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 天正元年(1573年)浅井長政滅亡後、湖北を支配したのは羽柴(豊臣)秀吉であった。姉川合戦と小谷攻めで手柄をあげた秀吉は、その功績により浅井氏の領国の大部分を与えられ小谷城に入った。翌天正2年夏にはすでに今浜(現長浜)に築城を開始している。その復元された長浜城を訪ねた。現在は歴史博物館になっており、関連の資料が展示されている。<br /> 近くの温泉料理旅館「浜湖月」で昼食を取った。昼食後長浜の町歩きをすべく、最初に山内一豊が新婚まもなく住んでいた屋敷跡を見て、JR線路を越えて豊国神社、黒壁美術館、大通寺、曳山博物館、ガラス館、郷土資料館、北国街道安藤家、と巡り駅前にある、秀吉・光成出会いの像を見て帰路に着いた。湖北の秀吉が開いた城下町を偲んだ日帰りの旅だった。その他の見所としては、長浜盆梅展で有名な慶雲館、国友鉄砲の里資料館等がある。<br /> 写真は長浜城址、長浜城天守閣復元。

秀吉出世城と長浜まち歩き

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2010/05/22 - 2010/05/22

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ひま人

ひま人さん

 天正元年(1573年)浅井長政滅亡後、湖北を支配したのは羽柴(豊臣)秀吉であった。姉川合戦と小谷攻めで手柄をあげた秀吉は、その功績により浅井氏の領国の大部分を与えられ小谷城に入った。翌天正2年夏にはすでに今浜(現長浜)に築城を開始している。その復元された長浜城を訪ねた。現在は歴史博物館になっており、関連の資料が展示されている。
 近くの温泉料理旅館「浜湖月」で昼食を取った。昼食後長浜の町歩きをすべく、最初に山内一豊が新婚まもなく住んでいた屋敷跡を見て、JR線路を越えて豊国神社、黒壁美術館、大通寺、曳山博物館、ガラス館、郷土資料館、北国街道安藤家、と巡り駅前にある、秀吉・光成出会いの像を見て帰路に着いた。湖北の秀吉が開いた城下町を偲んだ日帰りの旅だった。その他の見所としては、長浜盆梅展で有名な慶雲館、国友鉄砲の里資料館等がある。
 写真は長浜城址、長浜城天守閣復元。

同行者
友人
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
JRローカル
  •  長浜城址、長浜城天守閣。秀吉が一国一城の主となった「出世城」で、中は歴史博物館になっており、「湖北・長浜のあゆみ」のテーマで関連資料が展示されている。天守閣からは、琵琶湖や湖北の山々を一望できる。

    長浜城址、長浜城天守閣。秀吉が一国一城の主となった「出世城」で、中は歴史博物館になっており、「湖北・長浜のあゆみ」のテーマで関連資料が展示されている。天守閣からは、琵琶湖や湖北の山々を一望できる。

  •  織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人に仕え、長浜城主にもなった戦国武将、山内一豊が妻千代と新婚時代を過ごした屋敷跡の石碑。

     織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人に仕え、長浜城主にもなった戦国武将、山内一豊が妻千代と新婚時代を過ごした屋敷跡の石碑。

  •  山内一豊屋敷跡に設置されている、一豊と千代の記念オブジェ

     山内一豊屋敷跡に設置されている、一豊と千代の記念オブジェ

  •  豊国神社鳥居。

     豊国神社鳥居。

  •  豊国神社本殿、江戸時代中期の建造。安土桃山時代、秀吉の没後に長浜の町民がその遺徳を偲んで建立。事代主大神、豊臣秀吉、加藤清正、木村重成を祭神としている。大坂夏の陣で豊臣家が滅びると、徳川幕府は神社を取り壊すよう命じた。町民は、一時、祭神を町年寄りの家に移し、八幡宮の古堂を移して、商売の神様である恵須神を前立に、奥殿に秀吉像をひそかに祀り、長い江戸時代を過ごした。明治31年(1898年)の秀吉300回忌に社殿を造営して現在の社容を整えた。

     豊国神社本殿、江戸時代中期の建造。安土桃山時代、秀吉の没後に長浜の町民がその遺徳を偲んで建立。事代主大神、豊臣秀吉、加藤清正、木村重成を祭神としている。大坂夏の陣で豊臣家が滅びると、徳川幕府は神社を取り壊すよう命じた。町民は、一時、祭神を町年寄りの家に移し、八幡宮の古堂を移して、商売の神様である恵須神を前立に、奥殿に秀吉像をひそかに祀り、長い江戸時代を過ごした。明治31年(1898年)の秀吉300回忌に社殿を造営して現在の社容を整えた。

  •  長浜別院・大通寺、山門、江戸時代、文化5年(1808年)起工し、33年後の天保11年(1841年)落成した。総ケヤキ造りで、近世大型建築では県内屈指の名作である。

     長浜別院・大通寺、山門、江戸時代、文化5年(1808年)起工し、33年後の天保11年(1841年)落成した。総ケヤキ造りで、近世大型建築では県内屈指の名作である。

  •  大通寺本堂・阿弥陀堂(重文)江戸初期。もと伏見城の殿舎だったが、大谷派本願寺が分立した際、御影堂として移されたその御影堂を承応年間(1652〜1654)に当寺に移して本堂とした。

     大通寺本堂・阿弥陀堂(重文)江戸初期。もと伏見城の殿舎だったが、大谷派本願寺が分立した際、御影堂として移されたその御影堂を承応年間(1652〜1654)に当寺に移して本堂とした。

  •  曳山博物館、長浜曳山まつりに出る実物の曳山を2基公開(撮影禁止)している。曳山は彫刻や漆・箔・飾り金具など、長浜の伝統的な職人技術の粋を集めた精巧なつくりとなっている。曳山は、前方が子供狂言(歌舞伎)が行われる舞台に、幕で囲まれた後方は楽屋になっている。又、亭(ちん)と呼ばれる2階部分では囃子(しゃぎり)を演奏します。

     曳山博物館、長浜曳山まつりに出る実物の曳山を2基公開(撮影禁止)している。曳山は彫刻や漆・箔・飾り金具など、長浜の伝統的な職人技術の粋を集めた精巧なつくりとなっている。曳山は、前方が子供狂言(歌舞伎)が行われる舞台に、幕で囲まれた後方は楽屋になっている。又、亭(ちん)と呼ばれる2階部分では囃子(しゃぎり)を演奏します。

  •  曳山博物館、曳山の収納展示庫。2基ずつを3ケ月交替で公開している。

     曳山博物館、曳山の収納展示庫。2基ずつを3ケ月交替で公開している。

  •  黒壁ガラス館、明治33年に建てられた国立百三十銀行長浜支店。黒壁ガラス館という名前は当時につけられた「黒壁銀行」という愛称が由来。現在は伝統的ガラス製品を展示販売している。

     黒壁ガラス館、明治33年に建てられた国立百三十銀行長浜支店。黒壁ガラス館という名前は当時につけられた「黒壁銀行」という愛称が由来。現在は伝統的ガラス製品を展示販売している。

  •  北国街道・安藤家、明治38年(1905年)に建てられたこの住居は、紅殻格子(べんがらこうし)、虫籠窓(むしこまど)など施された建築。北大路魯山人により彩られた離れの”小蘭亭”や”古翆園”と名付けられた庭園がある。前の通りが「北国街道」。

     北国街道・安藤家、明治38年(1905年)に建てられたこの住居は、紅殻格子(べんがらこうし)、虫籠窓(むしこまど)など施された建築。北大路魯山人により彩られた離れの”小蘭亭”や”古翆園”と名付けられた庭園がある。前の通りが「北国街道」。

  •  北国街道、黒壁スクエアの中心を貫いている。中央に写っているのが、常夜灯門。北国街道は日本海と京阪神・中京方面を結んだルートで北国海道ともいう。北は越後高田から南は米原の鳥居本宿までをいい、中山道へと通じている。

     北国街道、黒壁スクエアの中心を貫いている。中央に写っているのが、常夜灯門。北国街道は日本海と京阪神・中京方面を結んだルートで北国海道ともいう。北は越後高田から南は米原の鳥居本宿までをいい、中山道へと通じている。

  •  秀吉・三成出会いの像。長浜城主となった秀吉が領内で鷹狩りをして、その帰途に喉の乾きを覚えて、ある寺に寄り茶を所望した。対応した寺の小姓が、秀吉の所望どおり、1杯の次にやや熱めの茶、次に熱い茶と出した。この気配りに感心した秀吉は小姓を城に連れ帰り家来とした。この小姓が後に五奉行の一人となった石田三成と伝えます。

     秀吉・三成出会いの像。長浜城主となった秀吉が領内で鷹狩りをして、その帰途に喉の乾きを覚えて、ある寺に寄り茶を所望した。対応した寺の小姓が、秀吉の所望どおり、1杯の次にやや熱めの茶、次に熱い茶と出した。この気配りに感心した秀吉は小姓を城に連れ帰り家来とした。この小姓が後に五奉行の一人となった石田三成と伝えます。

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