2009/09/17 - 2009/09/27
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目黒警部さん
イントラムロス(Intramuros)は16世紀にスペイン人たちによって建てられた、フィリピンの首都マニラの最古の地区であり、パシッグ川南岸に位置する。
その名称は直訳するとスペイン語で「壁の内側で」となり、壁で囲まれた都市または要塞を意味し、またその厚く高い壁と堀とで囲まれた構造を言い表している。
スペイン時代には、イントラムロスはマニラそのものだと考えられていた。
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2009年9月18日
世界遺跡に登録されたフィリピン最古の石造教会、サン・オーガスチン教会前の大通りをイントラムロス北西にある、マニラ大聖堂そして要塞跡サンチャゴへ向かってテクテク歩いていきま〜す。 -
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
16世紀のスペイン人到来以前から、パシグ川の流域にあって、マニラ湾に臨む交通の要衝にあった現代のマニラ地域には、マレー人の集落が存在しており、中国人などがさかんに来航して交易をおこなっていた。 -
東洋におけるスペインの拠点を築くべく初代総督としてフィリピンへやってきたミゲル・ロペス・デ・レガスピらはマニラの地理的な重要性に着目し、ここを占領して拠点化しようと考えた。
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レガスピは1570年に先遣隊を派遣してマニラを占領しようとしたがうまくいかなかったため、1571年に自ら赴いてマニラを占領した。
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レガスピは占領した5月19日が聖ポテンシアナという聖人の祝い日であったことから、ポテンシアナをフィリピンの守護聖人とした。
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レガスピが築いた最初のマニラ市は、サン・アントニオ、サン・カルロス、サン・ガブリエル、サン・ルイスの四つの地域からなり、政庁と大聖堂および中央広場、アウグスティノ会の修道院や軍事施設、宿舎などがつくられた。(イントラムロス)
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中国人たちはスペイン人の占拠によって交易に支障をきたしたため、その排除を狙った。
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初期のマニラは中国南岸部の海賊の領袖であったと考えられるリム・アホンなる人物の襲来を受け、火事などによっても破壊されることが多かった。
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マニラ大聖堂が見えてきました。
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マニラ大司教が本拠を置いており、マニラで最も重要な教会とされる。
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1581年に竹で創建されて以降、台風や地震、戦争などで、破壊と再建を繰り返し、現在あるのは1958年に再建された6代目。
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その再建に関してはバチカンからの援助があったといわれている。
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マニラ大聖堂前広場
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彫刻やステンドグラスの美しさも一見の価値があるが、中でも見逃せないのがアジア最大といわれるパイプオルガン。
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ローマ広場に面し、ベルタワーはイントラムロスのランドマーク的存在。
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16世紀の終わりにこの地をおとずれたイエズス会員アントニオ・セデーニョは建築学の知識があったため、その指揮によってマニラの再建と要塞化がすすめられ、「イントラムロス」と呼ばれるマニラの城壁内地域が整備された。
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イントラムロスの内部には一般の建築物と共にマニラ大聖堂、サント・ドミンゴ教会など多くの壮麗な教会が建設されたが、多くは第二次大戦中に破壊された。
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唯一建設当時の姿を残しているサン・アウグスチン教会はフィリピンのバロック様式教会群として世界遺産に登録されている。
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中国人たちは依然としてアジア経済を握っていたため、マニラにおいても大きな影響力を持ち、イントラムロスの外に中国人街を築いて暮らしながら、スペイン人たちと取引をおこなっていた。
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スペイン人と中国人は時に敵対しながらも、共存するという関係を続けていった。
こうしてマニラはフィリピン人、スペイン人、中国人の混合する街という独自の性格を形成していくことになる。 -
1762年には一時的にマニラがイギリス軍によって占領されたが、1764年には協定が結ばれてふたたびスペインの管轄化に入った。
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このころにはイントラムロスは完成しており、強固な要塞、東洋の拠点都市となっていた。
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交易が盛んになり、マニラを多くの人が訪れるようになると、マニラはいっそう発展し、イントラムロスの外の区域も発達していった。
写真はサンチャゴ要塞の入口です。 -
スペインが強国の地位を滑り落ちた後もフィリピンとマニラはスペインの支配下にあり続けたが、19世紀になるとフィリピン人の知識人の間で独立運動が盛んになった。
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ホセ・リサールの啓蒙運動やカティプナンの軍事行動によりフィリピンは独立への道を進むかに見えたが、1898年の米西戦争によってマニラのスペイン艦隊がアメリカ艦隊にあっさりと撃破されると、フィリピン人たちの願いも空しく、戦後のパリ条約によってフィリピンはアメリカ領となった。
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一部の闘士たちはなおも抵抗したが、フィリピンが完全にアメリカ領となることを避けられなかった。
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アメリカ占領下のマニラでは、東洋経営の拠点としての整備がおこなわれ、イントラムロスの旧市街を保存しながら、市内を近代化するという手法でインフラなどの整備がすすめられた。
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入場料を支払いサンチャゴ要塞内に入ってきました。
要塞は、イントラムロスの北西の端にあり、かつては戦略上非常に重要な役割を果たしていたとされる。
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もとは海賊を防ぐために造られていたものをスペイン人が城塞化した。
その後のアメリカ統治時代、日本軍占領時代にも使用されていた歴史をもち、今も地下牢、水牢跡などが残っている。 -
サンチャゴ要塞内に入りますと、多くの幼い女学生達がいました。
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入口すぐの左側にある建物にあるレストランにも多くの女学生がたむろしていました。
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学校から歴史の勉強に来ているのでしょうか?
いずれにせよ、裕福層のお嬢さん達であることには間違いないだろう。 -
サンミゲルビールよりアルコール度が強いビール、レッド・ホースにて喉をいやすとします。
炎天下歩いて観光するのは、やはり疲れます暫し休憩します。 -
女学生達もティータイムのようです・・・
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平屋の建物内には、お土産物店等もあります。
おみやげ屋さんには、絵や置物、木で作った彫刻などが売っています。 -
さて、要塞目指して歩き始めるとします。
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サンチャゴ要塞の城門が見えてきました。
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要塞門前の堀です。
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ここの一角にはリサール記念館が建っている。
独立運動の英雄ホセ・リサールが処刑前まで暮らしていたところで、詩人、画家、医師でもあった彼の遺品を展示している。処刑の直前に彼が書いた別れの詩、恋人とされる日本人女性おせいさんの肖像画も見学できる。
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