2009/12/03 - 2009/12/03
992位(同エリア1407件中)
ムッシュさん
編集中
妻籠宿から馬籠峠まで、ずうーと登りです。結構疲れます。
途中には、鄙びた大妻籠宿も経由しての歩行。
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妻籠宿の外れにある食事処”音吉”の全景
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音吉さんの内部。天井です。日本家屋がきれいです。
こちらで、ランチしました。 -
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近くの風景、遠くに見えるは妻籠宿の宿波
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妻籠宿を後にして、これから大妻籠宿経由で馬籠峠に向かいます。
右側の細い道が、街道です。
真ん中に立つ(旧道口の左手に)「中山道さんま自然石道標「右まごめ 旧道/左志ん道 いいだ」、右手には中北道標「←6.9km 馬籠宿/妻籠宿 0.8km→」」があります。 -
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妻籠の次は、峠の麓にある大妻籠。ここまで来れば、人はいません。
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中山道大妻籠自然石道標「右 旧道/左 志ん道」と中北道標「←1.8km 妻籠宿/馬籠宿 5.9km→
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【観光客も殆どいない鄙びた宿です】
大戸を外すと牛馬も入る馬宿。雄大な信州型卯建を持つ民家が並ぶ。街道から少し離れてる。
出梁造り、本卯建を上げた旧旅籠が軒を連ねています、今も近江屋、まるや、つたむらや等が民宿になって現業です、大妻籠は間の宿でした。 -
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この白い部分が卯建(うだつ)。
火事の時の延焼を避ける工夫です。
うだつの無い家は、「うだつが上がらない」と言う訳です。 -
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【男滝、女滝の夫婦滝】が並んで流れ落ちてます。
フォトは、男滝。
吉川英治の小説「宮本武蔵」の舞台となった滝として有名。
滝壺に金の鶏が舞い込んだという倉科様伝説が伝えられている。
男埵沢を滝見橋で渡り、渡詰めを中北道標に従って左の土道に入ると男滝があります、この時期は水量があり、水しぶきが襲ってきます。
先の小さな木橋を渡ると女滝です。
男滝女滝は旅人に名所として親しまれ、憩いの場です。
雄滝は男だる川の滝で、雌滝は一石栃沢の滝である
吉川英治の「宮本武蔵」の舞台となったところだ。小説では「男垂(おたる)の滝」となっている
武蔵とお通が出会い、武蔵が抱きしめようとした時
お通に「そ、そんなことっ。あなたともあろう人が」と言われたところだ
この滝を背景に、二人の緊張した心の葛藤を描いた名場面である -
【男滝・女滝】
「この滝は、木曽に街道が開かれて以来、旅人に名所として親しまれ、憩いの場であった。
滝及び滝壺は、洪水や蛇抜けなどで高さや深さが減じているが、なお往時の姿をとどめている。
この滝には、滝壺に金の鶏が舞い込んだという倉科様伝説が伝わっている。また吉川英治著『宮本武蔵』の舞台にもとりあげられている。
滝に向かって左が男滝、右が女滝である。
滝周辺は険阻なため、道はしばしばつけかえられ、幕末頃までの中山道は滝の下を通っていたものと思われる。現在滝上を通っている道が歴史の道である。」 -
一石栃口旧道の石畳道に入ります、 旧道口には中山道一石栃口自然石道標「左旧道」があります。
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【一石栃立場茶屋】
茶屋の住人が離村した後、妻籠を愛する会が管理してる。
牧野家住宅は江戸時代後期の建物で、当時は間口が十間半ありましたが、現在は八間に縮小されています、玄関脇にいちこく御休み処の看板が掲げられています。
「一石栃(いっこくとち)白木改番所跡」である
尾張藩は、この辺一体を留山(禁伐区)に指定して森林資源の保護を図った。
白木改番所は、材木の抜け荷の取締りを行ったところである
建物は、かつての立場茶屋跡である。ここに7軒の茶屋があったという
今は1軒だけ残されている。
「白木改番所は、木曽から移出される木材を取締るために設けられたもので、檜の小枝に至るまで、許可を示す刻印を焼いてあるかどうかを調べるほど厳重であったといわれている。木曽の森林資源は、領主たる尾張藩にとって、それほど重要なものだったのである。」
番所は最初下り谷に設置されていたが、蛇抜けによってここ一石栃に移転した。『木曽谷諸事覚書』には、寛延二年(1749)のことと記されている。 -
【一石栃立場茶屋】
「立場茶屋は宿と宿の中間にあって、旅人に休息と利便を与えた。一石栃は妻籠宿と馬籠宿の中間に位置し、往時は七軒ほどの家があって栄えていたが、今ではこの牧野家一軒だけになっている。
牧野家住宅は江戸時代後期の建物で、当初は間口が十間半もある大きなものであったが、現在は南側が切り取られて八間に縮小されている。」 -
妻籠へ5.5km、馬籠へ2.2kmの標識で、山の中です。
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馬籠峠頂上の広場には峠の茶屋があります。馬籠峠の茶屋さん。
妻籠宿と馬籠宿の間(あい)の宿・峠の集落である
江戸時代の建物が多く残されているところだ
江戸時代には公式の伝馬制度のほかに、中馬(ちゅうば)と呼ばれる民間の輸送機関があった
馬籠峠は、道が険しいため、馬で無く牛が使われていた。その牛方の宿として栄えていたところである -
馬籠峠の碑。ここから岐阜県が始まります。
茶屋の並びに正岡子規句碑「白雲や 青菜若菜の 三十里」があります、明治24年(1891年)の句です。 -
【拡大すると読めますよ】
文化8年(1811年)十返舎一九は木曽路を旅して木曾街道続膝栗毛を書いています。
【十返舎一九歌碑】
「渋皮のむけし女は見えねども
栗のこはめしここの名物」 -
石置き屋根の水車小屋と傍らに水車塚があります。
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【水車塚の碑】
「山家にありて 水にうもたれたる 蜂谷の家族 四人の記念に」
島崎藤村しるす
明治三十七年(1904)七月、水害のためここにあった家屋は一瞬にして押し流され、一家四人が惨死した。
難を逃れた家族の一人、蜂谷義一は、たまたま藤村と親交があったことから、後年に供養のため藤村に碑文を依頼して建てたものがこの「水車塚」である。碑の裏には「信濃の国」の作詞者である浅井冽の撰文が刻まれている。 -
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著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
【歌川広重 中山道69次 馬籠宿】44
英泉は馬籠として画面手前に馬籠峠、中間に馬籠宿そして遠景に恵那山を描いています。
ところが実際には馬籠峠から馬籠宿は望めません。そして馬籠峠上から流れ落ちる男滝、女滝を描いていますが、これも実際には谷間にあるものです。栄泉はこれらの名所をひとつの画面に凝縮、構図とした。 -
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見晴台の左手には島崎正樹歌碑があります、島崎藤村の父正樹「天保2年(1831)~明治19年(1886)」の長歌と反歌が刻まれています、生まれ故郷の木曽谷の神坂(かみさか)を誉め讃えた歌です、歌碑の文字は正樹直筆の原寸大です。
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遠くに見えるのは恵那山(2191m)。頂部が雲に隠れています。
。(フォト借用)
しかし、どんより曇り、小雨のため見通し悪く見えません。
ちゃんとした展望広場があります。絶景が見えるはずです。 -
「お民、来て御覧、きょうは恵那山がよく見えますよ。妻籠の方はどうかねん、木曽川の音が聞こえるかね」
「ええ、日によってよく聞こえます。わたしどもの家は河の直ぐ側でもありませんけれど」
「妻籠じゃそうだろうねえ。ここでは河の音は聞こえない。そのかわり、恵那山の方で鳴る風の音が手を取るように聞こえますよ」
「それでも、まあ好い眺めですこと」
「そりゃ馬籠はこんな峠の上ですから、隣の国まで見えます。どうかするとお天気の好い日には、遠い伊吹山まで見えることがありますよ!」
林も深く谷も深い方に住み慣れたお民は、この馬籠に来て、西の方に明るく開けた空を見た。何もかもお民にはめずらしかった。僅かに二里を隔てた妻籠と馬籠とでも、言葉の訛りからしていくらか違っていた。この村へ来て味わうことの出来る紅い「ずいき」の漬物なぞも、妻籠の本陣では造らないものであった。
島崎藤村『夜明け前』(第一部第一章第三節) -
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馬籠峠から宿場町方向を見おろしています。
標高は790mで視界は広がっている。
晴天なら、さぞかし気持ち良いのでしょうが、本日は、雨。風も強く寒ーいい!慌てて防風カッパを着こむほど。 -
ここは、馬籠峠を越えて、馬籠宿の入口に建てられた高札場です。
木曽代官の触書を復元。
陣場より急な坂を下り、高札場跡を過ぎると坂道の両側に中山道43番目の宿場・馬籠宿の町並みが続く
馬籠宿は本陣1、脇本陣1、旅籠18軒であった
本陣、庄屋、問屋を務めたのが島崎家で、島崎藤村の生家である
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