそうです。この堺紡績所はイギリス製の機械を備えた本格的な近代工場であったため、多くの見学者が詰めかけ、明治十年には明治天皇も視察に訪れられています。明治五年に国有に、明治十一年には民営化され、岸和田紡績会社への合併吸収を経て昭和八年に閉鎖されるまで日本における綿糸紡績業の先駆として、重要な位置を占めていたそうです。
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この旅行記へのコメント (2)
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- kaz-ykさん 2014/02/07 14:21:03
- 堺市の御懇切な紹介感謝します。
- 近鉄バッファローズさん
先程は、車椅子のご紹介を頂き、有難うございました。
お招き頂き、堺市編に、お邪魔しました。
実は、私達は、貝塚市在住ですが、堺市は、魚市場、堺祭り、南宋寺、
利休の家、灯台位しか、訪問の経験なく、大変勉強になりました。
考証付の旅行記は、旅行記のお手本です。御礼申しあげます。
- 近鉄バッファローズさん からの返信 2014/02/11 12:05:04
- 有り難う御座います
- kaz-ykさん、こんにちは。
近鉄バッファローズです。
度々のご高覧、恐悦至極に存じます。
加えて、お褒めのお言葉も頂き恐縮しております。
欧州で色々なところに旅行して、
小さな町にも色々な歴史があることを体感し、
まずは自分の生まれ育った町のことを知らねば、
そしてそれを少しでも他の方々にも知らせ化ければ、
と言う思いで旅行記を作りました。
「考証」と言うほど高尚なものではありませんが、
少しでも興味を持って頂ければ、幸いです。
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