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吉野山は日本史上でもたびたび有名な舞台になっている。1185年には源頼朝の追討を受けた義経・弁慶らは吉野山で静御前と別れて東国へ脱出し、1336年には後醍醐天皇は神器を持って京都を逃れ吉野山に南朝を置いたことは良く知られている。<br />だが飛鳥時代の672年には既に大海人皇子(おおあまのみこ631−686年後の天武天皇・てんむてんのう)が大津の都を離れて吉野山に出家して隠棲していた。兄の天智天皇(てんちてんのう626−672年)の死後美濃へ脱出し、天智天皇の子の大友皇子( おおとものみこ648−672年)を倒して政権を奪う壬申の乱を起こしているが飛鳥時代には既に吉野は高貴な人が身を隠す場所だった。<br />「花矢倉」は源義経を落ち延びさせる為に、佐藤忠信が源義経の身代りとなって僧兵らを切り防いだ古戦場。佐藤 忠信(さとう ただのぶ1161−1186年)は、源義経の家臣で『源平盛衰記』では義経四天王の1人。屋島の戦いで討死した佐藤継信(さとう つぐのぶ1158−1185年)の弟で父は奥州藤原氏に仕えた佐藤基治(さとう もとはる1113−1189年)。<br />1180年、奥州にいた義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原 秀衡(ふじわら の ひでひら1122−1187年)の命により兄・継信と共に義経に随行した。<br />1185年、壇ノ浦の合戦後、義経が許可を得ずに官職を得て頼朝の怒りを買った際、忠信も兵衛尉に任官したことを頼朝から叱責されている。<br /> 義経と頼朝との対立が深まり、京都の義経の屋敷に頼朝の刺客・土佐坊昌俊(とさのぼう しょうしゅん、生年未詳−1185年)が向けられ義経は都を脱出し尼崎から九州へ向かう船が難破、命からがら吉野、京都、奥州と逃避行を続けた。<br />吉野花矢倉は義経記の演目として歌舞伎、人形浄瑠璃の「義経千本桜」の「狐忠信」「源九郎狐」などで演じられている。忠信兄弟の妻たちは、息子2人を失い嘆き悲しむ老母(乙和御前)を慰めようとそれぞれの夫の甲冑を身にまとい、その雄姿を装って見せたという逸話があり、婦女子教育の教材として昭和初期までの国定教科書に掲載されている。(関連旅行記―日本の旅 奥の細道を辿る【1】 芭蕉が訪ねた飯坂温泉と磐梯高原、猪苗代湖http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10034370/)<br /><br />花矢倉を下ったところの勝手神社は 吉野八社明神のひとつ。<br /> 672年、大友皇子に対抗して吉野に兵を挙げた大海人皇子(天武天皇)が神前で琴をかなでていると、天女が舞いながら現れ、吉兆を示したとの故事が五節の舞の起りだといわれ、芸ごとの神様とされ猿楽や能が盛んに奉納された。1185年、源義経と雪の吉野山で別れた静御前は、追手に捕えられ勝手神社社殿前で法楽の舞をまったといわれている。<br />残念ながら2001年に不審火により焼失し、御神体は吉水神社に仮遷座している。<br />桜本坊(さくらもとぼう)は大峯山の護持院で山伏文化の殿堂と呼ばれる役行者霊蹟札所。<br />兄・天智天皇から逃れた大海人皇子(後の天武天皇)は、「桜本坊」の前身である日雄(ひのお)離宮に身を隠していた。桜が咲き誇っている夢を見た皇子が役行者の高弟・日雄角乗(ひのおのかくじょう)に訊ねると「桜の花は花の王と云われ,近々皇位に着くよい知らせ」との予言を受けた。予言のとおり壬申の乱に勝利し皇位に着いた天武天皇は、夢で見た桜の木の場所(日雄離宮)に寺を建立したとされている。<br />1594年の豊臣秀吉の花見の際には、関白・秀次の宿舎となっており「桜本坊」も歴史を刻んできた文化遺産だ。<br /><br />4月8日は花矢倉周辺から見る上千本桜が美しかった。<br />(写真は花矢倉周辺から見る光景)<br />

日本の旅 関西を歩く 奈良県吉野山の上千本、花矢倉周辺

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2010/04/08 - 2010/04/08

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さすらいおじさん

さすらいおじさんさん

吉野山は日本史上でもたびたび有名な舞台になっている。1185年には源頼朝の追討を受けた義経・弁慶らは吉野山で静御前と別れて東国へ脱出し、1336年には後醍醐天皇は神器を持って京都を逃れ吉野山に南朝を置いたことは良く知られている。
だが飛鳥時代の672年には既に大海人皇子(おおあまのみこ631−686年後の天武天皇・てんむてんのう)が大津の都を離れて吉野山に出家して隠棲していた。兄の天智天皇(てんちてんのう626−672年)の死後美濃へ脱出し、天智天皇の子の大友皇子( おおとものみこ648−672年)を倒して政権を奪う壬申の乱を起こしているが飛鳥時代には既に吉野は高貴な人が身を隠す場所だった。
「花矢倉」は源義経を落ち延びさせる為に、佐藤忠信が源義経の身代りとなって僧兵らを切り防いだ古戦場。佐藤 忠信(さとう ただのぶ1161−1186年)は、源義経の家臣で『源平盛衰記』では義経四天王の1人。屋島の戦いで討死した佐藤継信(さとう つぐのぶ1158−1185年)の弟で父は奥州藤原氏に仕えた佐藤基治(さとう もとはる1113−1189年)。
1180年、奥州にいた義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原 秀衡(ふじわら の ひでひら1122−1187年)の命により兄・継信と共に義経に随行した。
1185年、壇ノ浦の合戦後、義経が許可を得ずに官職を得て頼朝の怒りを買った際、忠信も兵衛尉に任官したことを頼朝から叱責されている。
義経と頼朝との対立が深まり、京都の義経の屋敷に頼朝の刺客・土佐坊昌俊(とさのぼう しょうしゅん、生年未詳−1185年)が向けられ義経は都を脱出し尼崎から九州へ向かう船が難破、命からがら吉野、京都、奥州と逃避行を続けた。
吉野花矢倉は義経記の演目として歌舞伎、人形浄瑠璃の「義経千本桜」の「狐忠信」「源九郎狐」などで演じられている。忠信兄弟の妻たちは、息子2人を失い嘆き悲しむ老母(乙和御前)を慰めようとそれぞれの夫の甲冑を身にまとい、その雄姿を装って見せたという逸話があり、婦女子教育の教材として昭和初期までの国定教科書に掲載されている。(関連旅行記―日本の旅 奥の細道を辿る【1】 芭蕉が訪ねた飯坂温泉と磐梯高原、猪苗代湖http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10034370/

花矢倉を下ったところの勝手神社は 吉野八社明神のひとつ。
 672年、大友皇子に対抗して吉野に兵を挙げた大海人皇子(天武天皇)が神前で琴をかなでていると、天女が舞いながら現れ、吉兆を示したとの故事が五節の舞の起りだといわれ、芸ごとの神様とされ猿楽や能が盛んに奉納された。1185年、源義経と雪の吉野山で別れた静御前は、追手に捕えられ勝手神社社殿前で法楽の舞をまったといわれている。
残念ながら2001年に不審火により焼失し、御神体は吉水神社に仮遷座している。
桜本坊(さくらもとぼう)は大峯山の護持院で山伏文化の殿堂と呼ばれる役行者霊蹟札所。
兄・天智天皇から逃れた大海人皇子(後の天武天皇)は、「桜本坊」の前身である日雄(ひのお)離宮に身を隠していた。桜が咲き誇っている夢を見た皇子が役行者の高弟・日雄角乗(ひのおのかくじょう)に訊ねると「桜の花は花の王と云われ,近々皇位に着くよい知らせ」との予言を受けた。予言のとおり壬申の乱に勝利し皇位に着いた天武天皇は、夢で見た桜の木の場所(日雄離宮)に寺を建立したとされている。
1594年の豊臣秀吉の花見の際には、関白・秀次の宿舎となっており「桜本坊」も歴史を刻んできた文化遺産だ。

4月8日は花矢倉周辺から見る上千本桜が美しかった。
(写真は花矢倉周辺から見る光景)

  •  花矢倉から見る金峯山寺(きんぷせんじ)周辺の光景。<br />

     花矢倉から見る金峯山寺(きんぷせんじ)周辺の光景。

  •  花矢倉から見る金峯山寺(きんぷせんじ)周辺の光景。<br />

     花矢倉から見る金峯山寺(きんぷせんじ)周辺の光景。

  •   御幸の芝周辺の光景。

      御幸の芝周辺の光景。

  •   御幸の芝周辺の光景。

      御幸の芝周辺の光景。

  •  花矢倉から見る金峯山寺(きんぷせんじ)周辺の光景。<br />

     花矢倉から見る金峯山寺(きんぷせんじ)周辺の光景。

  • 花矢倉から見る金峯山寺蔵王堂の光景。<br />

    花矢倉から見る金峯山寺蔵王堂の光景。

  •  御幸の芝周辺の光景。

    御幸の芝周辺の光景。

  • 花矢倉から見る金峯山寺蔵王堂の光景。<br />

    花矢倉から見る金峯山寺蔵王堂の光景。

  •   御幸の芝周辺の光景。

      御幸の芝周辺の光景。

  •  花矢倉周辺から見る上千本の光景。

    花矢倉周辺から見る上千本の光景。

  •  御幸の芝周辺の光景。

    御幸の芝周辺の光景。

  •  花矢倉周辺から見る上千本の光景。

    花矢倉周辺から見る上千本の光景。

  • 人丸塚の説明。<br />

    人丸塚の説明。

  •  花矢倉周辺から見る上千本の光景。

    花矢倉周辺から見る上千本の光景。

  •  忠信と花矢倉の説明。佐藤 忠信(さとう ただのぶ1161−1186年)は、源義経の家臣で『源平盛衰記』では義経四天王の1人。屋島の戦いで討死した佐藤継信(さとう つぐのぶ1158−1185年)の弟で父は奥州藤原氏に仕えた佐藤基治(さとう もとはる1113−1189年)。<br />1180年、奥州にいた義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原 秀衡(ふじわら の ひでひら1122−1187年)の命により兄・継信と共に義経に随行した。<br />1185年、壇ノ浦の合戦後、義経が許可を得ずに官職を得て頼朝の怒りを買った際、忠信も兵衛尉に任官したことを頼朝から叱責されている。<br /> 義経と頼朝との対立が深まり、京都の義経の屋敷に頼朝の刺客・土佐坊昌俊(とさのぼう しょうしゅん、生年未詳−1185年)が向けられ義経は都を脱出し尼崎から九州へ向かう船が難破、命からがら吉野、京都、奥州と逃避行を続けた。<br />吉野花矢倉は義経記の演目として歌舞伎、人形浄瑠璃の「義経千本桜」の「狐忠信」「源九郎狐」などで演じられている。忠信兄弟の妻たちは、息子2人を失い嘆き悲しむ老母(乙和御前)を慰めようとそれぞれの夫の甲冑を身にまとい、その雄姿を装って見せたという逸話があり、婦女子教育の教材として昭和初期までの国定教科書に掲載されている。(関連旅行記―日本の旅 奥の細道を辿る【1】 芭蕉が訪ねた飯坂温泉と磐梯高原、猪苗代湖http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10034370/)<br />

     忠信と花矢倉の説明。佐藤 忠信(さとう ただのぶ1161−1186年)は、源義経の家臣で『源平盛衰記』では義経四天王の1人。屋島の戦いで討死した佐藤継信(さとう つぐのぶ1158−1185年)の弟で父は奥州藤原氏に仕えた佐藤基治(さとう もとはる1113−1189年)。
    1180年、奥州にいた義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原 秀衡(ふじわら の ひでひら1122−1187年)の命により兄・継信と共に義経に随行した。
    1185年、壇ノ浦の合戦後、義経が許可を得ずに官職を得て頼朝の怒りを買った際、忠信も兵衛尉に任官したことを頼朝から叱責されている。
    義経と頼朝との対立が深まり、京都の義経の屋敷に頼朝の刺客・土佐坊昌俊(とさのぼう しょうしゅん、生年未詳−1185年)が向けられ義経は都を脱出し尼崎から九州へ向かう船が難破、命からがら吉野、京都、奥州と逃避行を続けた。
    吉野花矢倉は義経記の演目として歌舞伎、人形浄瑠璃の「義経千本桜」の「狐忠信」「源九郎狐」などで演じられている。忠信兄弟の妻たちは、息子2人を失い嘆き悲しむ老母(乙和御前)を慰めようとそれぞれの夫の甲冑を身にまとい、その雄姿を装って見せたという逸話があり、婦女子教育の教材として昭和初期までの国定教科書に掲載されている。(関連旅行記―日本の旅 奥の細道を辿る【1】 芭蕉が訪ねた飯坂温泉と磐梯高原、猪苗代湖http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10034370/

  •   花矢倉周辺から見る上千本の光景。

      花矢倉周辺から見る上千本の光景。

  •   花矢倉周辺から見る上千本の光景。

      花矢倉周辺から見る上千本の光景。

  •  忠信と花矢倉の説明。

     忠信と花矢倉の説明。

  •  御幸の芝周辺の光景。

     御幸の芝周辺の光景。

  • 御幸の芝の説明。御幸(みゆき)の芝は後醍醐天皇が吉野の行宮 (あんぐう)から五月雨の日に供を連れてこのあたりの観音堂で雨宿りしながら<br /><br /> ここは丹生の社にほど近し祈らば晴れよ五月雨の空<br /><br />  と詠むと空が晴れたと吉野捨遺に残されている。<br /><br />

    御幸の芝の説明。御幸(みゆき)の芝は後醍醐天皇が吉野の行宮 (あんぐう)から五月雨の日に供を連れてこのあたりの観音堂で雨宿りしながら

     ここは丹生の社にほど近し祈らば晴れよ五月雨の空

      と詠むと空が晴れたと吉野捨遺に残されている。

  •  御幸の芝周辺の光景。

     御幸の芝周辺の光景。

  •  御幸の芝周辺の光景。御幸(みゆき)の芝は後醍醐天皇が吉野の行宮 (あんぐう)から五月雨の日に供を連れてこのあたりの観音堂で雨宿りしながら<br /><br /> ここは丹生の社にほど近し祈らば晴れよ五月雨の空<br /><br />  と詠むと空が晴れたと吉野捨遺に残されている。<br /><br />

     御幸の芝周辺の光景。御幸(みゆき)の芝は後醍醐天皇が吉野の行宮 (あんぐう)から五月雨の日に供を連れてこのあたりの観音堂で雨宿りしながら

     ここは丹生の社にほど近し祈らば晴れよ五月雨の空

      と詠むと空が晴れたと吉野捨遺に残されている。

  •  御幸の芝周辺の光景。

     御幸の芝周辺の光景。

  •  御幸の芝周辺の光景。

     御幸の芝周辺の光景。

  •  御幸の芝周辺の光景。

     御幸の芝周辺の光景。

  •  御幸の芝周辺の光景。<br />

     御幸の芝周辺の光景。

  •  御幸の芝と周辺の光景。<br />

    御幸の芝と周辺の光景。

  •   御幸の芝と周辺の光景。<br />

      御幸の芝と周辺の光景。

  •  御幸の芝と周辺の光景。<br />

    御幸の芝と周辺の光景。

  •   御幸の芝と周辺の光景。<br />

      御幸の芝と周辺の光景。

  •  御幸の芝と周辺の光景。<br /><br />

     御幸の芝と周辺の光景。

  •  御幸の芝と周辺の光景。<br /><br />

     御幸の芝と周辺の光景。

  •  御幸の芝と周辺の光景。<br />

     御幸の芝と周辺の光景。

  •  御幸の芝と周辺の光景。<br /><br />

     御幸の芝と周辺の光景。

  •  水分神社周辺の説明。<br />

     水分神社周辺の説明。

  • 御幸の芝と周辺の光景。

    御幸の芝と周辺の光景。

  •  御幸の芝と周辺の光景。<br /><br />

     御幸の芝と周辺の光景。

  •  御幸の芝と周辺の光景。<br />

     御幸の芝と周辺の光景。

  •  桜本坊の光景。<br />

    桜本坊の光景。

  •  桜本坊の光景。<br />

    桜本坊の光景。

  •   桜本坊の光景。兄・天智天皇から逃れた大海人皇子(後の天武天皇)は、「桜本坊」の前身である日雄(ひのお)離宮に身を隠していた。桜が咲き誇っている夢を見た皇子が役行者の高弟・日雄角乗(ひのおのかくじょう)に訊ねると「桜の花は花の王と云われ,近々皇位に着くよい知らせ」との予言を受けた。予言のとおり壬申の乱に勝利し皇位に着いた天武天皇は、夢で見た桜の木の場所(日雄離宮)に寺を建立したとされている。<br />

      桜本坊の光景。兄・天智天皇から逃れた大海人皇子(後の天武天皇)は、「桜本坊」の前身である日雄(ひのお)離宮に身を隠していた。桜が咲き誇っている夢を見た皇子が役行者の高弟・日雄角乗(ひのおのかくじょう)に訊ねると「桜の花は花の王と云われ,近々皇位に着くよい知らせ」との予言を受けた。予言のとおり壬申の乱に勝利し皇位に着いた天武天皇は、夢で見た桜の木の場所(日雄離宮)に寺を建立したとされている。

  •  桜本坊の光景。

    桜本坊の光景。

  •  桜本坊の光景。桜本坊(さくらもとぼう)は大峯山の護持院で山伏文化の殿堂と呼ばれる役行者霊蹟札所。<br />

    桜本坊の光景。桜本坊(さくらもとぼう)は大峯山の護持院で山伏文化の殿堂と呼ばれる役行者霊蹟札所。

  •  桜本坊の光景。

    桜本坊の光景。

  •   桜本坊の光景。1594年の豊臣秀吉の花見の際には、関白・秀次の宿舎となっており「桜本坊」も歴史を刻んできた文化遺産だ。<br />

      桜本坊の光景。1594年の豊臣秀吉の花見の際には、関白・秀次の宿舎となっており「桜本坊」も歴史を刻んできた文化遺産だ。

  •  桜本坊の光景。

     桜本坊の光景。

  •  桜本坊周辺から見た桜。

    桜本坊周辺から見た桜。

  •  桜本坊の光景。

     桜本坊の光景。

  •  桜本坊周辺から見た桜。

    桜本坊周辺から見た桜。

  •  桜本坊の光景。

     桜本坊の光景。

  •   桜本坊周辺から見た桜。

      桜本坊周辺から見た桜。

  •  桜本坊周辺の光景。

    桜本坊周辺の光景。

  •   桜本坊周辺の光景。

      桜本坊周辺の光景。

  •  桜本坊周辺の光景。

    桜本坊周辺の光景。

  •  桜本坊周辺の光景。

    桜本坊周辺の光景。

  •   桜本坊周辺の光景。

      桜本坊周辺の光景。

  •  勝手神社周辺の光景。

     勝手神社周辺の光景。

  •  勝手神社周辺の光景。

     勝手神社周辺の光景。

  •  勝手神社周辺の光景。

     勝手神社周辺の光景。

  •  勝手神社周辺の光景。

     勝手神社周辺の光景。

  •  勝手神社の光景。勝手神社は 吉野八社明神のひとつ。<br /> 672年、大友皇子に対抗して吉野に兵を挙げた大海人皇子(天武天皇)が、神前で琴をかなでていると、天女が舞いながら現れ、吉兆を示したとの故事が五節の舞の起りだといわれ、芸ごとの神様とされて、かつては猿楽や能が盛んに奉納された。1185年、源義経と雪の吉野山で別れた静御前は、追手に捕えられ勝手神社社殿前で法楽の舞をまったといわれている。<br />2001年に不審火により焼失し、御神体は吉水神社に仮遷座している。<br />

     勝手神社の光景。勝手神社は 吉野八社明神のひとつ。
     672年、大友皇子に対抗して吉野に兵を挙げた大海人皇子(天武天皇)が、神前で琴をかなでていると、天女が舞いながら現れ、吉兆を示したとの故事が五節の舞の起りだといわれ、芸ごとの神様とされて、かつては猿楽や能が盛んに奉納された。1185年、源義経と雪の吉野山で別れた静御前は、追手に捕えられ勝手神社社殿前で法楽の舞をまったといわれている。
    2001年に不審火により焼失し、御神体は吉水神社に仮遷座している。

  •  勝手神社の光景。

     勝手神社の光景。

  •  勝手神社の光景。吉野八社明神のひとつ。<br />2001年に不審火により焼失し、御神体は吉水神社に仮遷座している。<br />

     勝手神社の光景。吉野八社明神のひとつ。
    2001年に不審火により焼失し、御神体は吉水神社に仮遷座している。

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