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**********************<br />2010/07/10土 Air Blaticでリガ(ラトヴィアの首都)へ<br />**********************<br />・自由記念碑前のブリーヴィーバス大通りのパレード見学<br />・聖ペテロ教会見学<br />・聖ヨハネ教会(入れず)<br />・市庁舎広場の市庁舎とブラックヘッド会館(いずれも外観のみ)<br />・マーケットでバルティック・シルバー・ジュエリーのショッピング<br />午後:ルンダーレ宮殿ツアー参加(参加者たった一人!)<br />・ルンダーレ宮殿見学<br />・庭園散策<br />・バウスカ城跡(外観のみ)<br />・メゾットネ宮殿(外観のみ)<br />【リガ泊:ホテル・イリーナ(Iriena)】<br />**********************<br /><br />「ラトヴィアのヴェルサイユ」と呼ばれるルンダーレ宮殿は、このバルト3国旅行の中で見られる、最も華麗で贅沢な建物でしょう。<br />ぜひ見に行きたいけれど、公共交通機関を利用してのアクセスは不便そうなので、できれば現地ツアーを利用したいと思っていました。<br />ただ、行く前に現地旅行代理店のサイトなどをチェックしてみたところ、ハイシーズンの夏であってもルンダーレ宮殿の定期ツアーは見当たらず、参加者がいればその都度ツアーが催行される不定期のもので、しかも2人参加から、というツアーしか見つかりませんでした。<br />これはひょっとすると自力で行かないとダメかな、と思っていましたが、ホテルにあったツアー・パンフレット2社のうち1社は特に催行最低人数の規定がなかったのでレセプションを通じて申し込んでみました。<br />本日の午後という急な予定なので予約できるか確信はもてませんでした。電話口のラトヴィア語は聞き取れなかったけれど、はじめはなにやらもめているかんじでした。<br />でも、レセプションの人が食い下がってくれたおかげか、なんとか予約できました@<br /><br />というわけで、ラトヴィアに到着してリガ初日の午後に、早速ラトヴィア国内のハイライトをツアーでラクして出かけます!<br />といっても、ツアー利用の利点は、アクセスがラクなだけではなく、数奇な運命をたどった宮殿の歴史や、見学できる部屋がどういった用途のものだったかというような説明を、現場でしてもらえることにあります。<br />こういうのは行く前に一生懸命に資料を読んでも目が踊ってしまって、私の頭にはちっとも入ってこないんです。<br /><br />15時にホテルのロビーでツアーガイドと待ち合わせたら、なんと参加者は私一人だけ!<br />……でも、もう一つのツアーの最低催行人数が2人からだったことを思えば、そして土曜日の今日、急に申し込んだにしては、よくぞ案内するのにOKしてくれたと感謝、感謝@<br /><br />ただ、ガイドは英語がとてもぺらぺらというには程遠く、発音もあまり明瞭ではなかったので、話の半分は聞き取れませんでした。<br />ツアー客は私一人なので、随時、聞き返すことはできましたから、それでなんとか補えたようなものです。<br />それにガイドは運転手も兼ねていたので、ドライバーが別にいるガイド専門の人の場合と違って、こちらが黙っていてもいろんなことをぺらぺらとしゃべってくれたわけではありませんでした。<br />例えば、ふつうのツアーなら、向かう途中はツアー客を飽きさせないように、こちらから聞かなくてもリガやラトヴィアについていろいろ案内してくれるものですが、そういうのは一切ありませんでした。<br />でもそこは、ガイドと1対1に少しは慣れた私です。<br />そして今日はラトヴィア初日で、少しテンションが上がっています。<br />初めて現地ガイドを個人で雇い1対1となっ1997年のイスラエル旅行のときに比べれば、自分からどんどん質問することもできた方だと思うし、沈黙の時間もさほど苦痛に感じなくなりました。<br /><br />ただ、特にルンダーレ宮殿と関係ない疑問点をガイドにぶつけてみると、それほど経験豊富なベテランのガイドではないのかなぁと感じざるを得ませんでした。<br />午前中に見かけたブリーヴィーバス大通りでのパレードも、そのときには歌と踊りの祭典の若者バージョンについて知らなかったので、ちょうどよいと思ってガイドに質問したところ、答えは「フェスティバル」と、たったひとこと。<br />いや、そりゃあなた、フェスティバルってことは見れば分かりました。フェスティバルという英単語が知りたかったわけじゃないんです(苦笑)。<br /><br />ガイドにしては朴訥なガイドも、ルンダーレ宮殿の歴史についてはすらすらと説明してくれました。<br />部屋の中に宮殿の歴史にまつわる肖像画があり、一人で見学していたらこれらは誰が誰だか全く分からずにスルーしていたところですが(エカテリーナ女帝はさすがにすぐに分かりましたけど)、ガイドは宮殿の歴史をいっぺんに説明せずに、肖像画のある部屋に合わせて少しずつ話してくれました。<br /><br />ただ、ガイドはそれぞれの部屋についてはあんまり詳しくなかったようで、そういった説明がほとんどなかったのは不満でした。<br />私が質問すると、部屋ごとにある説明書をチェックして答えていました。といっても、その説明書はリトアニア語のみでしたので、これも一人で見学していたら推測することしかできませんでした。<br /><br />ガイドの関心は、宮殿の歴史の他は、修復状況のようでした。修復する前の様子と、いかに苦労して修復してきたか。<br />修復過程を記録したVTRは、ガイドも熱心に見ていました。<br />そのVTRにはこれからの修復計画も紹介されていて、CGで修復後の予想図もありました。それを見ていると、将来がとても楽しみになりました。<br />と同時に、あれほどの宮殿がああまでも荒廃してしまったことは本当に残念だと思いました。<br />破壊・荒廃の様子から、ソ連を含む当時の政府や軍隊の心なさや戦争・災害などのバルト三国が受けた苦難の一端がやっと少しだけ実感できた気がします。<br /><br />宮殿内見学後、庭園でしばらく自由時間となりました。その間はガイドと別行動です。<br />フランス庭園そのものの散策はすぐに飽きてしまったのですが、宮殿のすぐそばには美しいバラ園があって、バラはややピーク過ぎだったものの、きれいな花を見せていました。<br />これが6月くらいだったら、日本国内でもバラ撮影を十分味わった直後なので、特にそそられなかったでしょう。<br />でもあれから1ヶ月以上のインターバルがあったせいか、ついバラ撮影にいそしんでしまいました。<br />こういう海外のバラ園は、日本のバラ名所のバラ園に比べると、どこか少し乱雑で奔放に見えます。<br />でもその様子は、私の目に不思議な魅力として映りました。<br /><br />ルンダーレ宮殿のバラの写真はこちらのハイライト旅行記にまとめました。<br />「2010年バルト3国旅行ハイライトその11:植物編<ルンダーレ宮殿のバラ>」<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10487696/<br /><br />ルンダーレ宮殿に自力で行くとしても、バウスカという町を経由します。<br />現地ツアーでも、ルンダーレ宮殿はバウスカと一緒になっているところが多いようです。今回のツアーもそうでした。<br />バウスカでは城を見学しましたが、中庭までで、現在博物館となっている城の中までは見学しませんでした。<br />もっともガイドいわく、博物館は城とは直接関係ないそうです。<br />よくあるように、きっと復旧がすんだ部屋を、展示室代わりにしているのでしょう。ある程度は同時代の雰囲気が感じられるものを集めて。<br /><br />バウスカでは城のそばの駐車場が非常に混んでいたので、街中のスーパーの駐車場に車を停めて少し歩きました。<br />混んでいたのは、バウスカ城のすぐそばで、カントリー・ミュージック・フェスティバルが行われていたからでした。<br />実は、リガ初日のこの日から、バルト三国も異常な猛暑となってしまい、湿度は低い分、日本の真夏よりも強烈な太陽の炎天下を歩くのは、はじめはちょっと億劫でした。<br />でも、そのおかげでちょこっとだけですが、バウスカの町を見ることができました。<br /><br />また、ガイドは、プログラムにはないおまけだ、と言って、帰る途中でもう一つの城にも寄ってくれました。<br />現在はホテルとして使用されているところです。<br />Lonely Planetには、中のホテルやレストランを利用するのでない限り、外観を見るだけではしょーがない、といったことが書かれてありましたが、ロマノフ王朝のロシアに縁のあると言われれば、興味も沸きます。<br />エカテリーナ2世が孫たちの教育係の女性に感謝のために与えた宮殿という、小さいけれど美しい宮殿でした。<br />写真は撮り損ねたけれど、歴史と縁を説明した看板が敷地の入口にありました。<br /><br />一つでも多く見ること───それは旅行者にとっての命題のようなものです。<br />少なくとも、海外旅行中のたいがいの日本人にとってはそうだろうと思います@<br /><br />2010年バルト3国旅行の旅程一覧はこちら。<br />簡易版「2010年バルト3国旅行プロローグ(旅程一覧)地図付」<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10481279/<br />詳細版「2010年バルト3国旅行の詳細旅程(写真付き)」<br />http://mami1.cocolog-nifty.com/travel_diary1/2010/07/2010-ccbf.html<br /><br />「ルンダーレ宮殿<br />“バルトのヴェルサイユ”ともいわれる、バロック様式の華麗な宮殿。ルンダーレ宮殿は、ロシアの女帝アンナ(1693−1740)に愛され、貧しい貴族からクールランド大公にまで昇格したビロン公(E. J. Biron)の夏の宮殿として建てられた。建築家はサンクト・ペテルブルクの冬宮などを手がけたイタリア人のラストゥレリ(F. B. Rastrelli)である。<br /> 宮殿建設は1736年に始められ、延べ1500人の職人が加わった。壁画はふたりのイタリア人画家が、装飾はドイツ人彫刻家がおもに担当し、途中女帝が死亡してビロン公がシベリア流刑になるなど曲折もあったが、1768年に完成した。<br /> 宮殿内部はロココ調の装飾で埋まった、まさに贅を尽くしたものとなっている。(中略)<br /> 西棟の中庭を向いた部屋には、宮殿修復の歴史、技術などの資料が展示されており、その苦労がうかがわれる。<br /> 宮殿の南側に広がるバロック様式のフランス庭園もオリジナルのデザインで再建され、美しい花々を咲かせている。」<br />(「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より)<br />

2010年バルト3国旅行第7日目(2)ラトヴィアのヴェルサイユと呼ばれる「ルンダーレ宮殿」とバウスカの半日ツアーに参加者は私一人だけ@

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2010/07/10 - 2010/07/10

28位(同エリア39件中)

2

60

まみ

まみさん

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2010/07/10土 Air Blaticでリガ(ラトヴィアの首都)へ
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・自由記念碑前のブリーヴィーバス大通りのパレード見学
・聖ペテロ教会見学
・聖ヨハネ教会(入れず)
・市庁舎広場の市庁舎とブラックヘッド会館(いずれも外観のみ)
・マーケットでバルティック・シルバー・ジュエリーのショッピング
午後:ルンダーレ宮殿ツアー参加(参加者たった一人!)
・ルンダーレ宮殿見学
・庭園散策
・バウスカ城跡(外観のみ)
・メゾットネ宮殿(外観のみ)
【リガ泊:ホテル・イリーナ(Iriena)】
**********************

「ラトヴィアのヴェルサイユ」と呼ばれるルンダーレ宮殿は、このバルト3国旅行の中で見られる、最も華麗で贅沢な建物でしょう。
ぜひ見に行きたいけれど、公共交通機関を利用してのアクセスは不便そうなので、できれば現地ツアーを利用したいと思っていました。
ただ、行く前に現地旅行代理店のサイトなどをチェックしてみたところ、ハイシーズンの夏であってもルンダーレ宮殿の定期ツアーは見当たらず、参加者がいればその都度ツアーが催行される不定期のもので、しかも2人参加から、というツアーしか見つかりませんでした。
これはひょっとすると自力で行かないとダメかな、と思っていましたが、ホテルにあったツアー・パンフレット2社のうち1社は特に催行最低人数の規定がなかったのでレセプションを通じて申し込んでみました。
本日の午後という急な予定なので予約できるか確信はもてませんでした。電話口のラトヴィア語は聞き取れなかったけれど、はじめはなにやらもめているかんじでした。
でも、レセプションの人が食い下がってくれたおかげか、なんとか予約できました@

というわけで、ラトヴィアに到着してリガ初日の午後に、早速ラトヴィア国内のハイライトをツアーでラクして出かけます!
といっても、ツアー利用の利点は、アクセスがラクなだけではなく、数奇な運命をたどった宮殿の歴史や、見学できる部屋がどういった用途のものだったかというような説明を、現場でしてもらえることにあります。
こういうのは行く前に一生懸命に資料を読んでも目が踊ってしまって、私の頭にはちっとも入ってこないんです。

15時にホテルのロビーでツアーガイドと待ち合わせたら、なんと参加者は私一人だけ!
……でも、もう一つのツアーの最低催行人数が2人からだったことを思えば、そして土曜日の今日、急に申し込んだにしては、よくぞ案内するのにOKしてくれたと感謝、感謝@

ただ、ガイドは英語がとてもぺらぺらというには程遠く、発音もあまり明瞭ではなかったので、話の半分は聞き取れませんでした。
ツアー客は私一人なので、随時、聞き返すことはできましたから、それでなんとか補えたようなものです。
それにガイドは運転手も兼ねていたので、ドライバーが別にいるガイド専門の人の場合と違って、こちらが黙っていてもいろんなことをぺらぺらとしゃべってくれたわけではありませんでした。
例えば、ふつうのツアーなら、向かう途中はツアー客を飽きさせないように、こちらから聞かなくてもリガやラトヴィアについていろいろ案内してくれるものですが、そういうのは一切ありませんでした。
でもそこは、ガイドと1対1に少しは慣れた私です。
そして今日はラトヴィア初日で、少しテンションが上がっています。
初めて現地ガイドを個人で雇い1対1となっ1997年のイスラエル旅行のときに比べれば、自分からどんどん質問することもできた方だと思うし、沈黙の時間もさほど苦痛に感じなくなりました。

ただ、特にルンダーレ宮殿と関係ない疑問点をガイドにぶつけてみると、それほど経験豊富なベテランのガイドではないのかなぁと感じざるを得ませんでした。
午前中に見かけたブリーヴィーバス大通りでのパレードも、そのときには歌と踊りの祭典の若者バージョンについて知らなかったので、ちょうどよいと思ってガイドに質問したところ、答えは「フェスティバル」と、たったひとこと。
いや、そりゃあなた、フェスティバルってことは見れば分かりました。フェスティバルという英単語が知りたかったわけじゃないんです(苦笑)。

ガイドにしては朴訥なガイドも、ルンダーレ宮殿の歴史についてはすらすらと説明してくれました。
部屋の中に宮殿の歴史にまつわる肖像画があり、一人で見学していたらこれらは誰が誰だか全く分からずにスルーしていたところですが(エカテリーナ女帝はさすがにすぐに分かりましたけど)、ガイドは宮殿の歴史をいっぺんに説明せずに、肖像画のある部屋に合わせて少しずつ話してくれました。

ただ、ガイドはそれぞれの部屋についてはあんまり詳しくなかったようで、そういった説明がほとんどなかったのは不満でした。
私が質問すると、部屋ごとにある説明書をチェックして答えていました。といっても、その説明書はリトアニア語のみでしたので、これも一人で見学していたら推測することしかできませんでした。

ガイドの関心は、宮殿の歴史の他は、修復状況のようでした。修復する前の様子と、いかに苦労して修復してきたか。
修復過程を記録したVTRは、ガイドも熱心に見ていました。
そのVTRにはこれからの修復計画も紹介されていて、CGで修復後の予想図もありました。それを見ていると、将来がとても楽しみになりました。
と同時に、あれほどの宮殿がああまでも荒廃してしまったことは本当に残念だと思いました。
破壊・荒廃の様子から、ソ連を含む当時の政府や軍隊の心なさや戦争・災害などのバルト三国が受けた苦難の一端がやっと少しだけ実感できた気がします。

宮殿内見学後、庭園でしばらく自由時間となりました。その間はガイドと別行動です。
フランス庭園そのものの散策はすぐに飽きてしまったのですが、宮殿のすぐそばには美しいバラ園があって、バラはややピーク過ぎだったものの、きれいな花を見せていました。
これが6月くらいだったら、日本国内でもバラ撮影を十分味わった直後なので、特にそそられなかったでしょう。
でもあれから1ヶ月以上のインターバルがあったせいか、ついバラ撮影にいそしんでしまいました。
こういう海外のバラ園は、日本のバラ名所のバラ園に比べると、どこか少し乱雑で奔放に見えます。
でもその様子は、私の目に不思議な魅力として映りました。

ルンダーレ宮殿のバラの写真はこちらのハイライト旅行記にまとめました。
「2010年バルト3国旅行ハイライトその11:植物編<ルンダーレ宮殿のバラ>」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10487696/

ルンダーレ宮殿に自力で行くとしても、バウスカという町を経由します。
現地ツアーでも、ルンダーレ宮殿はバウスカと一緒になっているところが多いようです。今回のツアーもそうでした。
バウスカでは城を見学しましたが、中庭までで、現在博物館となっている城の中までは見学しませんでした。
もっともガイドいわく、博物館は城とは直接関係ないそうです。
よくあるように、きっと復旧がすんだ部屋を、展示室代わりにしているのでしょう。ある程度は同時代の雰囲気が感じられるものを集めて。

バウスカでは城のそばの駐車場が非常に混んでいたので、街中のスーパーの駐車場に車を停めて少し歩きました。
混んでいたのは、バウスカ城のすぐそばで、カントリー・ミュージック・フェスティバルが行われていたからでした。
実は、リガ初日のこの日から、バルト三国も異常な猛暑となってしまい、湿度は低い分、日本の真夏よりも強烈な太陽の炎天下を歩くのは、はじめはちょっと億劫でした。
でも、そのおかげでちょこっとだけですが、バウスカの町を見ることができました。

また、ガイドは、プログラムにはないおまけだ、と言って、帰る途中でもう一つの城にも寄ってくれました。
現在はホテルとして使用されているところです。
Lonely Planetには、中のホテルやレストランを利用するのでない限り、外観を見るだけではしょーがない、といったことが書かれてありましたが、ロマノフ王朝のロシアに縁のあると言われれば、興味も沸きます。
エカテリーナ2世が孫たちの教育係の女性に感謝のために与えた宮殿という、小さいけれど美しい宮殿でした。
写真は撮り損ねたけれど、歴史と縁を説明した看板が敷地の入口にありました。

一つでも多く見ること───それは旅行者にとっての命題のようなものです。
少なくとも、海外旅行中のたいがいの日本人にとってはそうだろうと思います@

2010年バルト3国旅行の旅程一覧はこちら。
簡易版「2010年バルト3国旅行プロローグ(旅程一覧)地図付」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10481279/
詳細版「2010年バルト3国旅行の詳細旅程(写真付き)」
http://mami1.cocolog-nifty.com/travel_diary1/2010/07/2010-ccbf.html

「ルンダーレ宮殿
“バルトのヴェルサイユ”ともいわれる、バロック様式の華麗な宮殿。ルンダーレ宮殿は、ロシアの女帝アンナ(1693−1740)に愛され、貧しい貴族からクールランド大公にまで昇格したビロン公(E. J. Biron)の夏の宮殿として建てられた。建築家はサンクト・ペテルブルクの冬宮などを手がけたイタリア人のラストゥレリ(F. B. Rastrelli)である。
 宮殿建設は1736年に始められ、延べ1500人の職人が加わった。壁画はふたりのイタリア人画家が、装飾はドイツ人彫刻家がおもに担当し、途中女帝が死亡してビロン公がシベリア流刑になるなど曲折もあったが、1768年に完成した。
 宮殿内部はロココ調の装飾で埋まった、まさに贅を尽くしたものとなっている。(中略)
 西棟の中庭を向いた部屋には、宮殿修復の歴史、技術などの資料が展示されており、その苦労がうかがわれる。
 宮殿の南側に広がるバロック様式のフランス庭園もオリジナルのデザインで再建され、美しい花々を咲かせている。」
(「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より)

同行者
一人旅
旅行の手配内容
個別手配

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  • 見えてきたクリーム色のルンダーレ宮殿<br /><br />駐車場から宮殿までは果樹園などがあり、そのあたりは緑にあふれていました。<br />

    見えてきたクリーム色のルンダーレ宮殿

    駐車場から宮殿までは果樹園などがあり、そのあたりは緑にあふれていました。

  • バロック様式の宮殿らしい立派なゲートと、その向こうにルンダーレ宮殿@<br /><br />外観は完全にバロック様式ですが、中は細やかなデザインのロココ様式です。<br /><br />「この宮殿を建築したのはイタリア人のフランセスコ・バルトロメオ・ラストゥレリで、サンクトペテルブルグに現在あるエルミタージュ美術館、かつての(女帝)アンナ(ピョートル大帝の姪)の住居であった「冬の宮殿」の建築家である。彼は10代のときの1716年に父とともにフランスからロシアに移り、サンクトペテルブルグで設計や管理の仕事をしてその才能で名をなした人物である。」<br />(「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用)<br />

    バロック様式の宮殿らしい立派なゲートと、その向こうにルンダーレ宮殿@

    外観は完全にバロック様式ですが、中は細やかなデザインのロココ様式です。

    「この宮殿を建築したのはイタリア人のフランセスコ・バルトロメオ・ラストゥレリで、サンクトペテルブルグに現在あるエルミタージュ美術館、かつての(女帝)アンナ(ピョートル大帝の姪)の住居であった「冬の宮殿」の建築家である。彼は10代のときの1716年に父とともにフランスからロシアに移り、サンクトペテルブルグで設計や管理の仕事をしてその才能で名をなした人物である。」
    (「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用)

  • ルンダーレ宮殿正面<br /><br />午後はこの向きはあいにく逆光でしたので、撮りづらかったです。<br />空が真っ白になってしまうので、両手を広げたようなコの字型に広がる建物全体を撮ることができませんでした。<br />

    ルンダーレ宮殿正面

    午後はこの向きはあいにく逆光でしたので、撮りづらかったです。
    空が真っ白になってしまうので、両手を広げたようなコの字型に広がる建物全体を撮ることができませんでした。

  • コの字の形に建つルンダーレ宮殿の、向かって左の建物<br /><br />こちらは順光で撮れました。<br />

    コの字の形に建つルンダーレ宮殿の、向かって左の建物

    こちらは順光で撮れました。

  • バロック・ミュージック・フェスティバルのポスター<br /><br />ちょうど流れていたバロック音楽は、宮殿の雰囲気にぴったりのBGMでした。<br />

    バロック・ミュージック・フェスティバルのポスター

    ちょうど流れていたバロック音楽は、宮殿の雰囲気にぴったりのBGMでした。

  • 1階のロビーから2階へと上がる

    1階のロビーから2階へと上がる

  • 階段の踊り場から2階のロビーを仰ぎ見る

    階段の踊り場から2階のロビーを仰ぎ見る

  • 歴代所有者やその家族の肖像画が並ぶ部屋<br /><br />さしずめ「青の間」と呼べるでしょうか。<br />

    歴代所有者やその家族の肖像画が並ぶ部屋

    さしずめ「青の間」と呼べるでしょうか。

  • 絵画コレクションのある緑の間

    絵画コレクションのある緑の間

  • 各部屋の角にある陶器のストーブ

    各部屋の角にある陶器のストーブ

  • ルンダーレ宮殿の有名な(!?)バラの間<br /><br />典型的なロココの部屋といえます。<br />

    ルンダーレ宮殿の有名な(!?)バラの間

    典型的なロココの部屋といえます。

  • バラの間の天井の絵画も、ワトーやブーシェやフラゴナールを連想させるロココ絵画

    バラの間の天井の絵画も、ワトーやブーシェやフラゴナールを連想させるロココ絵画

  • バラの間の壁のバラの漆喰装飾

    バラの間の壁のバラの漆喰装飾

  • こちらも美しい青の間

    こちらも美しい青の間

  • この宮殿にゆかりのあったロマノフ王家の肖像画が並ぶ部屋

    この宮殿にゆかりのあったロマノフ王家の肖像画が並ぶ部屋

  • 若き日のエカテリーナ2世<br /><br />これはさすがにガイドに言われるまで、エカテリーナ2世だとは分かりませんでした。<br />まだ皇太子妃時代の肖像画だろうと思います。<br />

    若き日のエカテリーナ2世

    これはさすがにガイドに言われるまで、エカテリーナ2世だとは分かりませんでした。
    まだ皇太子妃時代の肖像画だろうと思います。

  • 公の寝室<br /><br />君主の寝室は公の場であって、ここで家臣や忠臣たちから「おやすみ」と「おはよう」の挨拶を受けたそうです。<br />また、さまざまな命令や指示もこのベッドで行ったそうです。<br />

    公の寝室

    君主の寝室は公の場であって、ここで家臣や忠臣たちから「おやすみ」と「おはよう」の挨拶を受けたそうです。
    また、さまざまな命令や指示もこのベッドで行ったそうです。

  • 公の寝室の天井のロココ絵画

    公の寝室の天井のロココ絵画

  • 公の寝室に飾られたエカテリーナ2世<br /><br />このくらいになると、エカテリーナ2世だとすぐに分かります@<br />

    公の寝室に飾られたエカテリーナ2世

    このくらいになると、エカテリーナ2世だとすぐに分かります@

  • 公の寝室をアングルを変えて見たところ

    公の寝室をアングルを変えて見たところ

  • 公の謁見の間

    公の謁見の間

  • その天井とシャンデリア

    その天井とシャンデリア

  • 謁見の間の壁から天井にかけて

    謁見の間の壁から天井にかけて

  • 風景画コレクションのある部屋

    風景画コレクションのある部屋

  • 美しい漆喰装飾の天井

    美しい漆喰装飾の天井

  • さわやかなダイニングルーム

    さわやかなダイニングルーム

  • 細やかなロココの装飾の天井

    細やかなロココの装飾の天井

  • ダイニングのシャンデリアとロココ装飾の天井と壁

    ダイニングのシャンデリアとロココ装飾の天井と壁

  • ダイニングを飾る天井画

    ダイニングを飾る天井画

  • ダイニングに飾られたロココな絵画

    ダイニングに飾られたロココな絵画

  • 書斎

    書斎

  • 修復前の書斎の荒れ果てた様子<br /><br />「(前略)宮殿はその後も紆余曲折を経た。第一次大戦の1916年にはドイツ軍に占領されて司令部や病院として使われ、1919年にはボリシェヴィキの支配下で一部が壊され、その年の11月にはベルモンド・アヴァーロフの軍によって占拠されて倉庫みたいな状態になってしまう。1920年の農業改革でこの宮殿はシュヴァーロフ家を離れ、宮殿の中央部分は農業省に引き渡され、一部分が小学校として使用された。1923年からまた修復が始まり、1924年にラトヴィア軍の傷痍軍人の施設となった。第二次大戦ではソ連が司令部をおいたが戦闘での被害はなかった。1946年には穀物倉庫として使用され、その後、食堂は学校の体育場となった。ソ連時代は実用的な使用のみが検討されたのだ。その間に雨漏りで天井の絵画や飾りつけなどがかなり損傷する。1964年頃から博物館にしようとの動きがでて、1972年に本格的な修復が始まり、周囲に公園が整備されて1981年に東側の部屋が一般に公開されるようなにった。<br /> 修復は現在も途上にある。宮殿の一部分は崩れた壁が露出して、家具もなく単なる倉庫みたいになっている。将来は138室の全部が公開されるという。(後略)」<br />(「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用)<br />

    修復前の書斎の荒れ果てた様子

    「(前略)宮殿はその後も紆余曲折を経た。第一次大戦の1916年にはドイツ軍に占領されて司令部や病院として使われ、1919年にはボリシェヴィキの支配下で一部が壊され、その年の11月にはベルモンド・アヴァーロフの軍によって占拠されて倉庫みたいな状態になってしまう。1920年の農業改革でこの宮殿はシュヴァーロフ家を離れ、宮殿の中央部分は農業省に引き渡され、一部分が小学校として使用された。1923年からまた修復が始まり、1924年にラトヴィア軍の傷痍軍人の施設となった。第二次大戦ではソ連が司令部をおいたが戦闘での被害はなかった。1946年には穀物倉庫として使用され、その後、食堂は学校の体育場となった。ソ連時代は実用的な使用のみが検討されたのだ。その間に雨漏りで天井の絵画や飾りつけなどがかなり損傷する。1964年頃から博物館にしようとの動きがでて、1972年に本格的な修復が始まり、周囲に公園が整備されて1981年に東側の部屋が一般に公開されるようなにった。
     修復は現在も途上にある。宮殿の一部分は崩れた壁が露出して、家具もなく単なる倉庫みたいになっている。将来は138室の全部が公開されるという。(後略)」
    (「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用)

  • ヒーター用の薪をくべる暖炉のある角部屋

    ヒーター用の薪をくべる暖炉のある角部屋

  • 書斎の奥の化粧室<br /><br />ここにも立派なストーブがあります。<br />

    書斎の奥の化粧室

    ここにも立派なストーブがあります。

  • ストーブの前にあるのは、ト・イ・レ@

    ストーブの前にあるのは、ト・イ・レ@

  • 美しい陶器の洗面台<br /><br />上のタンクに水をためておけるようになっています。<br />

    美しい陶器の洗面台

    上のタンクに水をためておけるようになっています。

  • 化粧室も美しいロココ様式の天井

    化粧室も美しいロココ様式の天井

  • 化粧室の鏡に映ったストーブ

    化粧室の鏡に映ったストーブ

  • 夫人のくつろぎの間

    夫人のくつろぎの間

  • 鏡の漆喰が美しい@

    鏡の漆喰が美しい@

  • ロココらしい甘い雰囲気の天井

    ロココらしい甘い雰囲気の天井

  • 夫人の化粧室<br /><br />天井には鏡がハメこまれています。<br />

    夫人の化粧室

    天井には鏡がハメこまれています。

  • 壁の刺繍の絵

    壁の刺繍の絵

  • 中庭からみたルンダーレ宮殿<br /><br />きれいに刈り込まれた生垣と赤い石が敷き詰められた地面による緑と赤のコントラストが美しいです。<br />

    中庭からみたルンダーレ宮殿

    きれいに刈り込まれた生垣と赤い石が敷き詰められた地面による緑と赤のコントラストが美しいです。

  • バラ園より奥は整然としたフランス式庭園

    バラ園より奥は整然としたフランス式庭園

  • バラ園の縁からフランス式庭園を見回す<br /><br />バラ園で撮った写真はこちらのハイライト旅行記にまとめました。<br />「2010年バルト3国旅行ハイライトその11:植物編<ルンダーレ宮殿のバラ>」<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10487696/<br />

    バラ園の縁からフランス式庭園を見回す

    バラ園で撮った写真はこちらのハイライト旅行記にまとめました。
    「2010年バルト3国旅行ハイライトその11:植物編<ルンダーレ宮殿のバラ>」
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10487696/

  • 中庭にある野外劇場

    中庭にある野外劇場

  • 緑のアーチ<br /><br />夏のいまは緑ですが、花の季節には何が咲くのでしょうか。<br />

    緑のアーチ

    夏のいまは緑ですが、花の季節には何が咲くのでしょうか。

  • 新婚さんの車<br /><br />宮殿の中の部屋を使って挙式したカップルがいるんだと思います。<br />

    新婚さんの車

    宮殿の中の部屋を使って挙式したカップルがいるんだと思います。

  • 庭に子供の絵が干してあった!?<br /><br />奥は隣接の果樹園です。<br />

    庭に子供の絵が干してあった!?

    奥は隣接の果樹園です。

  • まぶしい光の下にたたずむルンダーレ宮殿<br /><br />ヴェルサイユ宮殿よりははるかに小さいけれど、やはりラトヴィアのヴェルサイユと呼びたくなるようなルンダーレ宮殿でした。<br /><br />「リーガにはドイツ文化が色濃く残る。だが、ルンダーレにあるのはすべてがロシア文化といっても過言ではない。ロシアがリヴォニアとエストニアを実質的に支配下においたのが1710年で、残りのバルトの地域を正式に併合してロシアの一地方としたのが1795年である。それ以降の1920年までがロシアの一部であったという歴史を無視することはできない。」<br />(「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用)<br />

    まぶしい光の下にたたずむルンダーレ宮殿

    ヴェルサイユ宮殿よりははるかに小さいけれど、やはりラトヴィアのヴェルサイユと呼びたくなるようなルンダーレ宮殿でした。

    「リーガにはドイツ文化が色濃く残る。だが、ルンダーレにあるのはすべてがロシア文化といっても過言ではない。ロシアがリヴォニアとエストニアを実質的に支配下においたのが1710年で、残りのバルトの地域を正式に併合してロシアの一地方としたのが1795年である。それ以降の1920年までがロシアの一部であったという歴史を無視することはできない。」
    (「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用)

  • バウスカの町のロシア教会<br /><br />帰りは、リガからルンダーレ宮殿に行く拠点となるバウスカに寄りました。<br />というか、ツアー名は一応、「ルンダーレ宮殿とバウスカ」なので。<br /><br />「ゼムガレ地方の中心の町バウスカは、ムーサ川(Musa)とメーメレ川(Memele)が出会いリエルベ川(Lielupe)となって発する合流点にある。15世紀半ばにリヴォニア騎士団(=帯剣騎士団、ドイツ騎士団、チュートン騎士団)は、この3つの川を望む丘に強大な城を建設した。その後はリトアニアとの貿易の中継地として、町は発達した。」<br />(「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より)<br />

    バウスカの町のロシア教会

    帰りは、リガからルンダーレ宮殿に行く拠点となるバウスカに寄りました。
    というか、ツアー名は一応、「ルンダーレ宮殿とバウスカ」なので。

    「ゼムガレ地方の中心の町バウスカは、ムーサ川(Musa)とメーメレ川(Memele)が出会いリエルベ川(Lielupe)となって発する合流点にある。15世紀半ばにリヴォニア騎士団(=帯剣騎士団、ドイツ騎士団、チュートン騎士団)は、この3つの川を望む丘に強大な城を建設した。その後はリトアニアとの貿易の中継地として、町は発達した。」
    (「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より)

  • 木立の間にバウスカ城の宮殿部分<br /><br />「旧市街の一番の見どころは、16世紀後半に建てられた聖霊教会(Sv. Gara Baznica)。教会内には貴重な木彫りのベンチや墓石などが見られる。さらに西の方向に下るとうっそうと木が茂る半島の陸があり、その上にバウスカ城址がある。<br /> バウスカ城(Bauskas Pils)は15世紀の城址部分と、16世紀後半にクールランド公が建てた宮殿部分からなる。大北方戦争時の1706年にロシア軍に破壊され、現在も両方とも廃墟だが、古い城址部分には鉄筋の階段が設置され塔の上から周囲のすばらしい景色を眺めることができる。宮殿部分は将来の博物館設置に向けて修復作業中。」<br />(「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より)<br />

    木立の間にバウスカ城の宮殿部分

    「旧市街の一番の見どころは、16世紀後半に建てられた聖霊教会(Sv. Gara Baznica)。教会内には貴重な木彫りのベンチや墓石などが見られる。さらに西の方向に下るとうっそうと木が茂る半島の陸があり、その上にバウスカ城址がある。
     バウスカ城(Bauskas Pils)は15世紀の城址部分と、16世紀後半にクールランド公が建てた宮殿部分からなる。大北方戦争時の1706年にロシア軍に破壊され、現在も両方とも廃墟だが、古い城址部分には鉄筋の階段が設置され塔の上から周囲のすばらしい景色を眺めることができる。宮殿部分は将来の博物館設置に向けて修復作業中。」
    (「‘09〜’10年版 地球の歩き方 バルトの国々 エストニア・ラトヴィア・リトアニア」より)

  • バウスカ城の古い中世の城塞部分と新しい近代の宮殿部分<br /><br />「かつてここにはゼムガリ人の砦があった。リヴォニア騎士団は1439年から1456年にかけてそこに築城した。リトアニア人との戦いが終わった後のことだから、国境の警備というよりもリトアニアとの交易路の警備を主要目的としての築城だったのだろう。この城はかつては大砲の銃眼がある五つの塔が厚い城壁につながっていた。その頃は飾り気のない簡素な居住区と小さなチャペルがあるだけの小規模な城だったそうだ。<br /> 城は1557年にリヴォニア騎士団がポーランドと軍事同盟を結んだとき、ポーランドが約束に従って兵を置いたが、1559年の実質的なリヴォニア騎士団の解体でポーランドの所有となった。しかし、リヴォニア騎士団の最後の団長ゴットハルト・ケトラーは1561年に城をポーランドから返してもらい、1562年には自らが公となったクールラント公国の居城としている。(中略)クールラント公は1580年代に北ヨーロッパ風に城を大改造して周囲に新しく城壁を巡らした。クールラント公は1587年から1596年にかけてここに住み、公国の議会をここで数回、開催している。」<br />(「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用)<br />

    バウスカ城の古い中世の城塞部分と新しい近代の宮殿部分

    「かつてここにはゼムガリ人の砦があった。リヴォニア騎士団は1439年から1456年にかけてそこに築城した。リトアニア人との戦いが終わった後のことだから、国境の警備というよりもリトアニアとの交易路の警備を主要目的としての築城だったのだろう。この城はかつては大砲の銃眼がある五つの塔が厚い城壁につながっていた。その頃は飾り気のない簡素な居住区と小さなチャペルがあるだけの小規模な城だったそうだ。
     城は1557年にリヴォニア騎士団がポーランドと軍事同盟を結んだとき、ポーランドが約束に従って兵を置いたが、1559年の実質的なリヴォニア騎士団の解体でポーランドの所有となった。しかし、リヴォニア騎士団の最後の団長ゴットハルト・ケトラーは1561年に城をポーランドから返してもらい、1562年には自らが公となったクールラント公国の居城としている。(中略)クールラント公は1580年代に北ヨーロッパ風に城を大改造して周囲に新しく城壁を巡らした。クールラント公は1587年から1596年にかけてここに住み、公国の議会をここで数回、開催している。」
    (「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用)

  • まさしく要塞のような城の古い部分を外から眺める

    まさしく要塞のような城の古い部分を外から眺める

  • かつてはレンガ張りだったと思われる城<br /><br />「(つづき)だが、北方戦争が勃発するとポーランドの属国であるクールラント公国のこの城は、1701年の春に戦わずしてスウェーデンの手に渡った。カール12世はごく短期間ここに滞在し、城壁を広げるなどスウェーデン式の要塞に改造したが、ロシアが1704年にバウスカを占領したので、スウェーデン人は城をロシアに引き渡した。しかし、ロシア軍は城の一部を破壊して一年後に退去した。スウェーデンは残された部分を病院や倉庫として使い、地下室を監獄として一時期使用する。そして城はこれ以降、修復されることなく放置されるのである。<br /> 時は流れて1930年代にラトヴィア政府は城の修復を開始した。最近の修復は1972年のソ連時代になされている。そして1990年からは博物館となった。<br /> 城は1706年3月にかなりの部分が取り壊されたが、近くに住む人たちはその壊れた城壁の瓦礫で自分の家を建てたという。だから、現在の町の家々には細工が施された鋳物が使われていたりするらしい。」<br />(「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用)<br />

    かつてはレンガ張りだったと思われる城

    「(つづき)だが、北方戦争が勃発するとポーランドの属国であるクールラント公国のこの城は、1701年の春に戦わずしてスウェーデンの手に渡った。カール12世はごく短期間ここに滞在し、城壁を広げるなどスウェーデン式の要塞に改造したが、ロシアが1704年にバウスカを占領したので、スウェーデン人は城をロシアに引き渡した。しかし、ロシア軍は城の一部を破壊して一年後に退去した。スウェーデンは残された部分を病院や倉庫として使い、地下室を監獄として一時期使用する。そして城はこれ以降、修復されることなく放置されるのである。
     時は流れて1930年代にラトヴィア政府は城の修復を開始した。最近の修復は1972年のソ連時代になされている。そして1990年からは博物館となった。
     城は1706年3月にかなりの部分が取り壊されたが、近くに住む人たちはその壊れた城壁の瓦礫で自分の家を建てたという。だから、現在の町の家々には細工が施された鋳物が使われていたりするらしい。」
    (「バルト三国歴史紀行 ラトヴィア」(原翔・著/彩流社/2007年発行)より引用)

  • 近代の「ぼっとん」トイレ@

    近代の「ぼっとん」トイレ@

  • 城の背後にあった大砲

    城の背後にあった大砲

  • おまけで寄ってくれた、メゾットネ(Mezotnes)城<br /><br />ロシアのエカテリーナ2世が孫の教育係の女性に与えた城です。<br />現在は改修されて、高級ホテルとなっています。<br />

    おまけで寄ってくれた、メゾットネ(Mezotnes)城

    ロシアのエカテリーナ2世が孫の教育係の女性に与えた城です。
    現在は改修されて、高級ホテルとなっています。

  • イギリス式庭園のある中庭側から見たところ<br /><br />リガ初日の午後のツアーの写真はおわり。<br />リが2日目編へとつづく。<br />

    イギリス式庭園のある中庭側から見たところ

    リガ初日の午後のツアーの写真はおわり。
    リが2日目編へとつづく。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • worldspanさん 2011/07/07 23:31:45
    久しぶりに拝見させていただきました
    まみさま

    こんばんわ。久しぶりにブログ拝見させていただきました。
    今年の秋は10年ぶり4回目のラトビア訪問をしようと思っています。昨年我が家でラトビア人のホームステイを受け入れ、彼女のところに家族で遊びに行くことになったのですが、その時にルンダーレ城も行こうと思っています。
    大分きれいに修繕されていますね!ルンダーレは今まで一度も行ったことがないので、まみさんのブログを見て大変楽しみになりました!

    worldspan

    まみ

    まみさん からの返信 2011/07/17 22:21:46
    RE: 久しぶりに拝見させていただきました
    worldspan さん、こんにちは。久しぶりのご訪問ありがとうございます。
    二週間のコーカサス旅行中で本日帰国したので、お返事が遅くなりました。

    秋のラトビアですか。まだ寒くないと思うのですが、きっと黄葉がすばらしく、ロマンチックな季節ではないでしょうか。楽しみですね。
    私はルンダーレ城は現地代理店のツアーという形で車を手配してしまったので行き方の参考にはならないのですが、城内の写真を楽しんでいただけて嬉しいです。
    修復はどんどん進めているようですよ。
    もしかしたら私のときは白の間は見なかったかもしれないのですが、ぜひworldspanさんもルンダーレを楽しまれるとよいと思います。
    よかったらぜひ写真を拝見させてくださいね。

    まみ

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