2008/07/20 - 2008/07/21
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tijanさん
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古い建物に興味を持ち始めた頃“被爆建築”というものがあるのを知りました。
8月6日を記憶する建物であると同時に戦前の廣島の面影を残す建物。
原爆が落とされる前の廣島はどんな様子だったのか?
被爆建築を通して“ヒロシマ”を見つめてみました。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 高速・路線バス
-
基町の高層アパート群が目に入ってくると広島に来たことを実感します。
バスは旧市民球場横を駆け上がりバスセンターへと滑り込む。 -
原爆ドームに向かう途中にある島外科病院。
この上空580mで原子爆弾は炸裂しました。 -
広島県産業奨励館。1915年(大正4年)建設。レンガ造3階。
水辺にたたずむ優雅な建築です。
そばの雁木は昔のままのようです。
爆心地から160m。中にいた人は全員即死されました。 -
デルタにつくられた水の都。
広島は川との距離がとても近い。
小さな雁木がいくつも造られています。 -
元安橋とレストハウス。
よく見ると欄干に「元」の字がデザインされています。
欄干や親柱など当時とそっくりに復元されています。
平和公園がある一帯は家や店が多く立ち並ぶ市内有数の繁華街でした。
そしてその町は一瞬にして消えてしまう。
広島平和資料館WEB SITE
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/visit/est/nakajimacho/motoyasu.html -
レストハウスは被爆建築です。
元大正屋呉服店。1929年(昭和4年)築。
呉服店だけど鉄筋コンクリート造り3階の洋風でハイカラな建物だ。
爆心地から170mにありながら全焼したものの強固な造りのため外観はとどめました。中にいた人は偶然地下にいて助かった方を除き全員亡くなられました。 -
慰霊碑には手を合わせる人が絶えません。
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この日は朝からすでに暑くて汗が流れ落ちます。
平和記念資料館のピロティは涼しい日陰をつくってくれます。
平和記念公園の設計は丹下健三の研究グループがあたりました。
住宅不足でバラックが建ち並ぶ中、1951年(昭和26年)2月原爆資料陳列館として建設が始まりました。 -
本川にかかる西平和大橋。
東の平和大橋と対になる橋です。
何げなく渡る橋はイサム・ノグチ設計。 -
橋を渡って対岸へ。
イサム・ノグチはこの橋について「犠牲者が黄泉の国へ船出する死の象徴としての船の竜骨」と語っています。 -
被爆建築ではないですが中国新聞社屋。
強い陽射しの中、真っ白い色が目にしみます。
胡町にあった当時の社屋は外部を残して全焼。
設備・機材を全て失ったため大阪、福岡、島根などの他の新聞社に印刷を依頼して、原爆投下3日後の8月9日から約26万部を発行。救護所にも張り出され情報を届けました。
新聞関係者は126名の方が亡くなったそうです。 -
こちらの岸にも水中へと続く雁木がたくさん設けられています。
昔は荷物を積んだ川船が行き交いました。 -
しばらく歩いて本川小学校へ。
ここは被爆した校舎の一部が資料館として保存されています。
1928年(昭和3年)建設、広島市内の公立小学校では初の鉄筋コンクリート造り3階の校舎です。
自分の姿がまるまる写り込む大きなアーチの窓が特徴のモダンな校舎だったと思われます。
爆心地から410m。外部を残して全焼。約400名の児童と10余名の教職員の方が被爆死されています。
「はだしのゲン」に登場する学校です。 -
教師と子供の像。
「太き骨は先生ならむ
そのそばに
小さきあたまの骨
あつまれり」
自らも被爆した歌人正田篠枝さんの短歌が添えられていました。 -
来た道を引き返し平和大通り(100m道路)を東へ。
平和公園には資料館、慰霊碑、原爆ドーム、さらにその先の基町高層アパートへとつながる軸線がつくられています。 -
元安川にかかる平和大橋。
西平和大橋とは対照的にミロの絵を思い出すような愉快な形だ。 -
「生を象徴する太陽の形」(イサム・ノグチ)
-
袋町電停そばにある旧日本銀行広島支店。
初めて目にする建物に思わず声がもれる。
当たり前だけど古い。
この空間だけ空気が違うというか色が違う。くすんだように見えた。
1936年(昭和11年)建築。鉄筋コンクリート造り3階、地下1階。
爆心地から380m。堅牢な構造のため建物の崩壊は免れましたが内部は全焼。
多くの職員の方が建物内、あるいは出勤途上で被爆され亡くなりました。
被爆の翌々日8日から支払い業務が再開されました。 -
戦前の銀行内の様子です。美しい装飾で飾られています。
「柱頭飾りや欄干、シャンデリアなど細部にわたって瀟洒な装飾がなされた美しい建物でした。」(説明板より) -
地下金庫など建物内を見学できます。
-
袋町小学校へ。平和資料館として一部保存されています。
1937年(昭和12年)建設。
爆心地から460m、鉄筋コンクリート造りだったこの西校舎の外部のみ残して消失。疎開に行かず残っていた児童のほとんどが即死しました。
鉄筋コンクリート造りのため焼け野原に焼け残った建物の多くは被災者の救護所となり多くの負傷者が収容されました。
袋町小学校では家族の消息を知らせる伝言が書かれた壁面が後に発見されます。
ここは内部は撮影禁止で残念。
驚いたのは現在の学校の様子で、複合施設になってるようです。
資料館の上にかかる渡り廊下といい一見小学校とはわからない。
当時もRC造の先端を行く小学校だったんだろうけど、現在も近代的な小学校になっているようです。 -
旧帝国銀行広島支店。
1925年(大正14年)に三井銀行広島支店として建てられました。
現アンデルセン。改築・改修されて古さは感じません。
廣島には他に芸備銀行(現広島銀行)・住友銀行などがあり商都としての姿がうかがえます。 -
路面電車で江波へ。
しばらく歩くと丘の上に江波山気象館が見えて来ました。 -
1893年(明治26年)から天気予報を発表していた測候所。
1934年(昭和9年)に新築されました。
銀行の様式とは違うなんとなく暖かみのある建物です。
爆心地から3.63km、爆風で職員25名全員が負傷しました。 -
内部もかわいらしい感じです。
子供の体験学習の場として整えられています。
この日もたくさんの子供達が来ていてその人気ぶりに驚きました。 -
展示資料です。原子爆弾が炸裂したその瞬間1、2秒の間に全ては終わってしまうことを物語っています。
爆発の瞬間30万℃の火球から猛烈な熱線と爆風、そして放射線が放射されます。その間わずか0.2〜3秒。爆心地の地表面の温度は3000℃〜4000℃に達したとされます。キノコ雲の下全てのものが焼き尽くされています。
30分前後には放射能を含んだ黒い雨が降り注ぎます。
にわかには信じられない想像を超える破壊力です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/原爆投下・10秒の衝撃 -
江波を後にし再び広電に乗り廿日市駅で下車します。
広電唯一の木造駅舎です。
これも戦前のもの?? -
奥にはなんともレトロな建物が。
今は使われてないようでした。 -
駅のそばにある広電廿日市変電所です。(残念ながらこのひと月程前に86年の歴史に幕と閉じました。)
イギリス積みのレンガ造りでずっしりと重みのある建物です。
爆心地からは15km。被爆3日後の8月9日に己斐から西天満町間で運転を再開した「一番電車」に電気を送りました。 -
一日はりきって動き回ったのでもうヘロヘロです。
この日の夕食は宮島名物うえのの穴子飯弁当。
さめてもおいしい(さめた方がおいしい)のでホテルに持ち帰っておいしく頂きました。 -
一夜明けてさっそく街に出る。
広島駅南口には復興期からの町並みが残っています。
再開発地域に指定されているので近いうち町の様子も変わるかもしれませんね。 -
谷口株式会社(元住友銀行東松原支店)。
レンガ造り2階建。(RC補強)
チョコレート色のちょっとメルヘンチックな建物だ。
(この写真と下の写真は2009.6月撮影) -
側面の鉄扉は爆風で著しく湾曲したそうです。
-
爆心地から1.89km。
住友銀行全体で29人の方が亡りました。 -
猿猴橋を渡ります。知らなければ普通に渡ってしまう橋だ。
1926年(大正15年)に架けられた当時は豪華な橋でした。
被害は軽微で多くの人の避難路となりました。 -
「落成当時は、広島一と言われるほど美しい橋でした。親柱の上には地球儀のような球の上に鷲が羽を広げた像がすえられ、束柱には豪華な電飾灯、欄干には2匹の猿猴が両側から桃を抱えている鋳物の透かし彫りが施されていました。」(説明板より)
-
路面電車に乗り宇品方面へ。
途中の電停近くで窓からこの建物に気づいて電停を飛び降りる。
旧制広島高等学校講堂。
1927年(昭和12年)完成。学校の講堂というだけでなく地域の文化施設としても利用されたそうです。
爆心地から2.7km、勤労動員から帰省していた生徒の多くが被爆。その年の末までに27人の生徒、教職員が亡くなったそうです。 -
再び電車に乗って宇品へ。
旧宇品(水上)警察署。
1909年(明治42年)に建てられたこの建物は市内に現存する数少ない明治期の木造洋風建築です。 -
気の毒なくらいボロボロです。
日清、日露戦争を通じて宇品港が急速に発展していく中で警察業務も拡大していきました。 -
鶴見橋のシダレヤナギ。これは被爆樹です。
支え棒が痛々しいですが青々と葉を繁らせていました。 -
比治山のふもとにある頼山陽文徳殿。
1934年(昭和9年)頼山陽没後100年を記念して建てられました。
管理されているようだが木々が生い茂りその影に隠れるようにひっそりとあります。(2008.5月撮影) -
屋根の上には爆風で変形した九輪が残されています。
-
地図を頼りに歩いていると街の中に突然巨大な屋根が見えてきました。
想像してなかった大きさにびっくり! -
旧陸軍被服支廠倉庫。1913年(大正12年)築。鉄筋コンクリート造り、レンガ貼り。
大きい通りからは屋根しか見えず目につきにくかったけど、一本通りを入ると通りの向こうまで巨大な建物がずーっと先まで横たわっていて、その存在感に圧倒されます。
「被服支廠は軍服・軍靴・軍帽など兵隊が身に付ける小物や附属品等を生産・管理・保管・供給する施設」だそうです。(平和資料館WEB SITEより)
当時の廣島は日清、日露戦争をきっかけに軍都としての性格を強めていき、多くの軍用施設が増設されていきました。
被服支廠倉庫は軍都としての廣島の面影を残す建物ですね。 -
窓は爆風でゆがんでいます。
何十年も飛び越えてあの時の姿のまま目の前にあるという不思議な感覚。
被爆直後から臨時救護所となり多くの被爆者がなだれ込みました。 -
ここはぜひ一度足を運ばれるといいと思います。
川辺に美しく建つ産業奨励館(原爆ドーム)が水の都の象徴ならそれと対をなす建物だと思います -
広島陸軍兵器補給廠(復元)。
もとは11棟あったレンガ造り2階建ての軍用倉庫でした。
現在は広島大学医学部医学資料館となっています。
爆心地から2.75km。ここも臨時救護所として被災者の救護が行われました。
ここは広大病院の敷地内にあってバスのロータリーがあったのでここからバスに乗ります。(足が痛い〜) -
世界平和記念聖堂。被爆建築ではないです。
1954年(昭和29年)、被爆したドイツ人主任司祭フーゴー・ラサールが原爆犠牲者の慰霊と世界平和を祈念して多大なる寄附により建設されました。
設計は村野藤吾、彫刻は円鍔勝三。 -
独特な質感の壁面となんとなくロマンチックな彫刻(不謹慎かな)
-
教会の内部です。
意外にモダン?なキリスト像でした。
(撮影は通りかかった職員の方に許可をいただきました。) -
広島電鉄本社そばにある千田車庫に来ました。
色々な路面電車が止まっていて見てて楽しい所です。
車庫の奥に見えるのは変電所(左)と事務所(右)です。 -
この2棟は被爆建築です。建てられた時は発電棟(左)とボイラー棟(右)でした。被爆当時は変電所となっていました。
爆心地から1.92km。広電では従業員211人が死亡し、車両も108台が被害をうけました。 -
「木造の本社屋は半壊し、修理工場や車庫では多くの職員が倒壊した建物の下敷きになって押しつぶされました。ラッシュアワーで混雑する乗客を乗せて走っていた電車やバスの中でも、多数の犠牲者が出ました。交通機関も壊滅的な状態でしたが、関係者の懸命な努力により、その3日後には早くも西天満町〜己斐間の電車の運行が再開されました。動き始めた電車の姿は、うちひしがれた市民の気持ちを大いに力づけました。」(説明板より)
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そろそろ足が限界。最後のひとふんばり!
すごい広い公園をおそるおそる進むと奥に建物が見えてきました。 -
広島大学旧理学部1号館です。鉄筋コンクリート造り3階。
廣島は多くの学校がある学都でもありました。
爆心地から1.4km。外郭を残して全焼。当時学生と教員の大半は動員されていましたが、学生、教職員、マレーシアなど東南アジアからの南方特別留学生ら134人が被爆したそうです。 -
裏にまわるとかなり傷みが激しいです。
ヨの字型に並んだ校舎です。 -
被爆以前の廣島について具体的なイメージがありませんでしたが、今回被爆建築を回って廣島が軍都、商都、学都として発展していたこと、そして今と同じようなにぎやかな町並み、人々の生活があったことをわずかばかりでも知ることができました。
一つの都市が消滅し、多くの人が無惨に亡くなっていったことを思うと核の非人道性と破壊力の恐ろしさに核兵器は絶対使ってはならない、使ったら使われた方も使った方も終わりだと改めて思ったのでした。
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この旅行記へのコメント (2)
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- 横浜臨海公園さん 2010/09/28 22:57:09
- はじめまして
- tijanさま、はじめてメッセージを差し上げます。
広島市内の被爆建築物の旅行記を拝見させて頂きました。
小生が初めて広島の地を訪れたのは昭和58年(1983年)で、当時は、広島市役所をはじめ広島銀行銀山町支店など広電市内線に乗っていれば被爆建築物が嫌でも目に付く存在でしたが、焼損建築物は耐久性に問題があり、先般も、山口銀行本通支店が解体されてしまったのはご存知の事と思います。
また、目に付きませんが、山陽本線西広島駅跨線橋も被爆施設ですが、地元の方でも意外と知られていない存在です。
勿論1票を投じさせて頂きました。
今後とも何卒宜敷くお願いします。
横浜臨海公園
- tijanさん からの返信 2010/09/30 00:17:25
- 横浜臨海公園さん、はじめまして
- 横浜臨海公園様、はじめまして。
旅行記を読んで頂き、メッセージと投票ありがとうございました。
おっしゃる通り貴重な建物が失われる前にもっと早く関心をもっていれば良かったと悔やまれます。
建築基準や予算面からも全ての建物を残すのは難しいのでしょうけれど。
西広島駅跨線橋は知りませんでした。調べて一度行ってみたいと思います。
被爆者の方が高齢化していく中、広島の役割も鎮魂と慰霊の場から平和のメッセージ発信の地へと変わっていくように思えます。
2020年夏季五輪、ヒロシマで実現できるでしょうか?
以前に横浜臨海公園さんの被爆電車と広電社屋の記事を衝撃をもって読ませて頂きました。具体的な被爆の状況がわかり勉強になりました。
またゆっくりと他の旅行記も読ませて頂きます。
こちらこそどうぞ宜しくお願いいたします。 tijan
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